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ありのままを生きる みんなの法話

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ありのままを生きる
本願寺新報2002(平成14)年10月20日号掲載
兵庫・正圓寺住職 水杉 悟史(みずすぎ さとし)
逃げないカブトムシ

夏の終わりに中学二年の娘が、街灯の下にいたメスのカブトムシを捕まえてきました。
綿に蜜をしみこませ、空き箱に小さな穴を空け、カブトムシをその中に入れました。
しばらくすると、箱の中で動きまわる音がします。
逃げるかもしれないと思った娘は、蓋にセロテープを貼付けました。

朝になりました。
カブトムシがいません。
娘は箱を持ち上げ「下の方にもセロテープを貼るんだった」と、残念そうでした。
それから少し経って、ホコリをかぶったカブトムシを見つけました。

台所の隅には、ちょうど昨晩食べたメロンの皮がありました。
半分に切ってある皮は、毎日クラブ活動でお腹をすかせて帰ってくる娘が食べたものです。
カブトムシをその中に入れてみると、頭を下げ、茶色の舌を出して盛んに果汁を吸います。
半日が過ぎてもピクリともしません。
夜、子どもたちも帰り、賑やかな夕食の時も、かたわらで同じくじっとしています。
ラップで覆っているわけでもなく、いつでも逃げようと思えば逃げることができるのに、とうとうカブトムシは一日中メロンの中で過ごしました。

箱の中に入れられた時はきっと窮屈でイヤだったに違いありません。
翌日、カブトムシは娘によって外に放されました。

死ぬときは死ぬがよい
仏教というのは、あたりまえに生きることを教え、ありのままに生きることを教えています。
カブトムシにとっては箱の中よりも、メロンの中の方がありのままに近かったようです。
しかし、私たちがありのままに生き、あたりまえに生きることはとてもむずかしいことです。

公園などにシーソーという遊具があります。
長い板の中央を台で支え、上下するシーソーは、人生そのものを表しているようです。

支える台が私の受け取り方で、長い板は人生を現しています。
どちらにも力が加わらなかったら傾くことはありません。
ありのままとはこの状態をいいます。
うまくいっている時は、もっともっとと貪(むさぼ)りの欲望が上昇しシーソーは傾きます。
欲望は金銭や物だけではありません。
名誉や地位など、すべての欲は満足することを知らないところに本質的なものがあります。

反対に自分の思うようにならない時、シーソーは下降し、すべてのものが腹立たしく思え、いかりやねたみの心がとめどなくでてきます。
苦しみとは、言いかえれば思うようにならないことです。

人生をあたりまえに生きること、シーソーが水平を保つことは大変難しいことです。
それは支える台である私そのものが自己中心的なものさしで善悪是非を決め、それを正常と思っているところに問題があるようです。

禅僧の良寛さんは、「災難にあうときは災難にあうがよく候 死ぬときは 死ぬがよく候 これ災難をまぬがれる妙法にて候」と言われました。
なるほどと首肯される言葉です。
いかなる災難があろうと死がおとずれようと、一切とらわれず、ありのままに生きることを教えています。
逃げるのではなく越えていく生き方と言えます。
でも言葉で言うのは簡単ですが、良寛さんのように生きるのは至難のことです。

親は眺めるだけでなく
では私たちが苦難を乗り越えていくてだては閉ざされているのでしょうか。
「親」という字は、木の上に立って見ると何度か聞いたことがあります。
一度、木の上に立たんばかりの高い所から、わが子の姿を見たことがあります。
子どもが小学校の時に、校内のマラソン大会があるから見に来てほしいと言うので、高台のところから双眼鏡を持って子どもの走る姿を見ました。
そのほうが、沿道よりもわが子の姿を長く見ることができると思ったからです。
見てほしいと言うだけあって、折り返し地点では一番で走って来ました。
でもいくら高い所とはいえ、見える範囲は限られています。
車で先回りして今度は沿道から見ることにしました。
しかし、最初に走ってきた子は、わが子ではありませんでした。
二番目も、三番目も...。

しばらくして足を痛がるように走ってきたわが子に大声で「どうしたの」と聞くと「お父さん痛くて、もう走れない」と言います。

その言葉を聞いた途端、胸が熱くなるのを覚えました。
足をかばうように走る後ろ姿に「痛くて走れないなら歩けばいい。
最後まで走ろうと思うなら走ればいい。
そのままでいい」と呟(つぶや)いていました。

人はよく「悲しかろうな、辛かろうな」と言います。
でもそれは、どこまでいっても眺めている世界です。
「辛い思いそのもの、悲しいこころそのもの」をわが身に受けとめる、それがほんとうの親なのです。

家に帰り改めて親という字を調べると、なま木を根元から鋭い刃物で切られる思いで見る、とありました。
高い所から双眼鏡で眺めている「親」ではありませんでした。

私のところにたえずはたらいてくださる親(如来さま)がいるからこそ、私は安堵心をうることができるのです。

シーソーは今日も上に下に傾きます。
しかし、支える台そのものが、私ではなく阿弥陀如来さまだからこそ、どんな苦難をも越えていけるのです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/