「仏さま、見てはるよ」 みんなの法話
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「仏さま、見てはるよ」
本願寺新報2000(平成12)年12月1日号掲載
貴島 信行(きしま しんぎょう)(大阪・真行寺住職)
外に向く人間の眼
え.秋元 裕美子
「仏さま、ちゃんと見てはるで。
自分一人とちがうよ。
よう聞いときや」
家族そろっての夕食の時、私の母は自分の孫の顔をまっすぐに見ながら、そう話しかけています。
「わかってる」と、一言返事をしている大学一年生の長男は、親の監視からようやく解放されて(?)今秋から待望の一人暮らしをはじめることになっていて、その出発にあたっての、それは祖母としての忠言のように私には聞こえました。
マンションの自室には必ず阿弥陀さまをご安置する場を設けること、引っ越しする際は「ご本尊」は他の荷物と決して一緒にしないことなど、いきおい私も親として諭してはみたものの、何だか母のようには自然に言えず、自分のふがいなさを思い知らされることとなりました。
思えば、私自身も幼い頃より「まんまんちゃん、見てはるよ」と教えられ、育てられてきた一人でした。
かつては朝夕の勤行をも欠かさぬという日々のたしなみや、仏前にぬかずいては人生のよろこびも悲しみも「み仏とともに」生きてきた真宗門徒の生活が当たり前のようにあったはずでした。
しかしながら、そうした生活は現在では次第に遠ざかりつつあるように思われます。
もともと人間の眼はつねに外側に向いていますので、自分の内面に向けることは容易ではありません。
まして親は子どもに対して「親の都合」がどうしても先行してしまいます。
それが結局子どもにすれば、しばしば何とわがままで自分勝手な親だと感じてしまうことになるのでしょう。
要はお互いがみ仏と真向かいになり、自分自身を深く省みる場が持てるかどうかにかかっているようです。
ご本尊中心の生活
<pclass="cap2">おつきさまは
あんなにちいさいのに
せかいじゅうにみえる
(『一年一組せんせいあのね』より)
これは小学一年生の「おつきさま」という詩です。
この幼い子どもの小さな瞳は、世界中の人びとを照らしている光がある、わたしという人間もいつもその光の中につつまれている、と確かに感じとっているにちがいありません。
さらにはまた、一人ひとりはかけがえのないものと教えてくださっている光があると感じているのかもしれません。
「家庭とは、いのちに対する畏敬を育む場であり、感謝の心を育む場であり、自分をコントロールする場である」と以前聞いたことがあります。
であるとするならば、私たちはいよいよご本尊を中心として聞法し、こうした具体的な生活を開いてゆかねばなりません。
最近、大阪の地下鉄やJRの車内ポスターで、若い男女が列車内の座席通路の床にじかに座って向かい合って楽しく会話をしている光景のまん中あたりに、「そこ、『自分優先座席』ですか?」と大書された標語をよく見かけることがあります。
そういえば集団で床に座り込んだり、車内でしきりに化粧をしたり、周囲の迷惑もかえりみず対面の座席シートで大声で話をする学生もいたりして、何だかまるで周囲の人間をテレビ画面の登場人物のように考えているのか、他人の視線や存在がまったく無視されているとしか思えない出来事が増えています。
そうした現状もまた、宗教的なものの見方や受けとめ方ができなくなってきたあらわれであるといえなくはありません。
お念仏申す仕合わせ
中国の善導大師は、『観無量寿経』のお言葉を註釈されて、阿弥陀さまがお念仏の人を摂(おさ)め取って捨てないという理由に三つの縁があることを示され、とくに私たちが「礼拝するすがたを仏は見ておられ、お念仏申す声を聞いておられ、仏をおもう心を知っておられる」という、み仏と私が親しき関係(親縁(しんえん))にあることを明らかにされました。
その教示によって、「阿弥陀さまは見ておられる」という言葉が、「聞いておられ、知っておられる」という言葉とともに、仏法を領解(りょうげ)し味わう生活のなかで自然と口にあらわされ、家庭教育の指針の言葉ともなって伝えられてきたのではなかったかと思われます。
小さい頃、時代劇を見ていると、よく「おてんとうさまはお見通しだ」というセリフがあったのを思い出します。
けれども今ではスペースシャトルが大宇宙で活躍する場面がリアルタイムでわかる時代になって、そんなセリフもすっかり実感が伴わなくなりました。
科学的思考は強まる一方で、自己中心的な視界は広がるばかりです。
子どもの詩にうながされて、過日私は夜半に外に出て月を見ました。
中秋の空にくっきりと浮かぶ美しい月をゆっくりと眺めるのは随分と久しぶりのように思えました。
ウサギが餅つきをしているという昔の話が妙に懐かしくよみがえりました。
阿弥陀さまは、もっとも親しく、そして決して離れることなく、私に寄り添ってくださっています。
光に安らぎ、お念仏申す見の仕合わせが感ぜられてまいります。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |