〝いのち〟に想う60年 みんなの法話
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〝いのち〟に想う60年
本願寺新報2005(平成17)年12月1日号掲載
長崎・光源寺住職 楠 達也(くすのき たつや)
バカタレ!早く逃げろ
たしかこんな言葉がありました。
「昨日があったから今日があると思い、今日があるから明日があると思い、いつの間にかそれが当たり前となって、アッという間に一年、アッという間に十年、アッという間に一生」
本当にアッという間の六十年でした。
今年は戦後六十年。
そして原爆が投下されて六十年。
私はその日、その時、長崎では八月九日十一時二分でした。
ブーンというB29爆撃機の爆音がかすかに聞こえたのですが、小学校一年生の私は、そんなことより眼の前のセミを取るのに夢中になって、境内の木の上で不安定な姿勢でがんばっていました。
「静かに静かに、もうすぐセミが取れる」
頭の中は戦争も敵機来襲も、そんなことは片隅にもなかったようです。
その時です。
誰だったでしょう?大きな声で叫ばれました。
「バカタレ!早く逃げろ!!」と、カミナリより大きな声で叫ばれました。
無我夢中で木から飛び降り、庫裏の奥にある防空壕めがけて一目散に駆け出しました。
家の中に飛び込むのとピカドンとが同時でした。
バラバラと壁が落ちてきました。
防空ずきんは?そして弟は?母は?もう何が何だかわかりません。
とにかく裏の防空壕へ飛び込みました。
途端に恐くなってワンワンと泣き叫び、オシッコまでしてしまいました。
我をたのめ 必ず救う
防空壕の中で一人泣いていると、血まみれになった母が弟を抱いて入ってきました。
弟は頭の髪の毛がピカでチリチリにこげていたようです。
その夜は、防空壕の中で、ポトン、ポトンと落ちる水滴、そしていやな臭いや虫に悩まされながら過ごしたようです。
でも、赤々と燃え上がっている町の中、そして爆風で瓦も壁も仏具も吹き飛んだ本堂や庫裏よりは安全でした。
何時だったのでしょう。
夜遅かったようですが、炊き出しのおにぎりが配られました。
そのおにぎりの味は今でも忘れません。
翌日からが、もっと大変でした。
本堂、そして庫裏に大勢の人が避難して来られました。
そして、施すすべもなく赤チンだけの治療だったのでしょう。
毎日毎日亡くなっていきました。
近くの小学校の運動場で火葬され、その煙と臭いがお寺までなびいてきました。
それから六十年経った今、私はこの原風景の中から多くのことを聞かせていただいています。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、お念仏申していると、仏さまのお心が、いのちの響きが伝わってくるのです。
あのひと声「バカタレ!早く逃げろ!!」がなかったら、今日の私の六十八年のいのちはなかったのでは。
一体誰だったのでしょう。
もう今になっては誰かわかりませんが、多分、隣の組のおじさんかおばさんだったでしょう。
自分を勘定に入れず、人々のために尽くす行動がいつでもどこでも自然の姿で生きてた素晴らしさに感動させられます。
身を粉にし 骨を砕いて
阿弥陀さまは、いつでも、どこでも、誰にでも「我をたのめ、必ず救う」と、よび声となってはたらいてくださっているとのお説教のお話が、私はこのことを通して自分の心に伝わってきます。
境内の歌碑に「来し方も またゆく方も今日の日も 我は知らねど み運びのまま」との藤原正遠先生のお歌があります。
若い時には理解できなかったこの歌が、お念仏申す人生となってやっといただける今日このごろです。
今、あの声の方にお会いしてお礼を言いたいのですが、それはかないません。
でも、手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えていると、「ここにいますよ」と、阿弥陀さまのいのちの中にいらっしゃると気付かせていただきます。
戦後六十年、私の「いのち」の歩みは、どのように考えても不思議としかいいようがありませんが、私のために身を粉(こ)にしても、骨を砕いても生かさずにはおかない、歩ませずにおかないと願い続けてくださっている「南無阿弥陀仏」のおはたらき。
たとえいつこのいのち終えようとも、無上のさとりをいただく身の幸せを喜ぶばかりです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |