〝いのちを大切に〟とは みんなの法話
提供: Book
〝いのちを大切に〟とは
本願寺新報2002(平成14)年9月20日号掲載
山口・蓮光寺住職 伊東 順浩(いとう としひろ)
ムカデがおったぞ!
お彼岸です。
あれほどにぎやかだったセミの声はもう聞かれません。
すっかり秋の夜の虫の声です。
移りゆく虫の声にもいのちのはかなさ、尊さを感じます。
幼い頃は「お彼岸じゃからの、いのちを大切に」とよく聞きました。
四、五年まえ、息子が四歳の頃の話です。
虫が大好きで夏になると裏山にカブトムシやクワガタムシを採りに行き、大事に、大事に飼っていました。
玄関には、ところ狭しと飼育用の水槽や瓶が並びます。
二、三十匹もいたでしょうか。
毎日のぞき込んでは餌をやっています。
でもお寺に住まわせてもらっている仕事柄、いのちを大切にということで、夏も盛りを過ぎた頃、「クワガタムシさんにも山にはお友達もいるだろうね。
かわいそうだからね」と逃がしてやることにしています。
息子は「遊んでくれてありがとう」と、涙を浮かべながら、クワガタムシを逃がしていました。
その姿に、親も感心したものです。
ところが、虫はクワガタムシだけではありません。
わが家にはムカデがたくさん出てきます。
何度刺されたことでしょう。
寝ていて頭を這(は)っていったこともあります。
あの姿を想像するだけで身の毛がよだつのは私だけでしょうか。
妻の実家、そのお寺もまたムカデがたくさん出てきます。
その夏もやはり出ました。
トイレに行ってスリッパを履いたとき、下にムカデがいました。
「ムカデがおったぞ!」
私は大声で叫んで、そばにあったほうきで押さえつけました。
逃がしてなるものか、もう半ばつぶれています。
でもしぶといムカデです。
家中の人が殺しの七つ道具を持ってきます。
ひばさみ、ポットの熱湯、殺虫剤などなど。
みな怒りの形相になっています。
その声を聞きつけた息子は「ムカデがおったの」と満面の笑顔で走って来るではありませんか。
息子はまだムカデのなんたるかを知りません。
クワガタムシぐらいに思っています。
私の姿を見て「おとうさんどうするの」と悲しい顔をしています。
「やめて、まだ何もしてないじゃない、逃がしたらいいわーね」
「でも、刺されたら痛いからね...」
とうとう熱湯をかけて殺してしまいました。
「お父さん、何でそんなことするん、かわいそうじゃーね。
逃がしたら良かったのに」
息子は泣きながら、私の胸をつかんで、たたき続けます。
それから三十分、「お父さんなんか嫌い」と私をたたき続け、泣き続けていました。
つらかったです。
今も息子の泣き叫ぶ声は耳から離れません。
人のいのちだけでなく
ご本願には「十方衆生」、つまり「すべてのいのち」を仏にさせたいとあります。
また別の翻訳では「諸天・人民(にんみん)・■飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類」(註釈版聖典143頁)とされています。
「■飛」とはぶんぶん飛びまわる虫、「蠕動」とはくねくねと地を這いまわる虫です。
阿弥陀さまが常に心配していらっしゃるのは、私たち人間のいのちだけではありません。
ハチもセミも、ムカデもナメクジも必ず仏にさせると願っておられるのです。
ご本願はすべてのいのちにかけられた願いです。
クワガタムシなら「遊んでくれてありがとう」といのちを大切にし、ムカデなら「刺されたら大変、逃がしてなるものか」と殺して当たり前。
自分の都合でいのちを見ていたのでした。
それが私の生活でした。
そういえば虫のいのちばかりではありません、食卓にならぶ魚や肉、大根、人参、お米もみな尊いいのちではありませんか。
私は生まれてより、これまでに何匹の魚をいただいたことでしょう。
人間として、仏教徒として、真宗門徒として、「いのちを大切に」せねばなりません。
しかし、悲しいことに、我が身はいのちを奪ってしか成り立たないのです。
阿弥陀さまが仏にさせたいと願ういのちを奪い、「しょうがない」と一言で済ませる私です。
「いただきます」を言えば許されるぐらいにしか思っていない私でした。
都合のいい時だけ、「いのちを大切に」と、子どもにも教えていた私です。
子どもが泣き叫ぶだけではありません。
阿弥陀さまこそ泣いておられるでしょう。
大きな悲しみの心で私を心配してくださいます。
そんな私をすでにご存じで、南無阿弥陀仏しかお前が救われる道はないぞとはたらいて下さっているのです。
<palign="right">■(けん)は外字・・・
大きな矛盾を抱える私
彼岸とはお浄土のことです。
親鸞聖人は「無量光明土」と示して下さいました。
さとりの世界であると同時に、すくいの光が今私にはたらいて下さる世界です。
お浄土の光のはたらきの中に私たちは生かされていると言えます。
そのはたらきに気付かされたとき、これまで当たり前と思っていたことが、当たり前では済まされなくなります。
「いのちを大切に」とは、私のいのちの根本に関わる問題です。
「いのちを大切にしなければならない」のに、「いのちを奪ってしか生きることができない」という大きな矛盾を抱えています。
この季節、お浄土を思い、そのはたらきに気付かせていただくなかで、この大事な問題を考えてみたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |