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いつでもどこでも みんなの法話

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いつでもどこでも
本願寺新報2007(平成19)年3月20日号掲載
本山・布教専従課程専任講師 阿部 信幾(あべ のぶき)
チベットで死にかけて

それは突然やって来ました。
妙に息苦しいので、バスの後ろの席に移動しましたが、それでも治らず、とうとういくら呼吸をしようとしても息が入って来ません。
ついに床に手をついて、何とか呼吸をしようとするのですがまるでダメで、窒息の状態に陥りました。

「ひょっとすると死ぬのでは・・・」―そんな思いが脳裏をよぎります。
床には体中から流れ出た汗が、みるみる水溜まりを作っていきます。
「これってヤバクないっすか?・・・ヤバイっすよー・・・ヤバイっすよう・・・」。
ビデオカメラを放り投げて、私に酸素を送り続けてくれていたH氏が、泣き声ともつかない声で、私を後ろから支えてくれていた医師のM先生に叫んでいる。

M先生は無言・・・。
私はといえば、深い海の底に沈んでいくような感じで、その声を聞いていました。

忘れもしない平成十六年六月十一日、チベット有数の美しい湖・ヤムドク湖のほとりでの事でした。
チベットは私にとって憧(あこが)れの地でした。
八世紀頃から仏教が国の宗教となって以来、インド仏教の姿を今に留めている。
しかも平均標高が四千メートルで、間近にヒマラヤを見る事が出来る。
どこをとっても魅力あふれる国で、いつかは行ってみたい国でした。
そんなときチベット旅行のお誘いを受け、二つ返事で参加させていただいたのです。


十二指腸に穴があいた
初めて見るチベットは美しく、空港から省都のラサに着く二時間余り、私たちは迎えに来たバスの中で歓声を上げ続けていました。
しかしその頃から徐々に高山病が私たちの体を蝕(むしば)みはじめていました。
歩いていて突然気を失い倒れる者、ホテルに着いてもそのまま診療所に直行し酸素吸入を受け点滴をしてもらう者・・・。
私は食欲も失せ何も食べる気がしなくなっていました。
そんな中での出来事です。
高山病の中でも最も恐ろしい状態の肺水腫(しゅ)(肺に水が溜まり呼吸が出来なくなる)が私を襲ったのです。
後で知った事ですが、その時私の血圧は上が三〇を切っていて脈は微弱、手足は氷のように冷たかったそうです。

「阿部先生これ飲んでください。
お水もたくさん飲んで!」。
見ると目の前にM先生の手のひらに山盛りになった錠剤が見えます。
水と一緒に一気に飲み干すと、しばらくして「え?息が・・・出来る・・・この薬があれば生きていられるかもしれない・・・」―そんな思いが脳裏をかすめました。

いざという時のためにM先生はステロイド剤を持って来てくれていたのです。
かすかに息が出来るようになったものの、診療所はまだまだ先です。
ようやく峠を越えれば後は一気に下って診療所という峠越えの最中に今度は腹部に耐え難い激痛が走りました。

後でわかったのですが、十二指腸に穴が開いたのです。
ようやくたどり着いた診療所では手に負えないというので、とうとうラサの病院に行くことになりました。
病院に着いたのは夜の九時。
息が出来なくなった時から八時間余りが過ぎていました。
病院に着いても医師は治療にかかってくれません。

ありがとう ナンマンダブ
やがて通訳が来て、「医者は標高が高すぎて日本人はここでは手術は無理、北京に行け、と言ってます。
北京に行きましょう」。
冗談じゃない!北京に行くまでに腹膜炎で死んでしまう。
「死んでもいいから、ここでやってと伝えて!」と叫んでいました。
痛みも限界に達していました。

手術は無事終わりました。
手術室から出てきた私は、外で待っていて下さったM先生に「終わりましたか」と聞いたそうです。
そうです、というのは、私にはその時の記憶がまるでありません。
「終わりましたよ」と応えて下さったM先生は「その時、『有り難う・・・南無阿弥陀仏』とお念仏されましたよ」と後で教えて下さいました。
如来の大悲はいつものように、お念仏となって私の上に届いて下さっていたのです。

「私のいるところいつでもどこでも、私を仏さまにする阿弥陀さまのはたらきが届けられている」

M先生をはじめたくさんの方々の必死の努力によって、今ここにこうして生かされている。
大いなる如来さまの大悲の尊さを、しみじみと味わわせていただくご縁でした。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/