お念仏のいわれ みんなの法話
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お念仏のいわれ
本願寺新報2008(平成20)年9月1日号掲載
福井・専通寺衆徒 藤井 静蕉(ふじい せいしょう)
たった一粒のお米にも
いよいよ実りの秋です。
私の住む福井は、美味しいお米の産地です。
私が結婚して名古屋から福井のお寺に来て間もなくの頃でした。
田植えの季節になると農家の家々に苗の入った木箱が配られます。
しかし、当時の私は、お仏飯のお給仕をさせていただきながら、それが苗箱であることも、お米についても、ほとんど知りませんでした。
幼い頃、家族旅行に出かけた時のことです。
電車に乗って外の景色を眺めながら、お弁当を広げていたときでした。
お弁当のふたにくっついているご飯のひと粒ひと粒をきれいにとっては口に運んでいた祖母が、
「たったひと粒のお米を作るのに、とても長い月日がかかるんだよ。
田んぼを耕して、苗を植えて、秋になったら稲刈りをして、雨が降っても風が吹いても、ちゃんと育つように、毎日休むことなく、農家の方が働いてくださるから、ご飯がいただけるんだからね」
それを聞いた兄も私も、ご飯を残さずきれいにいただいたことを憶(おぼ)えています。
以前、農家の方から、「米」という字は「八十八」と読めるように、米作りにはとても数多くの手間がかかると聞いたことがあります。
それほど多くのご苦労があるということでしょう。
現在は機械化された仕事もありますが、美味しいお米に仕上がるためには、春の暖かい日差しや土、農家の方の水の管理や草取り、というご縁が整ってはじめて、お米となることができます。
そのお米が毎年、秋になるとお寺にお供えされるお仏飯になります。
それまでお米の外観しか知らなかった私は、そういうお米の「いわれ」を聞いて、本当の意味でお米に遇(あ)うことができたと思います。
進む道が見えない「迷」
ところで、「米」という字に「しんにょう」で「迷」という字になります。
辞書で調べますと、「米」とは、小さくて見えない、見当たらない、という意味があるそうです。
「しんにょう」は進む道という意味があります。
つまり「迷」は、進む道が見当たらない、進むべき道がわからずにまよっている、という意味になります。
私たちの人生も、「私が」「おれが」という自己中心的な「私」を依りどころに生きるところに「迷い」があるのではないでしょうか。
実は、そのように迷っていることすら気付かずにいるこの私。
自分ではちゃんと目標に向かって歩いているつもりが、実は迷路の中で堂々めぐりをしている...。
そういう私のために、本当の道を教えてくださったお方がお釈迦さまです。
苦悩する者を捨てない
お釈迦さまが説かれた『大無量寿経』によりますと、阿弥陀如来という仏さまが、法蔵菩薩と名告(の)られていたときに、「苦しみ悩むすべての人々が浄土に生まれることができなければ、私はさとりを開かない」という大悲の誓願を立てられました。
その願を成就するために長い修行をされ、すべてのものを救う力が完成されたとき、阿弥陀仏という仏になられたと説かれています。
その救済の名告りが「南無阿弥陀仏」なのです。
お釈迦さまは、阿弥陀如来の本願のおこころである「南無阿弥陀仏」を人生の依りどころとして、お浄土に生まれて仏さまに成らせていただく道を説くために、この世にお出ましになった仏さまなのです。
<pstyle="text-indent:7.5pt;margin-top:15px;">親鸞さまは、
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就せり
<pclass="cap4">(註釈版聖典606ページ)
と詠(うた)われています。
阿弥陀如来は、たとえ一人であっても見捨てることはできないと、「南無阿弥陀仏」の喚(よ)び声となって、さとりの世界からいつもはたらいてくださっています。
あらゆる人々のところに「南無阿弥陀仏」のお念仏は届いてくださっています。
そして、一人ひとりに、「みんな仏さまに成らせていただく大切ないのちを生きているのだよ」と告げてくださっています。
美味しいお米の「いわれ」を聞いて、本当にお米に出遇うことができたように、「お念仏のいわれ」を聞いて、毎日の生活の中で合掌し、「南無阿弥陀仏」を聞き、称えさせていただくなかで、わが身を振りかえりながら報恩の生活を続けていく大切さを教えていただきました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |