「一味(いちみ)」の世 みんなの法話
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「一味(いちみ)」の世
本願寺新報2004(平成16)年5月20日号掲載
福岡・浄運寺衆徒 白山 義章(しらやま ぎしょう)
勝手に人を判断する
先日、ベルギー人の友人である、フォンス・マルテンスさんが来日し、三年振りに再会することができました。
折しも、私のお寺では花まつり準備の真っ最中。
ちょうど良い機会だと手伝ってもらうことにしました。
しかし、言葉が通じないと、手伝う方も手伝ってもらう方も大変で不便だろうという私の勝手な判断で、言葉の要らないテント張りや、机や椅子の運搬といった作業をお願いしていました。
途中から自分の方が忙しくなり、彼のことはほったらかし。
後から聞けば、壮年会や婦人会の人の輪に入り、いろいろなところで手伝いをしてくれていたとのこと。
皆、思いもかけない異国の助っ人の存在を喜んでくれていました。
言葉は通じなくても、同じ人間同士。
こころは通じ合えるものだと、あらためて実感しました。
私はあやうく、彼にとって貴重な交流の機会をなくしてしまうところでした。
自分の目は正しくものごとを見ていると思っていましたら、意外と曇った眼鏡をかけて見ていたようです。
人を判断するのに、その人の外見やしぐさ、はたまた出身地や学歴、勤めている会社、そういった情報が知らず知らずのうちに相手を計るものさしになってはいないでしょうか?
他でもないこの私自身
英語に「ステレオタイプ」という言葉があります。
「固定観念」や「先入観」と訳せます。
ヨーロッパのように多民族、国家が密集した地域においては、各国ごとのステレオタイプを並べて冗談を言ったりすることもあります。
例えば「英国人は晴れているのにカサを持ち歩く」とか、「ドイツ人は水がわりにビールを飲んでいる」等です。
このステレオタイプは、その内容が誇張であると思っているうちは冗談で笑っていられますが、その内容がすべてであると思ってしまうと偏見となります。
以前、アイルランドでホームステイをしたときのことです。
隣家にどこかいつもよそよそしいおばあさんが住んでいました。
嫌われているのかなと思っていましたが、そんなある日、日本で大変な事件が起こりました。
オウム真理教の地下鉄サリン事件です。
その報道を知り、おばあさんは私に、日本では仏教徒が恐ろしいことをしているじゃないかと言いました。
そして、あなたもそんな日本人の一人だと言いたげに見つめられました。
おばあさんとじっくり語り合う語学力のなかった私は、誤解を解くことができなかったのが残念です。
今思えば、仏教徒の私はキリスト教の国アイルランドでは異教徒であり、おばあさんにしてみれば異国の仏教徒を前にどう接したらよいのかわからなかったのかも知れません。
彼女の目には事件を起こしているのも、隣に住んでいるのも同じ日本人としか映らなかったのでしょう。
彼女の常識では理解できないことをしている人たちと見えたのでしょう。
しかし、このことは私にも言えることでした。
アイルランドへ渡る前は、紛争を起こす物騒な人たちのいるところと思っていたのは他でもないこの私だったのです。
少ない情報で相手を判断し、分別してしまう、私の目はそんな不確かな働きをしているのです。
海に入ればみな塩味に
凡聖逆謗斉回入(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう)
如衆水入海一味(にょしゅしいにゅうかいいちみ)
(正信偈)
「凡夫(ぼんぶ)も聖者(しょうじゃ)も、五逆(ごぎゃく)のものも謗法(ほうぼう)のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」(現代語版『教行信証』145頁)
地球上にはさまざまな国があり、人が住んでいます。
目や肌の色が違ったり、言葉や考え方が違ったり、同じ国の人同士でも生き方や価値観が違います。
生まれ育った環境や社会が違うので考え方や行動が違ってくるのは当然のことです。
果たして、自分の常識と違うからといって相手が間違っているといえるでしょうか。
どんな川の水でも海へと流れ込めば皆一様に塩味となるように、そんな自分の常識で分別してしまっている相手が、実は共に同じく救われてゆく生命と気付く時、私はこのわけへだてもない「一味」の世界に生かされていることを感謝せずにはいられません。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |