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いつもそばにいるから みんなの法話

提供: Book


いつもそばにいるから
本願寺新報2003(平成15)年12月1日号掲載
布教使 七里 順量(しちり じゅんりょう)
子を見守りつづける親

「お父さん、幼稚園でね、なぞなぞしたの。
この指の中で一本だけ違う指があるけど、どの指だ?」

「えっと、どれどれ。
どの指もかわいいね」

「違うでしょ」

「そうだな、親指かな」

「あったりー。
だってね、親指だけはこっちに曲がるでしょ」

「なーるほど」

娘との会話はここまででしたが、私はその先を考えていました。
「親指」と名付けた人はすごいなって。
第一指を「親」とするなら、さしずめほかの指は「子ども」なのでしょうね。
親指だけは、いつも子どもの方を向いています。
子どもたちをしっかりと見続けているのが親指です。
飽きもせず、見捨てることなく見守り続けるこの指を「親指」と名付けた人は、ほんとうにすごいなと思ったことでした。

一番冷たいのは無関心
ところで、阿弥陀さまのことを「親(おや)さま」とよぶのをご存じですか? 阿弥陀さまは、いつでもどこでも、何をしていても私のことを見守っていて下さいます。
起きていても寝ていても、職場や学校にいるときも、遊んでいてもご飯を食べているときも。
じっと見つめていて下さるのが親さまです。

この世の中で一番冷たいのは「無関心」だそうです。
子どもたちが非行に走るとき、そこには親からも周りからも何からも関心を持たれていないことがあるようです。
暴走するバイクの爆音を聞くとき、「俺を見てくれ」「俺はここにいるぞー」と聞こえてくる気がします。
あらゆる差別も無関心が大きく関与しています。
無関心はどんどん増幅し、次々に伝染するものではないでしょうか。

私が学生の頃のことです。
田舎の母から届く小包には、お米やらジャガイモやら、大根やらキャベツやらがたくさん入っていました。
自炊生活のため、とても有り難かったのですが、「なぜお金で送ってこないのかなあ?」と思うこともしばしば。
相当重いものばかりで送料もかかるだけでなく、全部スーパーで売っています。
粉石けんの大箱にいたっては、洗濯場へ行くとき邪魔で仕方ありません。

そんな仕送りの中であるとき、栗が送られてきました。
あれ! 珍しいなと袋を開いてみると、中に二袋入っていて、但し書きがありました。

「この袋は茹(ゆ)でた栗です。
早めに食べなさい」「この袋は生の栗です。
自分で茹でなさい」と書いてありました。
なるほど、栗は茹でて食べるのかと教えられたばかりか、すぐに味を知ることもできたのです。

全部「生(なま)」で送る方が日持ちが良いのですが、すぐに食べられません。
また全部茹でたのでは一度にたくさん食べねば悪くなってしまいます。
せっかちな私の性格を見越して半分は茹で上げ、もう半分は自分で茹でて食べるよう、半々にして送ってきたのでした。

私に届いたお念仏の声
京都で自炊していた私の健康を考え、店屋物ばかりでは体に悪いし、買い物などもおっくうになりがちな私を気遣い、スーパーで買えることぐらいわかっている話なのですが、すべて私の性格を知った上で送ってきたものであることを知らされたのでした。

私への仕送りは、まさに私に向けた形で届けられていました。
仏さまから届いているお念仏も同じことではないでしょうか。
一人ひとりの性格や素質・気性や能力に応じ、まるであつらえた服のように、この私にぴったりと寄り添っていて下さいます。

学問や修行にたえられないような私であっても、み仏はつねに最大限の関心を注いで下さいます。
そして、よびかけ通しによんでおられるのです。
「そのままのあなたを救うのだよ」「安心しておまかせなさい、必ず浄土へ生まれさせ最高の仏に仕上げるから」と。

人生はさびしく、辛く悲しいことも多くありますが、阿弥陀さまの最大限の関心は、この私に向けられています。
もうさびしくなんかありません。
常に見つめ、常に寄り添っていて下さるのですから。
さあ、南無阿弥陀仏とお念仏させていただきましょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/