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「生きる」ということと「生かされる」ということ みんなの法話

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「生きる」ということと「生かされる」ということ
本願寺新報2002(平成14)年4月1日号掲載
淺田 正博 龍谷大学教授
三蔵法師に思いを馳(は)せ

昨年、学生と一緒に中国の敦煌へ旅行をしました。
敦煌(とんこう)市からバスで約一時間ほどの所に「陽関」という関所跡があります。
そこへ行く途中の光景は、見渡す限りの石と土の大地で、緑の木は一本もありません。
もちろん水もありません。
日本では目にすることの出来ない茶褐色だけの世界です。
ガイドさんは「これらの地は耕しても作物ができません。
日本語に翻訳のしようがなく、チベット語でゴビタンと呼んでいます」と解説していました。

そのゴビタンを眺めて、私は千数百年前の三蔵法師と呼ばれた求法僧たちのことを考えていたのです。
中国から仏法を求めてシルクロードを西へ進み、ついにはインドに至って、経典を求めてはまた同じ道を中国へ帰って来たというあの求法僧たちです。

代表的な僧に玄奘(げんじょう)三蔵がいます。
私はその玄奘三蔵に思いを馳(は)せていました。
彼も、この生き物が生息しないゴビタンの中を歩いたのだ...、そう考えますと、この何の変化もない広大な茶褐色の大地がたまらなく愛(いと)おしく思えてきました。
もし時間が許せばこのゴビタンを私も歩いてみたいと考えましたが、所詮それは無理な話で、私たちの十日間の日程はびっしりと詰まっていたのです。

二つの受けとめ方
ところが帰路のことです。
「陽関」を出発して二十分ほどのゴビタンの真っただ中で、バスが大きな音と共にパンクしたのです。
全員ゴビタンに投げ出された格好になりました。
学生からは当然苦情が出ます。

「こんな中でいったい何をせよというのか」「私たちはついてないな」「なぜ私たちだけがこんな目に遭(あ)わないといけないの」。
また、クラクションを鳴らして経過する車を見ては「彼らは薄情だね」などと、学生たちの口からは愚痴(ぐち)ばかりが出ます。

しかし、私は彼らとは反対に「よくぞパンクしてくれた」と喜びました。
もしパンクしなければ、千数百年前の求法僧たちの歩いた道を、同じように私も歩くことが出来なかったからです。
学生たちはなぜそれに気付かずに愚痴ばかり言うのだろう、と彼らの気持ちがむしろわからないほどでした。

しかし、私は学生たちの愚痴を聞いていて、同じような響きの言葉を聞いたことがあるのを思い出していました。
そうです。
人生の大きな壁に突き当たって悩みを相談に来られる方たちが絶えず口にされる言葉だったのです。

「いったい私はどうすればよいというのでしょうか」「私はついていません」「他人は薄情な方たちばかりです」「なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのですか」。
私はこのあまりにも共通した響きに「旅も人生も同じじゃないかな」と思い当たりました。

旅にも人生にもアクシデントは付き物です。
アクシデントは防ぐことは出来ません。
しかし、自分の人生にアクシデントが起こることが当然としても、それをどのように受けとめるかが問題だと思うのです。
ゴビタンでパンクというアクシデントに出会って、学生たちは残念がり、愚痴を言い、いらだちを隠せませんでしたが、私はその同じ出来事をむしろ喜んだのです。

どちらの受けとめ方が人生においてプラスになるでしょう。
言うまでもないでしょう。
愚痴の中からは積極的な生き方は出てきません。
このように考えますと、人生で様々な出来事に出会ったとしても、必ず相反する二つの受けとめ方が出来るように思えます。

他人から見てどんなに苦しそうな状況であっても、「ありがたい」と受けとめる方がおられます。
逆に、うらやましい限りの状況であっても「愚痴を言う」方がおられます。
「自分の人生はついてないな」とか「自分だけがなぜこんなに苦しまねばならないのか」と愚痴ったり、嘆いたりすれば消極的な生き方に陥り、人生におけるマイナスを背負うことになりましょう。
もっと肩の力を抜いて、広い視野に立てば、愚痴を言うのではなく、きっと素晴らしい見方が出来るはずです。


お念仏喜ぶ生き方
このように話せば、それはわかっているけれど、そのような見方ができないのが私たち凡夫じゃないかな、と言う声が聞こえてきそうです。
確かにそうですが、私はこれらの見方には、それぞれの根底をなす考え方があるように思えるのです。

それは「自分で生きる」と考えるのか、あるいは「大いなるものの力によって生かされている」と考えるかが基本的な相違だと思います。
自分一人で人生の道を切り開いて「生きている」と肩肘(かたひじ)を張った時、これほど苦しく、そして不安なことはありません。
ですから自分に不都合な出来事に出会えば思わず愚痴が出てきます。

しかし、み仏に全(すべ)てをおまかせして「生かされている」と確信することが出来れば、自分の肩の力も自然と抜けて、嬉(うれ)しいことも悲しいことも、楽しいことも辛いことも全てが仏さまのありがたいはたらきかけとして受けとめることが出来るのではないでしょうか。
そこから一切の愚痴は出てきません。
このような受け止め方こそが「お念仏を喜ばせていただく」と感じることのできる積極的な生き方だと思いますが、いかがでしょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/