いのちの目覚め みんなの法話
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いのちの目覚め
本願寺新報2000(平成12)年10月20日号掲載
宇野 哲應(うの てつおう)(布教使)
病気と仲良く
え.秋元 裕美子
二十年位前、念仏者で元京都大学総長でもあられた脳神経の世界的権威・平沢興先生(故人)の講演を聞いたことがあります。
「人間の身体は九兆もの細胞でできています。
そのうち、かりに手を上げる仕事に関係する脳細胞のたった一つが死んでも、とたんにこの腕は上がらなくなります。
また人間の身体の中でどこかが病気になって細胞が損傷すると、全体の細胞がそれを治すために全力をあげます。
それでもとの傷んだ細胞は新しいものに生まれ変わるのです。
『いのち』の再生です。
このようにして脳細胞以外の全部の細胞は、だいたい九年のうちに新しく生まれ変わります。
だからお互い九年前の肉体はなく、新しいものになっているということです。
ただ残念なことに、だいたい五十歳を過ぎると、脳細胞だけでも一日に十万個ぐらいは死滅します。
この脳細胞は再生しません。
ですから皆さま、たとえどこか一部が傷んでいても、身体の全力をあげて治療しようとする『いのち』の再生のハタラキのただ中にあることを感謝しましょう。
だから病気になったら、『いのち』のハタラキに合掌・感謝し、おだやかな気持ちで暮らし、病気と仲良くしなければ治りません」と語られました。
ところで、私は三カ月前に二回目の前立腺の手術をし退院しました。
しかし、全快というわけにはまいりません。
糖尿病に加え、患部に悪いものが潜んでいるので、まあ爆弾を抱えながらの日暮らしですが、だれでも、いざ「自分の死」ということになると、深刻に苦悩すると思います。
生きている限り、人は「今」という時間の連続の中にいます。
「念仏」の「念」という字は、分解すれば「今の心」となります。
一歩も出られぬ「今」の中で、どのような「今の心」で自分の「いのち」や、あらゆる生物の「いのち」をお考えでしょうか。
絶体絶命のピンチ
そもそも手術のきっかけは三年前、小水が全く出なくなったことです。
それまでは老人相応の出方はしていたのですが、その日は朝方までトイレに立つことなく、よく眠ったようです。
ひどい糖尿で喉が乾き、水分を多飲するので、普段夜中は五、六回も行くのに不思議なことでした。
それで翌朝、普段より早く目覚め、すぐトイレに行きました。
尿意はあるのですが、いくら力んでも全然出ないのです。
いやな予感がしました。
さあ、それからが地獄の始まりです。
いくらきばっても一滴も出ません。
さりとて座敷に座っていても座れぬほど張り痛いし、小便がしたいばっかり。
お腹は張ってくるし、トイレに走り込んでも何と一滴も出てくれません。
また走り込みます。
だめです。
出ません。
じたんだを踏む苦しみです。
座敷-トイレ-座敷-トイレ、これの繰り返し。
何回したでしょうか。
しまいにはトイレの前で、「アーッ!」と絶叫してしまいました。
すぐ側の切なそうな妻の顔が目の前にかすんで見えました。
絶体絶命です。
土曜日で病院は休診、専門医のおられる月曜日まで、こんな有り様のまま我慢しなければならないのか。
私は苦しみの中の絶望感で打ちひしがれました。
このままでいれば尿毒症で死ぬ!それも脳裏を走りました。
それでも泣きながら我慢しました。
ひたすら月曜日の来るの待ちながら...。
しかし、我慢の限界になり、日曜日の午前二時に自分で運転して隣の市の市民病院に駆け込みました。
二月の深夜には人影もなく、病院のすぐ手前の交差点の信号機は赤でした。
どれだけ無視して走り込みたかったことでしょう。
文字通り私の全身は痛さの苦しみでガクガク震えていました。
出る!出る!!
宿直医に、管を入れて抜いてもらいました。
し瓶に溢れました。
出る、出る、出る!お腹の上には、押さえる看護婦さんの暖かい手がありました。
全身の震えと痛みの苦しみが一度に抜け、このまま死ねたら楽だろうなと感じました。
「溜まったら我慢しないで、すぐ来るんだよ」-宿直医のあたたかい言葉でした。
それから二回抜いてもらいに通い、月曜日に専門医にかかり、検査、検査の末、特に肥大した前立腺の手術を、昨年と今年と二回に分けてしたのです。
おかげで楽に小便が出てくれます。
有り難いことです。
「いのち」という言葉は「いきのちから」という日本語を縮めたものだと聞いたことがあります。
だから「いのち」は私にとって漢字の「命」とは違うのです。
「いのち」の語源から、「いのち」は「息の力」、または「生きる力」といただけます。
今まで「当たり前のこと」と全然気にとめなかった小水。
鼻歌交じりで用をたしていた自分でした。
全身の毒素や老廃物を排泄し、私の「いのち」を日々あらたに生かしてくれるハタラキ。
小便をするということは当たり前のことではなかった。
これは大変なことであったと気付かされました。
以前、普通に出ている時は何とも思いませんでした。
時には小便が邪魔くさいとさえ考えていました。
「いのち」の有り難さは、小便が出なくなって初めて身に染みました。
何というお粗末な私でしょうか。
「今」はトイレの中で、時々ですが、お念仏が出ています。
不思議なことです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |