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教行証文類のこころ/第三日目-2

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教行証文類のこころ

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教行証文類のこころ


つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。と。称名・・。(讃題)

それでは、もう少しお話を続けさせて頂きたいと思います。

『大無量寿経』が真実の教であると親鸞聖人は断定されていくわけですが、それが仏の随自意の法門であるということを論証する為に、教文類が書かれております。
その仏の随自意であるということを表わすのに、ここでは出世の本懐、お釈迦さまがこの世に出現された本意を現した経典であるということを『大経』の言葉で以て論証されていくわけでございます。
経典が真実であるということは経典自身が語るしかないわけですね。経典以外のものが経典の真実を証明することは出来ません。経典以外のものによって経典の真実を証明すれば、その証明の元になったものが真実であって、経典はそれにあわせて真実だということになるんですからね。経典の真実性を示すのは経典しかありません。

したがって、この教文類を拝読しますと、ここには「大経」の異訳の経典ですね、そういうものが引用されるだけでございまして、祖師方の論釈は一切引用されておりません。
だだ最後の処に、新羅の憬興師の述文賛の文章が引用されていますが、あれは五徳瑞現の言葉の意味を註釈したものとして、五徳瑞現の言葉の追釈としてのみ引用しているんで、あれは真実教を表わす為の、証明の文として引用しているのではありません。

七高僧、あるいは浄土の祖師方の文章に依って念仏が大行であること、信心が、三信即一の至心信楽欲生という本願の信が三信即一の信であること、それが大菩提心であること、そういうことは、全部祖師方の書物に依ってお聖教によって証明されていくわけですね。
けれども、経典だけは経典の言葉で証明するというかたちで教文類は説かれております。実は、『大経』という経典は、お釈迦さまとはいったい何なんだ、ということを説いているんですよ。お釈迦さまというのは、実は阿弥陀の本願で現わされるような、阿弥陀仏で現わされるような、そういう覚りを本質としている仏陀なんだ、ということを言っているわけなんですね。大経の上巻の一番最後の華光出仏という文章が出ております。親鸞聖人は和讃に、

  一々のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   光明てらしてほがらかに
   いたらぬところはさらになし

  一々のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   仏身もひかりもひとしくて
   相好金山のごとくなり

  相好ごとに百千の
   ひかりを十方にはなちてぞ
   つねに妙法ときひろめ
   衆生を仏道にいらしむる

と、こういう言葉で表わされておられますね。
あれは、大経の上巻の一番最後に出てくる浄土の蓮華の世界ですね。浄土の蓮華の光が、三十六百千億の光が放たれている。その三十六百千億の光が十方の世界に至って、そして無数の仏様となって現われている。お釈迦さまはその一人だ。そして、そのお釈迦さまは百千の光を放って、そして衆生に妙法を説き広めて衆生を仏道に入らしめておられる、とこういうふうな言葉で表わしておられますね。

あの三十六百千億というのは変な言葉でございますね。あれは三十六の百千億なんですね。三十六(6*6)というのは何かというと浄土の蓮華は、「大経」の蓮華は六種類、六色になっているんですね。「阿弥陀経」はいわゆる四顕色、四つの色、青黄赤白で表わします。色の元を四顕色、四つでみていきます。いま虹を分析しますと七色ですね、紫外線と赤外線は見えませんから、その中を分類していきますけど、ああいう色の分析などというものは文化によって全部違うんです。
ですからそれぞれの民族がそれぞれの文化の中で色の素というのを色々定めておりますが、仏教では大体四色ですね。青黄赤白、これが眼識に依って感得される色境というものは、四顕色である、と言われています。それが無数に混ざり合って無数の色を作り出しているわけなんだ、というのが四色原色論です。テレビは三色ですかな。(会場:赤緑青の三色です。)
そういう事ですから、色というものは、どういうふうにみるかというのは様々な文化の枠組みが決めることです。

「大経」は六色になっています。青黄赤(朱)白、それ以外に黒(玄)と紫を加えますね。黒と紫を加えて六色になっています。六色の華の一つの華に、他の一切が収まっている、他の五つが収まっている。他の五つを納めた一つが、他の一つ一つに収まっていきますから、したがって一つひとつに六色が納まるわけですね。
ですから、白は白であるまんま他の一切の色をそこに持っている。他の一切の色を持ちながら自らの個性を決して失わない。個性をちゃんと失わないながら、他の一切と調和をしている。それが一が一切であり、一切が一であるという、こういう世界でして、それは仏陀の覚りの境地である縁起の領域というものをそういうかたちで現わします。一が一切であり、一切が一であるというんですね。だから、私達の一人ひとりが小宇宙なんですね。
阿弥陀経には、青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光と非常に単純に描かれていますけども、大経は六色にして、しかもその六色に一つひとつが納まる、一が一切に収まり、一切が一に納まる、しかも雑乱しない。それぞれの個性を持ちながら他の一切を納めている、一人ひとりが小宇宙なんだという、そういう世界観が述べられている。そういう光、そういう境地、覚りの世界が、釈尊というかたちを以て、私達の煩悩の世界に写って来ているんだ。だから、煩悩の世界へ出現した浄土の光、それが釈尊だ。その釈尊が光の言葉を以て、私達のこころに光あらしめ、私達のこころに新しい秩序を形成していく。それが『大無量寿経』という経典なんだ、というふうに説いているわけなんですね。

あのお経というのはそういう事が説かれているわけですね。阿弥陀仏を中心とした一つの世界観、あるいは宇宙観と言ってもいいですね。一種のコスモロジーというものを「大経」はそういうかたちで展開している。だから『大経』見ますとね、浄土はこれより西方であると言ってますけど、内容をみましたら浄土は宇宙の中心にありますね。
南西北方四維上下、いわゆる十方の世界から無数の菩薩が浄土へ往覲する。そして浄土へ往覲した菩薩達が、さらに浄土から十方の世界に至って、そして十方の世界で、それぞれが仏陀となり人々を救済していくという事が説かれていますね。浄土は法界の中心にあるわけです。いや実は世界観の中心なんですね。阿弥陀仏を中心とした、壮大な一つのコスモロジーというものを展開していくのが、『大無量寿経』という経典なんです。(*)

それによってお釈迦さまというものがどのようなものであるか、ということを『大経』自身はそういうかたちで語っているわけですね。だから大乗経典は、仏が説いたものであると同時に、仏とは何かという事を、仏の言葉でもって説いていくわけなんです。それによって私達は仏陀とは何かということを知らされ、そして仏陀を中心とした宇宙観というものを確立していくわけですね。

そういうものがね、『大経』の世界観、宇宙観といわれる。宇宙観なんて言ったらややこしいですがね。独自のコスモロジーでしょうね。そういうものが展開しているわけです。
その『大経』が我々に、覚りへの道として行信というものを現わしていく。『大経』というのは、「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とする」、と言われております。阿弥陀仏の中核は、本願にある。その本願は、本願を信じ念仏を申さば仏になる、というかたちで本願は展開されている。それが第十八願の法義ですね。

「十方の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんと欲うて、乃ち十念に至るまでせん。もし生まれずは、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗せんとをば除く」、というかたちで第十八願が説かれておりますが、この第十八願の内容を開けば『大無量寿経』となる。それをつづめれば一つの南無阿弥陀仏というみ名につづまっていく。本願を説くもって経の宗致となす、すなはち仏の名号をもつて経の本体とするんだ。『大無量寿経』というのは名号を現わしたものだ、南無阿弥陀仏という名号を現わしたものだ。その名号を、阿弥陀仏の本願をもってその名号のいわれ、阿弥陀仏のいわれを説明したものだ。それが『大無量寿経』だということですね。
その意味で『大無量寿経』というのは、お釈迦さまが本願をもって阿弥陀さまを私達に紹介してくださったということでしょう。いや自らの自内証を開諦したと、こう言っていいでしょうね。それが『大無量寿経』という経典なんでございます。

その『大経』の中核をなしている本願はどういうことが説いてあるかというと、いま言いました、本願を信じ念仏を申さば仏になるという、行・信・証が説かれているんだというわけです。それが、教・行・信・証というかたちで往相の回向というふうに表わされるわけですね。教によって行を信ずる、これが、教・行・信ということですね。

この、行・信・証というのは大経の内容なんですけども、往相の回向を案ずるに、大行あり、大信ありとこういうふうに言われています。
大行・大信という言葉なんですけれども、この大行・大信というかたちで行業体系を現わしたのは、これは実は、「摩訶止観」なんですね、天台の「摩訶止観」。
「摩訶止観」を見ますとですね、たとえば四種三昧が明かしてあるあたりにね、いわゆる円頓止観ですね。天台の行法というものを明かしますが、この摩訶止観、一念三千の行法、これを四種三昧の業法として説いていくわけですが、大行と大信というかたちで説いてあります。いわゆる止観の行ですね、大行というのは止観の行ですね。この止観の行というのは具体的には四種三昧として説かれています。
定座三昧、常行三昧、そして半行半座三昧、非行非座三昧というかたちで四種三昧の法として説かれています。これを大行と呼んでいますね。そして、それを支えていくのが大菩提心。あの四弘誓願で表わされる大菩提心ですね。衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成、度断知証(度断学成)の四弘誓願、これを大信と呼ぶんですね。大信・大行というかたちで天台の「摩訶止観」というものは展開しているんです。

おそらく親鸞聖人が、大行あり、大信あり、と、こういう言葉で行信というものを言った時には、明らかに天台の摩訶止観を意識しておったということが判りますね。
親鸞聖人は天台学の権威者ですからな、二十年間叡山で天台学をみっちりと学んでいられるわけですから、その特色、その尊さというのはよく知っている方なんですね。しかし、その大行、大信というものに対して、浄土の念仏というものが、大行であり大信であるということを表わしていくわけですね。
親鸞聖人が見てらっしゃるのは、そういう広~い仏道体系全体をみて、この仏道体系を建てていらっしゃるんです。そんなちまちまとしたようなね、自分達の内部だけの殻の中に籠もってしまって、自分達の内部だけでちょかちょか言うているような、そんな方と違うんですね。
もっと広~い世界、もっと大きく言えば宗教全体を見通しながら、また、仏教全体を見通しながら、その中で浄土教というものの体系を確立していく。非常にスケールの大きな宗教者、思想家なんですね。あの人は、いわゆる早熟の天才じゃないですよね。そりゃあ凄い才能を持った人だったけれど、どちらかというとスロースターターですわな、ゆっくりしたはります。皆さんもゆっくりしなはれ(笑)。

あのぉ、人にも色々ありましてな、早熟の天才というものがいますわなあ。道元禅師なんかどちらかというたら早熟の天才ですわ。九歳の時にね、「阿毘達磨倶舎論」を、ことごとく諳んじて、そして漢文の詩なんかを書き上げたなんていう恐ろしい才能を持っているんですね。十三歳で比叡山に登って、十五歳の時には俺を導く先生はここにはおらんちゅうて、山、出てまいよったというんですからな。十五歳といったら今でいうたら十三か四ですよ。まだ中学生くらいか、そんなんですよね。何ったって、当時、比叡山というたら超一流の大学なんですからね。延暦寺であるとか興福寺であるとか東大寺というのは超一流の大学なんですよ。天下の秀才が集まって、そこで学問と修業にいそしんでいるんでしょう。それをわずか十五歳、今で言うたら十四歳の少年が、ここには俺を導く先生はおらん、ちゅうて飛び出してきよったちゅうのは恐ろしい人ですね。

それに比べれば親鸞聖人は、実にゆっくりしてなはる。大器晩成型ですな、ああいう晩成型の思想家、きらきらと若い頃からきらめくような才能の持ち主じゃなくて、どちらかというと若い頃にはその才能は普通の人には見えないでしょうね。これが後の親鸞聖人となるというようなことは、誰も見えないでしょうな。あの人が七十までに亡くなっていたら未完成の『教行証文類』だけが残っただけで、あとは阿弥陀経と観経の集注、これは三十代の物でしょうが、これは著作じゃなくて自分の勉強ですからね。ノートですから。
七十三、四で『教行証文類』を一応完成されて、それから七十六歳で『浄土和讃』と『高僧和讃』が書かれ、さらに七十八歳で『唯信鈔文意』が書かれ、それから八十過ぎてから『唯信鈔文意』の添削がなされ、更に『尊号真像銘文』であるとか『一念多念文意』であるとかいうものがどんどん書かれ、『正像末和讃』が八十五歳から八十六歳で『正像末和讃』が完成する。
そして八十五歳で『聖徳太子和讃』百十四首というものを完成していくわけですね。まっ、実にゆっくりしてなる。だからだいぶん長生きせないかん。みなさん頑張りましょうや(笑)。

その御開山ですがね、全仏教を見通しながら体系を建てていく。大行大信というのは、そういう表現なんですね。これは明らかに摩訶止観に対している。だから天台止観に対して、それをはるかに凌駕する、そういう真実の行、真実の信があるんだ。それが阿弥陀仏によって、回向された念仏であり信心であるという事をね、展開してみせるんです。
行信の行なんですけど、これが念仏が行であることを証明しなければならない。ことに第十八願の乃至十念が、念仏であるということを証明しなければならんのです。それ証明するために十七願においてそれを建立していくんですね。念仏が行でないということを言う為に書いたんじゃないんですよ。念仏が行であることを証明する、それが法然聖人に浴びせかけられていた論難に対する応答になるわけなんです。しかもそれは一乗の行法である、ということを展開していくのが行文類といわれるものなんです。

信文類というのは、信心が菩提心であるということを展開していくんです。そして、これが成仏の因である、ということを証明していくわけですね。これが行信というものを表わすときの親鸞聖人に課せられていた課題なんです。こういう書物はね、何でも書いてあります。何でも書いてあると言うたら悪いですけど、一つの世界なんです。『教行証文類』ぐらいになりますと一つの世界です。探し出したら何でも出てきます。占星術でも出てきます。仏教占星術までも出てくる程のスケールを持っているんです。ですから何でも出てくるんです、何でも出てくるんだったら手の付けようがないです。

けどね、一番大事なことは、この人が何を問題として、どういうことを表現しようとしているのか、何を説こうとしているのか、親鸞聖人の問題意識に則して『教行証文類』というのをまず読んでいくということが大事でしょうね。これがまず第一なんです。
親鸞聖人の問題意識に則して『教行証文類』を理解する。これが一番大事なことでしょうね。その上で、今度は私達の課題に応じて、そして、私達はここから何を読みとり、何を聞き取って、どういう世界観を展開するか、というのはこれは私の仕事。だけどその前に、『教行証文類』は、まず親鸞聖人の問題意識に則して読まなけりゃならない。そうでなければそこに説かれているのが何が書いてあるのか解らなくなってしまう。迷路には入ってしまいますよ、この書物は。

『教行証文類』はわかりませんて言いますが、解らんのが当たり前なんでね。そんな簡単に解るようなものじゃないんだということなんです。この人の問題意識に則して、ことに行信などは、あるいは化身土文類なんかを見るときには、問題意識を、ぴしっと捉えながら見ていかないとよく解らないですね。そういう書物なんです。

さて、その大行、大信という言葉ですが、大というのは偉大なる、そして勝れた、万人を包括している、そういう意味を持っているのが大ということです。大には、大と多と勝の三つの意味がある、といわれておりますが、それをここでは「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」、これは論註の言葉を使っている。これは昨日だったか一昨日だったか本堂でお話しさせて頂きましたが、論註の讃歎門の言葉をもって大行の出体をしているわけですね。「大行とは即ち無碍光如来の名を称する」、という言葉で言われる。何故あの言葉を使ったのか。
大行とは南無阿弥陀仏と称するなりと言っていいんです。それをあえて言わずに、大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり、というところに一つ問題がある、大きな問題がある。それは親鸞聖人が行信というものを表わすときに、つまり法然聖人から頂いた、念仏と念仏の信心を展開するときに、一番最初申しました「論」、「論註」ですね。ことに「論註」の讃歎門に明かされた念仏と信心のいわれによって、(法然聖人の)称名正定業説というものをすっぽりと包み込んでいこうとしているわけですね。
そういう意味で書かれているんです。だからこれは善導・法然の教学がきちっと解ってると同時に、天親・曇鸞の教学というものをきちっと知って、そしてこの二つがどのように包摂され、どのように連関していくかというものを見ていく必要があるわけですね。
それが解らなかったら『教行証文類』なんて読めやしない。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称する、こういうんですね。称無碍光如来名。
で、この称無碍光如来名というのは、「論」、「論註」では讃歎門を現わした言葉なんです。五念門の中の讃歎門を表わした言葉なんですね。つまりね、五念門というものを讃歎門に収束しようとしているわけなんです。これは特に曇鸞大師の場合は、止観中心の五念門というものを、讃歎中心の五念門に転換しようとする、そういう意図を持っているんですね。
それを的確に把握して、そしてこの讃歎門釈の中に、行信というものを見ていこうとするわけですね。それが親鸞聖人の特長なんです。

さ、称無碍光如来名とは何かと言うたらこれは讃歎ですね。如実讃歎と書いてある。讃歎ということは誉め称えるということですね。誉めるという事は難しいことなんです、わしはいつも言うんですけども。誉めるのはね、相手の徳に(称)かなって誉めなければ誉めた事にならないんですよ。すかたんな誉め方したらね、誉めすぎたらおべんちゃらだな。誉めたり足りなかったら馬鹿にした事になる。だから誉める時はよっぽど気を付けて誉めないと駄目。それにちゃんとふさわしい誉め方をしないと誉めたことにならない。
仏様を讃歎するということになると、したがって仏様の徳をを知らなければ仏様を誉めることはできません。ところが仏様の徳は私達に知りようのない、解りようのない徳なんですね。

安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし 

と言われた、あの浄土をどないして誉めるの。唯仏与仏の知見というのは、ただ仏と仏が知ろしめす世界です。菩薩といえども知らん。弥勒菩薩といえども窺う事の出来ない境地。それが唯仏与仏の知見なんです。それが、安養浄土の荘厳だと言うんですね。そして、究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし。広大にして辺際なしって言われたらもうわからんわなぁ。辺際というと、たとえばこの机ですとここが辺際ですわな。こっから此処までが机で、この辺際から向こうは机じゃないでしょう。辺際というのは境界でございます。境界がないというんです。ボーダーレスというのがこの頃流行っているそうですが。とにかく、境界が無いということになると、ここまでがお浄土だけど、こっから先はお浄土じゃないという処があったら、浄土じゃないというんです。判りますか。
浄土を、浄土において感得したら一体どうなるのか。天地浄土ならざるなしということになるんでしょうな。そんな事言うたかって浄土と穢土とあるやないかいと、こう言うでしょ、それが凡夫の浅ましさ。

浄土、と言った以上は穢土に対する言葉ですよ。穢土に対する言葉使いながら、辺際なしというんだったら、浄・穢がない事です。浄・穢があったら辺際がある。辺際なしなら浄・穢がない。だったら何故浄土と言うんだ。それ言いながら親鸞聖人、そんなこと解った上でそれ言う。「安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし。」 つまり浄土の領域というのは仏陀の覚りの境地、根元的には無分別智の世界であるということですね。昨日から申しております、あの無分別智の領域が浄土の領域なんです。

こんなことね、浄土とは無分別智の領域であるというようなことね、阿弥陀仏の浄土は本質的には無分別智の領域であるということを、はっきりと言い切るのは御開山だけなんです。本当はね、無分別後得智の領域なんです。無分別後得智の領域ですから浄・穢があるわけです。浄・穢がありますと、救うものと救われるものがある。救うものと救われるものがある限りは、浄・穢があり辺際があるわけですね。
ところが、安養浄土の荘厳は 広大にして辺際なしといったら浄・穢がない。救うものと救われるものがない。だったら救済が成立しないじゃないか。さあ、こうなると、浄土教というのが消滅のところで、浄土教の消滅点において、浄土教の出発点を親鸞聖人はあらわしてらっしゃる。あの御開山の浄土観というのは、とてつもない世界を出しているんですね。これは誰も解らない。誰も解らないというよりも御開山以外に言うた人はいない。それを往生即成仏。あの往生即成仏、などという世界はとんでもない世界でね。あれだけは誰も言えなかった。さすがの法然聖人といえどもあそこまでは言い切れなかった。法然聖人のことですからね、恐ろしい方ですからおそらく感得はしておられたんかも知れないけど、言葉では表現できない。

往生即成仏なんてのはね、とてつもない事ですよ。救うものと救われるものがいないんですからね。その救うものと救われるものがいなくなってしまう、そういう領域が浄土の本質である、とこういう事を言ってのける御開山ていうのは端倪すべからざるものがあってね。この書物の最初の注釈書を書いたのは「六要鈔」、存覚上人ですね。御開山の曾孫にあたりますが、あの存覚上人がこの問題でさすが模着してますね。模着してるってのは悪いですけど、持て余しているとこがありますな。
それはね、仏教の常識を完全に越えている、仏教の常識というのは浄土教の常識を完全に越えている。しかしこれが仏道の本流である。そこまでいかないと浄土教というのは完成しない、というところがあるんですね。
実はね、還相廻向ということなどもそこから考えないと、あの還相廻向ちゃあ何のこっちゃ解りませんよ。ちょっと話が横へ飛びましたけど。

そうしますと私達には仏様の徳は絶対解らない。解らないもの誉めようがないじゃないですか。解らないのに闇雲に誉めたらね、誉めてるのやら貶しているのやら分かりませへんで。
私達のお説教、お説教は昔から讃歎と言った、仏徳讃歎と言った。讃歎してるんかな、凡夫くさい仏様作り上げたりしてね、仏様泣いたり笑うたり、仏様は泣いて喜びなはる、んなあほな。一坐無移亦不動(一たび坐して移ることなくまた不動なり。「法事讃」560)という仏様には泣いたり笑うたりはありません。
泣いたり笑うたりするのは凡夫がする事です。仏様の覚りの境地に泣いたり笑うたりはありません、そんな単純なものじゃない。
けどね、仏様は、まあ、あれで誉めているつもりなんだから、まあ許してやろというわけで黙ってはると思うんだ。そない思わなんだらこれ喋られへんでな、喋ってますねんけど(笑)。

ほんま言うたら仏様のお徳と言うたら全然解りません。わからないことは誉めようがないじゃないか、ということですね。じゃ何故讃歎といえるのか。如実、しかも真実にかなった、真実にかなった讃歎、そんなことは仏様しか出来ないことなんです。
だから、第十七願で阿弥陀さまが、仏徳を讃歎させようとしたのは、菩薩や凡夫じゃないんですよ。十方の諸仏に讃歎させようとされているんです。十方世界の無量の諸仏、我が名を、私の名前、南無阿弥陀仏という名前を、それを咨嗟し称せずば正覚を取らじ、と言われているんですね。
だから名号の徳を讃歎させるのは、仏様に讃歎させるのであってね、凡夫やら菩薩に讃歎させようなどとは考えていらっしゃらない。はなから(凡夫は)規格外なんですね。
それを、(凡夫でも可能な)如実の讃歎というのがあるんだ、と天親菩薩が仰っているんです。それを讃歎門というんですね、仏徳讃歎。
それは、この言葉を言えば、讃歎した事になるんだという言葉を与えて貰っているからです。それが、帰命尽十方無碍光如来という言葉であり、南無阿弥陀仏という言葉なんです。
この南無阿弥陀仏という言葉を口に称えれば、阿弥陀さまのお徳を過不足なしに、誉め過ぎもせず誉め足たりもせず、仏様の徳に称(かな)って仏様を誉めたことになるんだぞと。だから、誉めるんじゃなくて、誉めたことになるんだ、と御開山は仰っています。

これは尊号真像銘文に讃歎ということを、智栄という方が善導大師の徳を讃えるところに、「称仏六字即嘆仏」、仏の六字、南無阿弥陀仏という六字を称えれば即ち仏を嘆ずる、即嘆仏 即懴悔 即発願回向という言葉が出てくるんですが、ここにですね。
「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」(*)と御開山は仰っていますね。ほめたてまつるになるとなり、誉めたんじゃないんだよ、誉めたことになる言葉を頂戴しているんだぞ、という事なんです。
だから、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶつと言っている事が、阿弥陀さまのお徳を、過不足なしに、如実に、真実に称って誉めた事になるんだ。
ということは、どういうことかというと、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来という言葉に如来様のお徳が過不足なしにあらわされている、ということなんですね。
だから、親鸞聖人は帰命尽十方無碍光如来という名を通して、阿弥陀さまの徳を味わっていかれるわけなんですね。その話を昨日、昼からしたんですが、もう一度することになりますから止めますが・・・。

この如実讃歎、これが大行だ。そうするとね、如実讃歎を行なうことが出来るのは仏ですよ、仏だけが出来る。その仏陀だけが出来ることを私達はさせて頂いている、それが念仏だ、ということなんです。
だから念仏というのはね、凡夫の行と違うぞ、凡夫の行と違う。これはただ、仏と仏とのみがなしうる業(わざ:行為)を、私達はなさせて頂いているんだ、そんな行なんだぞと(御開山は)言うんですね。それがお念仏だ、と言われておられるんです。
だから、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり」。(141)
仏陀の覚りの領域の全体が、南無阿弥陀仏というみ名となって私に与えられているから、そのみ名を称えれば仏徳の全てを、真如一実の功徳宝海を誉め称えたような徳を持っているんだ、だから大行と名付けるんだ。
これは摩訶止観の行よりも、もっと勝れているんだ。摩訶止観の行といえどもなお菩薩の行である。これは菩薩の行ではない仏行だ。まさに念仏とは仏行であるといわれる、そういうものを現わそうとして、かるがゆえにに大行と名づく。したがってこの行は凡夫の口から出たものだとは思うなと書いてある。
「しかるにこの行は大悲の願より出でたり」(141)。 出どころが違うぞと言われているんです。念仏は私の口から出ているけれども、私の口から出たんじゃない。
蛇口捻ったら水が出てくるから蛇口だけあったら・・。あのねぇ、蛇口捻ったら水が出てくるというけどね。
あれ水道管を通して水源地につながってなけりゃ水は出やしないだろう、蛇口だけあってあれだけで水が出るんならあれだけ持って砂漠行けばいいんだからな、砂漠行ったかって水には不自由せんわ、ほんなあほな(笑)。
だからね、出どころがあるんだ、それは「大悲の願より出でたり。」 この大悲の願より出でたりという言葉の中にねぇ、お念仏の出どころは凡夫の心から出たもんじゃないんだ。凡夫の口に現われているけれども、それは如来の大悲の願から流れ出て来た、如来の大願海から流れ出て来たお念仏であって、その本質はまさに仏行、仏陀の行いといわれるようなものだ。行というのは行いですからね、仏陀の行いといわれるようなものだ。

ですからね、親鸞聖人が、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄853)。何故、念仏だけがまことなんだ、人間の行いならば、全てそらごとたわごとじゃないか。
その人間の行いであるように見えていながら、実は如来の行いであるようなのが念仏だから、ただ念仏のみぞまことにておはします。質がちがうんだぞ、人間の行いと行いの質が違うんだということで、ただ念仏のみぞまことにておはしますと言われたんです。

この念仏を真実と受け容れる、この本願のお念仏を真実と受け容れるすがたを信心という。信心というのは無疑、疑いなき心と言われています。今日は信心ということを詳しく言っている時間がありませんが・・。

信心ということをいわれたときには、親鸞聖人は基本的には無疑、疑いなき心。これね、「一念多念文意」にはですね。「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」と言われております。信心というのは、如来の御ちかひをききて疑う心がないことだと言われる。そうするとね、信心というのは「ない」状態ですよ。「ない」状態を言っているんです、捕まえようがないわなぁこれは。
あるいは「唯信鈔文意」には、「疑ふこころなき」とこう言われております。端的に言うと、疑う心が「ない」状態です。

(板書?)
疑蓋無有間雑 故名信楽  (法義釈234)
疑蓋無間雑 (字訓釈230)

教行証文類では、「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」。疑いという蓋(ふた)が間(あいだ)に雑(まじ)わっていない。疑蓋間雑なし、あるいは疑蓋間雑あることなし。疑蓋間雑なし、というのは字訓釈の最後ですね。それから法義釈の中の信楽釈には、疑蓋間雑あることなし、と書いてあります、ゆゑに信楽と名づくと言ってありますから信楽の名義ですね。
信心とはどういう事かと言いますと、疑いというふた(蓋)を、あいだに(間)、まじえない事(雑)、だという、これは実によく解る言葉です。元々、蓋(がい)というのは真理を覆い隠すという事でね、煩悩の異名なんです。ですけどここではね、真実を覆い隠す最たるものは「疑い」であるということでね。

例えば、ここにフラスコがあって水を入れるとする。これ蓋がなかったら水はなんぼでも入りますけど、ここへ蓋をしますともう水は入らない。なんぼ水を入れたかって入らない。
この蓋を取りなさいということです、疑いという蓋を取りなさい。この蓋をちょっと横へおく、そうすると水はなんぼでも入ってくる。信心といったら何かと言ったら、器に水があるすがたですね、器の中にあるすがた。
信心というのは「疑いがない状態」なんです。疑いがない状態と何かと言ったら、「法」が「機」にある状態なんです。助けるという法が、計らいをまじえなかったら、疑いをまじえなかったら、助けるという法が、法の通りに私に届く。法の通りに私に届けば、助けるという法が私に届けば、助かるという信になる。しかし助かるという信は、助けるという法の他にはないんですね。実は親鸞聖人は『教行証文類』を書かれるときに不思議な著し方がある。

一つは、教と、行と、証とは、全部ものがらが出してある。真実というのはなにものであるかと体を出されています。教とは先ほど言いました、『大無量寿経』なんだ。行とは称名のことなんだ、無碍光如来のみ名を称えることだ。証とは、利他円満の妙位、無上涅槃の極果だ、仏陀としての覚り、完全な覚りの事を証というんだ、というふうにものがらを出してあります。物柄という言葉は解りにくいんだけど、その言葉が現わす実体とみてもらったらいいと思います。「中論」が言うような意味の実体じゃないんですよ、言葉が現わす内容ですね。
「教」という、真実教という言葉が現わしている内容は何かと言ったら、『大無量寿経』なんです。真実の「行」、大行というものを現わしているといったら称名なんです。
「証」という言葉が現わしている内容は、何かといったら仏陀の覚りなんです、仏陀の覚りの境地なんです。
「信」の内容は何かといったら、何も書いてない。つまり信文類には、教・行・証には出体釈があるんですが、信文類だけには出体釈がないんです。

『教行証文類』の信文類を見てもらったら判りますが、行文類では、「往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」、と出ましたから、今度は(信文類では)、「往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は」、と言って、大信というものの物柄を出さんならんところなんですが、ここには何も書いてない。
いきなり讃歎になる、いきなり信心の徳を讃歎する。信心とは何かということは一つも言うてない。信文類の中には「信」の出体釈はないんです。つまり信には「体」がないんです。体はないけど徳がある、その体なくして徳があるというのは一体どういうことか。
「大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽」(211)というふうに十二の嘆釈がなされておるわけですね。そしてこの信心は、念仏往生の願より出でたりというふうに言われているんです。その信心の物柄は何ですかという事はなにも書いてない。出体釈がない、出体釈がないということは信心には「体」がないということです。信心に体がないということは、疑いがないことだから体がないのは当たり前だ。じゃ信心の体をあえて押さえれば何ですかといったら法なんです。法が信の物柄になるんですね。法ということになると行(なんまんだぶ)です。大行が信の物柄になるわけです。

つまり念仏往生の本願を信じた、信じたということは、念仏往生の本願を受け容れた事です。念仏往生の本願を受け容れたんだから、あるのは念仏往生の本願が私に届いて、そして、お念仏をまことと受け容れている状態を信というんですから、あるのはお念仏しかないんです。
そのお念仏申している事が、計らいなく、疑いなく、お念仏申しているその状態が、その受け容れている状態を信とよぶわけです。だから行のない信、信のない行、というのは存在しない、というのはそれなんですね。親鸞聖人においては「行信」というのは一具の法門です。
だから、真実信心には必ず名号を具す。名号にはかならずしも願力の信心を具せない(245)というのはね。あの名号は念仏のことです。覚如上人も存覚上人もあの名号というのは念仏の事だ〔なんまんだぶ〕と言われていますね。
そうしますと、真実信心には名号を具すというのは、念仏往生と受け容れたんだから、念仏往生と受け容れたその信は、当然お念仏となって相続していく。お念仏となって顕現するのが当然なんです。だから信心には「称名を具す」、具(そなえ)えているというんですね。
しかし、称名には必ずしも願力の信心は具せない。ということは何でかというと、称名しているけど信心のない称名がある。疑いを雑じえて称名をしているのは、受け容れているんじゃない、拒絶しているんです。如来から賜ったお念仏を拒絶して、自分の行として念仏をしている。これは願力の信心を具せず、だから称名にはかならずしも願力の信心を具せず。もちろん願力の信心を具している称名、これは如実の称名ですね。

信のない称名というのはね。お念仏を自らの行として、私の行として念仏を称えていく者。如来から賜ったものであるということを気づかずに、私の行として称えていくから、お念仏してるけれども仏様に助けてもらえるかどうか判らんと、そういうことが出てくるんですね。如来から賜った念仏なら助けて下さるか下さらんか判らんというような事は絶対にあり得ない。そんな事はあり得ないわけなんですね。
それが念仏しているけど、お浄土へ往けるやどうか判らんと言うのは、あれは如実に受け容れていない、他力の念仏を受け容れていない証拠ですね。それで願力の信心を具せず。

至心信楽欲生という三信釈をおこなったときに、三信の三重出体というのを行ないまして、至心は至徳の尊号をもってその体となす。至徳の尊号つまり名号ですね。法です、法を体とするとこういうんです。
その至心は、名号を体としている。信楽は、至心を体としている。欲生は信楽を体としている。三重出体というのが行なわれておりますが、あえて信心の体を言えば「法」なんです。
法を法の位で語れば行なんですね。行というのは、お念仏というのは、私達が生涯歩むべき道として、私達がそれに則って生きるべき法として与えられているんです。

ですから行には、時はないんです。時処所縁を嫌わず、時と場所とを選ばないと言いますね。ですからね、お念仏を称えた時に往生が定まるとは絶対に言わない。法然聖人といえどもそういう事は仰っていません。
お念仏称えた時に往生するとは言わない。何故かといったらお念仏は時は言わない、時と処を選ばないのがお念仏です。時節の久遠を問わず、というのが念仏なんですね。ですからお念仏は、それに則って生きていく法として与えられているんですね。その法を疑いなく受け容れて、このお念仏の道を受け容れて歩む、そのお念仏を受け容れたことを信という。
受け容れたんだから、それには時がある。いつ受け容れたかという時がある。だから信というときには時が立ちます。信の一念は時剋の極促というかたちで、時を語ります。法を頂いた時に往生は定まるんだ、それが、信の一念に往生が定まるという法相になるんです。
行の一念では時は言いません。親鸞聖人は行の一念というのは、「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(*)、と言われました。そうするとあれは時は語らない。
選択易行の至極、仏様が選び取ってこの道を行けよ、この道を歩めよと如来様が選び取って与えて下さったお念仏は、無上の徳を持ち、無上の功徳を持っておると、その念仏の持っておる無上の功徳を表すのが、行の一念という釈であって、念仏したときに往生するとは絶対に言わない。一言も言われていない。これは法然聖人の上でも親鸞聖人の上でもそういうことはない。
時をいうのは信でい言います。何故なら信は、受け容れる事を表しますから、永遠な法と時間的な私との接点をあらわします。その法が機に届いた、その法が私に届いた「時」、ここで時が立ちます。しかし、その時は普通の時じゃないんですよ。私達が客観的に対照的に見ていく時じゃないんですよ。時剋の極促と言います。
極促というのはつづまりの極まり。極促というのは促まりの極まりという言葉ですから、そこには対照的な時はない。生きるしかない時、主体的な時ですね、これが信の一念。

今日は信の一念を話している時間はありませんが、行の一念、信の一念だけでもこれは大きな問題なんですが、行信というのは、法と機の関係を表わす。行は法、信はそれを疑いなく受け容れる機のありさまを表します。
そして、疑いなく受け容れる時、法が身に付く、その法が私に宿ったとき、自利利他円満の法として大菩提心である、といわれる意味があって、それが仏道の正因であるというところから、信心が正因であるということを言われる。信心正因というのは、称名報恩に対する言葉じゃ本来ないんです。称名報恩に対する言葉として御開山は仰ったんじゃなくて、称名は法として、信はそれを受け容れる機として「機法」の関係で表わされた。そういうものが『教行証文類』の行信の表し方なんですね。

与えられた時間がもう来たようですから、長くなりましたが、これくらいで私の話は終わらせて頂きまして、質疑応答に入らせて頂きたいと思います。

以下、質疑応答は略。