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"聞く"ということ みんなの法話

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"聞く"ということ
本願寺新報2000(平成12)年8月20日号掲載
都路 照信(とろ しょうしん)(愛知・本宗寺住職)
木の葉のささやき

え.秋元 裕美子
数年前、オーストラリアに一週間ほど旅行に行ったことがあります。
シドニーを中心に過ごしました。
そのうちの一日、ある島へ舟で行きそこで過ごしたのですが、その折のことです。

たくさんの木々の中で静かに腰をおろして座っておりました時に気づいたことがあります。
それは風が吹いているのでもないのに木の葉が動いているのです。
それはゆれているともいえるのですが、決して風が吹いているからゆれているのではありません。
私の目の前にある小枝が、小枝の葉が、いわば私に向かってゆれ動いているのです。

その時、私はその木の葉に語りかけたい気持ちになり、語りかけました。
私とその葉との間に会話があったと思います。
木の葉が私を歓迎してくれているようで、その葉に対してやさしく語りかけている自分がありました。
普通ならば何も気づくことなしにやり過ごしてしまうであろう風景ですが、その折の私と木の葉との間には、何かしら交流がありました。

「聞く」ということは、こういうことかと思います。
木のささやき、葉のささやきに耳をすまします。
私をやさしく迎えてくれているささやきです。
私はそれに対して応答します。
そうした体験はその時だけで、それ以後にそんな感じをもったことがありませんが、しかしあの折の自分と葉との関係には、確かな交流を感じました。

20世紀は戦争の世紀
聞くということは、単に耳で音を聞くことではありません。
いわば受け身的な行為、向こうからこちらへ来るものを受け入れる、相手のこころを受け入れる行為といえます。
そしてそれは、単に聞き流すということではなく、自分のほうがそれに対して何らかの応答をするということがあってはじめて、聞くということになるのだと思います。

先の例ですと、葉の語りかけを感じて、それに応答しているということがありました。
あるいは私の葉への語りかけに対して、木の葉の方が応答してくれていたともいえます。
このように相互に行き交うものがあるということが大切なことのようです。

ところが私たち人間は聞くことが下手ではないでしょうか。
聞くということはとても素晴らしいのに、それが苦手のようです。

その原因は何でしょうか。
やはり私の我執の強さ、自分が自分がという自分を善(よ)しとしてやまない執着心が、聞くことを妨げているように思います。

二十世紀は戦争の世紀といわれるほど人間同士の争い、国家間の争いに終始したともいえます。
これは何も二十世紀だけのことではありません。
来るべき二十一世紀は「聞く」ことを、もっともっと重視し、聞くという立場に立って生きていくという生き方を広げていきたいと思います。

聞くということは、私のほうが従になり、主は相手側です。
それは木の葉であり、相手の人間であり、その他いろいろです。
いずれの場合でも、自分は従の立場に立ち、相手が主の立場にあるということです。

自分が主の立場に立ち、相手を無視する、押さえつける、ということになると、「聞く」という至福の時はやってきません。

私たちには、聞くということが、人間にとって実に素晴らしいことなのだという経験が大切なのではないかと思います。
これがまた大変難しくて困るのですが...。
聞くということは、とにかく相手が主なのです。
自分はどこまでも従です。
その意味では極めて受動的、受け身的です。
でも、これが本当にできると楽しいです、うれしいです。

親鸞聖人の「聞く」
「聞くところを慶び、獲(う)るところを嘆ずるなり」(132頁)-これが親鸞聖人の一生涯を貫く生き方であったと思います。
聖人の生き方はまさにここにあったと思います。
聖人の主著である『教行信証』は、そのお言葉通り、まさに「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」以外にはなかったと思います。

聞くということは実に素晴らしいのです。
相手を全面的に受け入れている姿です。
それに応答している姿でもあります。

浄土真宗において根幹をなす名号・南無阿弥陀仏は、仏のよびかけであり、そしてまた私の応答でもあります。
よびかけと応答とが一つに仕上がっているのです。

南無阿弥陀仏は、私を必ず救うとの仏のよびかけであり、それに感謝を伴って応答している私の姿でもあります。
一つの南無阿弥陀仏に、よびかけと応答が成立していて、その名号をただ受け入れることを、聖人は「聞く」といわれるのです。

私たちは聞くことが下手で、苦手で、争いを続け不和をまき散らしています。
それは私が聞いていないからです。
聞く姿勢に立つこと、これが人間にとって一番美しい姿のように思います。
聞く人は美しい、私たちは美しい人になりたいですね。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/