"他人(ひと)事"と思わずに みんなの法話
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"他人(ひと)事"と思わずに
本願寺新報2006(平成18)年3月10日号掲載
三重大学副学長 渡辺 悌爾(わたなべ ていじ)
先輩たちの尊さを想う
「この頃、暗いニュースばかりで嫌になるね」
「まったく!人の上に立つような偉い人が悪いことするんやからね」
「ごえんさん、どう思うてんのやな?」
「そうねえ、大学や学校の問題もあるけど、こんな人間を育てた家庭の問題が大きいのと違いますか?子は親の言うことは聞かんけど、親の背中を見て育つと言いますからね」
「そう言われりゃそうやけど、わしら年寄りの言うことは子どもや孫に通じませんわ。
時代が変わったのやさかい・・・」
ある法座での雑談です。
残念ながら「評論家」ですね。
仏教徒ならば、「他人(ひと)事」と思わず、わが身に引き受けていこうという姿勢が望ましいと思うのですが、なかなかそうはいきません。
わが身の至らなさを感じます。
「日本人は貧しい。
しかし、高貴だ。
世界で唯一どうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」(藤原正彦著『国家の品格』新潮新書)
大正末期からの昭和の初めにかけて駐日フランス大使を務めたポール・クローデルという人の言葉です。
しかも、それが第二次世界大戦のさなかにパリで語られた言葉というのですから驚きです。
フランスは当時連合国の一員で、散々ナチス・ドイツに苦しめられていた時代。
イタリア、ドイツと三国同盟を結んでいた日本はフランス人にとって「敵国」です。
それにもかかわらず、フランスの外交官をしてこのように言わしめた我々の先輩たちの貧しくとも尊い生きざまをいささか誇りに思わずにおれません。
人と人の絆(きずな)が分断され
しかし他方で、現代の日本人をなんと表現すればよいのでしょうか?「日本人は豊かだ。
しかし、○○だ」。
○○の部分にどんな言葉をあてたらよいのか?皆さんそれぞれ考えてみてください。
豊かといっても、それは表面だけのことです。
勝ち組、負け組という嫌な言葉が流行し、人と人の絆が分断されています。
お葬式の後のお食事に「飲めや、歌えや(?)」と大盤振る舞いをしておきながら、一向に支払いに来ないので不審に思った葬儀屋さんが請求書を持参して訪ねて行ったところ、何のかんのと屁理屈をつけて葬儀代金を踏み倒す者もあるとか、某所で聞きました。
一方では、会葬者がたった一人、老女だけという葬儀もあったとか。
何ともやりきれない思いに駆られます。
敬い、敬い合う人間関係を身近なところから取り戻さねばなりません。
人の世にある限り誰しも不完全ではあっても、「他人事ではない。
私の問題」と引き受けていく姿勢を養うのが仏法であり、お寺をはじめ私たち一人一人の大切な務めではないでしょうか。
暗闇の世に輝きを知る
『男たちの大和』という映画を見ました。
映画で中村獅童演じる主人公が私たちと同じ四日市の人で、レイテ沖海戦で右眼を失い、重傷の身で百回も手術を受け、平成十四年まで戦後苦難の人生を生きられたことを同じタイトルの本で知りました。
実子は一人も恵まれなかった代わりに、戦争で身寄りを失った孤児を十一人も育てたのだそうです。
不沈艦といわれた戦艦・大和と共に東シナ海に沈んだ三千人以上のいのちを想えば、孤児たちの姿を見過ごすことができなかったのでしょう。
法座の際、この話をしたところ、「柔道を教えてもらった」「親切にしてもらった」「会ったことがある」という話が続出し、一同「亡き人の輝き」をあらためてかみしめたことです。
「人間にいのちの輝きあれ」と願えども、私たちは暗闇の住人です。
輝く菩薩に出会っていても煩悩の目では菩薩と思えません。
輝かせる光が届いて初めて輝きを知らされるのです。
「人の世にいのちの温もりあれ」と温かい大慈悲に育てられて初めて、敬い、敬い合う人間関係を回復することができるのです。
仏法に遇(あ)えば、暗闇の世に輝きを知る眼が開かれ、「他人事」と思えず、できることを精いっぱいせずにおれぬ私に転じられていくのはないでしょうか。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |