いのちをみる眼 みんなの法話
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いのちをみる眼
本願寺新報2005(平成17)年4月10日号掲載
布教使 花岡 瑞絵(はなおか みずえ)
どんな花を買いますか
息子が三歳のときのことです。
転勤、引っ越しの多い、決して広いと言えない我が家では、本棚の上半分をお仏壇にして、そこに阿弥陀さまの小さなお軸を掛けさせていただいています。
ある朝のこと、息子はいつものように保育園に行く前に、一番大切にしているおもちゃを阿弥陀さまにあずけて、「なまんだーなまんだー、まんまんちゃん行って来ます」と手を合わせました。
そしてその後、ふと「お花きれいなぁ。
ママ、お花きれいなぁ」とつぶやいて、そのまま何事もなく玄関に靴を履きに行ってしまいました。
私は、子どもが言うのにつられて「そうやなぁ、お花きれいなぁ」と言ったものの、そのお仏壇を見上げたとき思わず言葉を失ってしまいました。
そこには、一輪として咲いていない、固くつぼみを閉ざした小菊が生けられてあったのです。
もちろん、その小菊を買ってきたのも、毎日水を替えているのも私です。
しかし、その一つも咲いていない花を見てきれいだと思ったことは、実は一度もなかったのです。
皆さんもおそらくそうかもしれませんが、特にこれから暖かくなる季節に花を買われるときには、どんな花を買われるでしょう。
実は、私はいつもあまり咲いていない、できるだけつぼみの花を買うようにしていました。
できるだけ長持ちしてくれたらいいと思っていたからです。
自分の都合や思いだけ
毎日、水を替えながら、今回はどのくらいもつかな?と考えながら花を見ていたのです。
ですから、咲いてもいない、固いつぼみだけの緑の花を「きれいなぁ」と言われて、余計にわからなくなったのかもしれません。
小さな子どもに「お花きれいなぁ」と言われて初めて、私にとってきれいな花とは咲いている花のことであり、それだけでなく、道具として、お仏壇を飾る装飾品としてしか花を見ていなかったことに気付かされました。
毎日、花を見ながら、実はそこに花のいのちや輝きというものを見てはいなかったのです。
私たちは、それぞれかけがえのない、代わりのきかないいのちを生きているということは知っているつもりです。
しかし、実際には自分中心の思いによっていのちを道具として見、自分の都合に応じてその価値を決定し、順番や優劣をつけてゆきます。
そしてその判定は、悲しいことに、他に対してだけでなく、自分のいのちに対しても行われてゆくのです。
自分の都合や思い通りになっているときには大切にし、そうでなくなると役に立たないもの、みじめなものとしていのちを見てゆく。
そこにはただ自分の思いがあるだけで、いのちを見る眼はありません。
それが「煩悩にまなこさへられて」といわれる私の姿です。
迷いの闇を照らし出す
<pclass="cap2">
一々(いちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明(こうみょう)てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
(註釈蕃聖典563ページ)
浄土の蓮華の花は、青・白・玄・黄・朱・紫とそれぞれの色の個性を持ちながら、しかも他の一切の色を内に照らし出していのちのままに光り輝いているといいます。
その三十六百千億ともいわれる無量の光は、仏となり教えの言葉となって、自己中心の闇に迷う私を今はっきりと照らし出し、その間違いと本当に求めるべき道を教えて下さっています。
<pclass="cap2">薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光コボルル。
北原白秋は、バラの木にバラの花が咲くというあたりまえの中に、いのちの不思議を感じ取りました。
咲いているバラに不思議のいのちを感じるのも、咲いていない小菊を「きれいなぁ」と感じるのも、私がそう思ったからではありません。
それは、その花自身のいのちの輝きが私に響いたのであり、その花を照らし出し、存在を見いだして下さっている光のはたらきによって知らされるのです。
その光のはたらきを素直に聞く中に、本当のいのちに出遇わせていただく世界が開かれるのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |