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あなたがいるから みんなの法話

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あなたがいるから
本願寺新報2000(平成12)年4月10日号掲載
鎌田 宗雲(かまた そううん)(布教使)
"もえさし"の人生

え.秋元 裕美子
少し前に東井義雄先生の『いのちとのふれあい』を読み、「燼」という漢字から人生を考えさせられました。

この漢字は「もえさし」と読むそうです。
この一文字から東井先生は自分の「いのちのもえさし」を深く味わっています。
人生の大部分が燃えて、わずかにもえさしが残っている私の人生です。
先生は「もえさし」の人生を真剣に生きるにはどうしたらいいのかと自問し、日常茶飯事のことに感謝する生活を大切にすることだと、その答えを見いだしています。

東井先生の心からすれば、愚痴や不満が多い日常のあたりまえの生活こそもったいない生活のなかなのです。
あたりまえの生活こそ、あたりまえでないおかげさまの世界に生かされているのです。

先生は日常生活のただならぬありがたさを、

<pclass="cap2">支えられてわたしがざしきに上がればざしきが
ろうかに出ればろうかが
便所に行けば便所のゆかが
どこへ行っても
どこへ行っても
わたしを支えていてくれるものがある
(中略)
ああ そればかりじゃない
忘れづめのわたしを支えづめに
久遠の願いがわたしを
支えていてくださる

と表現しています。

人生は自分の力だけで生きられるものではありません。
多くのものに支えられて生かされていると知り、「わが人生ありがたし、もったいなし」と生きている人が心豊かな人といえます。

私が生きてゆくために、私が気づかなくても、どんなに多くの力が私のためにはたらきかけていてくださっていることか。
身の回りのことだけじゃない。
私のいのちの行方をいつも心配してくださっているアミダさまに願われている私であったのです。

誰をも救う力
親鸞さまは、ご和讃のなかで「真実明に帰命せよ」とお説きになり、その「真実」のご左訓に「真というはいつわりへつらわぬを真という。
実というは必ずもののみとなるをいうなり」とお示しになっています。

真実明とはアミダさまのことです。
アミダさまは私のいのちとなってくださる仏さまなのです。
アミダさまの願いは誰一人も漏らさずたすけるというご本願です。
ご本願が誰をもすくう力としてナモアミダブツと成就してみ名となったのです。

喜ぶ世界に変わる
アミダさまの心配に気付かぬ私は、幼子が親の願いの中にいつもありながら、親の願いに気づかないで生活しているのとよく似ています。
今まで気づかずにいたが、いつもアミダさまに願われて生きていると知られたとき、時折いやだと思うことのある人生も、

<pclass="cap2">ええもわるいも
みなとられ
なんにもない
ないがらくなよ
あんきなよ
なむあみだぶに
みなとられ
これこそあんきな
なむあみだぶつ

とアミダさまと一緒の人生をよろこんでいる浅原才市さんの世界にかわるのです。
人生が広がってくるのですね。
いま、私の口からお念仏がでてくださるようになったのも、みなアミダさまのはたらきであったのです。

命を根から見る
高村光太郎の「人類の泉」の詩のなかに、

<pclass="cap2">
私にはあなたがある
あなたがある
私の生(いのち)を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです

という一節があります。

草木は大地の恵み、太陽の日差し、空からの雨の恵みなどによって育っています。
光太郎は智恵子に命を根から見られているという。
智恵子によって生涯を生かされていた光太郎でした。

また、「あなたが私にある事は/微笑みが私にある事です」と詩い、最後は「あなたは私のために生れてきのだ/私にはあなたがある/あなたがある/あなたがある」と声高らかに詩っています。

どんなときにも智恵子は光太郎に微笑(ほほえ)んで勇気づけていたのです。
この詩を読んで、『歎異抄』第十九条の「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(「註釈版浄土真宗聖典」853頁)の言葉を連想せずにはおれませんでした。

光太郎はいつも智恵子の微笑みにつつまれていたから、彼は人生に悔いがなかったのです。
この智恵子をアミダさまに置き換えてみると、アミダさまがよくわかってきますね。

「お母ちゃん」といえば、その声には母親の愛情のありったけが通ってきています。
私がお念仏するのでなく、アミダさまがわが身に入り満ちて、私の口をかりて私を喚んで(よ)んでくださっているおすがたがナモアミダブツです。
ナモアミダブツは、アミダさまが必ず救い、仏にする力なのです。
お念仏はアミダさまのお心が私に通ってくださっているはたらきなのですね。
お念仏することは、そのままアミダさまの大きな願いのなかにいることです。
このことを知るのがお聴聞です。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/