〝なんともない〟 みんなの法話
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〝なんともない〟
本願寺新報2002(平成14)年10月10日号掲載
布教使 高尾 隆徳(たかお りゅうとく)
うどんと妙好人
私どものお寺のあります香川県では、讃岐うどんの大ブームで、休日ともなりますと、あちらこちらで県内外からうどんを食べに来られた方々の行列ができるほどです。
うどん八十八ヵ所というのがありますし、書店にも『恐るべき讃岐うどん1~5』等のうどんガイドブックがたくさん並んでいます。
それはそれでよいのですが、私には讃岐うどんよりもっと全国の方々に味わっていただきたいものがあるのです。
それは明治四年三月四日、七十三歳で往生された妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行のことばです。
妙好人とは、妙好華(白蓮華〔びゃくれんげ〕)のような人ということで、『正信偈』には「分陀利華〔ふんだりけ〕」といわれています。
白蓮華は泥の中に生まれて泥に染まらず真っ白い清浄な花を咲かせます。
この濁りの世に生まれながら、世の濁りに埋没することなく南無阿弥陀仏の御こころをそのままにいただかれた方、お念仏の華を咲かされた方を妙好人というのですが、庄松さんの言行がまさにその通りでした。
庄松さんは、香川県の東部・大川郡丹生村字土居に生まれました。
彼の生まれました谷口家は代々真宗興正派勝覚寺の門徒でした。
アニキ覚悟はよいか!?
庄松が初めてご本山の興正寺へ五、六人の同行と参詣し、御剃髪(帰敬式)を受けられた時の事です。
興正寺のご門主が次々と剃刀を人々の頭上にあてられ、庄松の頭上を終えて次へ移ろうとされた時、庄松はご門主の緋の衣の袖を引きとめ「アニキ覚悟はよいか」と言いました。
式が終わって、ご門主は「いま我が法衣を引っ張った同行をここへ呼べ」と取り次ぎ役に命ぜられました。
その方が大勢の同行の前で「いま、ご門主さまの法衣を引っ張った同行はどこに居るか。
御前へ出られよとの仰せじゃ」といわれたのです。
それを聞いて連れの同行たちは色を失い、これは大変なことになった、こんなことなら連れて来るのではなかったと後悔しました。
そして、この者は一文、二文の銭勘定も出来ぬ愚か者でございます、ご無礼の段どうぞお慈悲でお許しをと謝りました。
取り次ぎの方は「そうか!」と、言われたままをご門主へお伝えしましたところ、「それはどうでもよい、一度ここへ連れてまいれ」と、また命ぜられ、とうとうご門主の前に連れて行かれました。
実際、庄松さんは世間的な知識にはトンと疎い人であったようです。
しかし、仏の智慧をいただかれた人でした。
『御文章』に「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」(註釈版聖典・千189頁)とあります。
釈尊一代の教えをすべて知っていれば、世間では大した知恵者だ、大学者だというのでしょうが、後生の一大事に気付いてない人は愚かである。
文字の意ひとつ知らなくても後生の一大事に気付かされ、弥陀をたのむ信心の人は仏の智慧をいただかれた方であるから智者であると上人はいわれるのです。
受け持ちが違う
「弥陀をたのむ」というのは、これから後の庄松さんの言葉によくあらわれています。
「いま我が法衣の袖を引っ張ったのは汝であったか」
「ヘェおれであった」
「何と思う心から引っ張った」
「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄のがれることならぬで、後生の覚悟はよいかと思うて言うた」
「さあそこが聞きたいため汝を呼んだ。
敬ってくれる者は沢山あれど、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ。
よく意見をしてくれた。
しかし、汝は信をいただいたか」
「ヘェ、いただきました」
「その得られた相を一言申せ」
「なんともない」
この「なんともない」というのが、すばらしいですね。
これは庄松さんだけでなく、島根県温泉津の才市さんのことばにも何度かでてまいります。
こちらの側に間違いのない確かな思い、確信をこしらえるのが信心ならば、庄松さんは「南無阿弥陀仏に間違いがないと深く信じて疑っておりません。
」と答えるでしょう。
「なんともない」とは、いつどよのような縁で命終わろうとも、そこで間に合う大丈夫はこちらには持ち合わせていませんという事でしょう。
ご門主に「それで後生の覚悟はよいか」といわれ、「それは阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。
我の仕事じゃなし、我に聞いたとてわかるものか」と庄松さん。
ご門主はその答えを聞いて満足され、「弥陀をたのむというもそれより外はない、多くは我が機をたのみてならぬ、おまえは正直な男じゃ、今日は兄弟の杯をするぞよ」と大変お喜びになられたということです。
どんなに地位のある人であっても、賢い人であっても、自分の死を前にした時には、なす術がありません。
自己をたのみにしてもどうしても解決がつかないのです。
「弥陀をたのむ」というのは、いつ、どのような縁で死をむかえることになっても、後生の一大事は今そのまま引き受けてやろう、たった今この弥陀が受け持ってやろうという南無阿弥陀仏の御こころをそのままお受けした信心をいわれたお言葉でした。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |