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九十八 今日の生 「九条 武子」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

こし方も 行末も見ず たまゆらの
われと思ふに 生のたふとさ
              (九条 武子)

過去

 あけましてお目出度うございます。去年は過去であるのに、去年の思いでは面白い。何か過去を今も手の中に持っているような感じでおりますので、すかっとしません。写真を出して見、旧友と語り、日記を開き、あれこれ過去を眼前に取り出しては、なで回す感じであります。

 実は過去は刻々と無である。零である、0(ぜろ)である。空しき過去の栄光を誇ること勿れ。もし過去を大切にするなら、記憶以前をも大切にしなくてはならない。前生(ぜんしょう)があったのだ、という仏教を聞き入れねばならぬ。処が前生の記憶はありません。

未来

 これからの行末に希望をもちます。青年には夢があると申します。明日には夢があり未来には希望がある。そんなら、後生(ごしょう)があるという、仏教を聞き入れねばならぬ。処が後生は見たことがない。

現生(げんしょう)

 昨日は空しき過去であり、明日は淡き夢である。今日は私の手中にある。今日の生が大切である。人間は刹那の生き者であり、淡き空しき生き者であるか。

 私は父と母を恋う。記憶以前の私のことを、父にきいて見たい。赤ん坊の私を抱いた母に逢って聞きたい。

(昭和四十四年一月)