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お育てを味わう みんなの法話

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お育てを味わう
本願寺新報2007(平成19)年4月20日号掲載
大阪・常見寺住職 利井 唯明(かがい ゆいみょう)
箸(はし)の持ち方息子に教え

昨年、祖父・利井興弘(こうぐ)の十七回忌をつとめ、いろいろ祖父のことを思い出していました。
祖父は自坊にある行信(ぎょうしん)教校(大阪府高槻市)の校長をしていましたので、ご存知の方も多いかと思います。

祖父の興弘といえば「食」に詳しく、自宅でカレーを作れば、香辛料を合わせて作る本格的な印度カレーでした。
たいへん辛(から)い上に、食べていると月桂樹の葉がでてきたり、コリアンダーが出てきたり・・・。
本当はお子さまカレーが食べたかったのですが・・・。

今から思えば、スパイスの香り立つカレー。
あれが祖父の味だったんでしょう。

そんなことを思い出しながら、ふと気付かされたことがありました。
それは私の息子にお箸(はし)の持ち方を教えていた時のことです。

どこに力を入れたらいいのか、自分はどんなふんに持っているだろうかと、あれこれ考えながら、息子に教えていたのですが、息子は上手(うま)く持てずにすぐにスプーンに持ち替えてしまう始末。

もちろん一回で上手く持てるとも思ってはいませんから、次の日も、また次の日も、繰り返し繰り返し教えていたのです。

その時、私は大事なことに気付かされたのです。

自分がお箸を持てる事は自然に身についたことで、大人だから持てるのが当然、当たり前くらいにしか思っていなかったのですが、私にも同じように繰り返し繰り返し教えてくれた人がいたのです。
そう、ウチで一番「食」に厳しい祖父が教えてくれていたのです。

そしてそのことに気付かされた時、他力念仏のみ教えを味わうご縁をいただきました。

口を開けば愚痴ばかり
すべてがお育てだったのです。

小さい頃からお念仏に慣れ親しみ、本堂にお参りすれば、みんなと一緒にお念仏する。

経(きょう)本を開けば、そこに「南無阿弥陀仏」とあるからお念仏する。

お念仏するという事を考えるとき、称(とな)えよという自分の意志でお念仏しているのだと思うなら、そこには、ただ自分のはからいだけがあって、「おかげさま」という気持ちは全くありません。
どこまでも体を動かしている私を主体として見ているのです。

時には、ふっと称えた無意識の念仏のみが他力の念仏で、自分が称えようと思う念仏は自力ではないかと言う方がおられます。

しかし、お念仏しようと思い立つ心が私の内に起こったのはなぜでしょう。
私という者は、元々お念仏をするような者なのでしょうか。

口を開けば愚痴(ぐち)ばかり、自分の欲を中心に据(す)えて、好きな物は欲し、嫌いな物は排除しようとする。
ましてやそれが煩悩を中心とした愚かで苦しみに向かう生き方とも知らず。

ただ、煩悩を満たす事に終始し、お念仏を称えようとも思わないのが私の本性ではないでしょうか。

そのような私が、こうして今、お念仏しているのは、遠い昔から繰り返し繰り返し阿弥陀さまのお育てを受け続けてきたからこそなのです。

お箸が上手く持てずに、お箸を投げ捨てスプーンを持とうとする子どものように、阿弥陀さまのお育てを受けても、それに背を向け、楽な方へとばかり向かう私を、見捨てる事なく、ずっとお育てくださったおかげなのです。
ようやく阿弥陀さまのみ教えを素直に聞かせていただき、お念仏するような者となったのです。

阿弥陀さま主体の念仏
私が称えようと思って称えるお念仏。
その思い立つ心は、阿弥陀さまのお育てのおかげなのです。
他力のお念仏とは、阿弥陀さまを主体としたお念仏なのです。

私が称えようと思ったから自力というのではなく、そこにこだわるのが自力のはからいなのです。

称えようと思い立つ心も、遠い過去から、阿弥陀さまがお育てくださり、「南無阿弥陀仏」のお名号となって私のもとではたらいてくださっているのが他力のお念仏なのです。

<pclass="cap2">たまたま行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ
(註釈版聖典132ページ)

思いがけもなく、本願を信じ念仏申す身となったのは、遠い過去からの阿弥陀さまのお育てを慶べ。
と親鸞聖人もおっしゃっています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/