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「安穏(あんのん)」の原点 みんなの法話

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「安穏(あんのん)」の原点
本願寺新報2006(平成18)年11月10日号掲載
布教使 牧野 大修(まきの だいしゅう)
本当の幸せ 豊かさとは

かつての高度経済成長期は「働け、働け、金をもうけよ」が合い言葉のような時代でした。
確かに科学と技術の目覚ましい発達により、その後は経済的・物質的に豊かになり、生活の向上と便利さを与えてくれました。
また、この「豊かさ」を幸せと感じてきたことも事実です。

この高度成長、特に商工業の発展は、人々の生活と人間そのものに大きな変化をもたらしたようです。
巨大な機械化と組織化が生じ、働く者はその中に組み込まれ、機械的人間、組織的人間、すなわち「人間の歯車化」を生みだしたのです。
それでも、物質的豊かさと便利さを失わないために懸命に働き、職場の同僚は仲間どころか皆競争相手です。
当然人間関係も冷たくなり、職場・仕事の中での生きがいどころか、大切な人間性さえも失わせてしまいました。

先日、私の県は役所の「裏金問題」で一躍有名になってしまいました。
巨大な組織の中で、見えるはずのものが、いや見なければならないものが見えなくなってしまったのです。

まことの「幸せ」とは、本当の「豊かさ」とは何なのかを問い直さなければならない時代になりました。

忘れられた自然の恵み
世の中は大きく変わりました。
直接自然に接する仕事をする人が少なくなりました。
それは生命維持に最も大切な食物が育(はぐく)まれる土や水(農林水産業)から離れる現象が大幅に増えてきたことです。

「土地や海にしがみついていては生活できない」ともいわれます。
確かに大量の安価な食物が外から入りますので、やむを得ないかもしれません。

しかし、食べ物は大地からの「恵み」にほかなりません。
大地から浮きあがった人間はこの恵みを忘れ、大切な人間の心まで見失いつつあります。
いつもそろばん片手に損か得か計算していく世界では、同じ食べ物も、「いただきます」がいつの間にか「私が買った食事」になったようです。

秋は実りと収穫の時期でもあります。
私のお寺の門前の畑では、「どうじょう柿」という干し柿専用の柿をつくっておられる方がいます。
若芽が出た時から収穫まで、まるでわが子を育てるように見守っておられます。
いよいよ収穫となると、一つ一つていねいに取っていかれます。

「今年もよくできましたなー」と声をかけると「はい、今年もおかげさまで無事に収穫させてもらいます」と明るい声が返ってきました。
ところがよく見ると、柿が三、四個ほど残っている木があります。
たずねてみますと、「これは小鳥や虫のために残しています」との返事でした。

「収穫させてもらいます」と感謝の念をいだかれるのは、日照り続き、また長雨や台風の害に見舞われたら収穫できなくなるからです。
人間(私)の力ではどうにもならぬ自然の大きな恵みの深さを骨身にしみて知っておられるからこそ、この言葉が出るのでしょう。
また「残した柿は小鳥や虫のため」という言葉には、一羽の鳥、一匹の虫にまで注がれるあたたかい心が感じられます。

生かされているいのち
仏教では、すべての「いのち」は平等であると教えます。
「一切衆生悉有仏性(しつうぶっしょう)」と説き、人間のいのちのみが尊いとは説きません。
親鸞聖人が「一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)も父母(ぶも)兄弟なり」(すべての生きとし生けるのものは、幾度も生まれ変わり死に変わりする間にお互いに父母ともなり兄弟ともなっている)とおっしゃったのは、ご自分の「いのち」を一切の生きとし生けるものの「いのち」の延長上に見いだされたものです。

「いのち」の延長上とは、自分の「いのち」を支えてくれているものは、すべての「いのち」の犠牲の上に成り立っていることです。
このことに気づけば、私は生きているのではなく生かされていることに目覚める(気づく)こととなります。
この目覚めこそが一人一人の「いのち」の根本を確立し、「いのち」を認め合い尊びあっていく世界が拡がっていくことでありましょう。
これが「世のなか安穏なれ」の原点です。

阿弥陀さまのおよび声「南無阿弥陀仏」は、「気づいてくれよ」「気づかさせずにはおかんぞ」とのお声と聞かせていただいています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/