いのちいっぱい咲きんさい! みんなの法話
提供: Book
いのちいっぱい咲きんさい!
本願寺新報2000(平成12)年6月10日号掲載
朝枝 思善(あさえだ しぜん)(広島・浄土寺住職)
ひろしま国体
え.秋元 裕美子
「いのちいっぱい 咲きんさい!」
この標題は、平成八年に開催された第51回ひろしま国体のテーマであります。
大会は広島県が天皇杯、皇后杯を獲得して優勝した大会でした。
ボランティアを中心とした運営、そして競技が開かれた市町村では民宿を主に地域を挙げての取り組みで、とても心のこもった大会であったと評判になりました。
しかし、得点は低かったのです。
理由は従来の国体開催県は数年前より有力選手を抜擢(ばってき)しての優勝であったのに、広島県は地元選手だけで競ったためでありました。
続いて開催された全国身体障害者スポーツ大会「おりづる大会」も素晴らしく、このテーマが「元気、輝け!」でした。
この国体テーマ「いのちいっぱい 咲きんさい!」は、国体県準備委員会の公募最優秀作品で、作者は体にハンディを持つ広島市南区の河村保(かわむらたもつ)さんで「さまざまな悩みを持つ人々への私なりのエールです」(中国新聞「天風録」)と語っておられます。
なんとなく
このテーマは地方の言葉、方言を使った初めてのものだそうです。
さて、このテーマを聞くとき、なんとなく浄土真宗・安芸門徒のニュアンスを感じるのは私だけでしょうか。
人生いかに生きるべきかに思いを至らすときに、カッコをつけて、得点評価のことばかりを目標としている人が目につく現代です。
どんなハンディを持っていようが、苦難の中にありながらも、うれしいことをたくさん持ち、価値のあるものに出遇(あ)ったところに、いのちいっぱい咲いた、完全燃焼の人生があります。
まさにこれこそ、輝いている世界なのであります。
「苦悩(くのう)の衆生(しゅじょう)を必ず浄土(じょうど)に導いて仏(ほとけ)にする!」との阿弥陀さまのご本願を聞信(もんしん)し、念仏申す人生を歩むところに浄土真宗があります。
この人生、この日暮らしこそ価値(ねうち)のある生き方といえます。
「人間死ねばゴミになる!」という本を書いた人があります。
ちょっと格好がいいように見えますが、これには疑問を感じます。
いのちの行方(ゆくえ)、死の解決がついていない生は無意味です。
また、生命(せいめい)の尊厳(そんげん)という言葉が目につきます。
なぜ尊いか、それは一つしかないからだ!との答えがかえってきます。
これもあまりよい答えではありません。
うれしい喜びをいただいたいのちの輝きこそ、咲き開いた人生の素晴らしさなのです。
いのちの輝き
『癌(がん)になってよかった-いのちかがやけ』(黒田英之著・探究社刊)の本を読ませていただき、涙がとまらないほどの感動をもらいました。
「本願寺新報」で、この本の出版祝賀会の記事を読むと、あと二年半の命と告知されたご本人が「私はガンを患(わずら)って考え方が変わってまいりました。
ガンはいろいろなことを教えてくれます。
本気で人生を考えさせられました。
病気が邪魔(じゃま)にならない、よかったと思えてくるのです。
このような経験をぜひ聞いてください」と挨拶をされたが、数日後呼吸不全のため68歳で亡くなった...と伝えています。
どこの世界に自分から望んでガンになる者がいるでしょうか。
ガンは苦しく、せつなく、途方にくれました。
でもこれが阿弥陀さまのご本願に出遇ったことによって、自分の歩いてきたお念仏の道が明らかになった-と記しておられます。
苦悩の衆生に対する弥陀のご本願は、南無阿弥陀仏のみ名となり、号となって私にはたらいてくださいます。
まさしく如来さまからのエール(声援)であります。
誕生日が2度
<pclass="cap2"><誕生日>
今日は私の誕生日
今日も来る日も誕生日
育て出されし誕生日
迷い離るる誕生日
ナンマンダブツに出会うた誕生日
浄土に生まれて仏に成らせていただくことのはじまった誕生日
本当に生きる道の開かれた誕生日
今日は私の誕生日
今日も来る日も誕生日
(山陰教区浄妙寺住職・嘉戸大恵著『宿善』の中より)
私はこの詩が大好きです。
人生には誕生日が二度必要といわれます。
一度は親によって恵まれた戸籍上の誕生日。
二度目は、値打ちのある、うれしい出来ごとに出合ったときであります。
阿弥陀さまのご本願に出遇うことにより、地獄必定の凡夫が仏に成らせてもらう身こそ、一番嬉しい出来ごとと考えます。
この生き方こそ、如来さまのいのちをいただいた私のいのちの咲ききった満開の人生というべきであります。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |