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「50年」の含蓄 みんなの法話

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「50年」の含蓄
本願寺新報2006(平成18)年4月1日号掲載
山口・蓮光寺住職 岡本 達美(おかもと たつよし)
靴の中の石 ぬるい風呂

昨年の十一月、学生時代からの友人の結婚披露宴に出席させていただきました。
十三歳年下の方とのご縁です。
おめでたい思いと、うらやましい思いと、そんなに年が離れていて大丈夫かな?? 等々、自らを振り返りながら、お念仏について、結婚について思いを深める良いご縁に恵まれました。

その披露宴に向かう道中でのこと、以前、広島県のあるご住職が話されていた話を思い出しました。

金婚式を迎えられたあるご夫婦に、ご住職が結婚五十年の感想を聞かれたそうです。

お二人共に「ここまで連れ添えたのも如来さまのおかげでありました」と、お念仏をよろこばれ、お念仏を人生の支えとされたご報謝のお姿と共に、日々の生活の感想として、おじいさんは「まるで、靴の中に入った小石のようなものでした」とおっしゃったそうです。

おばあさんに聞いてみますと、「ぬるいお風呂に入っているようなものでした」とおっしゃったそうです。

「靴の中の小石」とは、(おばあさんをいつ出そうか、いつ出そうか)の五十年だったという事でしょうか?

「ぬるいお風呂」とは、(この家からいつ出ようか、いつ出ようか)の五十年だったという事でしょうか?

さすが結婚五十年です。
年月の流れと、生活の中での思いを、こんな含蓄のある言葉で表現されたのでしょう。

智慧と慈悲をよろこぶ
夫婦は、「五濁悪世(ごじょくあくせ)の有情(うじょう)」同士が何かのご縁が重なり一緒になったものです。
「靴の中の小石」と思うようなことや、「ぬるい風呂の中」と感じるようなさまざまな思いの中で日々生活をしています。
そんな夫婦だからこそ、お互いの我執(がしゅう)(煩悩)の姿を照らし出して下さり、人生の支えとなってはたらいて下さるお念仏、如来さまの智慧とお慈悲を、二人そろってよろこぶことが大切になってくるのです。

お念仏を忘れ果てた姿が現代社会の大きな問題でもある、離婚や子どもへの虐待などの問題にもつながっているのではないだろうかと、私は常々胸を痛めている者の一人であります。

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ご和讃に
五濁悪世の有情の
選択(せんじゃく)本願信ずれば
不可称(ふかしょう)不可説(ふかせつ)不可思議(ふかしぎ)の
功徳は行者の身にみてり
(註釈版聖典605ページ)とあります。

煩悩抱えた我が身も、お念仏をよろこぶ身にさせてもらうと、喩(たと)えようもないほどの尊いお徳が満ちあふれて、お念仏によってお育てをいただく日々が送れるのですという、ご開山親鸞聖人のお導きを聞かせていただいています。

さて、くだんの新婚のご夫婦。
盛大な披露宴を終え、新しい生活が始まりました。
その友人からお正月に電話がありました。

けんかの時もお念仏を
ちょうど結婚二ヵ月目です。
明るい日々が目に浮かんでくるような生き生きとした友人の声です。
その友人がこんな話を聞かせてくれました。

他県から嫁いで来られたお嫁さんと、今までの生活習慣の違いからか、ちょっとした"けんか"になるそうです。
そのような時はお互いが南無阿弥陀仏・・・と、お念仏を称えるそうです。

そうすると

「いやいや僕の方が言い過ぎた」

お嫁さんの方も

「私の方こそ言い過ぎました」
と、お互いが顔を見合わせて謝ることができるのだそうです。

聞いている私の方は、のろけ話に付き合わされたような気もしましたが、お念仏のお育てだと聞かせてもらえば、すばらしいではありませんか。
このご夫婦にお念仏のお育てが、お念仏のお徳が生き生きと行き届いて下さっています。

そして、お念仏は、日々のお育てと共に、いつか必ずやって来る、今生(こんじょう)での連れ添うことの終わりの日、如来さまがお浄土に生まれさせて下さる後もお互いが道標となって、夫婦共にお浄土に生まれさせて下さる願いを私たちにご用意下さっているのです。

先のご和讚をしみじみといただきながら、お念仏、如来さまの智慧とお慈悲のお育てを、有り難く、温かく味わえるご縁に恵まれたのであります。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/