あたりまえがおどろきに みんなの法話
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あたりまえがおどろきに
本願寺新報2000(平成12)年4月1日号掲載
中西 智海(なかにし ちかい)(中央仏教学院院長)
魚との出会い
ふと、テレビのスイッチを入れました。
「課外授業ようこそ先輩」という番組でした。
あまり大きくない町の中学校の風景でした。
生徒たちが待ちうけている教室に、その中学を卒業した、今はかなり有名な絵画の先生が現れました。
生徒たちは、どんな話をするのか、と先生の顔をみつめました。
ところが、この先生は、いきなり、「みんな魚って知ってるよね」と声をかけました。
生徒たちは「そりゃ、魚ぐらい知っているよ」と返事をしました。
すると先生は「今から、魚の絵を描いてもらいます」と言われました。
みんな一枚の紙に魚の絵を描きました。
先生は、みんなが描いた絵を生徒の方に向けて言われました。
「どれもこれも顔が左で尾が右で、全く同じ魚だね」
たしかにテレビの画面を見ていると、全く図鑑に出ている写真とそっくりな、まるでタイ焼きみたいな魚の絵でした。
先生は次の時間、みんなを校庭に集めて、そのまま、歩いて、川や池に連れていかれました。
そして実際、魚を釣って、それをバケツの中に入れ、学校に持ち帰って水槽の中に入れて、みんなで魚をじかに見ました。
次の時間、先生は再び、「みんな、もう一度魚の絵を描いてもらいましょう」と言われて、みんな魚の絵を描きました。
生きた魚の絵は全く違っていました。
体がくねっていたり、うろこがギラギラしていたり、目玉だけが、自分の方に向いていたりして、ピチピチ跳ねている魚でした。
次に釣れた魚を実験室で解剖(かいぼう)しました。
のぞきこんだ生徒が「魚の背骨も内臓も僕と同じだ」とハッとした表情で言いました。
見つめれば
私は、次のような言葉を綴ってみたことがあります。
<pclass="cap2">見つめれば
あたりまえであることが
おどろきとなる
見つめれば
どこにでも
教えがある
先の「ようこそ先輩」のように、図鑑のような魚、覚えた魚だったものが、生きた本物に出会い、じかに見た、じかに感じた魚となったのです。
いま一度、あたりまえであると思い込んでいることを、そのまま、正しく見つめて、おどろきを知ることが大切なことではないでしょうか。
私たちは、朝、目が覚めることも「あたりまえ」、何をするのも「あたりまえ」にしてしまいがちです。
しかし、本当は「おどろくべきこと」なのです。
ズバリと言えば、生きているのがあたりまえではない、というべきなのです。
「死は必然なり、生はおどろきなり」という言葉に出会ったことがあります。
必ず死すべきものが、朝、目が覚めたことは、あたりまえではなくて、おどろきなのでありました。
"いただきます"
私たちの日常生活において、食事は大きな位置を占めています。
そして「いただきます」という言葉も知っています。
ところで「いただきます」とは、何をいただくのでしょうか。
ビフカツ、トンカツ、親子どんぶり、お好み焼き...。
肉や魚や野菜をいただくのですね。
そして「ご飯」をいただくのです。
そこで私はたちどまりました。
「めしを喰う」という人もありますが、「飯」の上に敬語の「ご」をつけて「ご飯をいただきます」という言葉に、深い心が感じられたからです。
仏の教えでは、牛も鳥もミミズもカゲロウも、そして人間も「サットヴァ」つまり「衆生」とか「有情」と中国で翻訳された言葉ですが、その一語で言い当てられているのです。
あらゆる生きとし生けるもの、いや、そこにあるもの-山や川も、何のへだてもない平等ないのち同士であると説かれています。
そこには、上下のものの見方とか、人間だけがえらいというような発想は出てこないはずなのです。
思えば、その「平等のいのち」をいただかねば生きられない、われわれのいのちの仕組みをごまかさずに自覚して、痛みの心での「いただきます」なのではないでしょうか。
"悲"のこころ
仏さまの慈悲は「同体の慈悲」といわれています。
やけどをした人に「あれ、かわいそうに。
熱かったでしょう」と言うのは他人、つまり同体ではなく、体が別の人の言葉です。
やけどをした本人は全身で「痛い」と叫んだのでした。
それは、体が一つであるものの、うめきなのです。
慈悲の悲について、「悲は羽が左右に反対に開いたさま、胸が裂けるようなせつない感じのこと」という辞典の解説に学びました。
これからの時代、世界に、いのちのありのままにめざめ、仏さまの胸の裂けるようなせつない願力に少しでも応えて、そこから社会倫理へと開けゆく行動ある念仏者の道を語り合いたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |