「ひとりのひと」になりたい みんなの法話
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「ひとりのひと」になりたい
本願寺新報2007(平成19)年2月1日号掲載
北海道・大乗寺住職 打本 顕真(うちもと けんしん)
成長する芽踏みつけて
「先生、ぼくたちにいくら教えても無駄だよ。
ぼくたちはバカなんだから」
お寺に集まってきた中学生に、数学を教えているときのことでした。
一番前に座っていた少年がつぶやくように言いました。
連立方程式の解き方を幾度も繰り返して教えているとき、少年たちのうつろな目が気になっていました。
はなからわかろうとしていないことを、その目は伝えてきていたのでした。
「何を言っているんだ。
バカなんてことはないぞ。
みんながわかるまで前に進まないんだから、挑戦してみよう!」
「無理だよ先生。
ぼくたちはバカなんだから。
みんなに言われているんだから」
「誰がそんなこと言った?」
「学校の先生にもさ、お前たちはバカだって言われてきたもん」
「君たち、そんなこと言われて悔しくないのか!」
「先生、ぼくたちは本当にバカなんだから仕方ないんです」
あきらめきった表情でつぶやく少年の顔を見ていると、私は胸の痛みをどうすることもできませんでした。
ようやく芽を出し成長しようとする若芽が、たたかれ踏みつけられ、いまにも押しつぶされそうになっている、そんな風景が心に浮かびました。
うばわれた誇りと尊厳
私は授業をやめて、少年たちがどんな思いで学校に行き授業を受け、家庭生活を営んでいるのか、そのことを聞くことから始め直しました。
驚いたのは、これまでの成長過程で、少年たちは幾人もの教師・同級生、なかには親からさえ「バカ」の烙(らく)印を押されてきたということでした。
本来はすくすくと育っていかなければならない時期に、自信と誇りを失い、人間としての尊厳さえも奪われている事実を目の前にして、暗たんとした思いの中で私は自身の少年時代を思い起こしていました。
「お前たちは、開校以来最低のできの悪いクラスだ。
誰も担任になりたがらなかったから、仕方なく私が担任になった。
だから、ちゃんと言うことを聞くように」
そう言われてうれしくなる子どもなどいません。
今に至るまで残っているのは、その時の屈辱感でしかありません。
私自身も子どもの頃に、「開校以来最低」と幾人もの教師から言われ続けて成長してきたのでした。
いまでもクラス会の席で、「最低」と言われたことが同級生から必ず想い出話として出されます。
子どものときにはその思いを語り合うことはありませんでしたが、それぞれが傷つきながら胸に深く刻んできたことを私はかみしめています。
奪われた誇りと人間としての尊厳を回復させることは至難のことであると、身をもって味わってきました。
苦悩の有情すてずして
近年、いじめや自殺が社会問題として大きく取り上げられています。
けれども、いじめは昔からありました。
深刻なのは、いじめられる子どもたちの逃げ場が急速に狭(せば)められていることです。
そして、いじめられる側に立って寄り添おうとする子どもたちが逆に疎外されていくという問題があります。
追いつめられたときに、人びとは何を支えに生きることができるのでしょうか。
それは、どんなことが起きようとも、いつでも、どこでも私を見捨てることなく私と共に在るいのちの存在を実感するより他はありません。
その存在こそ、阿弥陀如来のご本願です。
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就せり
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
(註釈版聖典606ページ)
「百人のわれにそしりの火はふるも ひとりのひとの涙にぞたる」(九條武子夫人)
私たちはこの歌に示された「ひとりのひと」になることができるでしょうか。
ご本願に出遇(あ)い、「ひとりのひと」となるべく一歩踏み出そうとしたとき、初めて「ともにいのちかがやく世界へ」御同朋(おんどうほう)の歩みを始めたといえるのではないでしょうか。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |