おばあちゃんと一緒に みんなの法話
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おばあちゃんと一緒に
本願寺新報2003(平成15)年10月20日号掲載
教学伝道研究センター研究員藤丸 智雄(ふじまる ちゆう)
女性に年を聞くのかい
今年のお彼岸は、残暑がとりわけ厳しい日々が続きました。
連日、一軒一軒ご門徒のお宅をお訪ねして、お経をおつとめする日々というのは、肉体的になかなか辛いものがありますが、一方で、ご家庭を訪ね、ご家族の方とお会いできる喜びも大きなものです。
私がお参りするお宅には、九十歳を過ぎた方が、たくさんいらっしゃいます。
まだまだお元気で、お掃除もお洗濯も一人でこなされる方、畑仕事をされている方もいらっしゃいます。
先日おうかがいしたお宅のおばあちゃんも九十歳を越えていらっしゃいました。
耳はだいぶ遠くなっていますが、お経を暗唱していらっしゃるので、私がお正信偈を大きな声でおつとめすると、聞こえたところだけご唱和されます。
おばあちゃんの声が聞こえてくると嬉しくなるものですから、ついつい私も大きな声でお経を読みます。
お正信偈を読み終える頃には、喉がからからになってしまいます。
おばあちゃんの耳元で大きな声で聞きました。
「おばあちゃん、おいくつになられたのですか?」
おばあちゃんは少し迫力のある声で答えました。
「女性に年を聞くのかい?」
「いや、おばあちゃん、お肌とかつやつやだなぁと思って...」と言いながら、もじもじしていると、ご家族の方が助け船を出してくれました。
「おばあちゃん、もう隠すような年じゃないでしょ」
するとおばあちゃんが「九十二歳じゃ」と。
すかさず、娘さんがつっこみました。
「おばあちゃん、また二歳ごまかしたね」
座にいた皆が笑いに包まれました。
「今日はおばあちゃんによく聞こえるように、大きな声でお経を読みましたよ」と私がまた話しかけると、おばあちゃんは「まだまだ、たいしたことないなぁ」とのお言葉。
「まいりました!」
おばあちゃんに一本取られてしまいました。
今わたしが育てられて
おばあちゃんのユーモアに触れて、連日のお彼岸参りの疲れはすっかり吹き飛んだのですが、こんな和やかな瞬間があると、ついつい、あと何回このおばあちゃんとお経を一緒にいただくことができるのかな...と考えてしまいます。
そうすると、一緒にお経をおつとめする時間が一層いとおしい時間に感じられるのです。
しかし、どうしてこれほどまでに、おばあちゃんとの時間が大切に思われるのでしょうか。
一つには、もちろん、おばあちゃんが高齢であり、元気なおばあちゃんといつまでも会い続けることができないと、よくわかっているからです。
ただ、それにも増して、おばあちゃんとの出会いが、私にとって善知識(念仏の教えを勧め導く人)との出会いであったからだろうと思われるのです。
人生には必ず最後の瞬間があることを、誰もが頭の中ではわかっています。
際限のある命について誰もが「知っている」のですが、九十歳を越えたようなご高齢の方にとっては、指先で触れることができそうなくらいに、実感をもって受けとめられることでしょう。
その一方で、いつ終わるかもわからない命でありながら、不確かな明日、不確かな次の瞬間をたのみにして生きている私がいます。
そんな命のおごりの中で生きている私が、限りある生の中で、限りのないいのちの仏さま、阿弥陀さまに出遇い、その救いに包まれることを喜んでいるおばあちゃんの姿に、知らず知らず育てられてきたのだと思うのです。
この世の命が終わることを実感を持って感じられる中にあっても「お浄土に迎えいれよう」という阿弥陀さまの救いを喜び、お念仏するお姿を目の当たりにすると、〝あぁ、今わたしが育てられているのだなぁ〟と切実に思うのです。
そんなふうに思うと、またまた空気をお腹いっぱい吸い込んで、おばあちゃんの耳に届くよう、大きな声でお経を読み、共に喜びたいと思うのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |