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法を見るものはわれを見る

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 『如是語経』の第九二経、『和合衣』と題せられるものは、ほんの短文にすぎぬが、これもわたしにとっては、もっとも感銘ふかい経の一つである。それは、何処で、何人に対して説かれたものであるかも知られないが、その全文は、つぎのごとくである。

「比丘たちよ、たとい比丘が、わたしの和合衣の裳(もすそ)を執り、後より随行して、わたしの足跡を踏もうとも、もし彼が、はげしい欲望をいだき、欲望のために、激情を抱き、瞋恚をいだき、邪(よこし)まの思惟にかられ、放逸にして知解なく、いつまでも惑うてあるならば、彼はわたしから遠く離れてあり、またわたしは彼から遠く離れてあるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである

 それは、静かな、おだやかな調子で語られている。だが、そのおだやかなことばの内容は、じっと味わってみると、妥協いやしくもせざる厳しさにあふれている。「法を見ざる者は、われを見ざるなり」釈尊の道にしたがうものにとって、これほど厳しいことばはない。わたしどもは、時に寺に詣ずることをもって、仏教者であると称することを得るであろうか。このことばのまえに立つものは、断じて「否」と答えなければならぬ。またわたしどもは、時に看経(かんきん)するのゆえをもって、仏の道をゆくものと称することを得るであろうか。このことばの厳しさにふれることを得たものは、即座に「然らず」と答うるの外はない。さらにまたわたしどもは、しばしば仏前に合掌するのゆえをもって、われは仏弟子なりと称することもできぬであろう。なんとなれば、たとい釈尊その人の和合衣のもすそを執って随行しようとも、よく法を見ることなきものはわれを見ざる者であると誡(いまし)めているからである。

 ではわたしどもは、いかにすることによって、よく真の仏弟子となり、よくまことの仏教者たりうるのであろうか。そのことにつき、この経における釈尊のことばは、つぎのように語りつがれている。

「また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである

 これはまた、わたしどもにとっては、まことに心の暖まる師のことばであると申すことができよう。わたしどもは、時も処も、師の釈尊を去ることはなはだ遠い。時はすでに、釈尊とわたしどもの間には二千幾百年をへだて、処としては、わたしどもは縁うすくして、仏跡の一つをもいまだに拝したことはない。だが、この経においては、師は「たとい互いに隔たること遠くとも、よく法を見るものは、わたしのすぐ傍にいるのである」と説いている。それはわたしどもにとって、まことに嬉しいことばである。わたしどもは、たとい時処において隔たること幾千年、幾千里であろうとも、よく師の教法を解し、よく師の教法に随順することによって、師はわたしどものすぐ傍にいるのである。「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」そこにわたしどもは、心あたたまる仏教的情緒の存することを、ふかく味わってみるべきである。

増谷文雄著『仏陀』角川選書二七五頁