お袈裟(けさ)の教え みんなの法話
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お袈裟(けさ)の教え
本願寺新報2005(平成17)年9月1日号掲載
本山・布教専従職員 吉川 恭順(きっかわ きょうじゅん)
なんてもったいない!
私が僧侶となって初めてのお葬式の時のことです。
すでに先代住職は亡くなっており、何もわからぬまま初めて七条袈裟を着けたのです。
ところが、そのお袈裟は着古して相当傷んでいて、他のお寺さんの姿を見て、うらやましいなと思ったことでした。
その後、たんすを整理していると、やや新しい七条袈裟が見つかりました。
「何だ、あるじゃないか」と、それからは新しいものを着けるようになりました。
そして、傷んでいた古い袈裟は必然的に、たんすの奥へ追いやられてしまいました。
十年が過ぎた頃、庫裏(くり)の改築のため、たんすを整理することになりました。
古い七条袈裟を処分しようかと考えていると、知人が「パッチワークにして記念に残してあげる」と言ってくれました。
しかし、その知人が親しいお寺の坊守さんに相談すると、「なんてもったいないことを。
明治頃の仕立てで生地も良く、修繕(しゅうぜん)したらどうですか。
今では、なかなかない袈裟ですよ」と、しかられたのでした。
その時、私は単に「粗末にしてはいけないな」「そんなに高価な良い物だったのか」と思っただけでした。
しかし、仏法を聴聞させていただく中で、傷んでいた七条袈裟を通して、自分自身の浅はかさ、そして本当に大切なことは何なのかを教えられました。
ぼろ布洗いぬい合わす
「袈裟」は、古いインドの言葉「カシャーヤ」の音を漢字に写したもので、「懐色(えじき)」や「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも翻訳されています。
お釈迦さまの時代、僧たちが身に着ける衣は、人々が棄てたぼろ布を洗い、縫い合わせてつくったところから「糞掃衣」といわれたようです。
また、袈裟の色は華美な色彩をさけたものになっていましたので「懐色」といわれ、そのことから、執着(しゅうじゃく)のない状態を示していると讃(たた)えられたのでした。
人生の苦悩の根本である執着心。
その執着心を捨て去ることが仏教の根本であるとともに、臨終の一念に至るまで執着心のきえない我が身であることを、あらためてお袈裟を通して知らされました。
また仏教が中国、日本へと広まるのとともに、袈裟もその意味合いを変えていき、きらびやかになりました。
それは、仏や菩薩をお讃えすることとともに、仏さまの世界のお荘厳として味わうこともできると思います。
さらに、なぜ今、袈裟がお寺に、そして私の目の前にあるのでしょうか。
そこには、私は会ったこともないけれども、仏法を聴聞され、お念仏に生きられたご門徒が、慶(よろこ)びとともに永くお念仏が伝わるようにと願われ納められたご懇念があり、その奥には、そのようにさせる大きな仏さまのはたらきがあったからでしょう。
目に見えぬはたらきが
私の判断だけなら、着るだけ着て使い捨てたであろう袈裟を通して、先人から私へと至り届いた願いに気付かされました。
そしてそれに気付かせて下さったのも、この私をお念仏する身に目覚めさせ必ず救うという阿弥陀さまの願い、はたらきがあったからです。
坊守さんが「もったいない」とおっしゃったのは、単に「粗末にするな」というだけではありませんでした。
また「形あるものは必ず変わる」ということでもありました。
言葉だけにこだわると、それがまた新たな執着になってしまいます。
本当におっしゃりたかったことは、いのちの繋(つな)がりの中に、目には見えないけれども、絶えずはたらき続けている願いに気付けよということでした。
「煩悩障眼雖(しょうげんすい)不見 大悲無倦(むけん)常照我(煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(「正信偈」註釈版聖典207ページ)
執着の心から抜け出せず、憎いとかかわいいとか、惜しいとか欲しいとか、自己中心的な思いのみで価値があるかないかを判断するこの私。
儲かったか損をしたか、役に立つか立たないか、さらには善悪正邪まで断じている私に、阿弥陀さまの大悲は、このままではむなしい繰り言の人生でしかないと絶えず知らせて下さいます。
そして、私を念仏させる身に育て上げ、その称(とな)えるままが「必ず救う」との阿弥陀さまのよび声であるとお聞かせいただいています。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |