「火宅」の中の私 みんなの法話
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「火宅」の中の私
本願寺新報2004(平成16)年5月1日号掲載
大阪・自然寺住職 加藤 真悟(かとう しんご)
あっという間に空っぽ
滋賀県のあるお寺に布教のご縁をいただいた時のことです。
朝十時からの正信偈のおつとめを、控えのお座敷で聞かせていただいていました。
窓の外には、道を挟んだ向かい側に民家が並んでいたのですが、そのうちの一軒から「パチッ、パチッ」という音が聞こえてきたのです。
初めは何も気にせずに聞き流していました。
すると、数分経った頃に「パンッ、パンッ」という音に変わり始めました。
「竹細工の仕事でもしておられるのかな」と、あれこれ想像していたのですが、それが段々と激しくなり始めたのです。
「パパンッ、パパパンッ」。
音が鳴る間隔も短くなり、そうこうしているうちに、その家から煙が立ち始めました。
窓に寄ってよく見てみると、炎らしきものが見えるではありませんか。
「これは火事だ」とわかったのは、音が鳴り始めて、すでに二十分ほど経過した後でした。
しかし、まだ村の誰も気付いていません。
慌てて本堂におられる総代さんに伝えに行きました。
「お隣の家から火が出ているみたいです。
火事だと思います」
おつとめ中ということもあって、かなり小さな声で話したつもりでしたが、周りにおられた方々は「火事」という言葉にすぐに反応されました。
消火活動のために人が出ていった本堂は、あっという間に空っぽになりました。
カルダイは出家せずに
お釈迦さまがご出家される原因となった一つに、「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というエピソードがあります。
まだ釈迦族の王子であったお釈迦さまが、カルダイという従者を連れて城外へ出ようとすると、城にある東・南・西・北、四つの門のそれぞれで、老人・病人・死人・出家修行者と出会われます。
ここで釈尊は問いをお持ちになります。
「老いていくとは、病(や)むとは、死んでいくとはどういうことなのか。
そして、その中を私はどのようにして生きるべきなのか」
このことをほかの誰かの話としてではなく、自分自身にとって避けるわけにはいかない問題として受け止められるのです。
しかし、同行していたカルダイさんは、お釈迦さまがお悟りを開かれた後に、そのお弟子にはなられますが、この直後にご出家されることはありませんでした。
これはどうしてでしょうか。
皆さんがニュース番組の中で起きている火事の模様に、慌てられることはないと思います。
また、隣町で火事があったとしても、注意こそすれ、ドキドキして眠れないということもないでしょう。
しかし、自分の家が、あるいは隣の家が燃えていたならばどうでしょうか。
ゆっくりお茶を飲みながら眺めるなんて方はおられないのではないでしょうか。
一斉に本堂を飛び出した総代さん方のように、急いで火を消そうとするに違いありません。
ムダな命は一つもない
私たちは「人は老いる。
病む。
死ぬ」ということを理解はしています。
しかし、オロオロ考えるばかりで、「どうしようもないのだ」と、ついには目を背けてしまいます。
屋根が焼け落ちようかというその下で、火を見ずに、布団にくるまって、それで消したつもりでいるのです。
カルダイさんも、その時には目を背けておられたのかも知れません。
阿弥陀さまは、このような私の「火宅(かたく)」に入って来て下さり、「目を覚ましなさい」と懸命に喚(よ)びかけられます。
「大丈夫。
どこまでも必ず私が一緒にいるよ。
決して離れることはないよ」
こちらから助けてくれと言ったわけではありません。
気がつけば、すでに私とともにおられたのです。
私は阿弥陀さまなしには、火の海を出て行くことは出来ません。
また、私に何の力がなくとも、阿弥陀さまは必ず私を抱きかかえて歩んで下さいます。
そして語りかけて下さいます。
「老いたから、病だから、死んだからといって、ムダないのちは一つもないんだよ。
あなたのいのちは私の中ですっと輝いているのだから」
きっと家を出てから驚くのでしょう...我が家はこんなに大火事だったのかと。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |