「通さぬ」は「通そう」ため みんなの法話
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「通さぬ」は「通そう」ため
本願寺新報2002(平成14)年4月20日号掲載
島根・浄泉寺住職 朝枝 善照(あさえだ ぜんしょう)
錦帯橋(きんたいきょう)のかけかえ工事
岩国に出かけることがあり、有名な錦帯橋を見に立ち寄りました。
この数年来、中央の橋が新しくかけ替えられるということで、見学する人が多いそうです。
何十年に一度は、橋の工事がなされるそうです。
そのことによって、大工さんの技術の伝承がなされ、この橋の工事のなかに、家一軒を建てることのできる大工さんの技術が全て入っているそうで、大工さんの養成にもなるとのことでした。
岩国の地元の大工さんが勉強会を開いては、総力をあげて技術の伝承につとめておられるそうです。
私は錦帯橋の工事風景を眺めながら、ふっと桐溪順忍和上(わじょう)がよくご法話の中で紹介しておられました、
<pclass="cap2"> 通さぬは
通そうための
橋普請(はしぶしん)
という句を思い出しました。
これは、『大無量寿経』の第十八願の「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」という言葉の解説として話されたものです。
浄土真宗は、修行もできず、善い行いもできず、あるいは、あれをしなさい、これを学びなさいといっても何もできない、そういう力のない者が「そのまま」で、如来さまのお力、「他力本願」によって救われてゆく教えです。
しかし、そのように説きながら、一番中心となる第十八願に「唯除」、人を害したり仏法を誹(そし)るような人は除くとあれば、私はどうもその除かれる人の中に入るのではないでしょうか、と尋ねられた時に、「悪人正機(しょうき)」というのは、除くと注意して、かえって救うのですよ、と桐溪和上は話されたのです。
疑いあるまでよし
橋は本来、人が渡って往来するためのものですが、「工事中」には誰も橋を渡ることができません。
しかし、その「通行止」の「通さぬ」は、やがて、工事が完成したら「通そう」という思いがあってのこと。
桐溪和上は、この浄土真宗の教義の中心となる「他力本願」と、その日々の生活の中でのお念仏の味わいについて、ぎりぎりのところで、どのように味わうべきかについて語られたわけです。
それでも、如来さまのお力に疑い心をもつのがお互いです。
温泉津(ゆのつ)の浅原才市(さいち)さんは、「うたがいあるままでよし」と、如来さまのお力を歌にしました。
<pclass="cap2">疑いは ないと思うが疑いよ
疑い ありてよしと
疑い あるままでよいとは
それちがう
親と はんたい
親の心の
わからぬひとよ
才市さんは疑い心のあるままで喜びます。
錦帯橋の大工事には、地元のたくさんの大工さんが参加されて、「技術の伝承」や「大工さんとしての自信をつける」という、いろいろな効果があるそうです。
私は、そのような「橋普請」を見学して、ああこれは「お寺」の役割に近いものがあるなあと思いました。
全国のいたるところに、海辺にも、山里にも、街中にも、お寺はあります。
そのお寺を建立する大工さんもおられますし、完成すれば、そこに参詣されるご門徒もおられます。
そして、お寺にはご本尊がいつも参詣の人に仰ぎみられるお姿としてあります。
浄土真宗のお寺で語られるのは、どういうことが話されているのでしょうか。
世の中のニュースや世界の情報、あるいは科学や経済の問題について、詳しい人が参詣しておられても、お寺で語りかけられるのは、人間の生き方、人の命のかぎりあること、「如来大悲」の味わいなどです。
法話をされるご講師にも、学ばれること、伝承されてきた伝統もありましょう。
あるいは、経典や教えについて、先輩から承(う)けつがれることもあるはずです。
お寺に参られる人も、誰もいない静かなご本堂に座ってあたりを眺められる時、もし、心がおちつき、安らかな時間をすごされるならば、大工さんが建てられたお寺の空間はやはり、大いなる聞法の空間、伝道の空間となり、「通そうための」語りかける力をもっているものでありましょう。
次への「縁」をつくる
近頃は「ライトアップ」ということが流行していますが、光や音は、法要の中でも灯明や儀式の声明(しょうみょう)として大切な役割をもっています。
浄土真宗の聞法は、何か特別の知識を必要としたり、学んだりすることもありません。
三河のお園さんは、いつも、
<pclass="cap2">お差支えなし
ご注文なし
と言いました。
仏さまからみられたら、そのままでよい、何もさしつかえることはない、あるいは、何も注文しないぞ、「そのままでよい」と、お念仏を味わっておられます。
<pclass="cap2">永遠(とわ)の生命(いのち)
み仏さまに
たまわりて
よろこびの日々
心かろやか
これは菅本倭文(しず)さんの「御恩」という歌ですが、お園さんの「お差支えなし」「ご注文なし」の世界を歌にすれば、このように詠まれるのでしょう。
お寺に参るということも「縁」がないと道が拓(ひら)けません。
錦帯橋の工事をされる大工さんが、技術を伝承するために若い大工さんを指導しておられましたが、先に、お念仏に出遇(あ)った人が、次の人に伝える「縁」をつくり出さねばならぬと、つくづく思います。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |