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阿弥陀さまが、ごいっしょです (3)

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真宗の法話

阿弥陀さまが、ごいっしょです (1)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (2)
阿弥陀さまが、ごいっしょです (3)
お葬式 (若林眞人師)
お葬式 2(若林眞人師)
お救いと生き方_(若林眞人師)
四分六分の道
とんぼ安心
念仏ひとり遊び
お念仏は大きな海
阿呆堕落偈
仏の眼

浄土真宗ご法話集

藤岡 道夫師 法話 


目次

年が改まりました

年が改まりました。一年前はまだ赤ん坊で歩けなかった孫が、生後一年十ケ月、小さな腕をうち振り走ります。物の名を沢山覚えて、近頃少し言葉を連ねた”お話し”の形になる様子も見えます。

活発に遊び疲れて朝おそくまで、びっくりするほどよく眠ります。今も大人たちのご飯が終ったあと、食堂に孫の朝の食事が用意されてます。二階の寝室に小さなマイクがセットされ、台所のレシーバーに、孫の目覚めの声が伝わり聞こえます。まことに便利なものがあるものです。

幼い子を持つ親は、何をしていようとも子供の気配を感知するように、神経を廻(めぐ)らしています。親の慈愛を形にして、マイク・レシーバーまでもが仕度されました。

目覚めの時も眠りの時も、思いを離さぬ親がある。気嫌よければ見守り遊び、むずがればかき抱きして、周到な用意の親が在ります。 仕度ととのえ、用意万端の親があります。

蓮如上人が仰言る。”弥陀をたのみ たすけたまえとたのむ心”これが名号、ナンマンダブツにご用意のおいわれです。

如来さまは、願い発動の時点ではやばやと、私の往生の見込をつけて、今やナンマンダブツと来て下さってます。仕度十分、万端ご用意の如来さまは、ナンマンダブツとごいっしょしていて下さいます。

ナマンダーブ ナマンダブ、ナマンダーブ ナマンダブ。帰命無量寿如来・南無不可思議光、親鸞さまが偈(うた)われます。

ナマンダーブ ナマンダブ、摂取心光常照護、大悲のみ手にかき抱かれて、み光りにまもられ過ごします。ナマンダーブ ナマンダブ。




昭和ひと桁世代

昭和ひと桁世代の私には、戦前の風俗の記憶が多分に残ります。それを近頃の世相風俗と思い合わせますと、今昔の感、ひとしお深いものがあります。

昔は村の道の辻、農家の広い庭先は、子供の恰好の遊び場で、いつも群がり遊ぶ子等でにぎわいました。

どの家の子も兄弟姉妹が多く、誕生までの赤ん坊は、おおかた小学校の大きい女の子に負んぶされています。弟や妹のない女の子は、近所の赤ん坊の子守をいたします。

背中に赤ん坊がいては、負んぶしてない友達と、運動量の多い活発な遊びはなりません。そこで五つ六つの幼い子や、低学年の子の輪の中に入って遊びます。 背中の赤ん坊と一緒では、ナワ跳びなど思うように跳べません。つまり、背中の赤ん坊のハンディキャップをつけて、小さい子達の仲間に入れてもらいます。

赤ん坊は、大きなお姉さんの背中にあって、小さい子達の遊びを遊びます。背中で共に弾んで、赤ん坊は大喜びしています。


法蔵菩薩因位時・・・、親鸞さまは偈にして、衆生を救う如来さまの願い発動のおいわれを、お経に基きおきかせです。

不可思議兆載永劫の善徳集積の間中、罪濁の凡夫、私を片時も離さずまします如来(おやさま)です。

諸有衆生(あらゆるしゅじょう)のその中に、とりわけ苦悩の有情、私こそが捨ておけないと、功徳の行が果たされました。ナンマンダブツのいわれです。

法蔵・弥陀(おやさま)の大願の背中に、私を弾ませ跳らせたもうて成就(しあが)ったナンマンダ仏。令諸衆生(しゅじょうをすくう)、功徳成就(くどくはしあげた)と告げらるるナンマンダ仏のおいわれです。



お説教に出向いたお寺

お説教に出向いたお寺の夕ご飯に、すばらしく香りの高いピーナツの和えものが副えられました。お給仕の坊守さんのお話では、頂きものの生ピーナツを、料理の直前、台所で煎りあげて用いられたとのこと。和えものの香りの豊かさも、もっともなことと肯きました。

和えるというのは、平和の和、和気藹々(わきあいあい)の和の字を用います。この和という字は”やわらぐ”の意味の字。野菜や魚介など、味や匂いや口あたりをやわらげますのが和えものです。

真宗の開祖親鸞聖人は、七十歳代の半ばから八十歳代の後半まで、膨大な数のご和讃を造り、それを精錬されました。これは日本仏教の歴史の中に燦然と輝く業績(おてがら)と申せましょう。

教えみ法(のり)の骨格をきっちり組みあげられました漢文体の”教行信証”をご本典と称しますのに対して、浄土・高僧・正像末の三帖、合計三百五十一首のご和讃も、お三部経と七高僧のお書物から、教法の意(こころ)を取り出しほぐし和らげ、流行の歌謡の形にまとめられました。

私たちは、この和讃集を”和語の本典”と尊称し、日常読みかつ詠います。

親鸞さまは”和讃”の字の左に”ヤハラゲホムルナリ”と、カナ書きされました。更に一字一字の発音を綿密にお示しになるのは、声に出して読み詠うようにの親切と伺います。

連劫累劫、粉身砕骨、報謝仏恩、この善導大師のお言葉が”如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし”と和らげられて、芳潤な香りで歌われました。聖人のご恩を偲ぶお取り越しの季節、お徳の一端を仰ぎます。




ご縁を得て

ご縁を得て長崎県の五島のお寺の報恩講に招かれて六日間、たっぷりご法縁に浸らせていただきました。

このお寺の総代さんが、紋付羽織に袴と威儀ととのえて、お給仕される姿を見て、伝統の重みを身に沁みて感じました。紀州和歌山からここに移り住んだ一族の幾つかの代表たちの手によって、本願寺の允許が願われ、初めて島に真宗の寺が建立されました。

ご院家さんがご案内下さいましたあるお宅では、家を新築された機会にお仏壇を新しく申し受けると共に、先祖から伝わり給仕されるご本尊さまの表装を、京都の表具店に出されました。

ところが見事な表装になってお帰りなった、ご本尊さま入仏のお勤めで、ご院家さんが改めてご覧になると、このご影像の裏の御判は、本願寺十四代寂如上人のもの。この村には外にも一族の本家筋に代々伝わる古いご本尊があるそうで、いずれも寂如さまのご判ものと推察されると伺いました。

寂如上人は、一六六二年に十四代を継承されています。今から三百二十年余を遡るはるか昔、西の荒海に浮ぶ島にお寺を招請建立し、一族ごとに本山下付の如来さまを安じては、廻りくるご正忌報恩講には、一族の長らが紋服に威儀を正してお給仕し続けました。

そして今も、口々に”ご開山聖人ご出世のご恩 次第相承の善知識の”と、お称えしている群参の人々に、私も声を揃え称名申します。

このお称えしておられるお姿、次第相承のまぎれもないお姿なんだなと拝みました。




書斎まで 上り来て

書斎まで 上り来て 何とりに 来しかしばらく 考えてゐる

飛松実という八十三歳の老人の歌です。この方は、日常身辺の老境の実状(ありさま)をつつまず歌に詠まれます。肉体の衰えから機敏になど、とうていふるまえず、万事行動はのろくなりました。物の覚えが鈍りまして、何かかにかと探し物をする。記憶力の衰えは止めようもなく、物忘れは明け暮れ常のこと、そんな自らの様子を見据えて詠われました。

さて、恒例の報恩講の季節。親鸞聖人のお祥月のご法事とて、聖人のお噂をしてそのご恩徳を偲びます。

聖人の奥方恵信尼さまは、聖人ご往生の後なお六年、越後新潟の地に生き永らえて過ごされました。八十七歳の恵信尼さまが、京都に住まわれる娘御、覚信尼さまに、老い先残る命も僅かばかりと、近況を便りされました。

年を越して今年は、あまりに物忘ればかりしていて”ほれたるようにこそ”つまり、呆けてしもうた有様で、と書送られます。

平均寿命三十歳台の鎌倉時代に、すでに八十七。老いた恵信尼さまが、物忘れお探し物など無理からぬことと察します。

それが”わが身は極楽へ ただ今にも参らせていただこうほどに””なれば そなたもきっと きっとお念仏申されまして この母が待っています極楽へ参り合わせられますように”と、わが夫(つま)、親鸞さまお導きの言葉”まいりあう”嬉しさを書き送られました。老い衰えた身にも、明らかに命往きつく処をお持ちです。

ナマンダ仏の如来(おや)さまを、命の裡にはらむ身と、称名なされるお姿に偲びます。




明治三十七・八年の日露戦争

明治三十七・八年の日露戦争から昭和二十年の敗戦まで四十年。戦後はすでに四十三年。時の過ぎゆきの速さを思います。ところで、終戦記念日前後の七・八・九月頃は、例年湧きくるように戦争の歌が新聞に寄せられます。

軍令に 反きし兵に 引き金を 引きし戦友(とも)逝く 妻にも秘して  (水沢市 千葉 幸男)

これは朝日歌壇に見た歌です。

人類の大罪というべき戦争は、大きな深い傷痕を、兵士の胸に刻みます。歌の作者の戦友が、近頃死んだ。彼も我も、かって若く兵たりし時の苦く辛い記憶を胸に持っていた。

軍の命令に反(そむ)いたとて、仲間の兵士に向けて銃の引金を引いた。爾来四十年余、脳裏に焼きつくこの光景は、吐き気を伴う夢に顕(た)って、今に失せはしない。そうして、彼も我も互いに語らずして四十年、胸の奥に埋めたまんま、このこと妻にも秘して、彼は死んだ。

俵山西念寺の深川倫雄和上の仰せに ”人は心をカプセルにして生きる。夫婦・親子すらが、時にその内側に立入るのを拒むものを持って、それをカプセルの内に包む。このカプセルの内奥(おく)にあるものに分け入るは、唯、弥陀の大悲あるのみ” と、お聞かせいただきました。

ともあれ、時に他人の立入るのを拒み、時にこの心、人に理解して欲しいと思いもする、凡夫有情の実情。

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいして 大悲心をば成就せり 親鸞聖人のこのご和讃を、声に出して二度三度読んでは、我とわが耳に聞いてみます。




人並みに

人並みに、私も印刷の名刺を持ってます。一つは浄土真宗本願寺派・大光寺とし、今一つは、大光寺住職・本願寺派布教使・藤岡道夫として、立場を明かすほどのものです。

ところで、頂く名刺にはずいぶんの肩書きを並べておいでのものがあります。身の素性を示されるのでしょう。いつぞや、元なになにと、すでにとっくにお辞めになった役職を誇らしげに入れておいでのを見て、ずいぶん可笑しく思ったことです。

昔武士たちは、たとえば長州毛利家々来、何の某(なにがし)と名告(なの)り、役目の上ともなると自ら役職をつけて、身分を明かしたことと思われます。 その武士も主家を離れ、家禄を失い浪人しますと、武芸・学問に秀いでた者以外、身分・地位そして収入も家も失います。こうした、いわば失職中の浪人を卑しめて、素浪人などと称したようです。

西念寺・深川倫雄和上がある日、 ”ウドンは、テンプラウドンもあれば、肉ウドンもある。ところが、ウドンの他に、実や具を一切入れず、ただウドンに汁だけかけたものがある。これを素ウドンという。私の元の素性といえば、肩書き一つ持たぬ、いわば素凡夫だった。それが今や素凡夫ではない。この体、この命に充満して、如来さまがお宿りです。お覚り全体の仏智・仏力を挙げて、私の命に持ちこんで、ごいっしょ。何がどうしてどうして、広大きわまりもない価値(ねうち)ものですぞ”とお聞かせくださいました。

正定聚・不退転・等覚の弥勒にオナジキ位にあると、本願の行者、念仏の命をたたえて下さいます。




県外のお寺の説教

県外のお寺の説教などで、旅する事が多うございます。この寺に生まれた坊守は、帰る実家もありませんし、それこそ温泉行き一つせず、結婚以来ずうっと、寺の裡に過ごしてきました。それが娘の結婚とともに、お寺の後継者も出来、私共廿七年目で漸く時間の余裕を恵まれました。先頃有難いことに、親鸞聖人ご存命の頃から、殊の外深いご縁に始まる、真宗高田派のご本山専修寺を、三重県津市一身田に訪ねて、かねて念願の参詣を果たしました。旅の途中立寄りました瀬戸大橋は、聞きしに勝る規模雄大で、眼を瞠(みは)るものです。

わが国開闢から江戸時代まで、中国の文明に追随すること千数百年。そして百年、イギリス・フランス・ドイツを目標に、その文化文明の吸収に努め続けた日本です。戦後、アメリカの圧倒的な文明に憧れをもって、追いかけました。つまり何時の時代も、日本には目標の国がありました。それが今、世界中から目標にされる---日本です。この日本の先端工業技術の粋を集めて、瀬戸大橋が完成しました。

テレビの空からの映像、新聞の詳しい解説で知りました。そしてこの眼で見上げ、見下ろし見渡して”凄い、こりゃあやっぱり来て見てよかったなあ”と、夫婦ともに、しきりに感嘆の声を上げました。

西念寺の深川倫雄和上、ある日の仰せに ”善導さまが 浄土対面して 相忤(あいたが)わずといわれるのは やっぱりなあ! ということです”とありました。

事実極楽に参るというと、如来(おや)さまの仰せ、お釈迦さまのみ教え通り。まっこと、やっぱりなあ、という世界、疑いなく順う所をお示しです。




私の祖母の往生

私の祖母の往生は、戦後の昭和二十六年、私が十代最後の年で、すでに三十余年の月日が過ぎました。

祖母の思い出の中、甦る記憶の一つに、手打のうどんをこしらえる姿があります。濃い紺の絣の着物、襷(たすき)のひもで袂(たもと)をつかねあげ、麺棒を力を入れて押しています。竈(かまど)の火が威勢よく燃える。大釜の湯が、煮えたぎる中に、ぱらぱらほぐしながら麺を入れる。

今、飽食・グルメ時代と比ぶべくもない昔の食事は、いつもつつましく貧しいものでありました。それでも祖母がうどんを捏(こ)ねて打って茹であげる傍らに、固唾をのんで見守る。少年の日の私は、いつもお腹を空かしておりました。腹一ぱいかきこんだうどん。何ものにも替えがたいご馳走でした。

こうして食べるウドン、肉もテンプラも載りません。何一つ添えられません。”素ウドン”です。ウドンに汁だけ、何の変哲もない全くの”素ウドン”でした。

俵山西念寺・深川倫雄和上、或る日の仰せに 「この凡夫私が、如来さまの名号・ナマンダ仏に出逢わずして、娑婆にウカウカ過す中は、ただの凡夫、いわば”素凡夫”です。仏とも法とも知らなけりゃ、命のイミやネウチの実りはない、命のユクエも見えぬ、全く”実のない素凡夫”です。

それが、ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、私の命に居据わっていて下さる。今まさしく位は正定聚。等覚の弥勒菩薩に同じき価値(ねうち)もの。もはや私は”素凡夫”ではありませんぞ」と、お聞かせです。

仏の方より往生は治定せしめたもうた価値ものと、軽妙・洒脱に現わし尽くして下さる法悦です。




戸籍簿と 異なるわれの

戸籍簿と 異なるわれの 誕生日を 糺すことなし 母泣きしより

前田はるえという人の歌です。戸籍謄本を手にした少女の日、そこに記載されている生年月日が、承知しているものとちがっている。それを尋ねると、母さんは泣いた。押して聞くには、はばかられる気配となって以来、ためらわれるままに年月は過ぎ、母さんは死んだ。

あれは一体何だったんでしょう。私の誕生日にまつわって、泣くほどにつらいものを、胸の奥に秘して抱いていたのでしょうか。娘には顕わに語りたくはないもの、胸に納(しま)いこんだまま、母さんは逝った。もはやうかがいようもないこと、とこんな歌であります。

さて私は今、人に奨められて、卵の黄味を煎りつけて作る卵油を、毎日飲んでいます。古くから伝わる滋養剤です。これは大変苦くて、その上猛烈に臭いものです。そのままでは到底口にできるものじゃありません。一寸こぼれでもすると、たまったものではありません。そこで、これをカプセルに仕込んで、なんなく一気に飲み下します。

深川倫雄和上に、カプセルのお話があります。 ”人は誰でも夫婦・親子の間でさえ、寄せつけも立入りもさせぬものを、心のカプセルに仕込んで抱えている。中には、自分で思い出すことさえ厭な酸っぱく苦いものをつめ込んで、誰も私の事、解りはしないと心を閉じて生きている。このカプセルの中に、分け入り満ちるが如来(おや)さまです”

大経に独仏知耳(ひとりぶつのしろしめすのみ)の仰せがあります。そうです。弥陀ご一仏、カプセルの中に分け入り立ち入って、孤独の思いに満ちまする。ナンマンダ仏とごいっしょしていて下さいます。




間もなく母の一周忌

間もなく母の一周忌、今しきりに少年時代のことが蘇ります。終戦の昭和二十年、私は中学二年生。学徒動員の町工場まで、片道九キロ、一時間四十分かけて歩きました。戦時時間の工場の始業は早く、朝五時に母が私を起こします。

それが毎日十八キロの往復に歩き疲れて、時には宵の口から眠り足りて、母に起こされずに目覚めることがありました。台所に起き出ますと竈の前に据わる母の姿がありました。壁から柱、黒く煤けた台所、十ワットほどのほの暗い灯りの下で、屈まり火を焚く決まった形の姿です。

兄が三人、兵士として出た留守の寺を守り、末の息子の私のために、日毎四時には起き出して、竈に火を焚き屈まった、朝の仕度の光景です。我が身のためじゃない。子故にふるまう日課です。ひたすら子故に起き臥し立居して、それで手柄になるじゃない、報いも償いも求めはいたしません。親業の営みです。

無量寿経に承ります。阿弥陀さまの衆生救済の功徳・仏力成就の運びには、骨折(ほねおり)・辛苦は山ほどでも、損じゃ得じゃと計られず、ひたすら衆生へ衆生へと持ちかける、大善根・大功徳が成った名号大行。

俵山深川倫雄和上は ”お経に衆苦を計らずとあるのは、阿弥陀さまのお慈悲は片道だということ。相互理解の話じゃない。ひたすら衆生を救う、汝を救うのお働きで、どこまでも、名号のおいわれは、片道で成りました”と、ナンマンダ仏のおいわれをお聞かせです。

まこと無上殊勝の願、希有の大弘誓と仰ぎ、本願、弘誓のみ法(のり)と告げられます。




昭和天皇の死去

昭和天皇の死去に伴いテレビ新聞は、このことで持ちきりでした。天皇とその時代について、いろいろな階層・世代の人の論評がまことに賑やかでした。それも今では総合雑誌に舞台を移して、少し考察を深めた論述が行われています。

敗戦の年、中学二年、福岡県の片田舎の少年だった私は、父が早く死んだ後、上三人の兄が兵士となって出た家で、母と二人で過ごしました。戦争にまつわる記憶の一つは、敵の飛行機来襲を告げる警報・サイレンの響きです。サイレンが鳴るたびに”ドキン”としては緊張します。

やがて敗戦。戦後は村人の生活の節目、農作業の便宜を図って、朝・昼・そして夕方の時刻を定めて、農協の屋上のサイレンが鳴ります。戦後しばらくの間、サイレンが鳴る度毎に、胸がドキンとするクセが残っておりました。戦争の名残のクセが取れたのはいつの頃でしたろうか。ともあれ、その設備仕組みを直接間近に見た事はありません。私にとって”サイレン”は、機械のことではなくて、耳に聞こえる音そのもの、響きそのものです。

俵山西念寺・深川倫雄和上が ”ナンマンダ仏は、文字ではありません”とおしゃる。”親鸞聖人において、名号といえば、音がしよるのである”ともお聞かせ下さいます。

幼年時代から文字教育の仕組みの中に育ち、ナンマンダ仏の名号を文字と眺める習慣がついて、解説し講釈して理解に到ろうとする。

親鸞さまが、名号大行は”無碍光如来のみ名を称する”と、仰言る。み名を称する。あくまで、名号は音に響き聞こえるナンマンダ仏です。




二誕生過ぎの孫娘

二誕生過ぎの孫娘、電話に興味があるらしく、私達夫婦の居間にかけてくる室内デンワの母親のデンワに割り込みお話したがります。”もしもし、えりこ、行ってもいい?”傍に居て私どもの仕事の邪魔ではないかと、都合をたずねる母親に教わるとおり口まねして”えりこ、いっていい”と、話かけます。

彼岸過ぎの先日、両親に連れられ瀬戸大橋から道後を廻る旅行をした孫娘。旅館に到着したこと、家に連絡のデンワをかける母親の傍(そば)に、孫の声がしています。デンワに出たがるから一寸替わるからと、受話器を渡した気配があって、やがて孫娘の声が受話器に現れます。

”もし もし えりこ もしもし” ”ああ えりこさんか おじいさん もしもし” ”もしもし もし もし えりこ 行って いい もし もし 行っていい”

これには笑いました。私共夫婦が笑ってますと、またもや受話器に聞こえます。 ”もし もし じいじ いっていい”

山口県と愛媛県、瀬戸内海を隔てて距離がない計算がない話で、これは可笑(おか)しい。しかし、孫娘にとって受話器の声はまぎれもない、じいじ、おじいさん。おじいさんがおるのです。じいじにもう会うています。

俵山西念寺・深川倫雄和上、常に仰せに ”ナンマンダブツは、字ではない。娑婆の文字を知っている我々は、すぐに文字に当て嵌めるクセがある。そしてナンマンダブツを只の文字にしてしまう。これはいけません。如来さまは、凡夫私の耳に入り、この臭い私の口にかかって下さる、ナンマンダ仏、声で来てくださっているのです”と、お聞かせです。




青年には客気があります

青年には客気があります。十年一日の如き田舎の暮しは、若者に耐えられません。そんな暮らしに結構馴染んでいるような父親は、男として意気地なく思えてならない。俺は違う。俺は仕方なく生きている、そんな暮らしは真平だ。才能を試して自分の感性を磨いて、発剌たる人生を創造するのだ。ようし決めたと、父親の反対・説得も受けつけず許しを得ぬまま家出をする。

年月過ぎてこれという特技・才能も発揮出来ぬまま、感性・感覚も鈍化して、今や日本の平均的中年の男となった。日常これという変り映えもない暮しが、都会の巷の中に埋もれるように繰り返される。

子供も青春時代を迎えれば、中年の男親の大方が味わう親子世代間の断絶の心情を、骨身に沁みて痛感している。そんな時、田舎の父親が死んだ。残された日記を読む。

父の日記 開けば涙 溢れ来(き)ぬ

わが家出せし のちのその日記  (阿部 壮作)

朝日新聞歌壇のこの歌を、深読みしてみましたものが、このお話しです。その父親の日記には、中年男となった息子を泣かしめたものが、書きつけられています。その具体は歌われていません。しかし、判る。一行・一文・一句一語のすべてこれ、息子を案じ気遣うて、責めも裁きもしていない。ひたすら、子を思う親の慈愛が滲み、温情立ちのぼる言葉が、刻まれてるに違いありません。

西念寺・深川倫雄和上に、伺いました。 ”阿弥陀さまは、私の罪を示されません。責めも裁きもされません。ナンマンダ仏と現われて、ひたすら救いを示されます。罪深き私を抱いて、泣いていて下さる慈悲極まるすがたこそ、ナンマンダ仏です”と聞きました。



朝日新聞歌壇

朝日新聞歌壇の、遠藤千秋さんの歌です。 「人間は 誰でも死ぬ」を まくらとし  子は相続の 話言い出(い)ず

「人は誰でも死ぬもんだ」と、今更のように尤も至極のことを息子が言う。「そりゃあ、誰だってそうですよ」と、話に乗ったとたん「そこで話だけどな、母さん」と、息子が持ち出したのは遺産相続のこと。老年期を迎える頃ともなると、死についての話や胸の内の予感が、日常生活の中に挿(さしはさ)まれてきます。

友人知人の死亡の報(しら)せが頻りに届きます。同年齢の者が亡くなると、取分けて感興しみじみとしたものを覚えもする。ましてや夫は病床にある。だから思わぬことではないにしろ、こちらからでなく息子からの遺産相続の話はきつい。 「父さんも、やがてじゃないか」と、鋭く押しつけられたようでたじろぐ。いや鼻白む思いでいる。こういった歌でしょうか。

大無量寿経に”いつまでも生きるつもりでいるが やがて必ず死なねばならぬ”と、説かれます。

世に不公平税制の是正ということ、近頃耳にしますけれど、人間が造るものみな不公平です。経済・教育・福祉といえどもそうであって、万般不公平でないものはない。ただ死ぬこと一つ、誰の命にも片寄らず公平にある事実でくるいません。この公平な死の事実を内部につつみもって、如来(おや)さまのおまことがあらわれました。ナンマンダ仏と、その体が現れきて下さいました。

俵山西念寺の和上は ”如来さまの至心・おまことは、何が起ろうとくるわないもの”と仰せです。あらゆる命の事実をつつみもって、公平平等ナンマンダ仏がご一緒です。




テレビや新聞

テレビや新聞挙げていま、幼児誘拐して殺害に及んだ事件が連日話題になっており、この犯人を割り出す方法の一つに、筆跡鑑定が行われます。字の書き癖を見るのでしょう。思うに人は、なくて七癖というほどに、なにがしかの身についたものが誰にでもあります。

勿論癖というのは、人事についてだけ言うものでなく、竹や木などの曲がりぐせということもあり、紙や布地の畳じわを、くせがついたといい、癖のある馬などと言ったりもするようですので、癖ということずいぶん広く使われる言葉のようです。

でも癖という字に、やまいだれを用いますことからして、本来人の身についたことでいうことにちがいありますまい。手足の動きの伴う立居振舞から、顔の表情やら物言いの端々にまで、癖があります。寝姿・寝言にいびきも癖でしょう。酒に酔うて、くどい・からむ・笑う・泣く挙げたら全く際限もない有様と申せましょう。

こうした身についた癖、概その当人の覚えのないことです。たとえ傍の人から指摘されて、自分の癖に気付いたとしても、身についた癖がめったなことで止むものでは在りません。それが癖というものです。

さて今や私は、仏のかたより往生は治定(じじょう)せしめられました。ナンマンダ仏と如来(おや)さまがご一緒のいのちです。そして、この上の称名は御恩報謝と承りました。このご報謝の称名・お念仏について、俵山深川倫雄和上、或る日の仰せに「クセになるほどの、お称名」とてお聞かせ下さいました。お念仏の癖がつく、ナマンダブ ナマンダブ。




お寺のご法座

お寺のご法座が近づいたある日、草取りをしようと境内に出た私に従(つ)いて、孫娘が庭に出て来ました。漸く二歳と半年になる幼い子です。

”やあ、おじいさんのお手伝いしてくれるの”と申しますと、 ”うん、おじいさんのお手伝いする” ”えり子、お手伝いするよ”と、女の子だけに、口の先はなかなか達者です。

”さて、そうしたらまず、塵取りを持って来ようね。これに草を入れよう”と、私が塵取りを手に持ちますと、孫娘が口を出して、手を出します。

”えり子、一緒に持ったげる”そう申しまして、縦にしますと、孫娘の背丈ほどもある塵取りを持ち上げにかかります。

さして重いものではありませんが、内玄関の露地に飛び飛びに置いた踏み石を伝うて、こんな幼い子が物を抱えてたどれません。

”ようし、そんなにして、そこ持っててちょうだい”と、孫のしたいよにさせておいて、そのまま塵取りごと孫娘を抱きあげて、狭い露地を通り抜け庭に出ました。

親鸞聖人の仰せに伺います。弥陀本願のお誓いには、生死(まよい)の命をねらいの的に来て、ナンマンダ仏とお宿りの如来さまと、本願信楽(しんぎょう)するが他力だとお聞かせです。

俵山西念寺和上の仰せに、また伺います。 ”本願を信楽するというのは、私が浄土の往生に、なんにもしないことです”とお聞かせです。煩悩に躓きとまどい、煩悩にもつれとどこうるまんまの私を、これが生死(まよい)の命ごとだと、丸ごと救う如来(おや)さまが、ナンマンダ仏とお聞かせです。




人生のほとんどを

人生のほとんどを、父ちゃんの背中と車イスとベットで過ごした、ぼく。・・・父ちゃんと母ちゃんは、ぼくに二十三歳の命しかあげられなかったことが、残念でならない。でも、ぐち一つ言わず、父ちゃんと母ちゃんに楽しみ一ぱいくれてありがとう。・・・

ぼくのところへ父ちゃんも行きたいけど、まだ母ちゃんの車イスも、じいちゃんの車イスも、父ちゃんが押さなければならぬからね、一人で我慢して下さい。巨人とカーペンターが大好きだったぼく。体が弱くても、たくさんの友達に恵まれたぼく。父ちゃんの大好きだったぼく。たまには夢の中で、父ちゃんの涙をふきにきてくれないか。

毎日新聞の読者投稿欄”男の気持ち”に見た、島根県・松本政雄さんの言葉です。 脳性小児マヒだったのか、二十三歳の息子”ぼく”が死んで半歳。 ”俺はな、ぼく、まだ死なれん”と、松本さんはいう。母ちゃんも車イス。その上じいちゃんまで車イス。これを父ちゃん、押さなきゃならんという。なあぼく、夢の中でも父ちゃんの涙をふきに来とくれ、と松本さんがいう。

無理もないなあ、そりゃ、涙が流れるよなあ、来年もそうだろうが、とこれを読み書きながら私は涙した。そして、やがて私の涙は日常他の事に紛れて、今乾いています。でも今も乾かず涙しまします如来(おや)さまがいらっしゃる。松本さんの涙の一つ、ひとつずつに、ナマンダ仏とお宿りの阿弥陀さまがごいっしょです。




わが父の かたみの合着

わが父の かたみの合着 今日は着ぬ ポケットごとに 爪楊枝あり  (清水 房雄)

作者の父親が死んだ。相似ること多いが父と息子。父親の相服もまた、背格好の似た作者の体によく合います。袖を通した上着のポケットに何気なく入れた指先にふれた爪楊枝。ハンカチを入れればそこに。財布を入れればそこにも爪楊枝。探ってみれば、どのポケットにも爪楊枝がひそんでいます。

出勤のため家を出る折り、銜(くわ)えたものを捨てずに入れる。街の食堂のテーブル離れ際、つまんだその一本もポケットへ。青年期の者に爪楊枝は要りません。物食べるごとに爪楊枝欠かせなかった父は、まぎれもない老人だったのか。弱りもし衰えもしていたんだなあと、思いもうけぬところから、在りし日の父を偲ぶ歌であります。

平成元年の今年、私は数え年、五十八歳。老眼鏡なしでは新聞が読めず、差し歯もし、また部分入れ歯もしています。私の父は数え五十八で往生遂げています。今私はこの年です。父が最後の年、その体、その心に現れた衰弱は、如実にこの身に現れています。正しく加速していましょう。老年期に入ることは、肉体的にも精神的にも”弱者となる”こと、避けられません。

このこと、かねて如来の説き聞かさるる生死(しょうじ)・無常の道理(ことわり)の相(すがた)です。如来(おや)さまの無量のみ光に照らされて、剰すことなく見出された、命生死の断面の相です。

この無常、生死の命に来て、ナンマンダブツとご一緒の如来(おや)さまがある。光明てらしてたえざれば 不断光仏となずけたり、と親鸞さまが詠われました。ナマンダブ ナマンダブ。




大光寺の本堂ウラ

大光寺の本堂ウラに書院が仕上がりました。庫裡をやって下さった一級建築士さんに、今度も設計をして頂きました。設計書には平面図や・東西南北から見た立ち上がり図面、六つの部屋の構図・間仕切を画き別(わ)けた上、窓のカーテン類から、ローカの隅のコンセントに至るまで、用意周到を極めています。

建築士は、ノミもカンナも握りません。コテを使うて壁を一と塗りするわけでもありません。実際の工事自体は、大工左官職の手で進められます。しかし、工事が開始されるその日から、注文主の此方の意向を細大もらさず聞きとり汲みとって、施工現場を監督いたしますのが建築士です。

注文主が志し願うていることを、全て形に現した設計書です。設計書に仕組み画いた通りに仕上りゆくように、注文主に代わって立合うのです。建築士の本来の立場役割りは、大工左官の側にはなくて、終止、注文主の側に立って、全面的にその願い実現に尽くします。それで注文主としては、大工・左官職に口出し手出し無用です。設計書を作成した建築士が全権委任の姿でもって、完全引渡しまでを引受けています。

蓮如上人が”弥陀をたのみたてまつりて たすけたまえ”とたのむ心、これこそ名号にご用意のお謂れとお聞かせです。

宗祖は”超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり”と詠われます。

弥陀法蔵の衆生救済の設計書、超載永劫(ちょうさいようごう)の施工した上で、ナンマンダ仏と完成引渡されました。ナマンダ仏と受取るばかりです。




詩人大塚なお子

詩人大塚なお子は、与謝野晶子と並び称される才能豊かな人だと聞きます。それがこの人、惜しくも若くして死にました。文豪夏目漱石は、早過ぎる彼女の死を悼んで”あるだけの 花投げ入れよ 棺の中”と、一句詠んで献げたといいます。以下はこの大塚なお子の”お百度参り”と題する詩、

一足踏みて 夫(つま)想い 二足国を おもえども 三足ふたたび 夫(つま)想う。女心に 科(とが)ありや。 朝日に匂ふ 日の本の 国は世界に 唯一つ。 妻と呼ばれて 契りてし 人はみ国へ 唯一人。 かくて みくにと わが夫(つま)と  いずれ重しと 問われなば  只 答えずに 泣かんのみ 戦場にある夫の身を案じ、無事を希(ねご)うて、お百度を踏むのです。建て前で言えば、国の勝ち戦を祈るのが国民のつとめごと。身を鴻毛軽きになして、国に捧げた命というのは、本音ではありません。妻たる身にとり切実なのは、たとえ手足はもがれましょうと、卑怯者よとののしられようと、兎にも角にも帰ってほしい、戻っておくれと念じます。堂々たる見識・思想を述べたてて、戦争反対となえるじゃない。唯ひたすら命請いするばかりです、とこの詩の心を読みました。

さて、元号改まりまして、平成元年。昭和が終りました。人により所によっては、昭和天皇の戦争責任有りや無しや、と論議も湧きます。がしかし大喪の礼の二十四日、振舞うべき仕儀知らず、所在なく一日過ごすより、昭和のみ代を送るべく、お念仏の一日にいたします。激動の昭和のみ代に押し揉まれたこの命を、大切にして下される阿弥陀さまを大切にして過します。




先月、お説教に訪れました

先月、お説教に訪れました鹿児島県の出水(いずみ)平野の一画・高尾町は、古くから飛来する鶴の群で知られ、今年は九五五三羽、史上最高の数に達したそうです。秋の気配が濃くなる頃、大陸のシベリア・中国の奥地から飛来し、春の兆しとともに帰ります。いわゆる北帰行・私が出向きました二月十四日、早くも第一陣が飛び立ちました。

ところで、北海道釧路湿原を中心に、渡りをしない鶴が生息します。世界中に現在一九〇〇羽ほどと見られる丹頂鶴です。仲々数が増えないこの丹頂鶴、ここ十年来少し増えて日本に今四九〇羽居るそうです。日本に住みつく丹頂鶴・卵を産んでは暖めますが、折角孵ったヒナも病気のために大方死にます。丹頂鶴は卵を三十四日抱きます。これを三十日三十一日と親鳥が抱いた所で、人間の手で孵卵器に入れて、人工孵化します。その上、病気の免疫処置をしたヒナを親鳥の巣に返すのです。

子の数が少ない動物は、わが子しか面倒見ません。酷い時はつつき殺しさえすると聞きます。人工孵化のヒナが巣に戻されて、丹頂鶴の親はどうするかといいますと、忽ち羽交(はが)いもし餌を与えて育てます。大丈夫です。少なくとも三十日なり親鳥に卵を抱かせておけば、幾通りか啼き分けながら、卵を抱た親鳥の声は、卵の殻の中のヒナの耳に聞こえ届いております。同時にヒナも殻の中で啼きます。かくて親子は声をもって承知します。互いにまだ見ぬ親子であっても、声を挙げては命の名告りをいたします。親子の命は声をもって連なり結ばれました。

名号大行、弥陀は、ナンマンダ仏と声挙げ、私に来てくださいました。ナンマンダ仏と如来(おや)さまは、お宿りごいっしょしていて下さいます。




生き甲斐を 今更らしく 思ふらし

生き甲斐を 今更らしく 思ふらし 集える老ら しきり欠伸す  (杉山 長風)

集会所に老人向けの講演会が催される。 今日の演題は”生き甲斐について”。趣味を持って自ら楽しむ。また大袈裟なことでなくても、近隣の人の為になることをやって、自分から老け込むことを止めるよう努める。あるいは誰のためでもなく、自分で心を明るく持って、体についてはこんなこと、あんなことして、健康を保つなどなど、小気の利いた話が行われるのでしょう。

この歌の作者、杉山さんの眼に映るのは、頻りに欠伸をするお年寄り。”生き甲斐について”の演題も、今ここに、参加しているお年寄りの生き甲斐にならないらしい。今さら”生き甲斐”をと言われたとて、とこの歌の作者のみならず思われるのでしょうか。

お経に臨終の苦しみが説かれます。犯してきた罪の後悔の念(おも)い、そして死んで、その行方の見えぬ怯えとが、心の中に犇(ひし)めきあう。これぞ苦しみの極み、臨終・死の苦しみだ、と聞きます。心の持ちかた身ごなし程度で、埋めようもない命ごとなる苦があるぞと説かれます。

”まことの信心うる人は このたび さとりをひらくなり”と、親鸞さまが喜びを詠われます。よかったなあ。よろしゅうございました。人生の意味を正定聚と恵まれ、等覚・弥勒に匹敵のネウチもの。あまつさえ、大涅槃の証(さとり)に往きつく命です。よかったな、これはもう、お念仏申すばかりです。



隣合わせに 祝儀と葬式

隣合わせに 祝儀と葬式の 家ありて 電報配達の われは戸惑う

赤川速水という人の歌。悲喜交々の人の世には、こんな事もあるなあ、と四、五年前ノートの端に記しました。その後忘れてましたが、先月生寺(じっか)の母の葬儀の日は、この歌どおりの光景でした。

私の里の路地一つ距てたお隣さんの娘さんが、母の葬儀の日にお嫁入りです。母のお通夜に、花嫁のお父さんが焼香しまして、”明日結婚式のため、お寺のおばあさんの葬式の手伝いも見送りもなりません”と挨拶いたします。すると居合わせたご近所の人が”あんた花嫁の父、明日泣くんじゃろな”と、まことに親しみをこめて声をかけたした。そこはお通夜の席のこととて、それ以上話題にならずはずみませんでしたが、花嫁のお父さん、おそらく泣くのでしょうね。

結婚式は華やぎます。装い華やかに、そしてこれはその行手になみなみならぬ苦労があるにちがいないと、親自らの経験から充分予感できるから、胸一ぱいの不安を含んで、むしろこれを華やかにするのかも知れません。軌道を走る列車すら、行く手に大惨事が興ります。中国旅行の高校生のあのニュースが物語ります。まして軌道一つもない生涯。行手は当然悲しみ不安一ぱいの門出、親の涙も無理からぬこと。

母の葬儀はしめやかながら安らかに、そして仏法味豊かに行われました。念仏の命の行く手に不安おびえはありません。涅槃・成仏の母を、見守り送りました。阿弥陀さま、ご開山さま有難うございました。




新南陽市富田

新南陽市富田(とんだ)から、山に向う曲折の多い坂道を、お招きのお寺に車を走らせます。すると荷物を振分けに肩にした女性が、坂道を歩いて登っています。この先、峠のトンネルの向うの村まで家がないこと、しばしばこの道を走って承知していますので、荷物は後ろ座席に入れて、この女性を助手席に乗せました。こんな場合、通常人は有難うございます、とお礼を言うものです。ところがこの女性、お礼を申しません。いや黙ってたんじゃありません。こう言いました。

”やれまあ えかったあ!”

周防の人らしいお国ぶりまる出しで、心底助かった嬉しさ、胸の裡一ぱいの気持ちを露に、大きな声で言いました。

”やれまあ えかったあ!”

お助けに会うた喜びを率直に口にいたしました。 問わず語りの車中のお話で、四時まで待てばバスがあること。お昼の今から待つより、二時間も歩けば家に帰れると歩いてたこと。病院に行ったついでの買物が、思わぬ大荷物になったことなどなど。短い間の矢継早の話で知りました。

やがてここでという場所で降ろしますと”有難うございました””何とお礼申しましたらいいのやら”と車の脇でお辞儀をしながらとめどなくお礼の言葉を並べて、こちらが恐縮する程の挨拶です。

親鸞さまは”弥陀成仏のこのかたは 今に十劫を経たまえり”と、ナンマンダ仏に遇い得て”よかったなあ!”と讃詠(うた)われます。この嬉しさが”喜愛心”とこそ表現(あらわ)されたかと、窺い味います。




隣郡、万徳寺のご院家さん

隣郡、万徳寺のご院家さんが、中国新聞の”天風録”をコピーしてくださいました。この天風録の伝える八ツ塚実氏の毎日は、寝たきりの老いた母上のおむつ替え、三度の食事、毎日の入浴、そうして夜毎添い寝の明け暮れといいます。

実は九年前、尾道市内の女子中学生が”私達の先生は「みんな生きてるんだ」が口グセで、生きている先生がアダ名です。感動屋の先生は、泣きながら生徒を叱ります。すてきな先生です”と投書に寄せて、プロフィールを紹介された生きている先生こそ、この八ツ塚実氏です。八ツ塚さんは、この三月学校を退き先生を辞めました。脳梗塞で寝たきりになった八十八歳のお母さんの介護に専念するため、これがその理由です。

三月のお別れ式で先生は、 ”もっとみんなと語りたかった。でも人間やりたいことを、あきらめなければならない時がある”と語りかけ、今がその時だとして、先生の職を辞められました。

やがてその後”オレな、先生、涙が止まらんかった”と、デンワしてきたのは、グレかけていた男子生徒だといいます。

今、弥陀大悲のいわれを聞きます。如来(おや)さまは、真心・至心を極め、清浄・真実を尽す仏智・おまことから、功徳力・仏力を集めたナンマンダ仏のお仕上げに及ばれました。

煩悩ごとに躓(つまず)き、煩悩ごとに蹲(うづく)まって、人生の始終に煩悩立ちこめます。こうして生死(しょうじ)界を離れも脱(のが)れもならずして、煩悩ごとにグレッパナシの命を満たし、ナンマンダ仏が届きました。お覚り全体の仏力をナンマンダ仏に押し傾けて到りとどいて下さいました。




クリップしていた紙切れ

クリップしていた紙切れに”お慈悲は いつも立姿”とある一語に、記憶が蘇ります。畏友、広兼至道君は、入院検査を受けた大阪日生病院の寝台ごと、新大阪駅から新幹線で広島駅へ、そこから車で大竹市の国立病院へと移し帰されました。時に昭和六十年五月二十一日、宗祖聖人のお誕生日の事でした。

”真の仏弟子たる身のあるべき様は 如是我聞だよ”というて、主治医の診断結果を奥さんに、包まず丸事告げしめました。

動かすと骨がくずれると気遣われる、悪化しきった容態の末期ガン。あと百日の命、止めようもない容態と聞いて、自ら承知した至道君です。

大竹国立病院の玄関に、時八十一歳の父上が待受けていてくださいました。そこに居合わせたイトコの方が告げられるのに、

”あんたのお父さんはな、至道さん。新幹線が大阪駅を出発してからこの病院に到着するまでの三時間の余、今までずうっと立っておいでたよ”とのこと。

”藤岡先生、イトコからその話を聞きましたが、椅子にかけておっても新幹線は走ってくるのに、まあ、立って待っておったですと”

”お慈悲はいつも立姿ですね”と、こんな風に満面の微笑みをもって聞かせて貰うた言葉です。

”お慈悲はいつも立姿”空中に浮かぶ阿弥陀さまのお立姿を、韋提希夫人(いだいけぶにん)が眼(ま)のあたりに拝み見たと、観無量寿経に説かれます。これに因んで、私共が礼拝給仕するご本尊は、姿勢は前のめり、御身を傾け立っていて下さいます。

直立不動でなく動く如来(おや)さま。名号ナンマンダ仏のお姿です。病院の玄関ホールに立ちつくして三時間、この父上のお姿と如来様ナンマンダ仏が重ね合せて、満々たるお慈悲の様に味わわれた言葉です。


ばあさんと 二人暮しと

ばあさんと 二人暮しと 大方の 吐き出す如く 言ふを羨(とも)しむ

合同歌集の中に見た、石井欣之助氏の歌。この作者はすでに老境にあって、しかも連れ添う夫人に先立たれ、独り暮しを余儀なくされる身の上のようです。

独り暮しは所在ないものでしょう。会話のない食事は簡単に済みます。掃除洗濯なども三日四日に一度やればそれでいい。

物言う相手がなければ、独り言など口にして、それが唯一わが耳に入る人の肉声。クシャミでもすれば森閑とした家内に響いて、それに驚く仕末。まことにもって、老いた独りの暮しは淋しさ深く身を刻みます。語らいの相手も老人、これらの人もまた、子や孫と離れ住む身をかこちます。口々に”ばあさんと二人暮しじゃ変りばえもせん。別段おもしろい話もありゃせん”と吐き出すように言うのが大方の口調。

でもそれすらぜいたくな言い種だ、羨やまれもするというのが、この歌の作者の心境。この歌をみて、島根の妙好人・才市同行の歌を思いあわせます。

才市ゃ 愚痴をおこすだ 念仏申せ。 愚痴も仏になるそうな。 ともに連うて 念仏申す こがあな喜びや これが初めて。 才市たちや よいことだ 如来さんの喜びをもろて そりゃ 如来さんと 居るだもの

こう歌うています。才市は胸に湧きくる愚痴と連れだちいっしょになって、念仏申すといいます。愚痴と共に念仏申す。心痛と共にお念仏。ためいきと共にお念仏。独り淋しさ心もとなさと共にお念仏。

これこそ如来(おや)さまとごいっしょすることだといい、これほどの喜びはないとして、お念仏賑やかに過ごします。



人間臨終図巻

人間臨終図巻という本の、今の私の齢で死んだ人の項に、俳人種田山頭火がある。この人は四十歳前に、妻子を捨て家を出て職場を転々と移った挙句、やがて乞食(こつじき)僧となって、放浪の人生を終ります。

かねて自由律俳誌・層雲の同人だった彼には、 ”うしろ姿の しぐれてゆくか” ”鉄鉢の 中へも 霰”などがあります。その句友の許で息を引取ります。

”なまけもの也。わがままもの也。きまぐれもの也。虫に似たり”とか、 ”無駄に無駄を重ねたような一生だった”などと、自らを嘲ける世捨人の境界でした。職場と金に身をくくられる管理社会の今日の世相を反映してか、彼のファンがあります。

さて合同歌集に鈴木冬吉氏の歌を読みました。

うつつなき 病む母が手を 游(およ)がして 伸びたる畑の 草抜くという

鈴木さんの”九十を 過ぎて弱りし わが母の”と詠まれた歌で察するに、お母さんは終生農業に従事し、九十を超えてお弱りになったようです。老いての力仕事はともかく畑の草採る仕事は、晩年も身を離れず死の床に病んで意識もおぼろの仕種にまでなります。

農家の嫁の生涯は、夫に従い作り耕して、子供を産み育て、舅姑に仕え尽します。そして境界を捨てません。

我が侭・気侭・怠けもならず、五体の骨折り気苦労、身一ぱいに離れも逃れもならない生死の苦海の主役であり続けます。お慈悲の現場がここにあります。

ナムアミダブツは うちあけばなし わたしに にょらいさんの うちあけばなし ”どうぞ たすけさせて おくれよ”と  ナムアミダブツは うちあけばなし

木村無相氏の念仏の詩を呟やきお称名申します。



今は夜の盛り場に出る

今は夜の盛り場に出ることもなく日を過ごしています。が三十数年も前、二十歳代の青年の頃、ことに親しかった友と二人、互いに乏しいポケットの僅かなお金を確かめ合うて、しばしば盛り場に出かけたものです。

露地裏のなじみの酒場に陣取って、詩人であるこの友人と語らいます。その頃の深夜の盛り場の風景が、おぼろに甦る短歌を眼にしました。

手相師の 辺に停(たたず)める 二三人 何知りたきや みな女にて  (日本歌人クラブ 山本康夫)

見台に寄りついて引き取られた片手をあずけ、尤もらしい手相師の口調に順い肯き聞くのは、これみな女客。そんな女の人のどれもが、身に覚えの不仕合せを抱えていましょう。眼を輝かし眉をあげて生きるにはほど遠く、不安もおびえも剰るほど山々ある。だからさして当てにもならぬ手相師の言葉すら、よすがに縋ります。

自信ありげに断定して告げられる言葉で、不本意だった身の上を追認し、行く末の希(のぞ)みを探り身構える。まこと不確かな曖昧きわまりない人生です。人生に教えを持たない、つまり生きる上のお経が存在しません。

観無量寿経に聞く韋提希は、家庭崩壊の悲しみから、憂い悩みなき処を希(ねご)うて、み仏の教えに遇いました。み仏は説明抜きで、十方世界のことごとくをお見せになります。

説明で限定されるのを避けられ、韋提希の選定にゆだねられます。そうすることで韋提希に、阿弥陀さまの極楽・安養(あんにょう)の浄土へ是非とも参りたいとの熱い願いを導き起さしめられ、やがてお念仏のみ教えに及ばれます。

まさに周到なお慈悲・存分な如来のお示しごとと仰がれます。



朝日新聞歌壇の選者・島田修二氏

朝日新聞歌壇の選者・島田修二氏には、麻痺のため歩みが不自由なお子さんがお有りのようです。その病む子を伴い生きる状況を、真向から見据える一群の歌の作品を見ます。

おぼつかない足どりで、かろうじて父親の胸までたどりつく病む子にとって、これは難事、大事業です。そしてまた、この極めて弱い無力な命の子を見守っていて、父親にとって全身を傾けるほどに、これは重大事でもあります。

父の胸を目指し、たどたどしく足を運んで十数歩、ようやくにして胸にきた子を、がっちり抱いた瞬間は、途方もない一大事が集約して完結し、成就したとも言うべきもの。ここに親行なるものがあると見られます。

跛(ひ)行して 十数歩を来し 子を胸に 受けとめしとき 一つこと畢(おわ)る

と島田氏は、ここをこのように詠みました。 今、阿弥陀さまを聞きます。煩悩の営みにとどこおり、業苦の暮しをさばきかねている生死(まよい)の命の私を、丸ごときっかりお慈悲の裡に蔵(しま)いこんでくださいました。

善根を集約し、功徳を完結するナムアミダ仏の如来(おや)業は成就しました。私のこの口、この声にかけお称えするナンマンダ仏に、現われ来てくださいました。

親鸞さまに、ここのところをうががいます。 物の重さを計る計量器・秤には、持ちかける物の嵩・分量に見合って、キッチリ等量、それが目盛りに現われる。

弥陀の正覚(おさとり)の善徳の総分量が、秤の目盛りに移るほどにして、私の命の裡に満ちてくださいます。ナンマンダ仏とお称えするまんま、弥陀正覚、大善大功徳を持(たも)つのです。



揉めぬいたリクルート事件

揉めぬいたリクルート事件は、根廻し上手な竹下内閣を崩し、奉りあげられて総理となった宇野内閣も、座標軸も定まらぬ様子で揺れています。転変極まりない政治劇の舞台に登場する人達の中に、一群の政治家秘書があり、ついにその一人、総理の秘書が自殺しました。

こんな事件にありがちな鍵を握る人物の自殺です。その当事者ならでは窺えない閉ざされた事情、追いつめられた心境がありましたろう。これは論評して見ようもないものです。

この事を離れますが、自殺ということで聞いた次のような話があります。

或る若い夫婦のお子さんの一人に、重度の障害があります。今九歳になっていて、寝せ起こし、飲ませ食べさせ100%の介護が要る。時折発作がきますのに緊急処置が要ります。その必要から県外に病院を求めて家を構えておられます。その奥さんに聞きました。

「病院のケースワーカーの方が、『障害のある子を抱えた親は、自殺しません』と言われます。『子供を残して死ぬなんて、障害児の親のそんな事例を聞いたことないよ』と、言われました。私もこの子を置いて先には死ねません」とキッパリした口調の話です。

常々、弥陀無量寿のお誓いを、慈悲至極のおいわれと伺います。親心の姿を眼のあたりにする趣きに、この若いお母さんの声を聞きました。

案じられてならぬ子の命に副うて”無量寿の声”がありました。ナンマンダ仏の声重なり聞こえ、命の裡に充満いたします。ナマンダ仏、この声、命に離れず一緒です。



世界規模

世界規模で政治・経済・環境などの課題に取組んだフランスサミット・先進国首脳会議が終わりました。七月十六日の新聞の一面に、参加国の大統領・総理大臣が並ぶ記念写真が掲載され、これがいささか注目されます。

カナダ・アメリカ・日本・イタリア・イギリス・フランス・そしてヨーロッパ共同体の八人の代表が並びます。中央は当然一人はフランス大統領であり、今一人はアメリカのブッシュ大統領です。フランスは今度の会議の主催国だから中央に陣取って当然として、大統領就任一年に満たぬブッシュ氏が悠然と中央に構え立つのは、国際的な力関係によるものでしょうか。

顔を仰向けながら胸を張り腹を出しているのは、日本の宇野首相です。何だか胸が一ぱいに背のびしている姿がいじらしくもあります。勿論一番端っこです。政権担当も間に合わせであり、責任の座が長くないと見て取られているのでしょう。ともあれ、各々の国ではトップ・頂点にある人でも、これが集まるとそこにまた序列・順位が出来てくる。

気兼ねなく 我を寄らしむ 居酒屋の 序列などなき 席温か  (清水 定信)

