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「死んだ人」にも「いのち」がある みんなの法話

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「死んだ人」にも「いのち」がある
本願寺新報2004(平成16)年2月1日号掲載
布教使 高澤 正文(たかさわ しょうぶん)
先立つわが子は善知識

もう七回忌がそこまで来ています。
お寺の後継ぎ(若院)でもあった息子が亡くなったのは、彼が二十四歳の春のことでした。
「先立つわが子は善知識(ぜんじしき)」と申しますが、若院は阿弥陀さまが私を仏さまに遇(あ)わせるためにお授け下さった善知識(み教えに導く人)であったと気付かされたことでした。

それで、その翌年の三月、妻と共に学校を退職。
妻五十四歳、私五十七歳。
この六年間に、妻は自坊の副住職に就任し、娘も住職の資格を取るべく中央仏教学院の本科を卒業。
私は若院の遺志を継ぎ、布教使になりました。
まさに若院の往生は、私たちをみ教えに遇わせるための阿弥陀さまの「おはからい」でありました。

以前は、私のような欲深く、すぐに腹をたて、愚痴(ぐち)をこぼす身では、とうてい仏になれるはずがないと思っていました。
ところが、こんな煩悩だらけの私こそが阿弥陀さまのお救いのお目当てと聞かされて、わが耳を疑ったことでした。

親鸞聖人のみ教えは、阿弥陀さますべての功徳を「南無阿弥陀仏」という六字のお名号にしあげて、この私に疑いなく信じさせナモアミダブツと称(とな)えさせ、お浄土に救いとって下さいます。

人は何のために生きる
このお名号のおいわれに疑いが晴れ、信心が開けおこる時、浄土往生が定まり、今ここに生きて「必ず仏になる身」となります。
これを「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」といい、親鸞聖人のみ教えのとても大事なところです。
この信心をめぐまれたものは「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、摂(おさ)め取って捨てないという阿弥陀さまの光に照らされ、護(まも)られて、この人生を精いっぱい生き抜かさせていただくのです。
決して死んでからの教えではないのす。

ですから、「人は何のために生きているの?」という根元的な問いに対しても、この南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせていただく身には、「人は仏にしていただくために生きている」と答えることができるのです。

同様に「人は死んだらおしまい」といわれることがありますが、本当にそうでしょうか。
「死ぬのではない。
浄土に生まれさせるのだ」というのが、阿弥陀さまのおこころです。
信心をめぐまれたものは、この世の生命(いのち)尽きたとき、お浄土に生まれ、阿弥陀さまと同じさとりを得て、限りない「無量のいのち」となって、今度はお浄土からこの娑婆(しゃば)世界に還(かえ)って、有縁(うえん)の人々を自由自在に南無阿弥陀仏のみ教えへと導くのです(還相回向(げんそうえこう))と親鸞聖人はお示し下さいました。

ですから「死んだらおしまい」ではなく、そこから限りない「無量のいのち」がはじまるといえるのです。

すべて仏のおはからい
私はこれまで、自分の人生すべてを自分で決めてきたと思っていましたが、最近、実は阿弥陀さまのおはからいであったと思うように変わりました。
若院の死は、私に「肉親との別れの辛(つら)さ」を知らせ「世の無常」を感じさせるには余りあるものでした。
しかしその「逆縁(ぎゃくえん)の苦しみ」を「仏縁」に転じさせ、「かならず救う、われにまかせよ」という仏さまがおられることを人々にお伝えする布教使にさせて下さったのは、まさに阿弥陀さまのおはからいであったと味わうほかありません。

混とんとする社会の中で、現代人はいま何を依りどころに生きるのかを問い直す時期が来ています。
そこで、まずは自分のお寺から始めてみました。
すると門徒の一人ひとりに笑顔が戻り、聞法の道場に灯がともり、そしてお念仏の輪が広がってまいりました。
これはまさに若院の還相回向のはたらきであると、私は受け取っています。

このように、お浄土に生まれさせていただくことも、この世に還って有縁を導くことも、すべては阿弥陀さまのおはたらきです。
これは人間の知識や知性を超えた阿弥陀さまの「不可思議」なお力と親鸞聖人は申され、「他力回向」「本願力回向」と示されます。

煩悩だらけのこの私が「無量のいのち」をたまわるこのみ教えを聞かせていただくとき、ただただ仏恩報謝のお念仏を称えさせていただくばかりです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/