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いのちのぬくもり みんなの法話

提供: Book


いのちのぬくもり
本願寺新報2004(平成16)年3月1日号掲載
布教使 菅原 智之(すがはら ともゆき)
地獄の反対とは何か?

「人間」という言葉には、いろいろな解釈があるのでしょうが、私は〝人と人の間に生まれてくる者〟と考えています。
つまり、人のぬくもりを感じるため、いのちのぬくもりを共有するために生まれてきたと受け止めています。

さて突然ですが、みなさんは地獄をどのようにお考えですか?

「この科学の時代に地獄なんて...」

「行ってみなければわからない」

という声が多く聞かれます。

しかし、「ある・ない」の議論はそれはそれで面白いのですが、あまり意味があるとも思えません。
つまり、そこに私という〝主体〟が抜け落ちているからです。

ある「話し合い法座」の席で、こんな問いがありました。

「地獄の反対は何でしょうか?」

「極楽」と答えれば正解なのでしょうが、それでは「ある・ない」議論と同じです。
「私にとって地獄とは」と考えないことには...。
そこで「地獄の反対は〝無関心〟である」との意見が出ました。
つまり、自分自身に対する関心の欠如ということです。

他人のことは根ほり葉ほり知りたがるものですが、果たして自分のことにはどれほど関心を向けているでしょうか?

じっくりと振り返って「私は何のために生まれてきたのか」「どのように生きているのか」「私の居場所はどこなのか」「どこへ歩んで行こうとしているのか」と考えることが少ないように思います。

歩むべき方向はお浄土
ただ日常に流され、忙しい忙しいとあくせくする中で、せっかく人間として生まれながら、いのちのふれ合いを忘れ、他のいのちを利用し、踏み台にさえしている私...。
利用し合う世界にぬくもりはありません。
出会っていながらも、深く出会おうとすらしないことによって陥る孤独感。
自らへ関心を向け、自らに問いを持ったときにこそ、地獄とは我が有り様であったと知らされ、同時に「既に抱かれていた」ことに気付かされます。

親鸞聖人は阿弥陀如来という大いなるいのちと出遇(あ)われて、自らの居場所を「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』、註釈版聖典833頁)と語られました。
私の居場所が地獄であったと気付かされたときにこそ、歩むべき方向は浄土(いのちが等しく輝き合う世界)であると知らされます。

親と子どもは同じ年
私事ですが、昨年子どもを授かりました。
「親と子どもは同じ年」と言われる通り、父親一年生のあたふたした日々を送っています。
最初は子どもの抱き方もわからずに、おっかなびっくり。
生活のペースをうまくつかめずに、親としてやっていけるのだろうかという不安。
また、優しいよい子になってもらいたいと願い、やがて来るであろう反抗期を憂い悶々(もんもん)とします。
そうだ、学費も工面しなければ。
ハァー、大きな責任。
親になるって大変だ。

親とさせてもらって初めて、我が親のありがたさに気付かされました。
同時に深く親と出会えた気がしています。
今までは〝父親・母親〟といった役割で見ていました。
役割という表層だけを。
親なんだから子どもの世話に明け暮れて当たり前と。
しかし、そうじゃなかった。
親だってきっと今の私と同じ、悩みや不安を抱え、あくせくしながら私を育てあげたに違いありません。
今初めて、親という役割を超えて、一人の『人間』として向かい合い、いのちと出会えたことをうれしく思います。

人はいのちのぬくもりがなければ生きていけません。
すべてのいのちを無条件に「そのままでよい」と包み込み、裸の私でも生きていけるぬくもりこそが、阿弥陀如来という大いなるいのちのはたらきそのものでありましょう。
私は既に抱かれていました。
親に抱かれる乳児のように。
それなのに孤独感にもがいていました。
もがく必要ははかったのです。
いのちとは何ともあたたかいものですね。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/