いただき・いただく 一枚法語
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親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」の六字を解釈されて、 南無とは帰命なり 帰命はすなはち是れ礼拝なり と述べられ、この礼拝の二字に いただき・いただく とご左訓を付けられてご了解されておられます。
このご了解によって更に、あじわいの深さが汲み取れ、聖人の教えはまさしく「いただき・いただく」ことに尽きるといえるでしょう。善知識は阿弥陀さまの教えを聞(信)くことを、「教えを心に入れよ」ともうされています。
ある大学の教授が定年退職されてから自宅を開放され、智慧遅れの人たちを預かって世話をしておられます。農作業をしながらの自給自足の生活です。
実りの秋を迎えたある日のこと、一緒に生活している知恵おくれの男性が 「先生、毎日何もしないで遊んでいても仕方ないので、何か仕事をさせてほしい。」 と言いました。先生はこの人が出来る仕事がないものかしばらく考えた後、名案を思いつき伝えました。
「君がこうして生きている限り、働きたいと思う気持ちは大切だ。それじゃ早速仕事を頼むよ。」 と言い田んぼに連れて行きました。
「ここに植えてある稲が黄金色になって、もうすぐ稲刈りなんだけど、困ったことに雀が毎日やって来て米を食べてしまうんだ。だからこの竹竿を持って雀を追い払うのが君の仕事だよ。」
と言うと、この男性は自分の仕事が見つかって大変喜び、早速竹竿を持って雀を追い回しました。
ところがある日、隣の田んぼに立っている案山子を見つけて、数日もしないうちに追い払うのを止めてしまい、今度は田んぼの真ん中に案山子のように突っ立っているだけになってしまったのです。竹竿を持って立っている男性を見て、近所のある婆さんは
「バカとハサミは使いようという言葉はあるけど、案山子と同じではなぁ。わしにはよう務まらんわ。やっぱりバカしか出来ん仕事や。」 と笑って言いました。
数日後、この婆さんが教授の所へ呼びにやって来ました。
「先生、ちょっと来てみなされ」
二人で田んぼに向かうと、智慧遅れの男性は相変わらず田んぼに立っていて、頭には烏が止まり、竹竿を持った手には二~三羽の雀が休んでいます。婆さんは
「あのさまを見なさい。やっぱりバカはどこまでいってもバカや。どうしようもないなぁ。あの男は案山子すらも無理や。困ったものだよ」 と大笑いしました。
ところが先生は笑うどころか目に涙を溜めて次のように語ったそうです。
「婆さんよ。烏も雀もあの子には気を許して寄りついて来るんだね。おそらくわしだったらちょっと足音を立てただけでも逃げてしまいことだろう。」
とこの男性に頭を下げたことです。
他人を認め、何ごともひざまずいて学んでいくことの尊さを、先生は伝えておられるのだと思います。 合掌
北海道のお寺の坊守さんで昭和六十三年に四十七歳で亡くなられた鈴木章子さんの詩を紹介します。
幸せ しあわせって 欲ばりすぎると にげてしまうのですね 追いかけて 自分でつまむものと 思っていましたのに しあわせって いただくものでしたね 少しずついただいて 少しずつわけあうことが たいせつなことだったのですね
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