毎日歌壇の歌の作者は、社会の片隅の職場にも厳然たる上下の人間の序列があり、きしみを痛感しているのでしょう。

地球規模の順位・序列の格差から、小さな職場や隣近所の間柄にいたるまで、差異をはかり差別を言いたてて、不平等この上ありません。

阿弥陀さまの本願世界には、階級・序列がありません。平等一如が果されました。この如来(おや)さまのお望みを身に承けて、念仏申し弥陀好みに順います。



チェルノブイリ

チェルノブイリといえば、ソ連の原子力発電所の爆発事故で知られます。

あれから三年の余を過ぎますが、地元のウクライナ共和国では、事故のあと眼玉のない子豚やカエルのような頭をした子豚など、奇形の家畜が急に増えているそうです。

広島の三十五倍の放射能といわれますが、その八百倍もの大爆発によって生じた放射能の雲が、その日の東風によって西に運ばれました。チェルノブイリから五十キロ離れたコルホーズ・共同農場の例を新聞報道で知りました。

この農場は牛が三百五十頭、豚が八十七頭と小さい規模の共同農場です。ここで原発事故が起きる前までは、奇形の豚はたった三頭生まれただけでした。ところが事故のあと一年間で、六十四頭、昨年は九月までで七十六頭もの頭や手足や眼玉のない奇形の家畜が生まれました。

説教先のお同行に尋ねます。昭和六十一年四月二十六日は、世界最大のニュースが報道されましたが、お判りでしょうか、と。

でも、まずこれがチェルノブイリの原発事故だとのお答えは得られません。忘れます。他人ごとであってみれば、どんな大ニュースとて私の人生の内容(なかみ)となりません。

一年を めぐりて今し 秒針は 妻臨終の 刻(とき)を通過  (毎日歌壇 橋爪 啓)

糟糠の妻を失って一周忌に、歌の作者は臨終の時刻を凝視(みつめ)ています。胸に彫りこみ忘れません。血を分け情ある者の事実です。

凡夫は愛によって生死(まよい)を離れず、と龍樹さまが説かれます。人生生活の実際には、凡夫の煩悩は愛の様相を帯びて濃密だと、如来(おや)さま慈愛の眼差しが及びます。



ビハーラ

ビハーラというのがあります。これは極めて重い病気の人、例えばガンの末期患者など、死のおびえをはじめ、さまざまな精神的な不安をかかえる病人に、仏教の信仰の上から、安息を導く活動といったらいいでしょうか、ビハーラといいます。浄土真宗を中心に熱心に取り組む人たちがあります。

ところで最近、森崎和江という作家の『死の話』という本を読みました。そしてこの本の中に紹介されている石川県能登出身の作家、加能作次郎の「厄年」という作品のことを読みました。

昔は特効薬のない死病といわれました結核にかかり、も早望みを絶たれた娘に向ってその母親が、 「念仏申さっしゃい。今に楽な身にして貰えるさかい」と苦しむ娘の背中を撫でながら、いつでもこう語りかけます。

これに対して、娘はいいます。 「先に行ってるさかい お前さまたちは後から来てくんさいませ」と、うんうん呻きながら答えます。

「おうおう 俺たちは後から行くさかい 先へいって待ってございの。死ぬのではない 生まれ代わらして貰うのやさかい。有難い思うて お念仏申さっしゃい」と、母親は涙ながらに語ります。こんな趣の話です。

病人は心に死の壁が立ちはだかりおびえています。ここに恩愛の情一ぱい母親が、親密にかかわり立ち入って、ナンマンダ仏と如来さまを告げます。離別の悲しみの中にも、れっきとしたご法義の座りから命往きつくお浄土を語ります。今生の別れがみ法(のり)に転じられ、尊くお荘厳されました。



二歳と半年になる孫娘

二歳と半年になる孫娘、この年令の幼児ならではの可愛い盛り、此方が面白がってる昨今です。

旅の土産の飯事道具が気に入って、おじいさんを恰好の相手に見立てては、大人びた口まね仕種で遊びます。

ところで今学校の夏休み、この地方の習慣で、朝十時・夕刻六時の二回サイレンが鳴ります。このサイレン、孫娘のどうしても馴染めぬものらしく、サイレンが鳴るたびに怯えます。

夢中で遊ぶ飯事(ままごと)で、なんぼ大人びた口調や仕種をいたしましょうとも、そこは幼い二歳の子、サイレンの度毎怯えます。

遊ぶ傍らに離れず付いている家族の膝や懐に飛びこんで、大人の腕の中に抱かれて、サイレンが止むのを待っています。

大人たちの誰彼がしきりに宥めます。  ”すぐ止むからね こんなにしていたらじき止むから”  ”だいじょうぶ だいじょうぶ。すぐすむよ こわくないよ。おじいさんもおばあさんも ほらお父さんもお母さんも みんな平気 ちっともこわくないよ”と家中総掛りで、この子の安堵に当たります。

阿弥陀さまのお誓いには、ありとあらゆるみ仏方が、あらんかぎりの力を尽して讃め称えられる功徳仏力充ち満ちる名号をもって、衆生救済の見込みが立ちました。

阿弥陀経には、東南西北上下十方のみ仏が、挙げてナンマンダ仏の功徳を讃え、念仏行者の信心をお護り下さると説かれます。

まことに仏方は総掛り、慈悲方便をもって衆生の疑いを霽(は)らされます。善巧方便を尽し、怯みも懼れをも除かれました。お称名申すばかりです。



哲学者ケーベル博士

哲学者ケーベル博士は、東京大学教授として廿一年間勤められました。その研究・著述の仕事は”文学において特に哲学において看過ごされたものと忘れられたもの”に集中して果されたと聞きます。

さて幼い女の子が四人誘拐殺害された事件は、ことに民放テレビのニュースキャスターが競ってカメラやリポーターを駆使して、その報道は詳細を極めました。

その後を週刊誌が追いかけて二・三週間はこれが特集記事となり、いまは月刊雑誌に場所を替えて、社会心理学・犯罪心理学などの専門家、それに推理小説の作家まで加わって、論文や座談会でもってこの異状事件が扱われています。

いわばニュース・事件として落ちつくように落ちついたと申せましょう。その間、加害者の顔や印刷所であるその住居を知りました。また被害に遭うた四人の女の子の顔を覚え、夫々のご両親の悲しみの声など何度もテレビ・新聞の報ずるところから、具に万人の知るところとなりました。

その上また、犯人加害者の妹さんは、折角ととのうていた婚約が、この事件のため破談になったことも知りました。これはこれで一つのニュースだから、テレビ新聞の扱うところとなったのでしょう。

しかし人の話題にも上がりませんけれど、深い悲しみにひしがれて、懊悩やる方もない人がある。加害者の父・加害者の母がそれです。

さらにいや、だからこそ、この那落(ならく)の底に落ちこむほどの父の苦しみを、苦しむ母の悲しみを悲しむ大悲が湧き起こります。大悲は極まりまして己の仕出かした事が見えてもいない青年の命に満ちて及びます。如来(おや)さまの声がとどきます。ナマンダブツ ナマンダ仏と来ておいでです。



同じ名ねと ダウン症児に 握手する

同じ名ねと ダウン症児に 握手する 担任新卒 洋子先生

朝日新聞歌壇に見た加納正一氏の歌。歌の作者がダウン症児童の父親なのかどうか。

あるいは大学卒業しだちの新任教師である洋子先生を伴い、その担任することとなったクラスの児童に、洋子先生を紹介する学校の教頭先生でもありましょうか。洋子先生、子供たちの名を呼んでは、その名前と顔をたしかめます。

”○○洋子さん”読みあげた名に応じたのは、ダウン症の女の子。 ”あら あなた先生と同じ名前なのね”と歩みよって、特に握手する。 まことに溌剌たる若い女教師の姿です。

身心ともに健康な子供達の中に、体の上にも知能の上にも遅れの目立つダウン症児。その子を別け隔てせぬ振舞いには、なにより互いの上に共通な等しいものを見ていかねばならぬ。

よかった、この子、私と同じ名前の洋子さん。さあ洋子さん、あなた、握手しましょ。

光明寿命二無量の如来(おや)さまが、ナンマンダ仏と私にお宿りくださいます。光寿無量のお覚りの功徳をはらむ念仏者は、弥陀正覚に等しい位の命です。 ここを阿弥陀経に、如来さまが光寿無量であると説かれた上で、さらに極楽に生まるる人々までもが、同じ光寿無量の功徳を等しく保つと説かれます。

こうして親鸞聖人は、 念仏往生の願により 等正覚に至る人 すなはち弥勒に同じくて 大般涅槃をさとるべし

と、詠われました。等しく同じであることがまことに殊勝の有難さと感嘆の声をあげられました。



通ぜざる 手話に悲しき 瞳して

通ぜざる 手話に悲しき 瞳して 聾児我が掌に 指で字を書く

耳が聞こえぬ子には、声に出す言葉がない。訓練を受けて手話を覚えた。その子がしきりに手話でもって語りかけてくる。

しかし手話を知らぬこの身には、子供の話が伝わらない。どうにも通じぬと知って、この子、とうとう指先でわたしの掌に字を書く。一文字・一文字書いては眼を挙げて、こちらの理解をたしかめさぐります。その瞳は悲しみを帯び言い知れぬ淋しさがにじみます。

通ぜざる 手話に悲しき 瞳して 聾児我が掌に 指で字を書く

思いが届かず意を尽せずして対(むか)い合うままでは、空しく心を塞がります。今、阿弥陀さまが周到なご用意のお誓いで、私の命に立ち向かわれます。例えば極楽の功徳を果す上からは、洗濯・縫物などまでを解除するよう採り上げられます。

洗濯ごときことまでを、抜かりなく採上げられる、実は凡夫の溜め息・苦悩の現場に立ち合うて、細やかにお見抜きなされた弥陀の慈悲。

身ごなし少し不自由な老人のお話に”今はまだ下着の洗濯いたしてますが やがてそれもかなわぬようになりましょう。さて何としたものかと案ずる中 眠れぬ夜が長うございます”と、しみじみ聞くことでした。

健やかなれば取るに足らぬ些細なことが、不自由をかこつ人には、身一ぱいの悩みとなって、忽ち夜の眠りを奪います。

弥陀大悲の誓願は、思いの裡に分け入って、この溜息に狙いをつけて、的をはずさず今ここに、ナンマンダ仏とお宿りです。ご一緒していて下さいます。



近頃会社企業の役付き

近頃会社企業の役付きとなり、公務員の管理職の椅子に座る、そんな女性があります。多数の人を使うて事業を営み、あるいは時流の先端にあって、才能を発揮する女性。また専門の学問に没頭する女性研究者も排出しています。

ながいきを したりし母の 手のわざの 遺るなく何に よりて偲ばむ

紙塑人形作家・アララギの歌人・鹿児島寿蔵先生の歌です。その母上は明治の初めにお生まれで、大正・昭和と生き継がれ、昭和四十年頃、八十半端で亡くなられます。

寿蔵先生が母上の生涯を偲ばるるに、形に顕われ残る物が何にもない、と歌われる。しかし、この歌の背後にひそむ先生の思いの程を、この三月九十七歳で往生を遂げました。私の母のことを重ね合せて察します。

母親はいつも何かをしている。洗い、干し、たたむ。繕い、縫い、ほどく。刻み、焼き、煮る。沸かす。注ぐ、並べる、拭く、納う。手に細々と整え仕上げているようでも、今ここに、母の業績(てがら)だという形ある物では何一つ残存していない。

ながいきを したりし母の 手のわざの 遺るなく何に よりて偲ばむ

だがしかし、これだと局(かぎ)れはしない。あれだと定められない。小止みなく動く手仕事。暇なく身動きする姿が際限なく彷彿として顕(た)ち現れてくる。まことひたすら子故に一途であって厖大な慈悲の命です。

お念仏のみ法を導きくれた生命(いのち)であったと知りました。有難くも念仏につらなる尊い生命と拝みます。

ナマンダーブ ナマンダブ ナマンダーブ ナマンダブ ナマンダブツ。



ビリの子は まだ懸命に 走りいて

ビリの子は まだ懸命に 走りいて マイクは次ぎの プログラム告ぐ

朝日歌壇の下関・牛島正行さんの歌。運動会のカケッコ。これが学年最後の一とグループ。

一着がテープを胸にゴールするや次々になだれこむ。素早くマイクは場内一ぱい次のプログラムを告げました。

あろうことか、ビリの子はまだ懸命に走り続けているというのに。何たることを。  生きものの境界は激しい生存競争がある。英国の哲学者スペンサーのいう、環境に最も適したものが生き残るという適者生存の原理は、ダーウィンの”進化論”に用いられます。

しかし弱者が保護を受け、低劣な能力の命が見守られるのは、動物にもあります。ましてや人間社会、国や社会を挙げて、弱者へ弱者へと細やかな措置が行われます。

でもその順序はまず全体。次いで普通一般。次いで三番手四番手。そうしてからようやく極めて停滞している弱者のところへ及ぶ。

ビリの子は まだ懸命に 走りいて マイクは次ぎの プログラム告ぐ

実際には弱者が切り捨てられ見放される情況があります。

弥陀のお慈悲は極限の弱者の命に立向うことから開始されます。平生仏縁を保って過ごすことなく、仏とも法とも覚えず知らずしてきて、今や臨終の床にある者。その情況、この命に忽ち通用する慈悲は如何に。ここのこの場に通用する慈悲のすがたと択(よ)り選(すぐ)り抜かれて、ナンマンダ仏が成りました。

弱者を救うではありません。これこそ大悲救済の本命、お目当てとこそ告げられます。



病むと言わば 寂しと言わば 吾娘は来む

病むと言わば 寂しと言わば 吾娘は来む 病むとは告げじ 寂しと言わじ  (遠藤 千秋)

もし私が病気だと言い、寂しいとでも報(しら)せてやろうものなら娘のことですもの、必らずやきっと来てくれるにちがいない。無理に都合をつけてでも来てくれましょう。そうするにちがいないからこそ、私は少々の患ぐらい、報せはしません。ましてや寂しいなどと、娘の耳に入れるつもりはありません。そんな母の心の裡を詠む歌です。

朝日新聞歌壇のこの作者の他の歌によれば、五十年連れ添う主人があるという。ならば少なくとも七十前後になられよう老女であること、以前から見る作品で知れます。

女性には歳が幾つになろうと、女ならではの語らいがある。とり分け母と娘の間なら、終日語り暮れてなお疲れも覚えず、心のコリすらほぐれようというものです。母と娘の間なら見栄・外聞も気になりません。心くつろぐ暖々(ぬくぬく)とした思いがふくらみ満ちます。そこには命連なる心情の構造(しくみ)があるかと怪しまれるほど。

このこと歌の作者は能く承知しています。母と娘と共に肩に力を入れずに浸れるその語らいの楽しみ知ってます。しかし母たり、親たる身の業に、娘の身の事情が案じられます。立場が思いやられます。

娘は育ち盛り、学業半端の子供がいる。経済的に一番大変な時、また家庭を守るのに最も油断ならぬ時期。娘に無理はさせてはなりませぬ。理解(わか)っていてやりましょう。今は自ら患いの身を労り、寂しい思いも自分で胸の奥にしまいこんでおきましょう。

深々とした慈愛の念いがふくらみます。先意承問したまえる大悲はまた倦(ものうき)ことなく、常に照したもうと喜ばれます。



ふくらみし 真綿の如く あたたかき

ふくらみし 真綿の如く あたたかき 母の声きく 受話器の中に  (高知 結城 多良子)

結婚して女性はおおむね生まれた家を離れます。新しい家での生活は、なみなみならぬ緊張した思いで始められましょう。かかってくる電話に出ること一つにも、身構えた声の響を帯びています。

電話のベルが鳴る。取りあげた受話器に伝わり聞こえくる声。途端にひきしめていた気持ちがゆるむ。身構えた力がほぐれてきます。母さんの声。そうお母さんの声です。用向きは些細な事。その実、娘を案じて掛けて来たデンワ。

ふくらみし 真綿の如く あたたかき 母の声きく 受話器の中に

なるべくこちらの言葉は端折って、そのお母さんの声音・ぬくもりに浸っていたい。これはそんな光景が思い浮かぶ。朝日新聞歌壇の歌であります。

人は産声をあげる前、その母の胎内にある中から、母親の声を聞いて成長するという。赤ちゃんはまったく見知らぬ世界に出ました。天地の間に何一つ承知しているものはありません。

生命(いのち)に群がり聞えてくる音響・声の中に唯一つ、母の声のみ識別するといいます。母の胎内で育つその間中・聞え続けてふくまれたその声一つ、生命(いのち)に承知しているのです。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも 久しき仏と見えたもう

この私の認識・知覚に先立って、ナンマンダ仏のおん名告り。生死(まよい)の命にふくむよう、声のすがたに現われて、久しき如来(おや)のお呼び声・ナンマンダ仏と聞えます。



この世に生命(いのち)ある者は

この世に生命(いのち)ある者は、おおむね日に三度の食事をして、命を繋ぎます。一・二食抜いたからとて死にはしませんが、とにかく食べます。ましてや今、グルメ、美食・飽食の時代だといいます。

身内に人が死んだ。火葬場の炉に遺体を納めて火がはいります。お骨を拾うまでにはしばらく間があって、遺族をはじめいささかの縁に連なる人々数十人、待合室にたむろして待ちます。

丁度、時分どき、昼食が出されました。別棟とはいえ傍らの炉の火は、音をたてて燃える時、片やここにはいまだ命永らえて、世にある者の生の営みは終りません。盛大に食事はすすみます。

食欲があるのは遠縁の者だけだはありません。死者が患うている間、ひたすら看病にあけくれ、食事も疎かだった遺族・家族すら、今は食欲が戻っています。

炉の中に 焼かるる死者の 隣室に 生ある者は 飲食(おんじき)をする

朝日新聞歌壇のこの歌は、死せる者と生ある者との厳とした隔絶を現わします。

今生の別れに涙し、泣きながら食欲だけはある。哀しいまでの命世界です。大無量寿経に聞きます。

人は恩愛の情を絆に、世に生きていても、つまるところ独り生まれ独り死にゆくもの。この孤独の命を的にした阿弥陀さまのお慈悲は成ったと説かれます。

今やここに、この孤独の命にナンマンダブツの如来(おや)さまが来てくださいました。ナマンダ仏 ナンマンダ仏、放っておきはしない、独りにしてはおかぬとおいで下さっています。孤独じゃありません。独りじゃありません。



月に一・二度

月に一・二度、風呂場の体重計に乗ります。大体六十一キログラム、この二年変わりません。背丈が今の一六八センチになったのは、たぶん高校二年、昭和二十三年頃だったでしょう。その後二十歳頃から吸い始めた煙草を、三十五・六で止めるまで、体重はずうっと五十二キロ。ほとんど二十年変化がありませんでした。

ところがタバコを止してから太りはじめて、六十七・八キロと一・二年の間に、十五キロも体重が増えたのは、われながら吃驚したことを覚えています。その後十五年、その体重が続きます。

それが一昨年健康検査にドック入りして、お医者さんに肝臓・血糖値・中性脂肪の注意を促され、食生活を改めるように申されました。一々もっともだと肯かされまして、それから少し心掛けまして、今の六十一キロの体重に、この二年落ちついています。

ところで乗っかってるだけでこの体重計、私の体に備わる重みを正しく目盛りにきざみます。私の生活環境・生活態度まで反映し、体重そのままが目盛りに出ます。

さて”この上の称名”という時の”称”という字は、物の量目をはかり出すとということ、と親鸞聖人のお導きがありました。私がお称名する。これすなわち如来(おや)さまのお徳ご讃嘆、ほめ讃えることとなるのです。

物に備わる重みまるごと秤の目盛りに現われ出ます。弥陀の正覚(さとり)のお徳まるごとが、称えれば出るようになってるのですね。これぞ仏力功徳を、凡夫に称えられる名号にお仕上げの仏智のおいわれにほかなりません。ナマンダブ ナマンダブ。



ふくらみし

ふくらみし 真綿の如く あたたかき 母の声きく 受話器の中に  (結城 多良子)

何ほどの用事もないのに実家の母から電話がかかって来た。受話器に伝わり聞こゆるその声は、常の如くふっくらあたたかい。暫くは声の響きを楽しむように聞き入ります。

急ぎの用がある訳でなく、ただ何となく日々の消息を気遣うてかけてきたもの。それだけにお互いの日々の明け暮れ告げ会えば、それで用は足りてます。

さりとて受話器を置きませぬ。田舎に離れ住む老いた父・母の暮しに変わりなければ、ご近所の誰れ彼れ、田畑の実りのことなどを尋ねたずねて話を引き出し楽しみます。話の内容はともあれ、おだやかにふっくらとした母の声音にひたるように聞いてます。

あたかも陽差しの中にふくらんだ真綿にふくむ温もりに似て、遠く住む身の裡にきてしっとり分け入り満ちました。声に慈愛を含みこみ、母それ自体がそのまんまここに来てくれています。

ふくらみし 真綿の如く あたたかき 母の声きく 受話器の中に

極楽は本願の音声(おんじょう)世界、清・揚・哀・亮・微・妙・和・雅、弥陀如来(おやさま)の声の響きのみ満ちるとこ。十方諸仏の国にある、業苦の生死(いのち)、流転の命に響ききて、安堵の思いふくらみます。

声、仏事をなす、といわれます。まさしく生死勤苦この境界は、業苦の声があります。そこに声の如来(おや)さま、阿弥陀仏の声がきて、ナンマンダ仏とお宿りです。孤独じゃないよとごいっしょです。この世を過す間中離れずにいて下さいます。ナマンダ仏 ナマンダ仏。



子猫らが

子猫らが パン食ぶる様 見ておれば 盗みし親も また可愛がり

朝日歌壇にみた歌です。 私が生まれ育った福岡の田舎の寺にも、幼い頃、猫が居たような気もしますが、或いは近所の飼猫だったかも知れません。私が自分で猫を飼うた覚えはありません。

犬については母が”お寺には 体の不自由な人や 子供だちが気軽にお遣いに出入りし易いよう 犬は飼わぬが良い”と申してましたので、全く私の周囲に犬がいたためしがありません。

さて猫は一度のお産に何匹の子をもうけるのでしょうか。三匹・四匹も産むのなら、乳丈で足らなくなる頃、親は猛烈に忙しくなるにちがいない。わが子に与えるためには、何にでも手を出します。

ふと見ると、子猫たちがこの手で与えもしないパンを貪り食うている。親猫の仕業である。子猫らが食べる有様を傍らで見守って、自分は食べようともしない親猫です。

子猫らが パン食ぶる様 見ておれば 盗みし親も また可愛がり

親は子の命を見守って必死です。人であろうと動物であろうと、夫々その境界における親共通の生きざまです。


阿弥陀さまのお証(さと)り功徳・仏力のおいわれを、お経に”和顔(わげん)愛語・先意承問”したもうたと告げられます。

まよいの命・私に立ち向かて如来(おや)さまは、私がどれほど愚かに浅ましゅう見えましょうとも、凡夫・有情たるその身にとっては、それより他生きて見ようもないものかと、和顔愛語なさいましす。汲みとり受け容れたまいます。ナンマンダ仏の中味には、すべてこの私の事が組み込んで、成し遂げられてあるのです。



齟齬あまた 有り経しわれの

齟齬あまた 有り経しわれの おきふしに 添ひてひたすら 来し妻が病む

細川徹之助氏のこんな歌を読みました。 男は生涯、仕事・人間関係の上で、齟齬(そご)・蹉跌(さてつ)を来しては、まま連れ添う妻に、憤懣を傾け時に当たりちらすなど粗野なもの。それは男のわがままというものでしょう。とはいえ、当たられる女房こそ災難ですが、そこを呑みこんで従い添うていく。

今妻が恢復望めぬ患いで、衰えて床についた。男の介護は拙くぎことないものです。痩せた妻のふくらはぎ揉むなどしながら、胸に悔恨の思いが湧きめぐる。つき従うてきた妻に報うもの一つなく、このまま先立たせることとなれば、これぞ人生最大の齟齬ぞと暗澹となる。身の内の力が萎えていくほどくやまれてならない。こんな歌の心。

お経に告げられます。この命の終るにあたり、世にある間犯してきたさまざまの罪の一つ一つがよみがえり、更に命のゆくえをあやぶむ怯えとが、胸の内にせめぎあうとか。

ここに弥陀ご一仏、この実体(ありさま)を見抜かれます。一切の凡夫、当面する事態に一途になっても、齟齬だらけ、おろおろ立廻って辛苦とめどもない。他にどう生きてみようもない奴かと抱かれます。

如来(おや)さまの慈悲誓願は、こんな命に立向われます。お慈悲の仏(おや)は、愚かさ・浅ましさを発(あば)かれません。罪を裁きも責めもされません。

ただひたすら、凡夫私の成仏の見込みを立てて、功徳を集めた仏力を、ナンマンダ仏に成し遂げられ、私の命に持ちこんで来てくださいました。

今やお宿りごいっしょで、この口にナンマンダ仏と称えられて下さいます。



近頃公共施設

近頃公共施設のトイレやエレベーターなど、体の不自由な人が利用し易いように整えられています。交叉点を渡れるように音響で導きます。また講演会に手話通訳がつくなど配慮がされています。

でも障害者の日常は、起き臥しに不自由で、不安おびえが離れません。のみならず、心ない周囲の人の言動や眼差しにも、いらだちや怒りをすら覚えるのが実情でしょう。暫く前亡くなりました私の従兄は、中年になって眼の患いから、視力を失いました。

或る日、次ぎの様にもらしました。 ”気をつけて下さい。そこには段がありますよと教えてくれる親切な人がある。 しかしなあ段があるといわれても上がる段なのか下がる段なのかそれがわからん”と、こんなおもむきの話で、もっともなことと肯かされます。

身障者 夫が嗟嘆を まつぶさに 知るは吾のみ 二十年経つ  (六百田 美都子)

という、身障の夫に連れ添うご婦人の歌を読みました。他人にゃ解らない。傍観者の知るところじゃない。身辺の介護に明け暮れ二十年。それはまた、いらだち嘆きの呟きまで、ことごとく聞き続けた二十年でもありました。

この歌自体、この婦人の嘆息(ためいき)・嗟嘆(なげき)の声でもありましょう。

極楽は弥陀の大悲、満足しきって建立されます。仏力成就して、障害者の嗟嘆(なげき)が解除され、女性の嘆息(ためいき)が沈静(しず)められました。 弥陀の浄土に嗟嘆(さたん)の姿を見ることなく、愁嘆の声も絶えて有りません。

親鸞さまご和讃に”身相荘厳みなおなじ”と、謳われ”顔容端正(げんようたんじょう) たぐいなし”と、讃えられ”平等力を帰命せよ”と仰がれました。



お説教の二日目が日曜日

お説教の二日目が日曜日、その寺に参詣の同行に伴われてきたとみられる子供達が七・八人が、本堂の隅にかたまっています。

お話の前、如来さまの前のお供え物を眺めて、私が子供達に、 ”何かお下り頂戴できたら思うけど 適当なものないな。お餅もだめだし お菓子もないし”と申しました。

すると、傍らにいらっしゃたご院家さんのお母さん、あたふたと庫裡に入られたと見るや、ビニール風呂敷の四隅を掴んで、一包み何やら持って出られました。

”さあ あんた達 これお上がり”と、出されたのは、法事饅頭の一山です。 こうしたもの、今時の子供達が喰べるかなと見る中に、七・八人の子供達、夫々手に饅頭を握って頬張ります。まことに微笑ましい光景で、見てる当方(こちら)まで嬉しくなります。勿論、同行達もほほえみ眺めます。

ところでこの饅頭、お寺に予め用意されたものじゃありません。いわば有合わせ、間に合わせもの。もしそこに呉れてやるものが何もなければそれっきりです。

さて今ここに、私に宿る如来(おや)さま・ナンマンダ仏のいわれを聞きます。 生死流転・輪転止まぬ命の私に、眼差し深く寄り付いて、見離しならぬ如来さまが”廻向を首”当初から関わりきって下さいました。

有り合わせものじゃありません。間に合わせものどころか、これは全く私に狙いを絞って、必ず救う、きっと助くると、功徳力仏力ありったけを、ナンマンダ仏にお成就(しあげ)です。弥陀大悲ご満足あって、私に来てご一緒下さいました。



病む夫と われの手首を 縛りたる

病む夫と われの手首を 縛りたる 紐の弛みの 中に寝返る  (吉野 栄子)

この歌の作者は、昏睡状態が続く夫の介護をしています。終日家事に追われ看護に疲れる作者は、前後不覚に熟睡して夫の身の異変に心付かぬを憚ります。

そこで夫の手首とわが手を、互いに紐で繋いでおいて、眠りに入ります。はじめの中寝返りうって、はからずも紐を引張る形になって、度毎に眼覚めてしまいました。それが夜毎の眠りに馴れる中、いつの間にやら紐が弛む方に寝返る癖がつきました。紐の長さの範囲から、出ることならぬ身にとどめ、夫の命を保ちます。

病む夫と われの手首を 縛りたる 紐の弛みの 中に寝返る

まこと苦悩の有情の典型を見ます。そしてこの哀しいまでのいじらしい夫婦の命の縁ごとは、 生死の苦海 ほとりなし ひさしくしづめる われらをば 弥陀弘誓の ふねのみぞ のせてかならず わたしける という、親鸞さまのご和讃を呼びおこします。

柳宗悦といえば、庶民の暮らしの道具類に、職人の錬磨の技のたくまぬ美しさを見出し”民芸”ということを提唱し、広く世に知られた人です。

弥陀大願のお浄土が、広大にして辺(へり)もなく際もなし、と説かるるところを、”どことて み手のま中なる”と偈われました。

虚空広大なお浄土は、これだけ、ここまでの区切り局(かぎ)りが有りません。どう身動きしましょうと、この身のまんま大悲のみ手の真中です。



オリンピック

オリンピック史上最多の参加国があって、ソウルオリンピックは盛大で、スポーツ好きの私は、テレビの競技シーンに尠なからず興奮いたしました。たまたま説教先で、朝席のお話を終ってお昼ご飯を頂きます折り、女子バレーボール日本対韓国の熱戦の模様が、実況放送されています。試合が進む中、日本選手の打ち込んだ球が見事韓国守備陣を抜いて、明らかにポイント挙げたと見えた瞬間、アウト。線審がアウトのゼスチャー。ビデオで繰り返す画面では確実に入っています。

更に今度は韓国選手が力一ぱい打ちこんだ球が、日本のコートの外に出で、明らかにアウトボールのはずなのに、線審の手はコートの中に入ったのゼスチャー韓国ポイントです。まことに歯痒いことですが、何とも致し方ありません。何たって韓国でのオリンピック。線審を韓国の人が勤めるなら、これ位のことはあるかと見ました。

果して試合終了後のテレビ解説では、日本チームの監督が試合前、選手達にこんなことしてやられるとみて、三・四点は覚悟してかかろうぞと言い含めたとのことでした。もう既に見込みの中にあったのです。

龍樹菩薩が”凡夫は 愛によりて 生死を離れず”と仰言る。 親鸞さまは”恩愛はなはだ断ち難く 生死はなはだ尽き難し”と、これを頷かれます。

”まづ 凡夫は事に於いて 拙く愚かなり”と覚如上人のお聞かせも、いずれもいずれもナンマンダ仏の如来(おや)さまが、見込みの中に取込まれた慈悲満腔の思召しに違いありません。



女の人の一日は朝の仕度で始まります

女の人の一日は朝の仕度で始まります。炊飯器のご飯・ポットのお湯を確かめて、ミソ汁の実を刻む。漬物をあげる。よそう・注ぐ・並べる。洗うて伏せて片付けたら、濯いで干して、掃き出して拭く中に、朝は過ぎます。

取り入れて畳んでアイロン掛けながら、夕飯の献立を考える。そうする中にもあれを遣いきってた、これも残り少ないと心付くまま買物のメモなどをします。 クリーニングが届いたところで、タンスの整理を思い立って、やれま、なんと忙しいことと独りつぶやいたり、などなどなどなど。

妻の煮し マーマレードも 今朝終る すくなき縁 また一つ絶ゆ

と妻に先立たれた男の悲哀の歌にした、並川渉さんの奥さんは、死にゆく身の予感をもって、後に残る男やもめの夫の身辺に、あれこれ気配りの言葉をかけました。

家事万般見事に出来ずとも、せめて朝夕の仕度がかなうよう、またむさいな身なりにならぬよう、夫に連れ添う幾年月、ずうっと気遣うてきた経験のあれを言い、これを告げ、そうして逝った。逝ってしもうた。そこを、

貴方もし 残らばああせ こうせよと 言はれしを何も 覚えておらぬ

とも詠んで、妻の一生のはかなさと、取り残された男の”独り”の悲哀をこぼします。

イミ・ネウチの実りなく、女の一生にユクエ見えず”空しく過ぐる”と如来(おや)さまがお哀しみの命の様相が露出いたします。

本願力に遇いぬれば 空しく過ぐる人ぞなし

と葬式のご和讃は讃われます。ナンマンダ仏の如来(おや)さまが、今や空しい過ぎゆきの命に宿り、流転を止めて下さいました。あなた、よかった、涅槃(さとり)に往きつく命ですねと讃います。