いのちの教え みんなの法話
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いのちの教え
本願寺新報2004(平成16)年12月1日号掲載
大阪・正福寺住職 林寺 脩明(はやしでら しゅうみょう)
手を合わす世界とは何
月に一回新しくする私のお寺の伝道掲示板に、今月は「報恩講」にちなんで、
『恩に報いるとは、手を合わす世界に目を覚ますことである』
と掲示しました。
私は長い間、中学校に勤めていましたので、子どもにはウソは通用しないということをよく知っています。
大人はわかったふりをしたり、わかったつもりで納得しようとしますが、中学生は簡単にはうなずきません。
この掲示にもおそらく納得はしないでしょう。
「先生、手を合わす世界とは一体どういう世界ですか」
こういう質問が発せられるにちがいありません。
さてどう答えたらいいのでしょうか。
ごまかしは効きません。
仏縁豊かな人には、それは「阿弥陀如来のお慈悲の世界」ということで納まってしまうのかもしれません。
しかし、わからない人には、こういう仏教用語はますますわからなくなる世界へ引き込み、自分の生きることとどうかかわるのか不明のままに過ぎてしまいます。
私は中学生には、仏教はいのちを育てる教えだと説きます。
我がいのちとは一体何なのか、親が生み育ててくれたいのちです。
ではその親のいのちは...とどんどんさかのぼっていくとどうなるでしょうか。
思い及ばぬ無量の縁が
私は今の寺で十五代目の住職と数えられています。
そこで、ちなみに十五代までさかのぼり、親の数を単純計算してみますと、なんとその数一万六千三百八十四人となるのです。
父母というカップルでいえば八千百九十二組の夫婦です。
そして夫婦が成立するのは縁談というように、不思議な縁によって、はからずも結びつくドラマです。
このドラマは二人だけでは作り出せません。
取り巻く多くの縁者がいたはずです。
そういう人たちを八千百九十二組の縁談にプラスするなら、その数はもはや正確には計り得ません、大変な数です。
そしてその中の一人欠け、一組の縁談でも成立していなければ、我がいのちはどこにも存在しなかったのです。
ということは脈々と続く、思いも及ばぬ無量の縁が我がいのちを与えてくれたのです。
これはまさに自分のはたらきを超えた世界です。
まことなる仏さまから授かったいのちと感受するのです。
これが、いのち有り難うと手を合わす世界なのです。
こう話せば中学生も納得してくれるに違いありません。
そしてまた此(こ)の世で授かったいのちは、これも不思議に、そのいのちを生かすはたらきは準備万端なのです。
空気あり、水あり、光あり、大地あり...いのちの外側だけではありません。
心臓は鼓動し、血液は流れ、食べ物は消化し...数えあげたら切りがありません。
あまりにも当たり前すぎて日常、何とも思いはしませんが、これこそ手を合わす不可思議な恵みの世界なのではないでしょうか。
一切の有情は父母兄弟
仏教は難しい教えではありません。
人間は自分のいのちの根源に、我がはからいを超えたこういういわば縦横の不可思議なはたらきに支えられてはじめて存在しているのだと目覚め、我あり、我が力ありと角突き合わす我執を捨て、お互いに手を合わして生きましょうという、いのちの教えなのです。
ここではじめて『歎異抄』にある親鸞聖人のお言葉「一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)・兄弟なり」(註釈版聖典834頁)という同朋(どうぼう)の世界があきらかとなります。
そこでの「報恩」とは、なにも特別な報いをすることではなく、こういう教え、そして、その教えへの導きに対する深き仏縁に合掌となり、そこに「ただ念仏」の世界が開かれるのです。
もう一度中学生の話に戻ります。
彼らには、自分の言葉で、わかりやすく、本当の願いを語らねば耳を傾けません。
マニュアル通りとか、借り物の言葉では通用しないのです。
本当は大人もそうであるはずなのです。
私の寺にはもう大人になった教え子たちもやって来ます。
私は子どもたちに教えられたこの宝を大切にし、伝道にいそしみたいと念じているのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |