お彼岸に思う みんなの法話
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お彼岸に思う
本願寺新報2005(平成17)年9月20日号掲載
三重・正覚寺住職 内田 正祥(うちだ まさあき)
35年前の夏 父が46歳で
京都のご本山に向かう道中、国道1号線の東山トンネルを抜けて、五条坂を下り始めると、右前方に大谷本廟が見えてきました。
ふと懐かしい父のことを思い出しました。
一九七〇年の夏、当時父は四十六歳、私は十三歳でした。
父は半年に及ぶ入院を経て、いよいよ退院の日が八月二日と決まりました。
待ちわびた退院の日の朝、突然に容態が急変し、退院の日が父の命日になりました。
前日、病室を訪ねた私に、「明日、退院やでな!」とうれしそうに言っていた父の笑顔が忘れられず、病室に駆けつけた家族の泣き声の中で、私一人、泣くこともできず、ぼうぜんと立ちすくんでいました。
葬儀も終わり、日が経つにつれて、悲しさ寂しさが少しずつこみ上げてきました。
そんな時、「まだ若いのに死んでしまって、かわいそうにねぇ」、あるいは「お父さんのために、みんなでお参りしてあげましょうね。
お父さんも、きっと喜ぶよ」という言葉を何度となく聞きました。
そんな言葉を聞くと余計につらく悲しくなってしまいました。
「父の人生は、かわいそうな人生だったの?」「父は、みんなでお参りしてあげなきゃならないような、哀れなものになっちゃったの?」と、思いながら、言い返すことも尋ねることもできずにいました。
「死んでしまったら、どんなに憧れていた父でも、大好きだった父でも、今は、僕たちがお参りしてくれるのを、じっと待つだけの、そんなものになっちゃったのだろうか?」「なんだか嫌だなぁ、そんなの・・・」―そう考えていると、だんだんお寺や、お参りが嫌いになっていきました。
大学ノートに残る言葉
それから四年後のある日、そのままになっていた父の書斎に何気なく入ってみました。
ぶ厚い本が並んでいる本棚の一番下の段に、大学ノートが一列ぎっしり並んでいました。
取り出して見ると、懐かしい父の字が記されていました。
一冊、また一冊と開いてみましたが、難し過ぎて書かれている意味がわかりません。
自分の勉強用のノートだったのでしょう。
もう見るのをやめようかと思って、最後に取り出したノートは、私にも意味がわかるものでした。
そこには、こんな言葉がつづられていました。
「人は死んで終わっていく人生をいきているのではありません。
仏さまにならせていただく〝いのち〟を生きているのです」「阿弥陀さまが、必ず私を仏と生まれさせるとお誓い下さっています」「お浄土(彼岸)が私のためにご用意されています。
おさとりを開かせていただく世界です」「仏さまにならせていただいたら、これから仏さまに生まれてくるものを導くために、この世界(此岸(しがん))に還(かえ)って来るのです」「阿弥陀さまの、必ず仏さまにならせたいという願いが、はたらきとなって今、『南無阿弥陀仏』となって、私に届けられているのです」等々。
きっと、ご門徒さんにお話するご法話用の原稿だったのでしょう。
お浄土へと向かう人生
読み進むうちに、だんだんうれしくなってきました。
「父は、かわいそうに死んでいったんじゃなかった」「仏さまになられたんだ」「仏さまになって、いつも僕のそばにいて下さるんだ」「お参りって、仏さまに、『ありがとうございます。
僕も仏さまにならせていただきたいです。
仏さまにならせていただく人生を精いっぱい生きていきます』 という意味だったんだ」と。
寂しく悲しかっただけの父との別離が、仏さまとの出遇いへと結ばれていった忘れられないご縁でした。
そして、お坊さんになろうと決めたのもこの時でした。
―死に去る人生から、生まれ往(ゆ)く人生へと、あなたの人生を、〝いのち〟を転ぜずにはおきません―「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と、今ここに至り届いていて下さる阿弥陀さまと共に、そして父と共に、頼もしく、そして有り難く、私の人生を歩んでまいりたいと思います。
「秋のお彼岸です。
ご縁のある方を偲びつつ、仏さまを念(おも)いつつ、お浄土へと向かう人生を、あなたも、ご一緒に生きて往(ゆ)きませんか!」
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |