いかなる昨日より今日が尊い
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だれもがそうなんでしょうか。働き盛りといわれている年齢を生きていますと、どうしてこんなに仕事に追いまくられるような毎日を過ごしているんだろうかと、情けなくも、悲しくもなります。それならいっそのこと仕事を整理して自分らしく生きる道を探し求めればよさそうなものなのに、それもできないまま、忙しいことが生き甲斐であるかのような錯覚の中で、いよいよ仕事に埋没して、その結果、アリ地獄のような状態を自ら作り上げてしまっています。
バブル最盛期の頃には、そのような仕事を第一だと考える人間を企業戦士と呼んでいましたが、この呼称はそういう生き方を単に揶揄するだけでなく、あるいは自嘲するだけでなく、なぜかそこにある種の安感、あるいは達成感を味わっていたのではないでしょうか。忙しいことに社会的なステータスを見出したり、人間としての充足感を味わっていたのではないでしょうか。
しかし、ある先達が言われたように、忙しいことはなにも誇れるようなことではなくて、忙しいとは立心偏()に亡と書く字だから、それは自分(こころ)を亡くしている状態です。自分を見失っていることの表現です。それにもかかわらずに、私たちは今の自分を顧みることもしないで、現実逃避的に、いたずらにむかしを懐かしがることがあります。
むかしは良かった、あの時の自分はイキイキとしていた、むかしにかえりたい、むかしの自分こそが本当の自分だ等々と。そう思えば思うほど、今の自分は色褪せて、むかしの自分が輝いて見えてくることになります。そうなればもう、出口を見失ったあの井伏二の『山椒魚』のように「ああ」と深い深い溜息をつくしかなくなるのでしょう。
それは幻想された昨日に自分を見出すことによって、現実としての今日を生きる自分をないがしろにすることであります。昨日の自分を尊ぶことによって、今日の自分も尊ぶのではなくて、むしろ、今日の自分を嫌な自分として、考えたくもない自分として差別することとなるのです。けれども、あらためて問い直してみれば、私たちにとっての今日の自分とは何なのでしょうか。
今日とは、仏教で時間をあらわす時に、過去、現在、未来と、昨日から今日、今日から明日と直線的にあらわす場合と、「去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり」(『仏説無量寿経』)と記されるように、現在、つまり、今日とは過去と未来を背負う「時」だと重層的に今日をあらわす場合とがあります。昨日と明日との流れの中にある今日ではなく、昨日と明日を担う今日です。
それは言葉をかえていえば、今日の自分は昨日を背負い、明日を孕む、今生この世の一回限りの「時」を生きる自分であります。昨日(過去)と明日(未来)を一身に担う、尊い「時」を生きる主体こそが、今日の命を与えられている自分なのでしょう。そういう自分を生きることの端的な表現が「いかなる昨日より今日が尊い」という言葉だと受け取らせていただきました。
尾畑 文正
1947年生まれ。三重県在住。
三重教区泉稱寺。同朋大学教授。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。