お彼岸におもう みんなの法話
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お彼岸におもう
本願寺新報 2009(平成21)年3月20日号掲載
髙田 慈昭(たかだ じしょう)(行信教校講師)
本来の意味は"さとり"
梅も咲きほころび、うららかな好季になりました。
お彼岸には家族そろってお寺やお墓へ参詣されることでしょう。
お墓はご先祖や亡き肉親の記念碑です。
先祖や肉親を追慕し、お育てをこうむったご恩やお徳をしのび、深いいのちのつながりと、今日生かされてあるわが身をかえりみて感謝する大切な心の安処(あんしょ)です。
墓前でおつとめするお経(きょう)は、お釈迦さまが説きしめされた尊い真理のことばです。
人生の理法・真実に生きる道、生の依(よ)るところ、死の帰するところを明らかにするみ教えです。
このみ教えによって、故人も私たちも共に救われ、心の平安をいただけるのです。
「ナモアミダブツ」と合掌しお念仏申すところに、如来さまの光明に照らされ、お慈悲につつまれてあるいのちの尊さに目ざめるのです。
お彼岸とは、本来、彼岸(彼(か)の岸(きし)=浄土=仏国土=涅槃(ねはん)のさとり)を意味します。
つまり此岸(しがん 此(こ)の岸=現実の人生)に対する彼の岸のことですから、彼岸をおもうとき、此岸である今の人生が問われるのです。
此岸を問われないで彼岸の意味も成り立たないでしょう。
では、此岸とはどんな世界、境界(きょうかい)なのでしょうか。
私たちが今生きている現実の日暮らしは、科学技術が進歩して、快適な幸福感をもつことが多くなりましたが、その裏にはさまざまな不安や悲しみや苦悩が渦巻いています。
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激しい四つの流れ
お経(仏陀の教え)には、彼岸とは、四流(しる)をこえたところと説かれています。
四流とは、生老病死(しょうろうびょうし)の四つと、欲暴流(よくぼる 我欲の激しい流れ)、有(う)暴流(存在に執着し、わが所有物にとらわれる)、見(けん)暴流(主義主張の対立や争い)、無明(むみょう)暴流(迷いのこころ)といった四つの激しい流れの世界として示されてあります。
此の世に生まれたら、いくら名誉や地位や財産に恵まれても、老苦や病苦はまぬがれず、やがて死にいたることは万人の事実です。
そこに人生の根本的な不安と苦悩があります。
このような此岸に対して、それをこえていった仏さまのさとりの境界は、生と死の流転(るてん)をこえ、永遠ないのちのさとりと、清らかな光明にみちた安楽な彼岸なのです。
現実の此岸は、無常転変(てんぺん)の境界であり、愛する人との別離の悲しみ、自我の執着(しゅうじゃく)による対立や争い、わが身のいのちも不安定な身であります。
科学技術の進歩発達によって極めて便利な快適な生活がひろがり、長寿の時代を迎えましたが、事故や災害や悪質な犯罪がふえつつあります。
携帯電話やパソコンの発達によって、生活や仕事の便益がはかられ効率的な世の中がひろがってきましたが、それらによって逆に悪質ないたずらや犯罪が多くなってきて、将来が心配されます。
拝むことを知らない
産業社会の構造変化によって核家族が増加し、お仏壇のない家庭が激増し、拝むことを知らない親も子もふえ、教育や家庭崩壊、いのちの軽視など、人間の世界は、いつの世でも困難な問題をかかえこんで憂悩(うのう)の多いことです。
親鸞聖人は、このような此岸の様相を「煩悩具足の凡夫、火宅(かたく)無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」(註釈版聖典853㌻)と、その本質をきびしく見つめていかれました。
彼岸といわれるみ仏さまのおさとりの浄土は、此岸の人間が求めてやまない究極の理想界でありましょう。
しかし、この彼岸の浄土は、私たち人間がねがい求めるよりも先に如来さまのほうから見抜いて私たちにめぐみ与えられてあるのでした。
それが親鸞聖人によって明らかにされた阿弥陀如来の本願成就のお浄土です。
お念仏を申すところに、如来の大悲の願いによって私たちは、彼岸の浄土へ参らせていただく身の幸せを味わうのです。
鮎(あゆ)は瀬に住む 小鳥は森に わたしゃ六字のうちに住む
六連島(むつれじま)のお軽(かる)さんのうたです。
此岸の人生は、彼岸からくる六字(南無阿弥陀仏)の中にあるいとなみであります。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |