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〝同悲〟のはたらき みんなの法話

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〝同悲〟のはたらき
本願寺新報2001(平成13)年2月20号掲載
木村 正明(きむら しょうみょう)(布教使)
今の若い人は一体...

え.秋元 裕美子
病院の待合室は、診療を待つ高齢者で空席がないほどの混雑ぶりです。
自分の番がくるまでは、顔なじみの人々との「井戸端会議」風の会話が交わされますが、話題といえば、いつも決まっているかのように「今の若い人は一体何を考えているのでしょう。
自分さえよければいいんだものね」と、最近の凶悪な犯罪などについてです。

このような情景は、混迷の度を深める社会状況から一刻も早く脱し、社会の安穏を望む新世紀への期待の裏返しとも思われます。
戦後、確かに人々の並々ならぬ努力によって経済も高度に成長し、人々は豊かな日々を送ることができるようにはなりました。
しかし、一旦、そのシステムが崩れはじめると、政治や経済、教育など、社会全体が混乱して、凶悪犯罪などが多発するとともに、その低年齢化が進んでいることを人々が実感しているのでしょう。

新世紀を迎えましたが、暦の節目を過ぎたからといって、一挙に何かが変わったり、なくなったりするものではありません。
現に凶悪な犯罪が後を絶ちません。
それは「いのちの尊厳」という視点から考えると、絶対にあってはならないことであり、前世紀の様相をそのまま引きずっています。

問われる生き方
私たちの人生は、昔から「重い荷物を背負ってけわしい坂をのぼるようだ」とか、「人生は短いが苦しみが多い」といわれています。

しかし、このことは二千数百年も前に、すでにお釈迦さまが「一切皆苦(いっさいかいく)」「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と悟られたことです。

それなのに「苦しいときの神だのみ」とでもいうのでしょうか、病気になったり、家庭内に予想もしないような事故などが続いたりすると、人々は神社やお寺にお参りしたり、占ってもらったりして、安心を得ようとします。

あるいは、いわゆる「ご利益」ばかりを説く宗教まがいのものに誘われて、熱心になるあまり、ついには迷いや疑いを深める結果にもなってしまっています。
また、統計的にみると、わが国の宗教人口は、実人口の二倍を超すといわれています。

このような状況から、識者は、私たちの日暮らしについて「何をどう信じて生きるのか」が問われていると指摘しています。
今まさに私たちは、その生き方が問われていることを真剣に受けとめなければならないのではないでしょうか。

本願他力の船
宗祖親鸞聖人は、このように迷いに迷いを重ねているような私たちに対し、すべての人々が必ず救われていくみ教えの肝要を、当時の誰もがわかる平易な言葉で述べておられます。
それは『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の「三帖(さんじょう)和讃」です。

聖人の主著『教行信証』は漢文で著され、浄土真宗立教開宗の書とされていますが、この和讃は「聖人が和語で著された『教行信証』である」ともいわれています。
聖人によって示された浄土真宗のみ教えが、平易な日本語で、しかも七五調という親しみやすいリズムで綴られています。

和讃の「和」は、漢文で書かれた言葉の意味を「和(やわ)らげ」て私たちにわかりやすくし、「讃」は、仏や高僧方のお徳を「讃(たた)え」られるということです。

このご和讃の中、『高僧和讃』の龍樹菩薩を讃えられた一首に、

<pclass="cap2">生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
  (註釈版聖典・579頁)

とあります。

私たち人間の住んでいる世界は、何事も自分の思い通りにならず、迷いを繰り返しています。
それを苦しみばかりの海にたとえられています。
その苦しみの海に、遠い過去より長い長い間沈んでいる私たちを、阿弥陀仏の本願の船のみが、さとりの世界へと乗せてお救い下さるのだと示されておられるのです。

苦海の中に迷い沈んでいる私たちは、当然、自力ではさとりの岸にわたることはできません。
本願他力の船のみがさとりの岸へとわたして下さいます。
そんな阿弥陀さまの慈悲を「弥陀同体の大悲」といいます。

阿弥陀さまは、苦海の中に生きる私たちに常に寄り添い、その苦しみ悩みにどこまでも「同悲」していかれます。
すなわち、共に悲しみ同感していくことによって、私たちの迷い苦しみを昇華(しょうか)してくださる、そういう大いなるはたらきが、南無阿弥陀仏のお念仏となって私たちに至り届いているのです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/