いのちへの慈愛 みんなの法話
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いのちへの慈愛
本願寺新報2006(平成18)年1月1日号掲載龍谷大学教授 鍋島 直樹(なべしま なおき)童話にみる賢治の願い「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
...わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道道路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
...わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾(いく)きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」(『注文の多い料理店』序文)</p>宮沢賢治さん(1896-1933)は、動物や星や風たちの声をもらって、いのちの煌(きら)めきを童話のなかに表現しています。
そこには、み仏の清らかな願いが込められています。
賢治さんの童話を、もう一度開いてみてください。
そのときあなたに「すきとおったほんとうのたべもの」をもたらしてくれるでしょう。
</p>それでは、童話『よだかの星』を通して、「いのちへの慈愛」を見つめましょう。
</p>自分自身の恐ろしい姿よだかは、顔にまだらにみそをつけたような、みにくい鳥で、みんなから嫌われています。
よだか自身は、自分が悪い鳥でないばかりか、困っている小鳥を救った善い鳥だと自負しているのに、いじめられて、悲しくなります。
</p>あたりがうすぐらくなり、おもむろによだかが、口を大きく開いて、雲すれすれに飛んでいると、小さな羽虫が幾匹ものどにはいりました。
またひらりと空をかけあがると、今度は一匹のカブトムシがよだかののどにはいり、飲み込んでしまいます。
</p>よだかは背中がぞっとします。
さらにまた、一匹のカブトムシがよだかののどにはいりました。
ばたばたしているカブトムシを無理にのみこむと、よだかは胸がどきっとして、大声をあげて泣いてしまいます。
よだかは、自分自身の恐ろしい姿にはっと気づきます。
それまでは自分を心ひそかに善い鳥と思っていたのに、無意識に、羽虫やカブトムシを飲み込んでいる自分に気づいたからです。
</p>ついによだかは、お日さまや星たちをめざして飛びあがります。
しかし、どの星も相手にしてくれません。
よだかはすっかり力を落として、地に落ちていきました。
それでも、最後にはどこまでも、星の輝く空に向かって昇っていきました。
</p>「なみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。
そうです。
これがよだかの最後でした。
もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居(お)りました。
</p>それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。
そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
</p>すぐとなりは、カシオピア座でした。
天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
</p>そしてよだかの星は燃えつづけました。
いつまでもいつまでも燃えつづけました。
</p>今でもまだ燃えています」</p>(『よだかの星』)</p>全ての幸せ願い生きる涙ぐみ、微笑(ほほえ)みながらひたむきに飛びつづけたよだかの姿が目に浮かぶようです。
</p>人はここまで徹底して自らの生を見つめ、醜い部分もごまかさずに知ったうえで、清らかに生きることをめざしているでしょうか。
宮沢賢治さんは、み仏の願いを聞き、「すべての幸(さいわ)いを願って、強く生きていこう」と、私たちに呼びかけています。
</p>いのちへの慈愛は、いのちの悲しい現実に気づき、涙するところにうまれます。
このよだかの星への飛翔を思い浮かべて、私たち人間も、生かされていることに合掌し、汚れたこの世界を超えて、まことの仏となっていきましょう。
夜空を見上げたとき、もしカシオペア座の隣に星が輝いていたら、いのちの尊さに気づいて、息を詰まらせながら空にのぼっていき、微笑んで燃えつづけているよだかを想像したいと思います。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |