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九十一 睡眠章 「蓮如上人」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

いのちの あらんかぎりは
われらは 今の ごとくにて あるべく候
いのちのうちに 不審も とくとく はれられ候はでは
さだめて 後悔のみにて 候わんずるぞ
                  (蓮如上人)

 御文章はすべて八十通、それぞれにのちに呼び名をつけてあります。第一帖第六通は、睡眠章といわれる。今年の夏は殊に眠たいがどうしたことであろう、と始まる。

 われわれは一家を構えているにしろ、いないにしろ、火の用心をする。一生のあいだに、何千扁、火をもとを見直すだろうか。火の用心がうるさいと家族からいやがられる。

過(か)

 なぜ過ぎるという字をあやまちとも読むのであろうか。とが、と読むのであろうか。罪過と熟し、過失と熟し、過去とも使う。過去と過失と何が共通するのであろうか。

 家族にいやがられる程、火の用心をしても、一度火事になれば、すべては灰である。何遍用心したのも役には立たぬ。灰の中で泣いても家はもどらぬ。過ぎたことは、失ったことである。火事の前触れはない。

 われわれの罪は、わびて済むものではない。それは、いのちの終りに似ている。死の前触れはない。死の前日まで、今日のような日である。今日は確実、いのちのうちである。

(昭和四十三年五月)