「願い」と「救い」 みんなの法話
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「願い」と「救い」
本願寺新報2004(平成16)年9月1日号掲載
中央仏教学院講師 髙田 未明(たかた みめい)
親鸞聖人が伝えてくださった教えは「阿弥陀さまが、このわたしを浄土に生まれさせて救う」というごくシンプルな内容です。
しかし、わたしたちはなかなかその通りに聞くことができず、「仏教はちょっと難しい」と感じています。
だからこそ、わかりやすく平易に説明を...と思います。
このように感じる理由を探ると、実は仏教が難しい、というよりも、わたしたちの求めている救いが、阿弥陀さまの救いとかみ合っていないのかもしれません。
さらにいえば、浄土に生まれることが本当の救いだと、わたしたちは素直にうなずけないことを意味しているのではないでしょうか。
善い事しかできない!?
ところで、わたしたちは日々、善なることを求めて暮らし、常に善を選びながら生きていることに気付かされます。
えっ? わかっていながら悪いことをやってしまうことがあるって? そう、こんな場面ですね。
「...本当はここに駐車してはいけないんだけれど、そこのコンビニでちょっと買い物をするだけだから...」など、残念ながらわたしにも思い当たることがあります。
でも、本当に、悪いことと承知したうえで路上駐車に及んだのでしょうか。
その瞬間をちょっとふり返ってみましょう。
いま、駐車場のある別の店を探すことを面倒に思う気持ちと、交通規則を守ること、この両者が天秤(てんびん)にかけられ5対5で揺れています。
しかし、「ほんの短い時間だけだから...」「それほど通行の迷惑にならないだろう...」との理由にもならない言い訳が加えられて最終、天秤は傾けられました。
身勝手ではあるものの、ギリギリのところで、6対4で、前者を善と判じたからこそ、店の前の道路に駐車した、というべきではないでしょうか。
例をみるまでもなく、たとえ規則に反する悪であっても、ほんの少しの言い訳や口実を根拠に善とみなして行動してしまいます。
つまり、究極的には、自分に都合の良いことが善であり、その意味での善しかできない、ということになります。
そのようなわたしの状態を、仏教は〈迷い〉と指摘しています。
『歎異抄』の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに...」とは、この点をお諭しくださっています。
念仏のみぞまことにて
有名な『観無量寿経』の王舎城の悲劇では、国のお妃(きさき)が、悪友にそそのかされた王子、つまり息子によって幽閉されます。
そこで、お妃は自らの境遇を嘆(なげ)き、釈尊に救いを求めます。
しかし、このとき釈尊は、自らの不遇を嘆くお妃の問いかけには一切お答えになりません。
ただ、阿弥陀さまの浄土を目(ま)のあたりに観(かん)ぜしめ、その浄土に生まれることをお説きになったのです。
これは一見、お妃の救いにならないように思えますが、いいえ、むしろ浄土に生まれることこそが、唯一の救いだと示されます。
単に、お妃の幽閉が解かれて、王子が処罰されることになっても、それはそれで、今度は母としてのわが子に対する苦悶(くもん)が始まります。
つまり、この度の王舎城での出来事が、王家の特別な事件だから、はじめて〈救い〉が問題となったのではありませんでした。
たとえ平穏で幸せのうちに毎日を送る人であっても、〈迷い〉を重ねて真実に逆行し続けている状態そのものが、実はどうしても救われねばならない事態だったのです。
「お金が儲かり健康で楽しく過ごしたい」というわたしの願いに応えるのが、阿弥陀さまの救いでは決してありません。
「迷っているお前を見ていられない」「救わずにはいられない」との、阿弥陀さまのやるせない願いにしたがい、お念仏させていただきましょう。
先の『歎異抄』のご文には「ただ念仏のみぞまことにておはします」とつづきます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |