「偽」と「真」 みんなの法話
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「偽」と「真」
本願寺新報2008(平成20)年2月20日号掲載
大阪大谷大学短期大学部准教授 貫名 譲(ぬきな ゆずる)
なぜ人々は占いに頼る
私は毎朝、大学に行く前にテレビのニュースを見ながら身支度を調えます。
できるだけ多くの情報をと、頻繁にチャンネルを変えます。
時にはとても面白い情報を得ることもありますが、反対に「くだらないなあ」と思うことも多くあります。
その一つが占いや運勢判断です。
「もっと他に取り上げるべきことが・・・」と思ってすぐにチャンネルを変えます。
しかし、「占い」は朝に限りません。
夜には他人の人生を占う番組まであり、インターネットや携帯電話、雑誌でも見受けられます。
私たちのまわりを見わたすと、本当に多くの「占い」があることに驚かされます。
これには人々が関心を持っていることの裏返しと取れますが、なぜ人々は「占い」に引きつけられるのでしょうか。
今から十年ほど前、新聞に日本人の宗教意識についてのアンケート結果が載っていました。
当時は某宗教団体による事件が大きな社会問題となっていましたから、「宗教に関心がある」や「宗教団体に対しての期待度」はかなり低く、日本人の宗教離れの著しさを如実に表していました。
ところが意外な一面もうかがえました。
「占いや迷信を気にする」が極めて高かったのです。
そこで私も自分なりにこの問題を考えてみようと、それ以来、大学の授業で宗教意識アンケートを行ってきました。
科学非科学が混在する
学生はごく一般的な学生ばかりです。
結果はいつも、先の新聞と大差ないものでした。
「宗教の必要性を感じている」は少なく、宗教に関連する言葉もなかなか思いつきません。
ところが「占い・迷信」になると一変します。
用紙いっぱいに語句を書いてきます。
私は「科学的な根拠がないと信用できない」と「科学では説明しきれないものがある」が一人の中に混在している不可解な現象を、身近なところで痛感させられました。
しかし、私には不可解に思えたこの現象が、一般の人々には安堵感を抱かせていることを知りました。
占いに興味を持つ理由を学生たちに尋ねてみると「落ち着ける材料が欲しい」「占いを見ると安心する」と言うのです。
そこであらためて「占い」を見直してみました。
すると実に見事に、「占い」は安らぎ(気休め)を提供していました。
どれも「おさめ所」が必ずあるのです。
不運な人にはラッキーカラーやアイテムを示し、災難を避ける道を教えています。
私はある意味感心すると同時に、中世の頃の「方違(かたがた)え」「物忌(ものい)み」「卜(ぼく)」などを想起しました。
方角が悪いからとわざわざ前日に別の場所に移動したり、日が悪いからと籠(こ)もったり、吉凶を占ったりしていた、約千年前と同じことが現代でも変わらず行われているのです。
むしろ平安・鎌倉期よりも、広く一般の人々に蔓延(まんえん)しているように思われます。
これほどまでに偽の安らぎが蔓延(はびこ)る原因はどこにあるのでしょうか。
このことを思う度(たび)に親鸞聖人の「かなしきかなや道俗(どうぞく)の 良時(りょうじ)・吉日(きちにち)えらばしめ、天神(てんじん)・地祀(じぎ)をあがめつつ 卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす」(註釈版聖典618ページ)のお言葉が浮かんできます。
心から喜ぶ真の安らぎ
いつの時代も、本当に依りどころとすべきものを見失ってしまった者は、見せかけの安らぎに救いを求めてしまいます。
それが間違いであったと気付けばよいのですが、何年もこだわり続けてきたものを捨て去るのは容易なことではありません。
ですから、迷いの中をひたすら歩み続けることになります。
そんな私たちに対し、聖人のお言葉は、時を超えて真の安らぎとは何かを教示してくださっていると思います。
私たちには安らぎの家があります。
家族と暮らす家、友達や多くの人と一緒に暮らす社会(いえ)、動物や植物とともに暮らす自然(いえ)、そしてすべてのものを摂(すく)い取ってくださる阿弥陀如来の大きなお慈悲の浄土(いえ)。
この家の中で私たちは生かされています。
そのことに気づかされたとき、人は真の安らぎにすでに抱かれていた私であったと心から喜べるのではないでしょうか。
私は「占い」(偽)を縁として、「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」(同834ページ)とお説きくださった聖人のお言葉(真)を、あらためていただくことができました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |