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輝く讃歌

提供: Book

2009年9月6日 (日) 00:00時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 ((一)光明と名号の因縁)

目次

 賞雅哲然君は、大阪府茨木市の北境、龍王山の麓に面する本願寺の寺院に生まれた。  道心篤い両親の庇護のもとに育てられ、少年の頃から求法の念に燃え、学問を好んで行信教教に入り、十数年間ひたすら宗学の研鑽に努められた。

 縁あって鹿児島の明信寺に入り、寺門の経営と門信徒の教化には献身的に一貫して努力をせられた。君は青年の頃から、いささか視神経が弱く、視界が困難であったにも拘わらず、よくよくそれを克服して、学問と布教に専心身を挺してひるまなかった気力には全く敬服の他はない。

 そして漸く老年に近づいた今、過ぎし日に積みかさねて来た経験と信念を活かして、それを著書として残し、有縁の人びと、特に青少年に、浄土真宗のみ教えを伝えようと願っているのである。

 すなわち、さきには「輝くいのち」という書を出版し、これに続いて、今また「輝く讃歌」の出版を計っておられる。

 「輝く讃歌」とは親鸞聖人の残された”正信偈”のことであって、この偈には真宗の教えの要旨がまとめられており、門信徒は数百年来、これを尊び親しみ、明け暮れ仏前の勤行に諷誦(ふうじゅ)して来たのである。賞雅君は自坊で多年法話を行っているが、それには多く正信偈を依用(えよう)している。したがって正信偈は、君の血であり、肉であり、命であるともいえよう。賞雅君のみならず、真宗の門徒はすべてそうであるのが当然であろう。

 正信偈の解説書は、古来多く出版され、それこそ汗牛充棟(じゅうとう)もただならぬものがある。しかし君は単なる学問の書としてでなく、また講義のための本でなく、門徒がみな唱和しながら味わえるような書が欲しい--と書いているように、それが最も大切なことであり、祖意にかなうものであろう。わたしも多年それを望んでいたが、君が今それにふさわしいものを書いてくれたことは、よろこびに堪えないことである。

 この書は誰でも解るように平易を第一とし、しかも全篇を短くまとめてある。何事も煩雑な時代において、あまり長いものは一般の人にはひもときにくいが、この程度なら何返もくり返して読むことができよう。君がそうした点にねらいをつけたことが、この書の特色といえよう。

 しかしながら君の視神経は年と共にますます不自由となり、近頃は殆んど失明に近いまでになっている。そうした中から一方で寺の業務を行いながら、なお学問と伝道を捨てず、しかもこうした書を完成した努力には驚くべきものがある。

 君にこうした成果を挙げしめたものとして、節子夫人の支持力を見逃してはならない。この書を出版するに当たって、わたしに一読してほしいと渡されたものは、節子夫人の筆録によるものであった。すなわち君が口述したのを夫人がペンを持って追いかけ、それをテープにうつして更にそれを聞きながら文章をチェックして原稿用紙に清書されたのである。

 そうした作業もなかなか容易なことでなく、普通できることではない。

 坊守仕事が相当繁雑な中に、夫君にこれを成功せしめた節子夫人の労苦を改めてたたえずにはおられない。今こうして出来あがった文章を読みながら、一字一字に夫人の努力が浮かびあがっていることが偲ばれる。かくて夫婦合作ともいうべき伝道の書が、世に出たことを喜ばずにはいられない。これこそ浄土真宗を弘められた祖意にかなう、み法の精華として推奨すべきものである。

 夜の窓辺を打つさみだれの音を聞きつつ

  昭和五十六年六月下旬                  山本 仏骨


正信偈を仰ぐ  賞雅 哲然 著

はじめの言葉

 お正信偈、詳しく言えば正信念仏偈と申します。それは親鸞聖人が三十有余年の歳月をかけて、心血を注いで書かれました教行信証の行の巻の最後にかかれている六十行百二十句よりなる讃歌であります。

 この讃歌は親鸞聖人自身の信仰を述べられると共に、みほとけ<阿弥陀如来>の救いと、二千年の永い間に、印度、中国、日本の三ヶ国にわたってこのみ教えを正しく継承された七人の高僧の輝かしい功績をたたえられたものであります。  この教行信証の草稿の出来上がった聖人五十二才、元仁元年<一二二三年>を以て浄土真宗の開かれた時と定められました。従ってこの教行信証は立教開宗の書と言われ、浄土真宗の根本聖典として、御本典とあがめられています。

 永い永い歳月を費やして一語一語の言葉に吟味を加え、何度も訂正されて完成されたのであります。従ってこのお正信偈も幾度か筆を加えて書かれていますので、汲めども尽きぬ深い意味をたたえています。  私の恩師山本仏骨先生がこんな事を言われました。「お釈迦様の一代の八万四千の教えは大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土の三部経に収まり、この三部経は更に教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻に収まる。更にこの六巻は、六十行百二十句のお正信偈に収まる」と、すればお正信偈のおこころをいただくことは仏教全体の心をいただくことになります。

 このお正信偈を、私達宗門徒が朝夕親様のおうやまいに、又いろいろな聞法の座に、おつとめとして用いるようになったのは今から約五百年前、本願寺中興上人とあがめられる蓮如上人の時であります。即ち蓮如上人が五十九歳の文明五年<一四七三年>に正信念仏偈と和讃を合せて刊行して、お弟子の慶聞坊竜玄を大原につかわされて、ここで天台宗の声明<お経の節>を習わせ、正信偈和讃の節を作って、僧侶も門徒も共にお正信偈でお勤めするようにされました。

 思うに、蓮如上人の当時は「本願寺は寒々として参詣の人なし」と記されているように、大変衰微していましたが、よく上人一代の間に再興して、今日の本願寺教団の基礎を築かれました。その要因について、いろいろ数えられますが、その一つは正信偈の普及にあると言っても過言では有りません。

 ともかく蓮如上人以来今日まで、五百年の永い間にわたって、全国津々浦々、浄土真宗の門徒の在る処、お念仏の声のする処に、朝な夕な、お正信偈が唱和され、又聞法の座には必ずお正信偈がつとめられてまいりました。因に御本山では、逮夜<午後のおつとめ>に正信偈ハヤと言う節でおつとめされますが、これはわずか数分間であげ終ります。  この勤行形式は今から約四百五十年前、本願寺第十一代顕如上人の時に、織田の信長を相手に十一年間戦った石山合戦の時につくられたもので、激しい戦争のさなかにも、お正信偈が唱和されていたことを見落としてはなりません。

 当時の苦労を今に伝えるために、この節が残されているのであります。  私の子供の頃母に連れられて御門徒の家によく風呂を貰いに行きました。或る日門徒総代の宇山定吉さんの玄関の障子を開けて中にはいると、主人夫婦を中心に、家族みんなでお正信偈を唱和されていました。私の瞼には今もその時の美しい情景が懐かしく浮んでまいります。  このように、お正信偈は真宗門徒の家庭に定着し、これによって豊かな宗教心を培って来ました。

 私が小学校一年生の夏休みに、二つ上の兄<京都教区徳円寺住職加賀山哲良兄>と一緒に、父からお正信偈を習いました。生まれつき不調法で音痴に近い私には、このお正信偈の節がなかなか覚えられず、くやしくて涙をぽろぽろ流しながら、ようやく習いおぼえました。そうして朝夕のおつとめに又聞法の法座に門徒の人々と一緒に唱和しながら、子供心に強く強く感じたことは、折角おつとめしながら、このままでは意味が少しも解らない。詳しいことは解らなくても、大体の意味を知ってお勤めしたら又有難いのではないかと………

 それより早くも半世紀の星霜が夢と過ぎ去りました。私はここに、法話集「輝くいのち」に続いて、お正信偈の法話を世におくることに致しました。お正信偈の講義、又講話は沢山出されていますが、学問的な解釈で、屋上更に屋(おく)を重ねることをなるべく避けて、門徒の皆様が朝夕お勤めしながら、その大体の意味が解り、お正信偈を通して、ご法義を味わっていただくというところに目標を定めて、私の味わいを述べてみたいと思います。

 法話集「輝くいのち」の出版は光真ご門主の伝灯報告法要の年に当たりました。この「輝く讃歌」は私がお育てを受けた行信教校創立百周年並びに国際障害者年の記念すべき年に当たることは奇(く)しき縁(えにし)と有り難く感ずる次第であります。

 この小著はなるべく専門の言葉を避けて読まれる方々にわかり易くと心がけながら、やはり専門の言葉を無視することはできませんでした。従って難しいとお感じになられる方は宗教、仏教の入門書の意味で書きました「輝くいのち」を読まれた上で本書を読んでいただければ理解しやすいことと思います。

 一九八一(昭和五六年)六月

薩南の地 明信寺にて  空華末弟 賞雅 哲然

第一章 ひたすら待ち給うみほとけ

帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる

限りない智慧と限りない慈悲のみほとけの仰せに、ハイとすなおに信順しおまかせ致します。

(一)聖人の信仰

 このお言葉は、一行二句の短い言葉でありますが、親鸞聖人の信心の喜び、信仰のありったけを言い表わされたお言葉であります。

 親鸞聖人が今の世に生きておられたらと仮定して  親鸞様あなたは幼くして両親にお別れになり、人生の無常を感じつつ出家され、比叡のみ山に登って、血の出るような難行苦行をされました。二九歳の時に比叡のみ山に見きりをつけられて、六角堂の救世観世音菩薩の夢の暗示を受けて、吉水に法然上人を訪ねられました。法然上人の導きによって他力のお念仏の世界におはいりになり、それ以後きびしい人生を、お念仏を支えとして生き抜かれましたが、あなたの信心、信仰の喜びは如何なるものでしょうか、とお尋ねしたら、おそらく聖人はにっこりほほえまれて、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とお答えになると思われます。

 それは聖人がこの正信偈の前に、これを書くお気持をお述べになって、

「然れば大聖の真言に帰し大祖の解釈(げしゃく)に閲して仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知して、正信念仏偈を作って曰く」 と仰せになっておられます。

 このお言葉のお心は、お釈迦様の真実のお言葉をいただき、七高僧のお指図を仰いだ時に、いよいよ広大無辺の親様(阿弥陀如来)の御恩の深さが知らされました。今私はその喜びを正信念仏の偈頌(うた)に書いて申しあげます、と述べておられます。すればお正信偈全体が信心の喜びの讃歌と言えるでしょう。従って本願寺で正信偈を意訳されました時、信心のうたと名づけられました。

 お正信偈を書くにあたって、とくにその最初に自分の信仰をお述べになって「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と仰せになりました。

(二)すなおにみ仏のお呼び声に

帰命無量寿如来 南無不可思議光

 このお言葉は幼少の頃より聞き馴れた懐かしい言葉であります。この響きに接する時、暖かい命のふる里に帰るような懐かしさを感じます。 帰命と南無とは同じ意味で、印度で南無と言い、中国で帰命と翻訳されました。  親鸞聖人はこの帰命についていろんな角度からその意味を述べておられますが、その一つに「帰命とは即ち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがいてめしにかなうともうす言葉なり」<尊号真像銘文>と述べておられます。即ちみ仏の呼び声に素直に従い、おまかせする事であります。

 次ぎに無量寿如来、不可思議光とは二人の仏様のことではなくて、苦悩の私を救うと立ち上がって下さった懐かしいみ仏の名前、即ち阿弥陀如来のことであります。このみ仏は、お慈悲に限りがないから無量寿如来と申し上げます。又お智慧に限りがないから不可思議光仏と申すのであります。すればこの一行二句の言葉は限りなきお智慧とお慈悲の真実の仏様が、我にまかせよ必ず救うとの呼び声にすなおにハイと信順し、おまかせすることであります。これが他力の信仰の姿であり、親鸞聖人の信心の喜びはこのほかにはありません。

(三)求道聞法を通して

 親鸞聖人の信仰は、この二句に余すところなく述べられていますが、この信仰の境地に到達するまでに二十年間の血のにじむ求道(ぐどう)の生活があったことを私達は見落としてはなりません。

 真剣な求道、修行を通して開かれた信心の世界が、み仏の呼び声に素直に信順する境地でありました。私はこのことを思う時に行信教校時代に、道念厚く信仰の深かった先輩高田慈光法兄<元行信教校教授高田慈昭師尊父>から聞いたお話を思い浮べるのであります。

 この先輩のお寺に見知らぬ人が訪ねて来られました。何かの機縁で道を求める心が起こりキリスト教、真言宗、天理教と転々と熱心に道を求めて遍歴されましたが、どうしても落ち着く事が出来ません。それで親鸞聖人の教えを聞かしてほしいと訪ねて来られたのであります。

 この先輩は信仰厚く真面目な方でした。本堂に迎えて諄々と聖人の教えを話されて、私が救いを求める前に、すでに救われてくれよと呼び給う大悲のみ親のあることを話されました。この時この方は「私にはいよいよ解らなくなりました」と言われるのです。その理由を聞かれますと、「外の教えは私には一応理解出来ます。それは、キリスト教では罪を懺悔してお祈りしなさい。それによって神の愛を受けることが出来ると説かれ、又真言宗の教えでは私達は大日如来と一体で、私の身体は大日如来の分身である。然し煩悩によって汚されているから三密加持の修行<真言宗の修行の方法>によって煩悩を断ち切れば、仏になることが出来ると説かれます。又天理教では、人間は神の子であるが欲によって汚されている。その為病気をしたり、いろんな災難を受ける。だから『欲を捨て、悪しきを払って助けたまえ天理王のみこと』とお祈りすることによって御利益を頂き幸福になれると説かれています。

 これらの教えは一応私には頷けますが、問題はそれが出来るかどうかにあります。しかし真宗の教えは私には全然解りません。」 と言われるのです。どうしてですかと問われたら、それでは余りにも話がうますぎると答えられたそうです。

 私は四十数年前放課後、この先輩と信仰談義に花を咲かせている時に聞いたこの話が今も鮮かに浮んでまいります。み仏の仰せに素直に従うことがどんなに難しいかが、しみじみ思われ、親鸞聖人にこの境地<他力信心>がひらかれるまでに二十年間の自力修行のあったことも今素直にうなずけます。それでは私達は他力の信仰に入るのには聖人のような求道が必要かという問題が残ります。聖人の求道、修行に代わるものが聞法なのです。聞法の積重ねの上に開かれ行くのが他力信仰の世界であります。私は毎月八日の照明会の例会でこの話をした時に、会員の本田藤さんが、「御法義はうかうかと聞いていてはいけませんね」と言われました。その時私は、「そうですよ。命をかけて守り伝えられたみ教えは、真剣に聞いてこそ初めて身につくものです。」と申しました。

 蓮如上人御一代聞書第一九三条に

「至りて固きは石なり、至りて柔らかなる水なり、水よく石をうがつ、心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成(じょう)ぜざらん、と言う古き詞あり、いかに不信なりとも聴聞(ちょうもん)を心に入れまうさばお慈悲にて候間、信をうべきなり、ただ仏法は聴聞にきわまることなりと云々」

と仰せになったのはこのお心であります。

第二章 たれがための本願

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

法蔵菩薩因位の時、在世自在王仏のみもとにましまして、諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり、五劫これを思惟して摂受す、重ねて誓うらくは名声十方に聞えんと 阿弥陀如来が菩薩の位の時に法蔵と名乗り、在世自在王仏のみもとで、その導きによりて、あらゆる仏の浄土の成立つ因(もと)、その国の人々のよしあしをよくご覧になって、生きとし生けるものをまるの他力で救うという無上の勝れた本願、世に超えた稀なる大きな誓いを起こされました。五劫の永い間の思案の末に、四十八の願を起こし、念仏一行をえらびとられました。更に重ねて、必ずさとりの道に至り、貧しき者を救い、我が名を十方世界に聞かしめようと誓われました。

(一)正しき信仰と盲信・迷信

 よく言われる言葉に、”鰯の頭も信心から”、”苦しい時の神だのみ”と言うのがあります。  これはどんなものでも信心すれば有難く思われ又平素不信心の人でも、不幸つまずきに会うと神仏にすがろうとする人間のおろかさ、弱さを皮肉った言葉であります。

 これらはいずれも盲信、迷信と言われるもので、盲信とは、道理に外れたものを信ずることであり、迷信とは間違った道理を信ずることで、これらはただ気休安めに過ぎません。そこにはほんとうの救いはなくて、かえって不幸の落とし穴さえ待っています。

 大分前、新聞の読者の声に、迷信を追放しましょうというこんな投書がありました。それは徳島県であったことですが、或る娘さんの縁談が決まりました。お母さんが娘の為に買物に行き、帰り道駅前で易者にこの縁談を占って貰ったところ、凶と出ました。それをまともに信じた母親は、折角の話を強引に断わりました。娘さんは悲観してそのため入水自殺をしたというのです。これに類した話は世間に随分沢山あります。正しい信仰とはあくまで、正しい因縁因果の道理に立つものです。

 親鸞聖人が今、お正信偈の初めに自分の信仰をお述べになって、我にまかせよ必ず救うと呼び給うみ仏に素直に「ハイ」と従いおまかせしますと仰せになりましたのは、ただ救う救うというかけ声だけでなくして、み仏にそれだけの力と準備が出来上がっている。即ち救われる正しい道理のあることをお釈迦様のお言葉と、七高僧のお指図によって讃嘆されたのが「法蔵菩薩」以下「唯可信斯高僧説」までのお言葉であります。

 その中で、「法蔵菩薩」より「難中之難無過斯」まで二十一行四十二句のお言葉は、お釈迦様のみ教え、即ち大無量寿経によって作られたものですから依経段(えきょうだん)と言います。

 次に「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで三十八行七十六句は、七高僧の御釈によられていますので依釈段(えしゃくだん)と申します。

 今初めに掲げました「法蔵菩薩」以下「重誓名声聞十方」まで四行八句は救いの根本である阿弥陀仏の本願建立を讃嘆されたものであります。この本願によって生きとし生ける者の救いの道が開かれました。

(二)法蔵菩薩の発願修行

 親鸞聖人は、生きとし生けるものの救われ行く正しい道理として、大無量寿経により、法蔵菩薩の発願建立を高らかにうたわれました。  それは苦悩の衆生の救済の原理が法蔵菩薩の発願修行にあることを確認されたからであります。  今この事を理解する為に、お釈迦様が大無量寿経によって示された物語を紹介しましょう。

 今を去ること計り知れない遠い遠いいにしえに、錠光如来というみ仏がお出ましになって数限りない衆生を救済されて、さとりの世界にお還りになりました。それはお釈迦様がこの世にお出ましになって、衆生救済の聖業終りてお浄土にお還りになったごとくであります。この錠光如来に次いで五十一のみ仏が次々にお出ましになり、それぞれの衆生を救われました。五十三番目に出られた方を世自在王仏と申します。この時一人の国王がありました。世自在王仏の説法を聞いて感動し、直ちに王の位を捨てて出家されて、法蔵と名乗られました。そうして世自在王仏の勝れた威徳を讃嘆されて、

光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける
月日のひかりかげかくし 宝の玉のかがやきも
みなことごとく蔽(おお)われて さながら墨のごとくなり
世自在王のおんすがた 世に超えましてたぐいなく
さとりのみこと高らかに あまねく十方(よも)にひびくなり
<讃仏偈意訳>

と仰せになり、一切迷える衆生を救おうという深くして堅い志願を起こされました。世自在王仏はこの法蔵菩薩の志をみそなわして、それは大海の水を汲み干して、妙宝を探し求めるにも似ていることであるが、長い長い時間をかけ、撓(た)ゆむ事なく努力精進するならば、その志願を叶えることが出来るであろうと仰せになり、さらに神通力を以て法蔵菩薩の為に二百一十億の諸仏の浄土を現し見せられました。 法蔵菩薩はその一々の諸仏の浄土の成立のもとや、又諸仏の浄土に遊ぶ人々の善(よ)し悪(あ)しをつぶさに御覧になって、ここに総べての人々をまるの他力で救おうという無上の素晴らしい願い、世にも稀な尊い誓いを起こされて、五劫という永い永い思案の末に、善きを取り悪しきを捨てつつ、四十八の願をえらびとられました。そうしてその一つ一つの願に、もしこのことを成し遂げることが出来なかったならば正覚を取らない、即ち仏にはならないと誓われました。これは衆生救済のために自分のさとりをかけた堅い誓いであります。

法蔵菩薩はこの四十八願を建てられた次に、更に私が建てた超世の願を必ず成就して自ら無上道をさとり、もろもろの貧しき人々を救い、我が名をあらゆる国々に聞かしめようと誓われました。それより法蔵菩薩はこの願いを成し遂げるために兆載永劫(ちょうさいようごう)という永い永い修行を始められ、その修行を見事に完成して自らさとりの仏の座につき阿弥陀仏と名乗られました。ここに私達の救いの道が円(まど)かに成就されたのであります。それは、今を去る十劫のいにしえでありました。このことを親鸞聖人は和讃に

弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥を照らすなり
四十八願成就して 正覚の弥陀となりたまう
たのみをかけし人はみな 往生必ず定まりぬ

と詠われました。私達の為に建てられたこの法蔵菩薩による発願修行の物語りは、昔の人々は仏様<お釈迦様>のお言葉であるから、又親鸞聖人の仰せであるからと、何の疑いも持たず素直に信じて行かれました。

 しかし合理主義、立証主義の科学の洗礼を受けた現代の人々には、そんな事は有り得ないと否定して、とうていこのままでは信ずる事は出来ないでしょう。現代人の宗教離れの原因の一つは実にここにあると言わなければなりません。

 よくお寺参りを勧めると、お浄土があると言っても誰も見て来たものがないからという答が返って来るのもその為であります。ではこの物語りをどう理解すればよろしいのでしょうか、そこを明らかにすることが今日最も大切なことであります。

 これについて宗門大学の某教授が、或る研修会の席で、法蔵菩薩の物語は神話だと言って問題を起こされた事があります。神話とは古代の人々が素朴な心情、願いから語り伝えられた物語りでありますので、従って法蔵菩薩の物語りを神話と見ることは勿論間違いであります。ではこの法蔵菩薩の物語りを私達はどう受け止めればよいのでしょうか。次の節でこの問題を考えて見たいと思います。

(三)歴史的事実と宗教的事実

 この法蔵菩薩の発願修行の物語りは先ず結論から言いますと、言うもでもなく、歴史的事実ではなくて、歴史を超えた宗教的事実であります。ここで見落としてはならないことは、事実と真実とは違うということです。たとえば、夫婦喧嘩は事実であっても、それは夫婦の真実のあり方ではありません。又事実とは、いろいろな因と縁によって現れた一つの現象でありますが、真実とはそうしたものでなくて、真実に背き、真実に背を向けたものに働いて、元の真実に引き戻そうとする力であります。たとえば子供がもしあやまった道に走ろうとした時、親の真実は或る時にはきびしい愛の鞭となり、或る時は悲しみの涙となり、或る時は切々としたいましめの言葉となって、我が子を真実の道に引き戻そうと働き続けます。これが真実であります。

 今私の生きざまはどうでしょうか。仏教には真如背反と説かれています。それは私達は真実即ち真如に背き、真実そのものであるみ仏に背を向け、逃げよう逃げようとしていることであります。そのことは誰しも明るい家庭を望み、和やかな社会生活を願い、世界の平和を念じていますけれども、私達の現実はややもすれば家庭に波風が立ち、又上べは平和な町平和な村と見えていてもその裏には、常に小さなもの事が繰り返されています。

又人類始まって以来、戦争の悲惨さを、数知れず体験しながら、地上に戦争は絶えず、口に平和を唱えながら、軍備拡張、軍事大国の方向に不気味な動きを見せていることによっても知られます。その原因は、お釈迦様は真実の智慧を持たない無明から起る自己中心の心、即ち我執煩悩によるものと説かれました。この我執煩悩によって争いを繰り返して、苦悩の中にさまようています。この姿を迷いと説かれました。

 そうした私を、争い苦しみ無きまことのさとりの世界<涅槃>へ導き入れようとするのが宗教的真実であります。それは、迷いの凡夫の私を、仏にすることであります。

 この宗教的事実を法性・仏性とも、真如・一如とも説かれて、その働きをお釈迦様は大無量寿経に具体的に法蔵菩薩の発願修行と表されました。  すれば法蔵菩薩の発願修行は宗教的事実、即ち真如の働きの外ありません。

 親鸞聖人がこの真如・一如の働きを讃えて、この一如より形を現して、法蔵菩薩と名乗り給いてと、お述べになり又和讃<浄土和讃>に

無明の大夜をあわれみて 法身の光輪きわもなく
無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現(ようげん)する

と詠われたのはこの意(こころ)であります。この如来の真実は、科学を超えた世界であって、私達の経験的な知識で理解できる者ではありません。それはみ仏の真実の光に照らし出されて、深く自己を内省する心、即ち宗教的内観によって領解出来る世界であります。それは取りもなおさず、如来の真実によって呼びさまされて、心の底からうなずける境地なのです。おかる同行が

・おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから、
・聞いて見なんせ真の道を、無理な教えじゃないわいな、
・真聞くのはお前はいやか、外に望みがあるぞいな

と鮮やかに詠っています。

 経験的な知識を超えた如来の真実にうなずくことの出来るすぐれた能力を持つところに、人間の尊さがあるのです。昔より人間が万物の霊長と言われる理由はここにあります。  私はこれについてかって恩師山本仏骨先生からこんなお話を聞いたことがあります。先生が毎月或るお寺の宗教講座に行っておられました。この講座によくお参りされる婦人が訪ねて見えて、こんな対話をかわされました。

「先生、今の学校の先生は困ったものですな」
「どうされたんですか。」
「私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしておられましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら『ええ有難う、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています。』こんな事を言われるのですよ」
「それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ。」

 私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。  その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五官に感ずる世界しか解らないのもは、犬畜生の部類であります。五官を超えた、又経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。

 真実ならざる我執煩悩によってさまよい苦しむ私があればこそ、宗教的真実即ち如来の本願が起こされたのであります。親鸞聖人は和讃に<正像末和讃>

如来の作願(さがん)をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり

と詠われました。更に思えば、このみ仏の救いを展開せしめたものこそ、外ならぬ我執煩悩の業によりさ迷う私でありました。聖人は歎異抄に

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば偏(ひとえ)に親鸞一人が為なり、さればそくばくそれほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

と仰いで行かれました。

今ここにお正信偈に讃嘆された法蔵菩薩の発願修行は他が為でない、全く私の為でありました、それはこの本願を外にして生と死を超えて生き抜く道がないということであります。すなわち浄土があるかないかと論ずる前に、浄土なくしては生きられない自己に目覚めることです。それは聞法を通して、如来の真実に触れて信知する世界であります。

第三章 光の中に

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

普(あまね)く無量無辺光、無碍無対光炎王、清浄歓喜智慧光、不断難思無称光、超日月光を放ちて塵刹を照す、一切の群生光照を蒙(こうむ)る

四十八願を成就して仏の座につかれた阿弥陀如来の光明は、何時でもどこでも誰の上にも注がれて<無量光無辺光無碍光>過去現在の罪を消し<無対光炎王光>欲の心、腹立ちの心、愚痴の心をいやして<清浄光歓喜光智慧光>絶えることなく、常に照らし<不断光>浄土に生れて仏になさしめ<難思光無称光>月日に超えて内の煩悩を照らす<超日月光>、この十二の徳を具(そな)え給うのであります。この光を普く放ちて煩悩の塵の渦巻く迷いの世界を照らし給う。生きとし生くる者光の恵みを受けない者はありません。

(一)何時でも何処でも誰の上にも

 衆生浄土に往生せずば我も仏にならじと誓い給いて、その本願を円(まど)かに成就して仏の座につかれた仏<阿弥陀仏>の果徳、即ち光明名号の働きを讃嘆されたのが「普放無量無辺光」より「必至滅土願成就」まで五行十句の言葉であります。

 さすればみ仏は光明名号の二つの働きを以て衆生を救済し給うのであります。「普放無量無辺光」より「一切群生蒙光照」までの三行六句の今の言葉は、先ず光明のお徳を述べられたもので阿弥陀仏の光明のお徳は無量でありますが、今親鸞聖人はお釈迦様の教えによって、十二通りの徳に収めて讃嘆されました。その十二通りの徳の中、中心的なものが、最初にかかげられた無量光無辺光無碍光の三つのお徳であります。

 無量光とはみ仏の光明は時間に限りがなく無辺光とは空間に限りがなく、無碍光とはこの光明を遮(さえぎ)るものはないと言うことでありますので、何時でも何処でも、誰の上にも平等に注ぎ給うのであります。従って私達はみ仏に背いてどんなにあがいても、この光明の中から一歩も外に逃げ出すことは出来ません。

 これについてこんな面白い話が説かれています。

 西遊記で有名な三蔵法師が、中国より印度に仏教を学びに行った時、お伴の一人に孫悟空がいました。これはお猿のお化けで、五百年間山に籠もって修行し、神通力<不思議な力>を身につけました。得意になった孫悟空はお釈迦様に力くらべを申し込んだのです。

「あなたは仏の悟りを開いて、神通力を身につけられましたが、私は五百年の修行によって神通力を得ました。どちらが勝れているか力くらべをしようではありませんか」

お釈迦様はにこにこしながら「ではお前の神通力でこの私の手のひらから飛び立ってごらん。」 孫悟空はそんな事は造作もない事と頭の毛を三本抜き取り、息を吹きかけるとその毛はたちまち金頓雲という雲に変わります。この雲は実に速いのです。今のジェット機どころのさわぎではありません。一気に数千万里も飛び去りました。ここまで来ればどんなにお釈迦様の手のひらが広くとも、もう大丈夫と思い、手をかざしてみると、遥か雲海の彼方に一つの棒が立っています。孫悟空はその棒に目印をつけて、得意になってお釈迦様のところに帰ってきました。

「お釈迦様、私は一気に数千万里彼方に飛び去りました。あなたの手のひらどころではありません。」 するとお釈迦様は

「それには何か証拠があるか。」と仰せられました。

「ハイ遥か雲海彼方に立っている棒に目印を付けて参りました。」

「その棒はこれと違うか。」と人さし指を示されました。そこには確かに孫悟空の付けた目印があります。孫悟空は結局お釈迦様の親指から人さし指の間を飛んだにすぎなかったのです。

 このお話は何を教えているのでしょうか。私達はどんなに足掻(あが)いてももがいてもみ仏の慈悲の光明の中から一歩も外に逃れることは出来ないということであります。私はこの頃ふと思うのです。よくお寺や仏法の悪口を聞くことがありますが、昔はそんな時、すぐ腹が立って、”お寺参りもせず、仏法も解らず、えらそうな事を言うな、もし言いたければ仏法を聞いてから言え”と心の中で反駁(はんばく)しました。 然しこの頃は、そんな言葉を耳にした時に私は”あの人達は何処で仏様やお寺の悪口を言っているのか・・・”それは仏様の手のひらの上で、仏様の慈悲の光に抱かれながら悪口を言っている。どんなに悪口を言っていても、その人の上にも、み仏の慈悲の光が限りなく注がれている。だから何時かはそれに必ず目覚めるであろうと思う時に、そうむきに腹が立たなくなりました。親鸞聖人がみ仏の光明を讃えて、先ず最初に無量光無辺光無碍光と仰せになった言葉に限りない深さと温かさを感じます。

(二)光に育てられ

 光明の働きは十二通りに示されていますが、更にこれを要約しますと、調熟(ちょうじゅく)と摂取の二つにおさまります。即ちみ仏の光明は何時でもどこでも誰の上にも働いて過去、現在の罪を消し、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴の三毒の煩悩を癒し、常に照して絶えることはありません。また衆生を浄土に往生せしめ、仏にならしめ給い、内なる煩悩を照し給うのであります。私達は、この光明の働きによって本願を信じ、念仏する身に育てられるのです。

 私達は先にも述べましたように、仏に背き真(まこと)の教えに背いて逃げよう逃げようとしています。お寺参りと、遊びに出かける時とはどちらが足が軽いでしょうか。お寺にお参りしようと思っていても、少しの用事が出来るとそれにかこつけて次に延ばそうとします。遊びに出かける時は万障繰り合わせて足も軽々と出かけます。又折角お寺にお参りしても、お話が少し硬くなると上の瞼と下の瞼がつい仲良くなり、お話が終れば途端に目がさめて、新しく来た隣のお嫁さんの噂話になると目がいきいきと輝いて来ます。昔からお説教聞きながら居眠りする人はありますが、世間の噂話を聞きながら居眠りする人はありません。

こんな事を思うと私達の自性は、仏様が好き、仏法が好きとは言われません。それは何故でしょうか。皆さん達は汽車旅行された時に展開して行く風景の中で、何が一番目に止り、心魅(ひ)かれるでしょうか。私は僧侶でありますから村落の中に聳(そび)えるお寺の甍(いらか)であります。農業される方はおそらく稲や麦の成長ぶりであり、又山林に携わる人には、樹木の育ちぶりでしょう。このように私達は因縁の深いもの程、心がひかれて行きます。

私達は曠劫流転(こうごうるてん)と長い長い間迷いの世界をさ迷い続けて来ました。従って迷いの方には縁が深いから心魅かれますが、真実の悟りは未だ一度も経験した事がありません。従って縁がないから悟りを開く仏法にはなかなか心が魅かれないのであります。

「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨て難く、
 未(いま)だ生れざる安養の浄土は恋しからず候」 <歎異抄第九条>

 み仏の光明は聞法を通してこのような私の上に働いて楽しみ喜んで仏法を聞く身に育て上げて下さるのです。これを宗教的成長と言います。それは具体的なはどういうことでしょうか。一つは、我が身は悪しきいたずら者と自分の姿が見えて来ることであります。人間は昔から言われるように目が前についているから、人の欠点はよく目につきますが自分の欠点はなかなか気付きません。その私が聞法によって育てられて行く時に、自分のいたらなさ、欠点がおのずと見えて来ます。二つにはその欠点に気づいていくところ、温いみ仏の慈悲が懐かしく味わえて来ます。それはそのままみ仏の慈悲の光に触れることであり、慈悲の光によっていよいよ浅ましい我が身を知らされます。

 光明の働きによって自己の浅ましさと大悲に目覚めて行く過程を調熟といい、浅ましさの自覚の中に大悲に抱かれ、大悲に生きる喜びを摂取と説かれました。その摂取の風光を更に次の節で掘り下げて味わって見ましょう。

(三)摂取の風光

 親鸞聖人は、み仏の光明に摂取される風光を和讃に次のように詠われています。

金剛堅固の信心の 定まる時を待ちえてぞ
弥陀の心光摂護(しょうご)して 永く生死をへだてける

 このお意(こころ)は、聞法によってみ仏の大悲に目覚め信心決定(けつじょう)する時に、間髪を入れず弥陀如来のみ仏の光明に摂取されて、もはや自分の力で迷いの世界に沈もうとしても沈む事の出来ない身にならして頂いたと言うことです。

これは大変有り難いご和讃でありますが、私はかってこの和讃を拝読した時に一つの不審を感じました。それは先にも申しました通り、み仏の光明は何時でも何処でも、誰の上にも平等に照らし給うと言うことと、信心決定した時に初めてみ仏の光明に摂取されるということの矛盾であります。これはどのように理解すればよいのでしょうか。

それはたとえて申しますと、子供が母の慈愛の手に抱かれながら、眠っている時に、恐い夢を見てうなされているとします。その時子供は母の腕(かいな)に抱かれている事も知らず、悪夢の中に戦(おのの)いています。凡夫の私の姿はまさにこのような姿で、迷いの世界に在って、自己中心の心より或いは怒りの炎を燃やし或いは欲におぼれ、愚痴をこぼしながら悩み苦しんでいます。この姿を苦悩の衆生と説かれました。苦悩するままが大悲の光明の中なのであります。然し悪夢に戦く子供が母の胸に抱かれていることに気付かないように、煩悩の中に明け暮れしている私は、大悲の中にいることに気づかずにいるのです。この事を九条武子夫人は

抱かれてあるとも知らず おろかにも我反抗す 大いなるみ手に

と詠われました。反抗すとは大悲の中にあることを知らず苦悩にさ迷っている姿を言うのです。この私が聞法を通してみ仏のお育てを受けることによって大悲に目覚めさせて頂くのです。これを金剛堅固の信心とも、或いは信心の智慧とも讃えられました。信心決定する時に、初めて光明の中に在ることに気づき目覚めさせて頂くのであります。この喜びを聖人は和讃に

煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

と詠われました。

第四章 現在より未来

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因と為す、等覚を成り大涅槃を証することは必至滅度の願成就なり 衆生をまるの他力で救うという本願によって成就された南無阿弥陀仏の名号は、万善万行の徳を円(まど)かに具(そな)え、よく衆生を救う働きがある。この名号を信ずる他力の信心一つによって、現生(げんしょう)に於いて未来必ず仏になるという等覚の位、即ち正定聚に住し、やがて命終れば浄土に生れて仏のさとりを聞かせて頂く、これ総じて本願成就の賜である

(一)光明と名号の因縁

 み仏のお徳は、衆生を救うという働きの外ありません。その働きとは光明名号の二つであります。聖人はその光明の働きについて十二通りの徳をあげて讃嘆されましたので続いて名号のお徳を讃えられましたのが、「本願名号」より「必至滅度願成就」の二行四句のお言葉であります。今名号の働きを伺うにあたりまして先ず光明と名号の関係を明らかにすることが大切であります。この光明名号の関係については、教行信証の行の巻に、七高僧の中第五番目の高僧、善導大師の教えにもとづいて、光号因縁という妙釈を施しておられます。

「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因闕(か)けなん。
光明の悲母ましまさずば所生の縁乖(そむ)きなん・・」

と仰せになっています。即ち名号を父とたとえて因となし、光明を母に譬えて縁となされました。名号の父の因と光明の母の縁と因縁和合して浄土に往生すると述べられました。すれば名号の因、光明の縁の働きによって、私達がお浄土に往生することが出来るのであります。

因みに仏教では因縁という言葉がよく使われますが、因とは直接原因であり、縁とは間接原因と言えるでしょう。米を作る場合に籾種が因であり土、水、日光、肥料等が縁であります。今光明を縁とされましたが、光明の働きは先にも述べましたように調熟(ちょうじゅく)であって、仏法嫌いな私をだんだんと楽しんで仏法を聞く身に育てあげて下さることであり、名号とは正しく仏になる業因<種>を私に与えて、仏になるべき欠け目なき立派な資格をめぐんで下さるのであります。

その名号の働きをここに「本願名号正定業」と讃嘆されました。即ち苦悩の衆生をまるの他力で救うという仏のねがいによって成就された南無阿弥陀仏の名号は、正しく衆生を浄土に生れしめるすばらしい働きがあるということであります。私達が仏になるには願と行とが具わらなければなりません。これが正しい因果の道理に立つ仏教の定めであります。

 よって願もなく行も出来ない私を、仏にならしめるには、み仏が私に代わって願と行とを仏の手元に成就して、南無阿弥陀仏と名乗られたのであります。従って南無阿弥陀仏には、願と行とが具わり、万善万行の功徳が収められていますので名号を正定業と讃嘆されるのであります。

この名号のいわれを聞き開き信ずることによって、名号の功徳の全体が私の功徳となり、ここに仏になるべき完全なる資格と価値が恵まれて、やがてこの世の縁がつき、命終りて浄土に生れる時、み仏のさとりを開くのであります。このことを「等覚を成り大涅槃を証す」と述べられました。

 ここでなお見落としてならないことは、名号のいわれを聞き開き信ずる信心は私の方で起して行かなければならないのかという問題です。少し専門的になりますが、蓮如上人は南無阿弥陀仏の名号を機法一体と讃嘆されました。機とは衆生のことであり、法とは名号のことであります。この意はやさしく申しますと、南無阿弥陀仏のいわれを信ずる信心まで南無阿弥陀仏の名号の働きによることを顕わしているのであります。即ち私が賢くて信ずる信心ではなくて、衆生必ず救うという願いによって出来上がった名号の働きの外ありません。おかる同行がこのことを

おかるおかると呼びさまされて ハイの返事も向うから

と鮮かにうたっています。又山の端に登った満月を見て、ああ良い月だと見上げるままが月の光の働きの外ありません。月の光で月を見る、仏の働きで仏を知るの風情で、名号を信ずる信心を他力廻向の信心といわれるのはこれによるのであります。

(二)念仏者のあかし

 我が浄土真宗は、昔より同朋教団と言われ、これにふさわしい教団確立を目指して、宗門の二大基幹運動として門信徒会運動と共に、同朋運動が強く展開されていることは、周知の通りであります。同朋運動の基礎は、親鸞聖人が、親鸞は弟子一人も持たず、おん同朋おん同行とかしずいて行かれた精神によるのであります。

では同朋教団と言われる所以は何によるのでしょうか、それは今日多くの人が考えているような同じ教えを信ずる仲間だからというのではありません。もしようであるならば、他の宗教も皆同朋教団といわなければならないでしょう。天理教の人達もキリスト教の人達も皆同朋教団といえるはずです。然し他の宗教ではほんとうの意味の同朋教団とはいえわれません。浄土真宗に於てのみ、これがいわれるのであります。このことは見落してはなりません。

 ではどうして浄土真宗に限って同朋教団といわれるのでしょうか。それは信仰する対象が一つであるというのではなくて、信心そのものが如来から恵まれた他力の信心によるからです。天上の月も田の面(も)の水にも小川のせせらぎにも、汲み上げた盥(たらい)の水にも影を写します。写す器はそれぞれ違っていても、写った月の影は皆同じであるように、人はそれぞれ能力の差もあり性格賢愚の違いはあっても、聞法を通して胸に宿った信心の月には変わりはありません。

み仏より同じ信心を給り、同じ信心に生かされて行くから、念仏を喜ぶ人々を親鸞聖人はおん同朋おん同行とかしずいて行かれました。ここに身分や地位を超えて、温かく手を握り合うところに同朋教団といわれる所以があるのです。

蓮如上人は或る時お弟子の法敬房順誓の手を取りながら、法敬よ私とお前は兄弟だなあと仰せになりました。この言葉に順誓は驚き、「それは余りにも勿体ないお言葉であります。本願寺第八世の善知識親鸞聖人の生れかわりと仰がれる貴方と私のような者と兄弟とは余りにもおそれ多い言葉であります。」と申し上げた時、上人は「そうではない、お前の頂いた信心も蓮如が喜ぶ信心も同じではないか、そなたが参るお浄土も蓮如が参るお浄土も同じよ。同じ親を持ち、同じ信心の喜びに生かされ、同じお浄土へ参るならば先に生れた者が兄、後に生れた者が弟よ、私とそなたは兄弟よ。」<蓮如上人御一代記聞書取意の文>と仰せになった言葉が懐かしく味わわれます。

 私は学生自分に御正忌に本願寺に参詣しました。本堂でのおつとめが終り、総会所<お説教のある場所>の方に急いでいる時に、私の前を二人の女の人が話しながら行かれました。その言葉を聞くともなしに聞いていると、「私達お念仏を喜ぶ者は幸せですね、こうして初めてお逢いしても初めてのような気はせず、姉妹の様に打ちとけて話し合えますからね。」との言葉が耳に入りその二人の婦人の間に漂うほのぼのとした温かさに強く心をひかれました。

 親鸞聖人のみ教えに生きる私達真宗門徒は、温い同朋感の絆の上に手を取り合いながら、美しく豊かに生き抜いてまいりました。この姿こそ同朋教団のあるべき姿であり、宗門のめざす同朋運動とは正にこの姿の実現への運動に外なりません。更に思うに、法華経に常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のお話がとかれています。常不軽菩薩はすべての人々を軽んぜず敬い、礼拝して行かれました。

「汝に仏性有り、汝正に作仏(さぶつ)すべし、この故に我汝を礼す」

貴方には尊い仏性があります。その仏性が何時か花開いて仏になられるでしょう。この故に私は貴方を礼拝するのですと言い続けながら、悪童、乞食、遊び女等に至るまで礼拝してゆかれました。 私は今このことを思うのです。聞法を通して信心の智慧が恵まれ、信心の智慧の眼には生きとし生けるものすべてみ仏の愛子(いとしご)であり、その愛子にみ仏の慈悲の光は限りなく注がれています。ここに

「同一念仏して別の道なきが故に それ遠く通ずるに四海の中皆兄弟(けいてい)となす」 <曇鸞大師>

という同朋の世界が開かれて来ます。この同朋意識によって身分、学歴、因習等による差別の心が打ち砕かれていく、否打砕いて行かねばなりません。

 思えば徳川幕府の封建政治のものにきびしい身分制度が設けられて、三百年の永い間続けられました。明治維新になってこの身分制度が廃止され、人間平等が謳われましたが、永い間の因習は今尚残り三百万に及ぶ同朋が、厳しい差別の苦しみの中にあります。私達は今こそこのことに深く思いを致して悲しみを感じつつ親鸞聖人のおん同朋おん同行の精神に立ち返って、念仏者としての証を立てねばなりません。従って同朋運動とは念仏者は同朋であるとの自覚を深め実践すると共に、又生きとし生ける者すべての同朋であると自覚せしめる運動であります。明治天皇は

四海(よも)の海 皆はらからと思う世に
なぞ波風の 立ちさわぐらん

とお詠みになりました。物は豊かになり生活は便利になりましたが人々は個人の利益追求にのみ走り、極端なマイホーム主義に陥って、社会の連帯感を見失い、孤独地獄への道をたどりつつあります。今こそ同朋運動の実践と成果が強く期待される時であります。

(三)命のふる里へ

 私は最近ふと思うのです。人間に生まれた喜びは? 浄土真宗に遇った幸せは? とそれを思う時に数年前、私の法友大八木広澄氏<現鹿児島別院副輪番>より聞いた某婦人のお話が頭に浮びます。

この婦人は女の子をもうけて間もなく主人に死別されました。その後再婚の話は幾度かありましたが、それを断り、子供の成長を唯一の楽しみとして生き抜いて来られました。小学校、中学校、高等学校も優秀な成績で終り、京都大学を受験し合格しました。在学中は学生運動が非常に激しい頃で、幾度か参加するように友人からさ誘われましたが、軽はずみなことをしてもしものことがあれば、田舎で自分の無事卒業をひたすら待っているお母さんにどんな悲しい思いをさせるかと思うと、参加する気になれず、それを断り続け、無事四年の課程を終えて、母校の有明高校に国語の教師として就職されました。

それから一年半程過ぎた頃、どうも身体の調子がおかしいと鹿児島の大学病院で診察を受けましたが、原因が判明せず、九大病院で精密検査を受けたところ、脳腫瘍と診断されて入院されました。病状は悪化の一路を辿り、死期の近いことを自覚されたのでしょう。ある日

「お母さん、私恥ずかしいことがあるの、言ってもいいかしら?」
「何も恥ずかしいことないよ、何でも言ってごらん。」
「お母さん、私死ぬのがこわいの、死んだらどうなるのでしょう。」

この悲痛な叫びを聞かれた時に、この婦人は一言も答えることが出来ませんでした。主人と死別後、家の経済のこと、子供の教育等に心を奪われて、お寺にお参りすることが出来なかったのです。

 この娘さんは、悲痛な言葉を残し、やがて亡くなってゆかれました。火葬にふし、遺骨を白木の箱に納めて、胸に抱きしめながら、一人寂しく故郷に帰って来られました。

 この事がご縁となって、お寺の仏教婦人会にはいり、毎月の例会には欠かさず出席し、熱心に聴聞を続けられました。或る日ご住職に

「先生、私は自分の愚かさを娘にわびながら、朝夕お礼しています。」

と話されました。おそらくこの婦人がお礼をされる時に、娘さんの白木の位牌がいたいたしく眼に迫って来たことでしょう。その時娘さんの最後の言葉がなまなましく胸に甦って”どうかこの馬鹿なお母さんを許してね、あなたの食べること、着ること、学校の教育には一所懸命尽してあげたけれども、一番大切な命の問題、生死の問題については、何一つ教えてあげることが出来なくて・・・”と言う後悔の念が胸に迫って来たことでしょう。

 私はこれを思うのです。生死の問題、帰るべき命のふる里について、明瞭な解答が与えられる。そこに人間に生まれた本当の喜び、浄土真宗に遇ったこよなき幸せがあるのです。

 そんなことを思いつつお正信偈を拝読する時に、

「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」

との言葉が力強く胸に迫って来ます。  等覚とは凡夫より仏の位に到るまでに五十二段の階段があり、五十一段が等覚の位であります。即ち十信十住十行十廻向十地で五十段、次が等覚で五十一段、五十二段目が妙覚で仏のさとりの位であります。五十一段の等覚に登りつめれば次は妙覚の仏のさとりを聞くことに決定するのです。

 親鸞聖人は名号の働きによって信心決定するところに、次の生(しょう)には必ずお浄土に生れて間違いなく仏のさとりを聞く身に決定しますから、信心決定した人を等覚の位に入ると述べられました。

 そのことを「成等覚証大涅槃」と讃えられました。これは迷いと苦悩の世界にあって煩悩の中に明け暮れしながらも、帰るべき命のふる里を知らされたことであります。

往(ゆ)こか嬉しやあの山越えて 都まさりの親里へ

 帰るべき命のふる里を知らされた喜び、親に待たれつつある我が身の幸せは、そのままお陰様よと心豊かに生きる道であります。親鸞聖人はこの風光を

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど こころは浄土にあそぶなり
真実信心うるひとは すなはち定聚(じょうじゅ)のかずにいる
不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

と詠われました。

 されば浄土真宗の救いこそ現在から未来への末通(すえとお)った真の救いといえるでしょう。その救いは全く本願他力による救いであることを「必至滅度願成就」とうたわれたのであります。


第五章 み仏の世に生れ給う本意

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来世に興出し給う所以(ゆえん)は、唯弥陀の本願海を説かんとなり、五濁悪時の群生海、まさに如来如実の言(みこと)を信ずべし

釈迦如来をはじめ、すべての如来がこの世にお出ましになった理由は、唯阿弥陀仏の海のような広い本願のお慈悲を説くためでありました。末法の五つの濁りの悪世にあえぐ人々よ、今こそ釈迦如来をはじめ諸仏のまことのお言葉を信じなさい。

(一)阿弥陀如来と釈迦如来

 先に阿弥陀如来の本願、それによって成就された光明名号の働きを讃嘆されましたので、今のこの二行二句は阿弥陀如来の広大なお徳を迷いの人々に伝える為に世に出られました釈迦如来の功績を讃えられたのであります。

 今から十年程前になりますが、私のお寺の歎異抄の会の時に、当時の世話役でこの会の会員であった八重倉盛蔵さんがこんな質問をされました。 「お釈迦様と阿弥陀様とどう違うのでしょうか。又浄土真宗も仏教でしょう。それなのに、何故真宗のお寺では阿弥陀様だけを祭ってお釈迦様を祭らないのでしょうか?」<真宗では祭るとは言わず安置すると言います>

 この質問は素朴な質問ですが、真宗の基本的な問題だと思います。よく真宗の教えは相当聴聞された人でも、解ったようで解らないと言われます。仏教又は真宗はすっきりした理論の上に立っていますので、そう難しい、又ややこしい教えではないのですが、それが難かしいと思われるのはこうした基本的な問題を、説く方ではすでに解ったこととしてその解明をせずに先の方を説かれているからそんな感じを与えるのではないでしょうか。 今この基本的な問題に対し、明確な答えを出されているのが「如来世に興出し給う所以は唯弥陀の本願海を説かんが為なり」の二句のお言葉であります。阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、真宗の学問の上ではいろんな面から説かれていますが、解り易く一言で申しますと阿弥陀如来は救主、即ち救いの主であり、釈迦如来は教主・教えの主であります。

具体的に申しますと、阿弥陀如来の本願のおいわれを、私達に伝えん為にみ仏の国からこの世にお出ましになった方がお釈迦様であります。

 次に真宗も仏教でありながら、仏教の開祖であるお釈迦様を何故安置しないのか、という疑問は今申しました事をよく理解されると自ずと解消されますが、私達の信仰の対象つまり私を救うて下さるみ仏は阿弥陀如来一仏であります。従って信仰の対象として安置するのは阿弥陀如来で、他の仏菩薩を並べて安置しないところに、浄土真宗の特微があります。

 自力の教えでは自分の力だけでは仏のさとりを開く事はなかなか困難であります。よって諸仏菩薩の力を借りる為に諸仏菩薩を安置して、その加被力(かびりき)を要請するのです。

 浄土真宗は阿弥陀如来の本願のひとり働きで救って頂くのですから、阿弥陀如来一仏を安置して、他の諸仏や菩薩を安置しません。

 けれどもこれはお釈迦様を軽視することではなくて、阿弥陀如来一仏を信じてお敬いするままが、かえってお釈迦如来の本意に適い、お釈迦様を敬うことになるのであります。

(二)お釈迦様の本意はいずこ=

 親鸞聖人はお釈迦様がこの世にお出ましになった本意は、阿弥陀仏の本願一つをお説きになる為であったと仰せになりましたが、実はお釈迦様の教えは八万四千と言われるように、いろいろ沢山の教え即ち小乗の教え、大乗の教え、自力の教え、他力の教えといろんな面にわたって説かれています。これはお釈迦様の対機説法と申しまして、お釈迦様は法を説こうとする相手の性格、能力よ良く見極めて、その人に応じていろいろ教えを説かれたのであります。けれども目的は、迷いを転じて悟りを開く、即ち仏になるところにあることは言うまでもありません。その教えは八万四千、お経の数にして一万二千巻の一切経と言われています。

 そうした中にあって阿弥陀如来の本願のいわれを上下二巻にわたってつぶさに説かれた無量寿経<大経>こをお釈迦様の本意であったと親鸞聖人は鋭く見抜かれました。

 私はこのことについて、少年の頃、先輩<滋賀教区稲岡義山氏>の法話で聞いた歌を思い出します。 祭りには 皆とは言えど 気は娘  この歌には、娘を嫁がせた親の気持ちがよく表れております。村祭りが近づいたので、どうか皆様是非お揃いでおいで下さいと案内状は書きますが、親の気持は誰よりも我が娘に帰って来てほしい、娘さえ帰って来れば‥‥‥という気持でしょう。  お釈迦様は今申しましたように、沢山な教えを説かれましたが、その本意は阿弥陀如来の本願一つを説く為でありました。そのことはお釈迦様自身の言葉から、又道理の上からはっきり知ることが出来ます。

 王舎城外の耆闍掘山(ぎしゃくっせん)の空は清く晴れ渡り、明るい陽光は燦々(さんさん)と降り注いでおりました。  ここには今やお釈迦様の説法を前にして、既に修行成り、神通力を身につけられた聖者(しょうじゃ)方、その他数知れぬ勝れたお弟子達が集まっていますが、誰一人寂(せき)として声はなく、その会座(えざ)は静寂と緊張に満ち満ちていました。ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、十大弟子の中で多聞第一と謳われました阿難尊者が、ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、お釈迦様のお姿は常と事変わって巍巍(ぎぎ)として光り輝き、にこやかなお顔は喜びと満足に満ち溢れていました。阿難尊者は静かに面を上げて、そのお姿を仰ぎ見ながら、 「世尊よ<お釈迦様>私は今までこのような気高く尊いお姿は未だ一度も見たことがございません。今日の世尊は五つの瑞相(ずいそう)に輝いて、かねてお聞きした西方浄土の阿弥陀如来のお姿を拝するようであります。」と申し上げた時にお

釈迦様は 「善き哉善き哉、阿難よ慧眼<智慧の眼>を以てよく問うた。」と阿難の問いを讃えられて、 「私は世に現れて、もろもろの教えを広く説いて来たが、それは阿弥陀仏の本願を広く知らしめて真実の利益を恵む為であった。今こそその時が来たからである。」

と仰せになって説かれたのが無量寿経であります。この光景を親鸞聖人は和讃に

尊者阿難座より立ち 世尊の威光を瞻仰(せんごう)し
生希有心(しょうけうしん)とおどろかし 未曾見(みぞうけん)とぞあやしみし
如来の光瑞希有にして 阿難はなはだこころよく
如是之義(にょぜしぎ)ととへりしに 出世の本意あらはせり

とうたわれています。

 これによってお釈迦様の本意は、弥陀の本願を説くことにあることが明らかに知られます。次に道理の上からこれをうかがいますと、「諸仏の大悲は苦者に於てす」<観経疏>という言葉があります。

 即ちみ仏の大悲は常に最低の者に働きかけるのであります。さすれば先に申しましたように、お釈迦様は相手の能力を見極めて法を説かれました。善根功徳を積める者には廃悪修善(はいあくしゅぜん)の法を、心を一境に集中して浄土並びに仏を観想出来る者には観察(かんざつ)の法を、このように自力修行に耐え得る者には自力の法を、これらの自力の道を修めることの出来ない煩悩を一杯持った凡夫の為には、弥陀の他力のみ教えを、説かれたのであります。

 されば仏の大悲は誰の為に働くか、自力修行に耐え得ない凡夫の為にこそ、偏に働き給うのであります。さすればお釈迦様のこの世にお出ましになった本意は、最低の凡夫が救われて行く弥陀の本願を説くにあることが容易にうなずけるでしょう。このことを今「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と述べられたのであります。

(三)濁りの世を救う真(まこと)のことば

 一休和尚の歌に

生れっ子が 次第次第に知恵づいて 聖に遠くなるぞはかなき

 私が学生の頃読んだ本の中にこんな歌が書かれていました。今も脳裡に残っていて時々思い浮かびます。幼児の間は天真らん漫でその無邪気さは仏に近いような感じを受けますが、だんだん知恵がつくにつれて、それから遠ざかって行くことは否定出来ません。つまり悪知恵と言うのでしょうか。そのことを傷んで読まれたのがこの歌であります。

 すれば世の中が拓け、人知が進むということは必ずしも人間の向上や幸せにはつながっていないようです。  故湯川秀樹博士は、科学の発達は人間の生活を便利にしても必ずしも幸福にしないと言っておられます。  この言葉に私達はよく耳を傾けなければなりません。

 このことを思う時、今年六月頃だったでしょうか、私のお寺のYBAを卒業して他県に就職していた小久保文夫君が、十数年振りに帰って来て私を訪ねてくれました。今千葉市の消防署に勤め、救急車に乗っているそうです。

 小久保君の話によると実に腹立たしいことが多いそうです。それは夜中に呼び出されて出動してみると、救急車を呼ぶ必要のないような軽い患者や、又家で手当をすれば充分である小さな傷でも呼ばれる、救急病院に運び込むと医者や看護婦から、何故これ位な患者を連れて来たかと小言を言われます。 又昼間でもタクシーを呼べば金がかかるが救急車だと無料なうえに病院に行ってもすぐ診察して貰える、こうした状態で救急車を悪用する人が年と共に増えています。然もそういう人は地元の人でなく東京都から移住して来た通称インテリと言われる層の人々に多いのです、と。

 私はこの話を聞きながら、知識が進歩することがそのまま真の人間向上にはつながらないことを感じ、一休和尚の今の歌を思い浮かべました。そうして人間はやはり有難い勿体ない、お陰様という宗教的教養を身につけないと本当ではないね話し合うことでした。

 これに因(ちな)んで、NHKのラジオを聞いていると<昭和五十五年十二月七日>、校内暴力についての座談会の席で女性評論家が、電車の中で見られたこんな光景を話しておれれました。或るインテリと思われる婦人の連れていた幼い子供が電車に揺れて、思わず傍の人の足を踏みました。その時に婦人が、ごめんなさいと子供に代わってあやまられるかと思ったらそうではなくて、子供に向かって「電車が揺れて踏んだんだから、あなたが悪いのではないのよ、電車が悪いんだから謝る必要ないのよ」と言われたそうです。

 私はこの話を聞いて唖然とし、現代のインテリよ何処へ行く? という感を深くしました。

 お釈迦様は、末の世になればなる程時代や思想が濁り<劫濁、見濁>煩悩が盛ん<煩悩濁>で、人々がいよいよ悪くなり<衆生濁>生活が濁って来る<命濁>と説かれて五濁悪世と仰せになった言葉がしみじみ胸に響きます。

 親鸞聖人も激しい時代の転換期に立って、煩悩渦巻くこの世界をひしひしと感じながら、そこに蠢(うご)めく人々を五濁悪世の群生界と仰せになって、このような暗黒の世を照らす救いの光、それがお釈迦様によって説かれた弥陀の本願であると仰がれました。

 ここに「五濁悪時の群生海、如来如実のみことを信ずべし」と無上命令の言葉をもって力強く勧められたのであります。

第六章 信心の利益 〔その一〕

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

能(よ)く一念喜愛(きあい)の心を発(おこ)すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり、凡聖逆謗(ぎゃくぼう)斉(ひと)しく廻入(えにゅう)すれば、 衆水(しゅうすい)海に入りて一味なるが如し

能くみ仏の仰せに疑い晴(ほとけ)れて喜ぶ一念の信心が起こった時に、煩悩を持ちながら、それが妨げにならず、やがて悟りを開いて仏になる身にならしめられるのであります。凡夫も、勝れた聖者(しょうじゃ)も、五逆や十悪を犯した罪人も自力を翻(ひるがえ)して本願他力に帰入すれば、諸々の川の水が海に入りて一つの塩味に変わるように、同じ一味の信心を恵まれてたがてお浄土に生まれて平等のさとりを開くのであります。

(一)煩悩を持ちながら

 お釈迦様がこの世にでられた本意は、弥陀の本願を説くことにあると讃えられて偏(ひとえ)に信心を勧められました。従って「能発一念喜愛心」より「是人名分陀利華」までの八行十六句は、その信心の五つの利益を讃嘆されたのであります。

 この他力の信心の利益について次の四つのことに留意しなければなりません。 一、祈らずして信心定まるところ、自ずと利益が恵まれる。
二、信心と利益は同時である。
三、その利益は精神的福利で、金が儲かる、病気が治る等の物質的福利ではない。
四、精神的福利によって心に豊かさを持ち、努力するところに物質的福利を得る。

 今「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」とは、信心発(おこ)るところに、煩悩を持ちながら、それが妨げにならず、仏のさとりを開く利益を讃えられたのであります。
 煩悩を持ちながら涅槃<さとり>を得るとは当時の人々の耳を驚かした言葉でありました。それは煩悩こそ迷いと苦悩の根元であって厳しい修行によって煩悩を断じつくしてこそ、そこにさとりを開く、これが因果の道理による仏教の鉄則であります。

 私が学生の時利井興隆(かがいこうりゅう)先生から、中国の詩人で又政治家であった白楽天について、こんな話を聞きました。白楽天が隣の県の知事に任命されて赴任する途中、県境まで来た時に大きな松の木の枝に一人の坊さん<鳥巣(ちょうそう)禅師>が座禅を組んで修行していました。風が吹くと枝が揺れ、落ちそうで危くて仕方がないので白楽天は思わず”おい坊さん気をつけないと落ちるよ”と声をかけました。すると上から”落ちるとは汝の事なり”と言う声が返って来ました。そこで”生意気な、人が折角注意してやっているのに”と思い問答をしかけました。

”仏教とは何か? 一口に言って見よ””諸々の悪をなす事莫(なか)れ、諸々の善を行え””何、それが仏教か!! そんな事なら三才の童子も知るところ””三才の童子これを知ると雖(いえど)も、八十の老翁尚これを行い難し”

 これより白楽天はこの鳥巣禅師について仏の道を学んで行かれました。それ以後白楽天の詩は宗教的深さを増したと言われています。

 この禅師の答は昔から言われている七仏通戒の心を述べられたものであります。これは過去の七仏が何れもこの教えに従って人々を教化された言葉であります。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」[諸(もろもろ)の悪をなす事莫れ、衆(もろもろ)の善を奉行し自らその心を浄くせよ、これ諸仏の教えなり]

この意は申すまでもなく、悪を止め、善を修めながら自らの心を浄くして行く、これがあらゆる仏に一貫した教えであるというのであります。そうした中にあって、煩悩持ちつつ悟りを開くということは当時の人々にとっては想像もつかないことであったでしょう。したがって自力修行の聖道門の人々はこの念仏の教えは仏教に非ず、外道なりというきびしい攻撃をしました。思うに法然上人や親鸞聖人が流罪にあわれた法難の原因もここに根ざしているのであります。それ故にこそ親鸞聖人は煩悩を持ちながらさとりをひらくことを信心の利益の第一にあげられて強調されたものとうかがわれます。

 ではどうして煩悩を持ちながらさとりを開くことが出来るのでしょうか。岩石はどんなにしても必ず水に沈みますが、ひとたび船に乗せたならば、沈む自性のまま浮かびます。煩悩を欠け目なく具えて、地獄より外に行き場のない私ではありますが、み仏の大願業力という大きな弘誓の船に乗せられると、生死の迷いの海を超えて真実の浄土に生れ、仏のさとりを聞かして頂くのであります。

生死の苦海ほとりなし ひさしく沈める我らをば
弥陀弘誓の船のみぞ のせてかならずわたしける

(二)平等の救い

 信心の第二の利益は平等の救いであります。それを詠われたのが「凡聖逆謗斉(ひと)しく廻入すれば、衆水海(しゅうすい)に入りて一味なるが如し」のお言葉であります。

 このお言葉には二つの意味があります。一つは自力の心を翻して他力にはいれば、皆平等一味の信心に生かされます。 二つには凡夫聖者又あらゆる罪の人々も一たびお浄土に生まれるならば、一味平等の仏のさとりを開かして頂きます。その二つの光景を巧みな譬喩を以て説かれたのが「衆水海に入りて一味なるが如し」というお言葉であります。

 親鸞聖人は、果てしなく広いみ仏の大悲を表す時に、常に”本願海”とか”弥陀智願の海水”とか、”光明の広海”とか”海”の言葉を以て表現されています。これは聖人が三十五歳の時、念仏停止(ちょうじ)の法難によって流罪になり、五年間波荒き、果てしない日本海を朝夕眺めてお過ごしになったその印象が深く脳裡に刻まれたことによるのでしょう。

 海には二つの働きがあります。一つは大小様々の河の水を平等に受け入れる働きと、二つには受け入れた河の水を一味の塩味にかえる働きであります。み仏の本願は凡夫も聖者も善人も悪人も何等の差別なく受け入れて、しかも心は同じ一味の信心にかえて行きます。

 従って同じ信心に生かされるが故に因平等であり、因平等なるが故に果又平等で、同じ仏のさとりを開くのであります。因平等とはすべての人々の信心が同じということであります。これについて、もう十四、五年前になるでしょうか、私の門徒に山之内タカという素直に御法義を喜ぶ有り難いおばあさんがありました。どんな法座にも欠かさず本堂の真中の一番前に座って講師のお話をうなずきうなずき聞いておられるお姿は、えも言われぬ柔和な美しい姿で、今も尚私の眼に懐かしく浮かんで来ます。このおばあさんが何時の間にか参詣しなくなりました。親類の家に法事に行きました時、このおばあさんが参っていたので私は問いかけました。

 ”おばあさん、この頃お寺に姿が見えないがどうしたの。”

 ”御院家さん、このばばも今年明けて八十六になりました。八十四、五の頃までは御正忌や彼岸会等お寺の法座には朝早くからお参り出来ましたがこの頃は子供や孫が朝早く家を出ると心配だと申しますので、それを押し切って参ることが出来ません。それで家からお寺の方に向かって親様を拝んでいます。”

 私はこの言葉を聞いた時にふと蓮如上人の”仏法は若き時にたしなめ”とのお諭しをしみじみかみしめました。年を取れば歩行も叶わず、耳も遠くなり根気も続かなくなる、若き時にたしなめとのお言葉です。私は言葉を続けて”おばあちゃん、若い時から永い間お寺に参ったが、お寺に参ってどんなことが解ったの。”と問いました。”ハイ御院家さん永い間お寺に参ったお陰でこの婆々は、どこまで行っても頭の上がらぬ愚かな奴じゃと言うことがほんまに解りました。”

 この言葉を聞いた時、昭和十一年、春まだ浅き二月二十六日、寒風身にしみ白雪暁天に舞う帝都に、血気にはやる青年将校に指揮された近衛師団によって首相官邸及び重臣の邸宅が襲われ、血潮に彩られた二・二六事件の時の陸軍大将で教育総監でありました。かって陸軍士官学校の校長を歴任された真崎さんは、かねてよりこれらの青年将校に信望が厚かったのです。そこで今度の事件の後に、真崎さんが青年将校をあやつったという疑いをかけられて、陸軍大将は予備役となり、教育総監の地位を追われたのみならず、未決囚として巣鴨の刑務所につながれました。

 佐賀の浄土真宗の信仰の厚い家庭に育たれた真崎さんは、獄中の悶々たる情を癒す為に、親鸞聖人のお言葉をお弟子の唯円房が編集された歎異抄を巻き返し繰り返し読んで、信仰をますます深めて行かれました。裁判の進むうちにやがて無実が証明され、巣鴨を出て故郷の佐賀に帰る途中、大阪に降りて、利井先生を訪ねられました。利井先生が、”真崎さんよかったですね、今日の喜びを記念して書を交換しましょう。私も書きますから貴方も書いて下さい。”と言われた時に真崎さんは筆を取り墨痕鮮やかに「難抜(ぬきがたし)南無六字の城」と書かれて愚真書と記されました。これは頼山陽先生の石山合戦をうたった詩の一節であります。

 ”真崎さん、この愚真とはどういうことですか”と問われたときに、

 ”それはおろかな真崎ということであります。世間の人は陸軍大将とか教育総監とか言えば一きわ偉い人間とか思うかも知れませんが、この真崎は仏様の前には、誠に愚かな頭の上がらぬ奴でございます。”と答えられました。

 八十六才の、字も書けなければ読む事も出来ない先のおばあさんと、真崎大将と比べてみれば、人間の社会で大きな隔たりがあっても、信心の世界では全く同じだということをしみじみかんじました。信心平等なるが故に浄土で開くさとりも同じなのであります。このことを「凡聖逆謗斉しく廻入すれば、衆水海に入りて一味なるが如し」と讃えられました。

(三)恵まれた信心

 今この四句の言葉を見つめた時に、僅か四句の中に一という字が二ヶ所も使われてあります。即ち「能発一念の一」、「海一味の一」であります。一念の一は「無二」という意味のほかに速やか、速いということも表しています。

 親鸞聖人は教行信証の信の巻きに、一念を解釈して、「一念はこれ信楽(しんぎょう)開発(かいほつ)の時剋(じこく)の極促を顕わす」と仰せになりました。これは法をいただく「最初」ということのほかに時間の非常に短い、一思いの間ということでもあります。

一味とは申すまでもなく一つの味に住するということで平等を表しています。速いということと平等ということは何を意味しているのでしょうか。それは共に本願他力のめぐみということを表しているのであります。自分の力で作って行くならばどんな些細な物でも時間がかかります。又自分自分で作るならば、どんなに似ていても違いがあります。然し出来上がったものを頂戴するならば、何の手間ひまもかかりません。又出来上がったものを頂くのには、誰が頂こうと皆同じです。

 従って一念一味ということは他力の恵みを表しているのです。思えば煩悩を持ちつつ、やがて平等一味の仏のさとりを開くということは全く本願他力の賜であるということが明らかに知らされます。

 思うに仏教は時代が経つにつれて、小乗仏教より大乗仏教へと、広さと深さを増して発展して来ました。その目指すところは、どのようにして速やかな救いと平等のさとりを達成するかにありました。それを思う時に、親鸞聖人が信心利益を

能発一念喜愛心 <すみやかなる救い>
如衆水入海一味 <平等の救い>

とうたわれましたことは、大乗仏教の到達すべき最高の極致を示したものと言えます。それは取りもなおさず、浄土真宗こそ大乗仏教の頂点に立っていることを表しているのであります。

第七章 信心の利益 〔その二〕

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛顛憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来如実言
仏言広大勝解者 是人名分陀利華

摂取の心光、常に照護したもう、已(すで)に能(よ)く無明の闇を破すといえども、貪愛顛憎(とんないしんぞう)の雲霧(うんむ)、常に真実信心の天に覆えり、たとえば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下明かにして闇無きが如し、信を獲れば見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば即ち横(おう)に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す。一切善悪凡夫人、如来の広誓願を聞信(もんしん)すれば、仏は広大勝解(こうだいしょうげ)の者と言えり、是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名ずく

み仏の光明は常に信心喜ぶ人々を摂取し、照し護り給うのであります。従ってその人々は己に本願を疑う心の闇は晴れてはいますが、過ぎし世の業の絆の内にある身ですから、貪り、愛着、怒り、憎しみの煩悩の雲や霧は絶間なく信心の上に覆いかぶさってきます。けれども、それによって往生いかがという不安はありません。例えば日光を雲や霧が覆って、その光をかくしても、雲や霧の下は明るくて闇の無いのと同じであります。信心を獲れば心にみ仏の慈悲を思い浮べて、喜びの心が湧いてまいります。そこには、本願他力の働きによって迷いの世界に沈む絆は断ち切られるのであります。 総ての善人悪人の凡夫も、み仏の救いの誓いを信ずれば、お釈迦様始め、あらゆるみ仏から、広大の法の勝れた理解者であり、華にたとえて白蓮華のような美しい気高い人と賞(ほ)められるのであります。

(一)光明のなかに

 信心の利益の第三番目は、光明に摂取される利益であります。このことを親鸞聖人は和讃に、

煩悩に眼(まなこ)さえられて 摂取の光明見ざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

と詠われています。

 この意(こころ)は、煩悩に眼がさえられているから、み仏を見ることは出来ませんが、み仏は常に私を摂取したもうというのであります。

 私は学生時分にこの和讃を拝読するたびに、一つの矛盾を感じました。煩悩によって仏を見ることができない。それはよく頷けますが、それならみ仏が摂取し給うていることをどうして知ることができるでしょうか。

 これについていろいろ思い悩んで来ました。ようやく疑問を解く糸口が開けましたので、恩師山本仏骨先生とこんな対話を交したことがあります。

 ”先生、この和讃の矛盾についてこう考えますがいかがでしょうか。凡夫の眼に摂取の光明は見ることはできませんが、どうして摂取されていることが知れるかについて、九条武子夫人の歌に、

 これはこれ御加被力(おんかびりき)とや申すらん おのずからなる心のなごみ

というのがありますが、お念仏を喜ぶ生活には、煩悩を持ちながらも、おのずと心のなごみが出てまいります。それは光明の中に摂取されているからでしょう。”

 ”そうした味わいも否定はしないが、私はもう少し深いところで味わっている。”
 ”それはどういうところでしょうか。”
 ”往生論註<曇鸞大師著>という書物の中に、『非常の言は常人の耳に入らず』という言葉があるが、私が本願を疑いなく信じているここに摂取の光明に抱かれてあることが味わえる。摂取の光明と言えば何か唯外側から私を包んでいるように聞こえるが、そうではなくて、私の心中に入り込んで、内から私の疑いの闇をはらして下さる、ここに光明の摂取の働きが知らされる。”

 三十年程前に聞いたこの言葉が、今私の脳裡に甦って来ます。誠に疑い深いこの私が、今如来の本願に頷き、お念仏をする我が身の上に、摂取の光明の働きが暖かく感じられてまいります。このことを「摂取心光常照護 已能雖破無明闇」と仰せになりました。

 けれども私が今仏になったと言うのではありません。命終るまで煩悩を一杯持った私でありますから、縁に触れては怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの煩悩が次々起ってまいります。然しそれによって往生についての不安はなく、こんなあさましいやつをお救いの本願と仰いでゆくのです。そうした風光を「すでによく無明の闇を破すといえども貪愛顛憎の雲霧常に真実信心の天に覆えり。たとえば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下明かにして闇無きが如し」と仰せになったのであります。

(二)迷いの道は断ち切られて

 信心の利益の第四番目は、信心いただき、往生は一定(いちじょう)と安心するところに、み仏の願力の働きによって、迷いの道は断ち切られて、はや自分の力で地獄に堕ちようとしても堕ちることの出来ない身に定まった利益であります。

「信を獲れば見て敬い、大いに慶喜すれば」とは、聞法を通して私を救うと働きかけて下さる大悲の呼び声に目覚めたときに、心にみ仏の慈悲を思い浮かべ、敬う心と共に、救われた安心の喜びが恵まれるということであります。ここに迷いの絆は願力不思議の働きによって断ち切られました。この事を先にも挙げましたが、聖人は和讃に

金剛堅固の信心の さだまるときを待ちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける

と詠われました。そこに帰るべき命のふる里を知らされて、心豊かに生きる生活が恵まれるのであります。

 心豊かに生きるとは、心にゆとりを持って生きることであります。私は最近こんなことをしみじみ思うのです。後何年の命か知るよしもありませんが、たった一度限りの人生を、奇しくも人としての尊い命を恵まれて生きるのですから、残された命を大切にして力一杯心豊かに生き抜きたいと。

 心豊かにとは相手の身になり、或る時には広い心で許し合い、或る時にはやさしい気持ちでいたわり合いながら、美しく生き抜くことでしょう。

 私のお寺の照明(しょうみょう)会の会員の竹下鶴子さんが、こんなことを言われました。

 「先生、私は今まで教職にある主人について県内各地を回っておりましたが、定年になり日置に帰って来ました。日置に帰って来て、本当によかったと思うのです。それはお寺に御縁が結ばれ、聞法する身にならして頂いたからです。そうして私自身の過去を振り返り、現在を見た時に、変わらして頂いたなあとしみじみ思います。それは、人の苦しみ不幸には私の胸が痛み、人の幸せには素直によかったなあと喜ばれる身にさせて頂いたことです。」と。

 この言葉を聞いた時に、思わず素晴らしいなと感じました。私達凡夫は、ややもすれば人の苦しみ不幸を見た時に、口には気の毒になあと言いながら、心の底には何かほっとした気持ちが動かないでしょうか。又、人の幸せ、喜びには口ではよかったですねえと言いながら、心では何か割り切れないねたましい気持ちが動かないでしょうか。お釈迦様は大無量寿経に「心口各違言念無実(しんくかくいごねんむじつ)」と説かれて、心と口とは違い、又言うこと思うことに真実がないと仰せになりました。こうした姿が宿業に生きる悲しき凡夫の生きざまであります。

 そうした中にあっても、人の悲しみに胸が痛み、人の喜びを素直に喜べる、それはみ仏の大悲に触れ、大悲に育てられて自ずと恵まれる心のゆとりであります。

(三)み仏にほめたたえられて

 第五番目の信心の利益はみ仏にほめたたえられる利益であります。

 親鸞聖人はみ仏の教えを通して磨かれた鋭い内省の眼で人間を見つめられた時に、「一切群生海無始よりこのかた、今日今時に至るまで穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」<教行信証・信の巻>即ち生きとし生けるもの、量り知れない遠い古(いにしえ)から今日今の時に至るまで真実の智慧をもたない、無明による我執の煩悩に汚されて、清浄の心もなく、又うそ、いつわりによって真実の心なしと仰せになりました。この姿を更に具体的に「一念多念文意」に

「凡夫というは無明煩悩我らが身にみちみちて欲も多く、いかりはらだち、そねみねたみの心多くひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず絶えず」

とお示しになっておられます。

 この凡夫の姿の上に、親鸞聖人は自己を発見されたのであります。それは聖人の言葉によって窺われます。

「悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さと)りに近づくことをたのしまざることを、恥ずべし傷むべし」

と仰せになりました。この意味は親鸞はみ仏の救いのみ手にあり、浄土に生まれる身でありながら、心は愛欲と名利にさまようて、救われた喜びも浄土に近づくことを楽しむ心も起らないとの嘆きの言葉であり、また悲嘆述懐和讃にも

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒(ぞうどく)なるがゆへに 虚仮の行とぞなづけたる

と述べておられます。このように罪深き悲しき凡夫ではありますが、ひとたび如来の本願を信じ念仏喜ぶ身になれば釈迦如来はじめあらゆる仏がほめたたえられるのであります。このことを 一切善悪凡夫人 如来弘誓の願を聞信すれば 仏は広大勝解の者と言えり この人を分陀利華と名づく と讃嘆されたのであります。

 広大勝解の者とは、広大の法をよく理解した勝れた人の意で、それはこの世にありながらこの世を超えた永遠の世界から呼び給うみ仏の呼び声に目覚め頷く人を賞め讃えられた言葉であります。又分陀利華とは印度の言葉で、中国の言葉に訳して白蓮華(びゃくれんげ)と言います。白蓮華は泥の中より咲き出て泥に染まりません。本願に頷く信心の華は煩悩の中に咲き出て煩悩に染まりません。この風光を善導大師は、

「衆生貪瞋(とんじん)煩悩中によく清浄願往生心を生ず」と仰せになりました。お釈迦様は「観経」に念仏する人を「人中の分陀利華」と説かれ、この意を承けて善導大師は「人中の好人・人中の妙好人・人中の上上人・人中の希有人・人中の最勝人」すなわち好(よ)き人・妙なるゆかしい人・この上ない人・まれなる人・最も勝れた人と讃えられたのです。  親鸞聖人は煩悩いっぱい持ったこの身のまま、み仏から賞め讃えられることに無上の感動と感激をおぼえられました。お念仏を喜び、大悲を仰ぎつつ生き抜かれた聖人の胸には、常にこんな思いが流れていたのではないでしょうか。九十九人の目の見えない人に賞められて何が嬉しかろう。九十九人の目の見えない人にそしられて、何がさみしかろう。真実の智慧の眼を開かれた仏様に賞められてこそ人間としての本当の生き甲斐、喜びがあると。

 思うに聖人のこの感激感動は、そのまま今日念仏を喜ぶ私達の感激感動でもあります。煩悩を持った恥ずかしい私ではありますが、その深い内省の上にたって、み仏に賞められている自覚と喜びの中に、いよいよ自らをたしなみつつより美しい、豊かな生活をする。ここにお念仏者の生き方があると申せましょう。誰が詠まれたか次のような歌があります。

おほけなけれど報恩に 心傾けこの村に
み法の蓮咲き匂う 浄土の影を宿さなん

第八章 聞法の姿勢

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

弥陀仏の本願念仏は邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること甚だ以て難し、難の中の難これに過ぎたるはなし 阿弥陀如来の本願による他力念仏のみ教えは、因果の道理を否定する邪見の人々や、うぬぼれの心の強い驕慢の衆生には、信じ受け入れることはなかなかむずかしいのであって、難中の難、これほどむずかしいものはありません。

(一)邪見

 信心の利益をあげてひたすら信心をおすすめになりましたが、お釈迦様の教えに基づいて書かれた依経段(えきょうだん)の結びとして、本願の念仏を頂く心構え、即ち本願に対する姿勢についてお諭しになったのがこの四句のお言葉であります。 本願の救いの前には邪見の心、驕慢の心をはなれて、謙虚にみ教えを仰いで行きなさいとのお諭しであります。邪見とは、世間では血も涙もない非情な人を邪見な人と言いますが、本来仏教に於いてはそうではなくて、正しい因果の道理を否定する考えを邪見と申します。この邪見について二つのことが説かれています。

 一つは断見といって人が死ねばそれでしまいという考えであります。即ち心といっても魂といっても、それは肉体があるうちのことで、肉体が滅びたならば、心も魂も共になくなってしまうという考えであります。その状態はローソクの火が消えたように、又水の泡が消えたようにというのであります。この考え方によりますと、どうせ人間死んだらしまいだから、生きている間に面白おかしく暮らすのが一番賢い方法である。倫理や道徳もそんなことは問題でないという、ただ一瞬一瞬の享楽を追い求める快楽主義におちいって行きます。

お釈迦様が印度に出られた頃、こんな考え方が当時の社会を風靡(ふうび)しておりました。これは当時のバラモン教の極端な苦行主義の反動として起こったものと思われます。けれども単に二千五百年の昔の話でなくて、現代の人々の心を強く支配しているのではないでしょうか。即ち凶悪な犯罪や自殺の増加はこの考えによるものといわねばなりません。

 二つには常見であります。これは断見に対する真反対の考えで、人間死ねば又人間に生まれる、犬や猫が死んだら又犬や猫に生まれ変わってくるという考え方です。それと共に今一つはたとえ肉体は滅んでも霊魂は生きている、という考え方です。この考えも、やはり現代人の心を強く支配しています。よく耳にすることでありますが、どうも不幸や躓(つまずき)が続く、それで占い師に見て貰ったら何代前の祖先の霊がたたっているからと聞かされ、今までお寺に参ったことのない人がお寺に参って供養をあげることがしばしばあります。

 この二つの考えは相反した考えのようでありますが、現代人の心に同時にひそんでいるのではないでしょうか。或る時には人間死ねばしまいだという考えに傾き、或る時には霊魂の存在を信じその支配におびえる。それは共にその奥にひそんでいる死の不安から起るものであります。ドイツのハイデッカーは、不安の哲学を説いて、現代人はどうして落ち着くことが出来ないのであろうか、それは意識するとしないとにかかわらず、死の不安におびやかされているからだと鋭く指摘しています。

 一般に仏教はこの常見<霊魂の存在を認める>の考え方であると誤解している人が大変多いのです。けれどもお釈迦様は、人間死ねばしまいだという考え方も間違いと否定し、又肉体は滅びても霊魂は生きているという考え方も間違いと否定されたのであります。そこに三世にわたる因縁因果の法を説かれたのが仏教であります。ちなみにこの事をもう少し説明しますと、私がここにあり、いろいろの果報を受けていくのは、過去世の業の結果であり、未来の果報は現在なしつつある業によると説かれるのであります。

お釈迦様が、過去世でつくった業<行為>を知りたいならば現在受けている果報を見よ、未来の果報を知りたいならば、現在なしつつある業を反省せよ、と説かれたのはこれによるのであります。即ち今一度申しますと、人が死ねばしまいになるのではなく、又霊魂だけが残るのでもありません。みづからのなした善悪の業によって私が次の世界に生まれ変って行くのです。仏教はこの三世因果の道理をふまえて説かれていますので、断見にしろ常見にしろ、因果の道理を否定する人々には、この法を信じ受け入れられないのは当然であります。

(二)驕慢(きょうまん)驕慢

 驕慢とは一口に言えば自分は立派だと言う自惚れ、たかあがりの心であります。これについては二つ説かれています。一つは増上慢、二つは卑下慢であります。

増上慢とは自分はえらい、何でも解っているという、たかあがりの気持ちです。よく貴方もお寺にお参りしませんかと勧めると、坊さんの話しぐらい解っているからと言う人があります。これが増上慢でありますがこの人達は仏法を聞く考え方が根本的に間違っています。仏法を聞くとは坊さんの話を聞くのではなく、坊さんを通して仏様の教えを聞くことなのです。このことについて昔の方々がお寺のお説教をお取りつぎと言われたのは誠にゆかしい、当を得た言葉であります。

次に卑下慢とは、自分は愚かであり、浅ましいと口には言いながら、浅ましい、愚かと気付いただけ気付かない人々よりましだという気持ちです。浄土真宗のみ教えを聞く人々の中に、こうした誤(あやま)ちに陥る人々が案外多いように思われます。

 私たちはこの点よくよく注意しなければなりません。いずれにしてもたかあがりの心では正しく仏様のみ教えを頂く事は出来ません。

 今から三十年程前私の町の中学に、若い独身の先生がおられました。非常に頭の鋭い方でしたが、私にこんなことを言われました。”私には親鸞の教えは解りません、悪人めあての救いとか、凡夫そのままで救われて行くというようなそんな倫理を無視した教えは到底受け入れられません”と。

 その時私は”貴方は親鸞聖人の教えが解らないと言われますが、貴方は貴方自身が本当に解っていますか。早い話が、同僚の先生があなたより一足先に栄転されたと仮定します。その時貴方は口ではよかったですねと言っても心の内はどうでしょうか。何か妬ましいおぞましい心が動かないでしょうか。そうしたあなた自身の本当の姿が見えない以上、親鸞聖人によって開顕された絶対他力の救いは到底解らないでしょう。”と答えたことがありますが、他力本願の救いとは、邪見の心を離れ、驕慢(きょうまん)の心を捨てて、我が身は悪(あ)しきいたずら者よと、謙虚に法を仰いで行くときに誰の胸にも領解されるのであります。このことについては次の節で今少し詳しく味わってみたいと思います。

(三)心得易い信心

 真宗の布教をする人々の中に、又門徒の中にも、浄土真宗の信心は難しい、難信であると説かれる方があります。この言葉には一面の道理はありますが、これだけの言葉では舌足らずで非常に誤解を生じ易いので不親切な言葉と言わなければなりません。

 浄土真宗はあくまで聖道門自力の難行道に対して、浄土門他力の易行道であるという踏えをしっかりしておかねばなりません。浄土真宗を難信の法と言われる根拠を、「信楽受持することは甚だ以て難し、難中の難これに過ぎたるはなし」の言葉によって主張されますが、その前の言葉を見落としてはならないのです。

邪見驕慢の悪衆生、この人々には、他力の信心を得ることが難しいというのであります。言葉をかえて言えば、邪見と驕慢の心を離れて、謙虚に本願のおいわれを聞くならば、誰の胸にもやさしくはいり込んで下さるのであります。それは阿弥陀如来は法蔵菩薩の修行の時に、保ち易い、称え易い南無阿弥陀仏の名号を案じ出(いだ)し給うたからであります。

 蓮如上人は「あら心得易の安心(あんじん)や、あら往き易の浄土や」と仰せになっておられます。

 そこで問題は、如何に邪見の心を離れるか驕慢の心を捨て去るかにあるのです。我執、自惚れの強い私たち凡夫にとっては、このことが実に難しいと言わねばなりません。ここに難信の理由があるのです。しかしこうした私にも、必ず救うとのみ仏の大悲が働き注がれています。よって私たちは謙虚におみのりを聞いていく聞法の積み重ねの上に、何時しか邪見の心、驕慢の心がお慈悲の中にとかされてゆくのであります。

 もう二十年も前になるでしょうか、毎年の五月二十二日より二十六日までの行信教校の安吾(あんご)<研修会>に参加した時です。午前五時起床午後十時消灯、その間食事の時間を除いて、講義、論議、講演が行われます。夜の講演はおもに学生や先輩がされます。三日目のことかと思いますが、私も大分疲れをおぼえました。晩の講演の案内に来た学生さんに”今晩の講演は誰ですか”と聞きました。”今夜は学生と先輩です”そこで私は学生さんの話ならば、疲れているから休もうかと思いました。が、折角南の果て鹿児島から来ているのだから、と自分に言い聞かせて本堂にまいりました。

その当時、京都大学の文学部長であられた井上智勇博士が、一般の人々に混って数珠をつまぐりながら静かに聞いておられました。私はその時ハッとして頭を打ちのめされた感じがしました。学生さんより少しばかりよけいに勉強したことをつい鼻にかけ、学生さんの話だからたいしたことはなかろうと驕慢の心になっていたのです。井上智勇博士は、あれだけ広く深い学問を身につけながら、高校卒業して僅か三年程、仏教の勉強をした学生さんの話を謙虚に聞いておられる。私は自分のたかあがりの気持ちを恥じました。お話が終わって控え室で井上先生と話をしている時、私はふと”先生ほどの方がよくあの学生さんのお話を聞かれますね”と言いました。すると先生は、
”君何を言っているのだ。僕は学生の話を聞いているのではない。学生さんの口を通して語られる仏の教えを聞いているのだ。”
私はこの時、この先生こそ本当の学者であり、又信仰の人だと新たな尊敬の念が湧いてまいりました。

 私達は少々学んだ学問、身につけた教養、又長く話を聞いて覚えた理屈を鼻にかけて批判的に法話を聞いていないでしょうか。あの坊さん若いけど少々良いことを言うな、あの人はこの頃上手に喋るようになったな、こんな気持ちでお話を聞いていても、それではお話しが身につきません。又それは真の聞法ではありません。己を空しくして静かにみ教えを仰いで行くのです。自分の方に一つのものを持って、批判的に聞いていても、それではみ教えが身につかないことをよくよく知らねばなりません。我が身は悪しきいたずら者と遜って教えを聞かせて頂きましょう。

 そのことを今親鸞聖人は、裏の方から「邪見驕慢の悪衆生は信楽受持する事は甚だもって難し、難中の難これに過ぎたるはなし」と厳しくおさとしになったのであります。

 このおさとしは邪見と驕慢を戒めると共に、もう一つの意味があると先哲は申しておられます。それはこの他力のみ教えこそ最も勝れた最高の法であることを顕わしているのです。その時の「難」の意は、難しいという意味ではなくて「難(かた)い」即ち「有ること難い」という意味で、その辺どこにでもあるという法ではなくして、誠に稀有な、有ること難い、尊い教えであるという意味であります。親鸞聖人は「遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已(すでに)に聞くことを得たり」と嘆じられました。

 このように尊い教えであるから心を引き締め、身を正して真剣に聞きなさいというおさとしであります。

第九章 七高僧の功績

印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機

印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、 如来の本誓機に応ずることを明かす。

印度に出られた龍樹(りゅうじゅ)菩薩、天親(てんじん)菩薩の論師、中国に出られた曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導く大師、日本に出られた源信(げんしん)和尚(かしょう)、源空(げんくう)上人等の優れた高僧方は、何れもお釈迦様がこの世に出られた正意を顕わされました。さらにお釈迦様によって説かれた阿弥陀如来の本願の誓いこそ、末の世の私達凡夫に最もふさわしい教えであることを明かされたのです。

(一)二千年にわたる正法の伝承

 今まで述べて来ました依経段は、私を救い給う本願の確かさをお釈迦様の言葉、即ち無量寿経・阿弥陀経によって讃嘆されたのであります。

 「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで三十八行七十六句は、七高僧の御釈によってさらに弥陀の本願を讃嘆されました。今この四句はその序文の言葉に当り、七高僧に共通した功績をお述べになります。即ち七高僧何れもお釈迦様の世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにありとあらわされ、その本願こそ凡夫相応の教えであることを明らかにされました。

 ここで話は少し横にそれますが、大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪われるという言葉があります。天皇より大師号をおくられた高僧は沢山ありますが、今日お大師様といえば弘法大師を指し、一宗を新しく開いた高僧を開山と申しますが、今日では御開山と云えば親鸞聖人に限られています。このように普通名詞がこの方々のお徳によって固有名詞に変わりました。親鸞聖人は一宗の開祖御開山と後世の人々から仰がれておられます。それは一宗の開祖としての条件を充分に具えておられるからです。一宗開宗者の条件とは次の四つであります。

一、宗名
二、拠り処の教典
三、教法の継承者
四、独自の教えの発揮

これを親鸞聖人についてみますと、宗名を浄土真宗と名乗られました。真宗教義のよりどころとなる教典は浄土の三部経、即ち無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と定められました。教法の継承者は、先に述べました龍樹菩薩、天親菩薩<印度>、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師<中国>、源信和尚、源空上人<日本>の七人の高僧です。法門の発揮とは、今までの高僧方が顕わされなかった独自の教えを顕わすことであります。即ち本願他力による往生浄土の道を、法然上人は念仏往生と示されました。この教えを正しく継承しながらそれを信心正因、称名報恩と展開されたところに、親鸞聖人の功績があります。これを法門の発揮と言います。

 このように聖人は一宗を開かれた開祖としての資格を充分具えておられますので、後の人が聖人を浄土真宗の御開山として仰ぐのは当然であります。  けれども聖人は一宗を開こうとする意志は毛頭ありませんでした。それは次の言葉によっても明かです。

一、弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば親鸞が申す旨、またもてむなしかるべからず候か。  <歎異抄第二章>
二、親鸞さらに珍らしき法を弘めるに非ず、ただ如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。 <御文章>

 この歎異抄また蓮如上人の御文章に引用されている親鸞聖人のお言葉の意は、阿弥陀如来の本願のまことが釈迦如来の説法と顕れ、その説法が善導大師の教えとなり、その教えを承けられた法然上人のお言葉を親鸞聖人が素直に頂いて伝えるばかりである。

 この意を更に要約され、親鸞はさらに特別変わった教えを広めるのでなく、釈迦如来の説かれた教法を親鸞自身が頂き、その頂いた喜びをあなた方にお伝えするばかりですと。

 この言葉によって明らかに知られるように、親鸞聖人には終始、一宗開宗の意志はなく、あくまで謙虚な聞法の行者として歩み続けられたのです。従って親鸞聖人は開宗の意志なき開宗者という言葉が最もふさわしいと言わねばなりません。

 思えば、お釈迦様より親鸞聖人に到るまで、国を隔てること、印度、中国、日本と三ヶ国、時を隔てること約二千年、この永い間に七人の高僧が次々とお出ましになって、お釈迦様の説かれた阿弥陀如来の本願を、増さず減らさず、一つの器の水を次の器に移すように次々と正しく継承されました。

 親鸞聖人は法然上人の導きによってこの本願を素直に信受されて、私達を導いて下さるのであります。「三国の祖師各々この一宗を興す、愚禿すすむるところさらに私なし」即ち印度中国日本の三国に出られた七高僧が、偏(ひとえ)に弥陀の本願を広宣されました。親鸞はその外に別に変わった教えを説くものではありませんとお述べになりました。そうして聖人自身、遇い難く聞き難い本願に遇い、本願を聞くことの喜びを思うにつけても、お釈迦様以来二千年の長きにわたり、この法を継承された七高僧のご恩を深く深く感佩して、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕わし、如来の本誓、機に応ずることを明かす」と讃嘆されました。

(二)七高僧の選定

 お釈迦様より親鸞聖人に到る二千年の永きにわたり、幾多の名僧高僧 が出られて、浄土の往生をすすめ、人々を導かれましたが、その中より特に、先に申しました七人の高僧を選び出し、七高僧として仰がれたのは次の三つの理由に依るのであります。

一、自ら西方浄土を願生された <自身願生(がんしょう)>
二、後の世を導く不朽の書物を書かれた <著述>
三、伝統をふまえながら新しい教義の展開をされた <法門の発揮>

 第一に自身願生、これは大変重要な意味を持っています。宗教学者必ずしも宗教人に非ずという言葉がありますが、どんなに広く宗教の知識を持ち、その学問に精通していても、その人が必ず信仰の人とは言えません。宗教の学問によってその知識の欲求が満たされても、それはそのまま信仰にはつながりません。何故ならば信仰とは学問知識を超えて、無限の如来の大悲に目覚めた世界であるからです。いろいろな宗教の教えに精通しても、貴方の信仰は何かと問われた時に、私はこの教えによって生かされ、この教えによって安らかに死を迎えることが出来ると言い切れなかったならば、それは学問の世界にとどまって、宗教としては何等価値のないものと言わねばなりません。

 私学生時代に、中沢顕明師より史学について特別講座を受けたことがあります。その時、名前は言われませんでしたが、かって東本願寺の僧籍にあった方が、何かの理由で僧籍を離れられました。宗教学については、深い学識があらわれたのでしょう、当時の有力な某新興宗教より、素朴な原始宗教から脱皮する為の教義の書きかえを依頼されました。そうしてこれをなし遂げて現代日本の有力教団として発展させられました。けれどもその方は最後までその宗教の信者にはなられなかったそうです。

 こうした姿は、どんなに宗教的知識を持っておられても、真の宗教者として仰ぐには足りません。

 今親鸞聖人が自己の師と仰ぐ方を選ぶについての第一の理由に、自ら本願を信じ、念仏しながら、西方浄土を願生されたことを挙げられたのは当然のことと言わねばなりません。

 第二の理由としては、著述の有無であります。西方浄土を願生された方々は数多くおられますが、後世に輝く著述を残された方となりますと、選定の範囲は狭まってまいります。

 七高僧についてこれを見ますと、龍樹菩薩には「易行品(いぎょうぼん)」、天親菩薩には「浄土論」、曇鸞大師には「往生論註」、道綽禅師には「安楽集」善導大師には「四帖の疏」、即ち「玄義分」「序分義」、「定善義」「散善義」、源信和尚には「往生要集」、源空上人には「選択本願念仏集」があります。これ等は何れも往生浄土の道について、後世の人々を導いて輝かしい光彩をを放っています。

 三つには法門の発揮、自ら浄土を願生し、著述を残された方々の中から更に伝統をふまえながら、その時代時代に応じて新しい独自の教義を展開された高僧はと尋ねてみれば、この七人に限られます。

 この新しい教義の展開を七高僧の上に尋ねて見ますと、龍樹菩薩は釈尊一代の仏教を難行道、易行道に分けて易行道をすすめられました。
 天親菩薩は一心願生と申しまして礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向の五つの徳を円(まどか)に具(そな)えた一心<信心>によって浄土に願生することを顕されました。
 曇鸞大師は自力他力を分別して自力を捨てて他力の行をすすめられました。
 道綽禅師は釈尊一代の教えを聖道門浄土門に分かち、末法の衆生にはひたすら浄土門をすすめられました。
 善導大師は、古今楷定と申しまして、極悪の凡夫がお念仏によって最も優れた阿弥陀仏の浄土に往生するいわれを明らかにされました。
 源信和尚は、専修念仏の他力の行者は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力の行者は、方便化土に往生すると示されました。
 源空上人はお念仏によって浄土に往生出来る理由を、阿弥陀仏の選択の本願によることを明らかにされました。このように西方浄土に往生する道について、その時代時代に応じてそれぞれ新しい教義を開いて導かれたのであります。この三つの条件に照らし合わせて、多くの高僧の中よりこの七人を選定されました。よってこの七人を七高僧として、その高恩を仰いで行かれたのであります。

(三)凡夫に相応しい教え

 七人に共通した輝かしい功績は、二つに絞ることが出来ます。一つはお釈迦様のこの世にお出ましになった正意は、弥陀の本願を説くことにあると顕わされたこと、二つにはその弥陀の本願は末の世の凡夫に、最も相応しい教えであることを明らかにされたことであります。

 第一のお釈迦様のこの世にでられた正意については、第五章「み仏の世に生れ給う本意」のところで述べましたので、そこにゆずり、第二の末の世の凡夫に相応しい教えであることについて考えてみたいと思います。

 源空上人は「極悪最下の機のために、極悪最上の法を説く」とお述べになりました。極悪最下の機とは煩悩の中に明け暮れして、気に入らないと怒りの炎を燃やし、気に入れば貪欲愛着の心に振りまわされ、思うように行かないと愚痴をこぼしながら日暮しをしている私のことであります。これはまさに光を失い、闇の中にさまようている姿であります。これを親鸞しょうにんは

 「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と歎かれました。このような私を救う為には、もろもろの八万四千の自力の教えでは到底間に合いません。その為に、大悲の阿弥陀如来は勝れて易い南無阿弥陀仏の他力の法を案じ出し与えて下さったのであります。

 これは言葉をかえて言えば、凡夫が凡夫のまま本願を信じ、おまかせするばかりで救われて行くことであります。従って如来の本願こそ、末の世の私達に最も相応しい教えと言わねばなりません。

 私、昭和四十一年十一月、北海道を一ヶ月間巡回した時に、鷹栖の専証寺<住職打本信英師>で坊守打本三津江さんから、亀井勝一郎氏の死を悼むという記事を特集したローカル紙を見せて頂きました。その年の十月札幌で北海道出身者の文学展がひらかれました。亀井先生は函館出身ですから係の方が、東京の自邸を訪ね、出品を乞われました。先生は病床にあられましたが、快く承諾されて幼い子供の頃から今日まで、いろんな人の話を聞き、いろんな本を読んで、特に感銘した言葉を三十一枚の色紙に書いて送られました。

 一番最初の言葉が”よく遊びよく学べ”で三十一枚目の最後の色紙に”いそぎまいりたきこころのなきものをことにあわれみたもうなり”<「歎異抄」第九章>の言葉が書かれたあり「私は数年、病床にある。病床にあってねむれぬ夜、一人死を思う時に、この言葉がひしひしと胸に迫って来る」と註釈が添えてあったそうです。これを読んだ時に、深い感銘を覚え、弥陀の大悲による本願他力の救いこそ、私たちに最も相応しい教えであることをしみじみ感じました。親鸞聖人はこれを「如来の本誓、機に応ずることを明かす」と述べられたのであります。

第十章 龍樹章

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く能く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して、歓喜地を証して安楽に生ぜんと、難行の陸路苦しき事を顕示して、易行の水道楽しき事を信楽せしむ、弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時に必定に入る。 唯能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。

お釈迦様が楞伽山で説法し給うた時に、お弟子の大慧菩薩が、この尊いみ教えは世尊の涅槃の雲にかくれました後はどうなるのでしょうかと問われたのに対して、私の亡き後に南印度に龍樹と名乗菩薩が現れて、正法に背いて人々を惑わした外道<仏教以外の思想、宗教>の有(う)の見<常見>無の見<断見>の邪見を悉く打ち砕いて、自らは菩薩の初地の位、即ち真如の一部が見える歓喜地(かんぎぢ)の位をさとって、やがて安楽国に生まれるであろうとお答えになりました。

このお釈迦様の予言に応じて現れた龍樹菩薩は、外道の邪見を摧破して、大乗無上の法を明らかに説きつつ、お釈迦様の一代の法を難行易行道に分けられて、もはや後返りしない不退の位に達するのに、難行道は例えばけわしい陸路を行くようなものであり、易行道とは水路の乗船を楽しみつつ行くようなものであると教えられました。更に易行道の内容を説かれて、本願を信受する信心によって必ず浄土に生まれるべき必定の位、即ち正定聚に住し、如来の大悲を報ずる為に常に称名念仏すべきことを教えられました。

(一)お釈迦様の予言

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽

 先に七高僧共通の功績を讃えられましたがこれより以下は一人一人の勲功を讃えられるのであります。今の、「釈迦如来楞伽山」より「応報大悲弘誓恩」まで十二句は、第一祖の龍樹菩薩を讃えられたのであります。

 印度は、歴史のない国と言われております。それは、古代の印度の人々は記憶力に富んでいたので、文字に書き残さなかったことによるのであります。従って龍樹菩薩の出生の年代についても定説はなく、九説が伝えられて、お釈迦様滅後、百年説から九百年説に及んでいます。然しいろんな資料を総合して、釈尊滅後七百年位という説が最も有力です。それは紀元二、三世紀頃に当たります。龍樹菩薩は青年の頃、英才の誉れ高かったのですが、友人と共に色欲に耽りました。その為に友人が斬殺された姿を見て、色欲は身を滅ぼすもととさとり、出家して初めは小乗仏教を学ばれましたが、後にヒマラヤ山中に住む老比丘<老僧>より、大乗仏教の教えを学び、その奥義に達して甚深微妙なる法を究められました。そうして千部の書を著されましたので、世に千部の論師と言い、第二のお釈迦様とも讃えられ、又八宗<各宗>の祖師とも仰がれています。その中、大智度論百巻、十住毘婆娑論十七巻は最も代表的なものであります。

 この龍樹菩薩の輝かしい徳をあらわすものに楞伽の懸記というのがあります。懸記とは遙に記すと言うことで、予言のことであります。即ち楞伽山(りょうがせん)でなされたお釈迦様の予言です。この予言を読む時に、私には次の様な状況が頭に浮びます。

 印度の南海岸に険しくそそりたつ楞伽山に、お釈迦様の説法の座が開かれようとしていました。多くの秀れたお弟子並びに一般の大衆は寂として声はなく静まりかえって、海を渡そよ風は、青葉を通して肌に心地よく、空はあくまで青く澄み渡って、さえずる妙なる小鳥の声はお浄土の伽楞頻伽(がりょうびんが)の鳥の声にも似ています。お釈迦様のやさしいお顔には、真実を説く喜びが満ち溢れています。自信を深く心中に湛えてやがて静かに説かれる一語一語は、清い泉のこんこんと湧き出て大地を潤すように一人一人の胸に注がれて行きました。説法が終わってもお弟子達は感動と喜びに胸ふるえ、その喜びをかみしめて誰一人として声を出す者がありません。

 ややしばらくして、大慧(だいえ)菩薩が進み出て、恭しく大地に跪き合掌礼拝してお釈迦様に申しました。

 ”世尊よ、私は幸いにも世尊に遇うことが出来てこのような尊いみ教えを聴聞することが出来ましたが、世尊も地上の定めに従ってやがて涅槃の雲におかくれになった後、この尊いみ教えはどうなることでしょうか?”その時お釈迦様は静かに、 ”私亡き後この正法は、暫くは正しく伝えられるが、やがて心なき比丘<僧侶>によって乱されるであろう。その乱れの隙に乗じて、有の見、無の見の邪法<第八章参照>がはびこり、その為、正法は一時影をひそめる、その時南印度に龍樹と名乗る菩薩が現れて、邪法を悉く打破り、大乗の甚深微妙の法を明らかに宣説しながら、やがて歓喜地を証して、阿弥陀如来の安楽浄土に往生するであろう”と予言されました。

 その予言の如く南印度に出現されたのが龍樹菩薩であります。子の予言は楞伽の懸記と申しまして、今日残されている楞伽経の中に明らかに記されています。

 親鸞聖人はこのお釈迦様の予言に深い感動を覚えて、七高僧の第一祖に挙げられたのです。

 それを今、「釈迦如来楞伽山にして衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、悉く有無の見を催破せん、大乗無上の法を宣説して歓喜地を証して、安楽に生ぜんと」と仰せられ、更にこの心を和讃に

南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩と名付くべし
有無の邪見を破すべしと 世尊はかねて説き給う

と詠われました。

(二)龍樹菩薩の勲功=易行道を開く

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽

 龍樹菩薩の輝かしい功績は、先に申しましたように、お釈迦様の説かれた仏法を、難行道易行道に大きく分かられて、難行道とは険しい陸路を行くようなものであるとして、ひたすら易行道をお勧めになったことであります。易行道とは水路を行く船路の旅であると懇ろにさとされました。

 けれどもここに見落としてはならない大切なことがあります。それは難行道とは後に曇鸞大師によって自力であると説かれましたが、自力の行が何故難行かということについて、龍樹菩薩は諸(しょ)、久(く)、堕(だ)の三つの難を挙げておられます。即ち自力の行は諸善万行を修めて行かねばならない。又これには久しい時間がかかる。そうして途中で堕落するおそれがある。この故に難行と仰せになりました。この自力の行に対して、一人の修行者が質問をしました。

 諸、久、堕の三つの難があるから、この行を完成することは難しい。よって他に易行のやさしい道がないかと。

 これに対して、汝の言葉はまことに弱い愚かな劣った者の言葉で、仏道を求める大きな志を持った勇猛精進の丈夫(ますらお)の言葉ではない、と厳しく叱っておいて、尚、易行道を求めようとするならば、その道はあると易行道を説き開いて行かれたのであります。何故修行者の質問に対して、直ちに易行道を説かずに修行者の言葉が弱い愚かな劣った者の言葉だと叱られたのでしょうか。ここのところを留意しなければなりません。

 私はこのことを思う時に親鸞聖人の比叡の自力の行を捨てて、法然上人の他力の念仏に入られた時のことを思うのであります。もし親鸞聖人が自力修行の難行の外に、他力念仏の易行の道があるから、というので自力を捨てて他力に入られたならば、それは堕落の道をたどったと批判されても仕方はないでしょう。果たして親鸞聖人はそのような方であったでしょうか。私にはそうとうは思われません。聖人の厳しい山上での修行中、数々の難行苦行に耐えながら、常に胸の中に一つの疑惑があったのではないでしょうか。仏教は果たしてこの道だけで良いのであろうか。もしこの道だけだとすると、み仏の救いにあずかる者は極く一握りのえらばれた人に限られてしまう。仏の慈悲は大悲と言われ、あらゆる人々の上にも注がれている筈、それは万人の救いを約束したものであるにもかかわらず難行苦行に耐え得るものしか救われない、それが仏の救いであろうか。少なくとも女人禁制の比叡の掟に従えば、人類の半分の女性は完全に仏の救いの圏外締出されている。仏教はこれだけでよいのであろうかという疑惑であります。

 聖人のこの心中の苦悶を伝えるこうした伝説が残されております。聖人が修行中、一日都に下りられました。そうして帰途、みやまの麓、赤池明神の境内にさしかかりました。この明神は、比叡山守護の神として祭られているのであります。ここまで来た時、うら若い女性の声がしました。

”もし御出家様、私は恋に破れ、人の世に生きる望みを失った悲しい者であります。この上は、み仏の袖にすがって生きたいと存じます。私を比叡のみ山にお連れ下さい” ”貴方は御存じないのですか、比叡は厳しい女人禁制のみ山であります。この境内がら女性は一歩も山に入る事は許されません” ”み仏の大悲は罪深い悲しき者にこそ注がれるのではありませんか。その女性がみ仏のお慈悲にすがれないとは・・・もし女人禁制と言われるならばお尋ね致します。み山に女鹿女猿はいないでしょうか。女鹿女猿がいるみ山に、どうして人の子の女性が登る事が出来ないのでしょうか”

”貴方の気持、私も同じであります。修行未熟な私には、貴方の問に答える力はありません。どうかお許し下さい” と袖を振り切って逃げるように山に帰られました。

 こうした伝説の事実があったかどうかは問題ではないでしょう。聖人の胸にうごめく疑惑と苦悶を伝えて余すところがありません。

 聖人の心中には、この自力修行の道は決して間違っているとは思えない。然し仏教はこれだけではない、ほかに今一つの道がある筈、否、なけらばならない。この疑問の最後の解決を求めて、六角堂に百日お籠りになったのであります。そうして九十五日目の暁、救世観世音菩薩の夢の告げによって、法然上人を訪ね、他力念仏の易行の道に転入されました。このことは何を物語るのでありましょうか。

 それは決して先に申しましたように、仏道に難行道易行道があり、難行道は難しいから易い他力の易行の道に向かわれたというようなそんな安易なものではなくて、自力修行の限界を見究めて、難行道を超えた他力の道に転入されたのであります。即ち難行道を手がかりとして他力易行の万人の救われる道を発見されたとも言うべきでありましょう。

 この心を龍樹菩薩は難行道の苦しさを逃れて、安易に易行を求めようとする者に対して汝の言葉は弱い愚かな、劣った者の言葉であって、仏道を求めようとする大きな志、勇猛(ゆうみょう)精進のますらおの言葉でないと厳しく叱り、難行自力の限界を知らせた上で、易行の大道、即ち万人救済の他力の道を開かれたのであります。親鸞聖人はこのことを和讃に

生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我等をば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける

と詠われました。船のみぞの”のみぞ”の言葉に千金の輝きがあることを見落としてはなりません。

 私はこの和讃を拝読する時に、今から十数年前に日吉町立特別養護老人ホーム青松園の法話会の時の事を思い浮かべるのであります。その日は午前中法務が重なっていましたので止むを得ず午後二時からにしました。かねては十一時より始めて、済めばすぐ昼食なので話合いの時間がありませんでしたが、その日は午後三時に終り、入浴時間が四時になっていますので、
”今日は時間がありますから、しばらく話合いしましょう、何か聞きたいことがあれば何でも言って下さい” と話合いにはいりました。けれどもなかなか発言がありません、この老人達には、何を聞いたらよいのかそれが解らなかったのでしょう。

 私も辛抱強く発言を待っていました。ややしばらくして両眼失明したおばあさんがおそるおそる ”先生この間から心配で心配でねむれない事があるのです。私はこうして目が見えませんが、ここにお世話になっている間は寮母さんやお友達の御世話で何とかやって行けます。でも命が終ったら三途の川を渡り、死出の山路とやらを歩いて行かねばならないそうですが、眼の見えるほかの人達はずんずん先に行ってしまって、目の見えない私は、知らない所で一人取り残されてうろうろしなければならないかと思うと、心配で心配でねむれないのです”

 素朴な問いではありますが、このおばあさんにとっては大変な問題だと思いました。

”おばあさん、そのことなら少しも心配はいらないのよ、自力の教えだったら自分で険しい道を歩いて行くのだからその心配はいりますが、私達の頂いている他力のみ教えは、本願弘誓の船に乗せられて行くのですから目の見える人、見えない人、足腰の丈夫な人、弱い人、皆平等に連れられて行くのですから” と申しました。するとおばあさんの顔にややホッとした安堵の色が見えました。

”では先生、命終った時に、その弘誓の船とやらに乗り遅れないようにさえ気をつけておればいいんですね”

”それは違う、命終った時には、弘誓の船がお浄土についた時よ、乗るのは今よ、こうしてみ仏のお慈悲を聞いて、煩悩一杯持った私に、そのままを安心してこの親にまかせよ必ず救うと呼んでいて下さる仰せに、素直にハイとおまかせする。これが弘誓の船に乗せられた姿よ”
と話しました。おばあさんが思わず合掌して、見えない目から涙ポロポロ流しながら、

”じゃ先生、何の心配もいらなかった、このままでよかったんですね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏”

とお念仏されました。他力の救いとはまさにこの風光で、大悲の呼び声に素直に信順しおまかせするその後の生活は、大悲弘誓の船に乗せられた生活であることを私達によくよく味わわせて頂きましょう。そこに信仰以前の生活と信仰の生活との大きな違いがあることを知らねばなりません。このことを聖人は、

大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かにして 衆禍の波転ず。
即ち無明の闇(あん)を破し 速やかに無量光明土に到りて
大般涅槃を証す <教行信証 行の巻>

と仰せになりました。これは如来の大悲にめざめ、帰り行く命のふる里を知らされて、大悲に支えられて生き行く喜びを述べられたのであります。

(三)信心正因と称名報恩

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

 龍樹菩薩は、先に申しました通り仏道に難行道易行道ありと説かれて、易行道をすすめられて、自らも易行道によって阿弥陀仏の浄土に往生して行かれましたが、今ここでは易行道の内容を示されたのであります。

 憶念弥陀仏本願とは、阿弥陀如来の本願を素直に頂き心に忘れないことであります。

 即ち信心決定のことをいわれました。その信心決定する時、間髪を入ずに、即時に必ず浄土に生れる位に即(つ)くことを、即時入必定と仰せになったのです。言葉をかえて言えば、信心正因を顕わされたのであります。和讃にこの意を、

金剛堅固の信心 定まる時を待ちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける

と詠われました。

 次に、

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

とは信心決定して必ず往生する身にならして頂いた者は、常に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と名号を称えて、如来の大悲におこたえすべきことを諭されたのであります。これは取りもなおさず私達の称えるお称名は、善根功徳を積むためのものでもなければ、利益を求める呪文でもなく、広大な仏恩を仰ぐ報恩感謝の称名であることを示されたのであります。

 浄土真宗の教えは、信心正因、称名報恩と定められていますが、それは龍樹菩薩の教えにもとづかれたものです。信心正因のことはこれまでしばしば述べてまいりましたのでそこにゆずり、称名報恩について考えてみたいと思います。

 何故称名が報恩と言われるのでしょうか。ひとつには大悲に救われた喜び、即ち報恩感謝の思いから称えるからであります。二つにはこの称名は上讃仏徳下化衆生(じょうさんぶつとくげけしゅじょう)といわれているように、上(かみ)はみ仏お徳を讃嘆し、下(しも)は衆生を教化する徳が具わっているからであります。蓮如上人が”あまかかの嬉しやと称える念仏を聞いて人が信を得るなり”と仰せになったのはこの意です。では何故お念仏に人々を仏法に導く徳があるのでしょうか。み仏を讃嘆するお念仏は、そのままみ仏の大悲が、私の口を通して現れている相(すがた)にほかなりません。このお念仏について甲斐和里子先生は、

みほとけの み名を称える我が声は 我が声ながら 尊かりけり

と詠われ、又原口針水和上は、

我れ称え 我れ聞くなれど これはこれ 連れて行くぞの 弥陀の呼び声

と詠われました。

 又私の恩師利井興隆先生は、

今日も又 連れて行くぞの声聞かば 道知らぬ身も 迷いやはする

と詠っておられます。これは何れもみ仏の大悲が私の口を通して、宇宙法界に活動している相を詠われているのであります。

このお念仏と生活とのかかわり合いについて思いを巡らす時、私は蓮如上人と大和の了妙さんの対話を思い浮べます。久し振りに蓮如上人が了妙さんを訪ねられました。了妙さんは喜び迎えて、”お上人様、お陰で元気でこうして糸車を廻しながらお念仏させて頂いて居ります”と申し上げた時に上人が”了妙や、それは違うぞ、糸車を廻しながらお念仏をするのではなくて、お念仏の中に糸車を廻すのよ”とお諭しになりました。これは生活の中にお念仏があるのではなくて、お念仏の中に生活のあることを諭されたのであります。信心を喜ぶ私達の全生活が仏恩報謝のほかなく、又御法義繁昌の営みと言わなければなりません。親鸞聖人が「世の中安穏なれ、仏法広まれ」の念願に生きるのが念仏者の姿勢であると仰せになったのはこの意であります。

 これについては二十年も前になりましょうか。私の尊敬する親しい法友佐々木次生(じしょう)法兄のお寺<南隅組願生寺>に永代経の布施に行った時、昼のお説教が終わり、講師部屋に帰って来た時に、仏教婦人会長の前村まつさんが、いろいろお世話して下さいました。夕方近くなって前村さんが帰宅しようとされると、老坊守さんが、”あなたどうせ一人身だから夕飯はここで済まし、御講師さんのお世話をして、晩の御縁に遇うて帰られたら”と言われました。

前村さんは、”いや、私は帰らせて頂きます”と言われ、いくらすすめられても聞かれません。

そこで私は、”遠慮も時によりけりですよ、こんなに親切に言って下さっているのですから奥さんの言葉に甘えられたら”とすすめました。

すると、”いや先生、私は遠慮して帰ると言っているのではありません。私がこのままここに居れば、晩の御縁に遇うのは私一人だけです。だから私は帰って、お友達を二、三人でも声をかけ誘ってお参りしたいからです。”

 私はこの言葉にハッと胸を打たれました。そうして、お念仏を喜ぶ人々は目のつけ所が違うなあと思い、”解りました。

ではお帰りなさい。いらないことを言ってすみません。”と言いました。

その時前村さんがしみじみこんなことを言われました。

”一人でも多く御縁に遇って頂こうと誘ってまいった時に、御講師のお話しが難しくてよく解らない時は、私はともかく、誘って来た人に対して、身を切られるような思いがします。”と。

 私はこの言葉を聞いた時に、布教使の責任の重大さを深く感じて、布教使は常に勉学に心がけて、こうした純真な人々の期待に背くようなことがあってはならないと感じたことでした。

 今、称名が報恩と開顕されたのは、ただ仏前に座ってお念仏することだけではなくて、私の生活全体が仏恩報謝の営みであることを教えられているのです。

 更にこれについて、深く思われますことは、お釈迦様はこの世を因縁所生(いんねんしょしょう)、相依相関(そうえそうかん)の世界と説かれました。これは総てのものは因と縁によって生じ、互いに関わり合っているということです。例えば網の目によって支えられ、又一つの網の目は全体を支えています。このように私の生活は社会全体によって支えられ、又私の生活は社会全体を支えて、お互いに関連し合って存在しているのです。従って私の一挙一投足、良い事、悪い事、そのまま全社会に影響を及ぼして、互いに響き合うのです。私はこの事についてしみじみ感じました。

 昨年(昭和五十五年)三月二十九日、私の四男哲量が、福井市の千福寺(住職高務祐成師)に迎えられました。今年御正忌に帰って来た折り、福井の特産である干柿を沢山土産に持って帰りました。

 ”お父さん、これは高いのですよ。”
 ”そうだろう、どうしたのか。”

と聞いた時に、お父さんの書かれた「輝くいのち」を読まれた門徒の人達が、報恩講にお参りした時に、

 ”貴方のお父さんは干柿が好きなようですね、と言って土産にと下さったのです”
 ”そう! 有難う、よくお礼を言っておいて”と申しましたが、

 私はこのことを通して、仏教で説かれてる因縁所生、相依相関の世界なる故に総ての行動が互いに響き合うということをしみじみと実感しました。

 私達の念仏に支えられた行為が、宇宙法界に響き合うことを思う時に、その行動の責任の重さをしみじみと感じさせられます。ここに浄土真宗門徒の規範として示された浄土真宗の生活信条の意義の深さを強く感ずることです。

一、み仏の誓いを信じ、尊いみ名を称えつつ強く明るく生き抜きます。
一、み仏の光を仰ぎ、常に我が身を顧みて感謝のうちに励みます。
一、み仏の教えに従い、正しい道を聞きわけて、まことのみ法を広めます。
一、み仏の恵みを喜び、互いに敬い助け合い社会のために尽します。

第十一章 天親章

天親菩薩造論説 帰命無礙光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化

天親菩薩論を造りて説かく、無礙光如来に帰命したてまつる、修多羅に依りて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す、広く本願力の廻向に由りて、群生を度せんがために一心を彰す、功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入る事を獲、蓮華蔵世界に至ることを得れば、即ち真如法性の身を証せしむと、煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の薗に入りて応化を示すといえり。

お釈迦様がお亡くなりになり、約九百年後に北印度にお生まれになりました天親菩薩は、浄土論を造られてその冒頭に、「世尊よ<お釈迦様>私は無碍光如来<阿弥陀如来>の仰せに一すじに<一心に>信順して、阿弥陀如来の浄土に往生することを願います」と自分の信仰をお述べになりました。そして大無量寿経によって真実の救いを顕わして、広く明らかに他力の本願を説かれました。

一切の人々を救うために本願力の恵みによる他力の一心を救いの因と顕わされ、あらゆる功徳の宝を海の如くに収めた名号のいわれを聞き開くことによって、この迷いの世界にありながら、浄土の清らかな菩薩の仲間に入り、そしてやがて仏の世界に到れば速やかに真如の悟りを聞いて、煩悩の林の如く充満する迷いの世界に帰り来て、神通力を以てその人々を救うのであるとお説きになりました。

(一)小乗仏教より大乗仏教へ

 お釈迦様が涅槃の雲におかくれになって約九百年後に、北印度にお生まれになったのが天親菩薩であります。  天親菩薩は三人兄弟で、兄さんを無着(むじゃく)と言い、弟を獅子覚(ししかく)と言いました。

 早くより仏道に入りて小乗仏教を学ばれ、印度随一の学匠とうたわれ、五百部の書物を書いて小乗仏教の普及伝道につとめられました。鹿を追う猟師は山を見ず・・・と言う諺がありますが、小乗仏教に心酔する余り、大乗仏教を誹謗されました。お兄さんの無着菩薩は早くより大乗仏教を信奉し、その幽玄にして深い奥義に達しておられましたので、弟の天親菩薩が大乗仏教の尊さを知らずして、徒(いたず)らに誹謗しているのを心痛して、或日手紙を送られました。

 ”今私は重い病気の為に日夜苦しんでいる、是非逢いたいから早く帰って来るように”と。

 天親菩薩は驚いて、夜を日についで兄さんの元に帰って行かれました。お兄さんは元気で病気のような様子が見られません。

 ”お兄さん病気はどんなぐあいですか?”と問われると、
 ”私は体の病気ではない、お前の為に今重い心の病気で日夜苦しんでいる”
 ”それは又どういうことですか。”
 ”お前は幽玄な大乗仏教の真意を知らず、小乗仏教に心酔する余り、大乗仏教を謗って、折角仏門に入りながら日々地獄の業を造っている。それを思うと私の胸は傷んで張りさけるばかりである。”
 ”兄さん、では大乗仏教とはどんな教えですか。”
 そらからお兄さんより大乗仏教の幽玄な道理を聞いて行かれました。一を聞いて十を覚る英才であられた天親菩薩は、忽ち大乗仏教の真意を体得されて
 ”ああ、私は知らないとはいえ、何と恐ろしい罪をおかしたことであろうか”

と深く後悔して、大乗仏教を謗った舌を噛み切り、その罪を償おうとされました。お兄さんの無着菩薩はそれを止めて、

 ”一度大乗仏教を謗った罪は、そなたの舌を千枚噛み切っても償えるものではない。大乗仏教を謗ったその舌で大乗仏教の尊さを広く説いて、人々を救うことこそ、真に罪を償う道である。”と諭されました。

 それからこの道を更に深く学んで、又五百部の書をつくって大乗仏教の布教伝道につとめられたのです。よって後年、天親菩薩を龍樹菩薩と共に千部の論師とあがめられました。天親菩薩は小乗仏教を学び尽し、更に大乗仏教を究められました。何れも天親菩薩の知的欲求は満たされたでしょうが、そこには天親菩薩自身の生死の問題、命の行方を解決することは出来なかったのであります。

 天親菩薩は生死の問題、命の問題は、お釈迦様がお説きになった阿弥陀如来の本願を信じ、仰せ一つに素直に信順する他力の一心<信心>によってのみ、解決することが出来ると確信されるに至りました。そうして天親菩薩は、あらゆる衆生と共に本願を信じ、浄土を願生して行かれました。このことを具に説かれたのが浄土論であります。そこで「浄土論」の冒頭に先ず自分の信仰を表白され、遠く九百年の隔りはあっても、眼前にお釈迦様がまします如く、世尊よ、私はあなたのお説きになられた阿弥陀如来の仰せに信順し、阿弥陀如来の安楽浄土を願生しますとお述べになりました。そうして大無量寿経によってその教えを明らかにして、他力本願のお心を顕わして行かれたのであります。

 ここで私達が心ひかれるのは、小乗仏教の教理、大乗仏教の哲理を究めて、千部の論師と仰がれた天親菩薩も、生死の問題については、その学識を離れて、煩悩一杯持った凡愚の立場に帰って、あらゆる人々と共に手を取り合いながら、本願を信じて浄土を願生されたことであります。闇を破るものは光であり氷を溶かすものは熱であります。私達の真実救われて行く道は私達の学問修行を如何に究めてもその中からは出て来ません。煩悩渦巻く迷いの世界を超えた清浄真実のみ仏の世界から呼び給う無碍光仏の本願の力による外はないと言うことにはかなりません。

 親鸞聖人はこのことに深い感銘を受けられまして「天親菩薩論を造って説かく、無碍光如来に帰命し奉り、修多羅<お経>によって真実を顕し、横超の大誓願を広宣す」即ちこの意を意訳には

天親菩薩論を説き ほとけのひかり仰ぎつつ
おしえのまことあらわして 弥陀の誓いをひらきます

と述べられています。

(二)天親菩薩の勲功=一心願生

広由本願力回向 為度群生彰一心

 天親菩薩の足跡を讃嘆されて、次にその勲功を讃えられたのがこの二句のお言葉でありますが、この二句より終りまでは浄土論に説かれているお意をお述べになったのであります。

 天親菩薩の功績は、愚かな凡夫の為に、本願即ち第十八願に往生の正因と誓われてある至心信楽欲生<まことに疑いなく我が国に生まれんと欲(おも)う>の三心が、本願力によって恵まれる他力の一心と開顕されたことであります。

 阿弥陀如来の仰せに素直に信順する一心こそ本願力の恵みであり、この一心によって総ての凡夫が浄土に往生出来るのであります。

 ではどうして本願に誓われた三心を、天親菩薩は一心と顕わされたのでしょうか。又三心がどうして一心に収まるのでしょうか。これについて親鸞聖人は「教行信証・信の巻」に、三一問答という一段を設けられて、この解明に力を注いでおられます。その意を要約して述べてみますと

 ”お尋ねします。本願の第十八願にはすでに至心信楽欲生と三心が誓われてあるのに、何故天親菩薩は一心と仰せになったのでしょうか。”

 ”お答えします。天親菩薩のこころは量り知ることは出来ませんが今私親鸞が推測申しますとそれは愚かな衆生に、たやすく領解せしめるためです。阿弥陀如来は本願に三心を誓われましたが、さとりの真実の正因はただ信心一つでありますので、天親菩薩は三心を合(がつ)して、一心とあらわされたのであります、即ち愚かな衆生には三心と説かれても、その心が領解しにくいので、信心一つで往生の因が定まることを示すために三心をまとめて一心と顕わされたのであります。”  次に第十八願即ち本願の三心がどうして一心に収まるのか、について三つの理由をお述べになりました。一つには字訓釈と申しまして、至心信楽欲生の言葉の意味を探ってみると、至心も信楽も欲生も共に疑いを離れた無疑の心でありますから、至心信楽欲生の三心は無疑の一心に収まるのであります。

 二つには法義釈と申しまして、法義の上から窺いますと、源信和尚の横川法語(よかわほうご)に ”妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり、妄念の他に別に心はなきなり” と述べられてあるように、煩悩に目鼻をつけたように私達には、遠い遠いいにしえより今日今の時に到るまで、無明煩悩に覆われて、清浄の心もなく、真実の心もありません。従って真実の至心も信楽も欲生も私の心には起こす事は出来ません。よって大悲の阿弥陀如来は、法蔵菩薩の時に、一念一刹那の短い間にも真実清浄の心を離れたもうことなく、この三心を成就し、私に与え給うのであります。

 従って、真実大悲の手元に出来上がった三心を私達は疑いなく領受する一心であります。
 三つには三心と言えどもその体は南無阿弥陀仏の外はなく、南無阿弥陀仏の謂を聞き開く外なき一心であります。

 以上三つの道理を鋭く見抜かれた天親菩薩は、愚かな私達の為に本願の三心は大悲の阿弥陀如来の仰せに信順する無疑の一心にほかならず、この一心こそ、本願力によって恵まれた他力の一心であると示されたのであります。すれば私が迷いの世界を離れて、真実のお浄土、即ち命のふる里へ帰らして頂くのはただこの他力の一心の外ありません。

 このことをお正信偈の意訳、信心のうたには

本願力の恵みゆえ ただ一心の救いかな

と歌われています。

 この一心については、二つの意味があり、一つには無二、二つには専一であります。無二とは疑う心のない一心であり、専一とは阿弥陀如来の教え一つで他の教えに心を傾けないことであります。

 ここで私達がよく気をつけなければならないのは、本願を疑っては救われないと思い込み、如何にして疑い晴れようかと我が胸を眺めて苦しんでいる人々が多いことであります。

 真剣に道を求めようとすればする程、ここに躓いて苦しむのです。私達は先に申しましたように、妄念煩悩より外ありません。この心を見つめて、どんなに疑い晴れて綺麗な心になろうとつとめてみても、それは所詮無駄な足掻(あが)きと言わねばなりません。卵は自性が綺麗ですからどんなに汚れていても、洗えば綺麗になるでしょう。けれどもタドンや炭は自性が黒いから決して白く綺麗にはなりません。疑い晴れようと力むのでなく、私を救うのに微塵の不安もなく、我にまかせよ必ず救うと疑い晴れて呼び給う如来の本願のおいわれを聞いて、こんな浅ましい者を、親なればこそ、お慈悲なればこそと、仰せ一つを仰いで行くのであります。

 利井鮮妙和上がこんな譬えでここのお謂われを説いておられます。 ”箱の中に白豆五合黒豆五合入れて、がらがらと振り廻し、小さい口からどちらが出るかと問われたら、白か黒かと疑いを持つであろう。今度は黒豆九合、白豆一合入れて振り廻してどちらが出るかと問われたら、おそらく黒豆が出ると答えながら、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いが残るであろう。黒豆一升入れて、さあどちらが出るかと問われた時に、ひょっとしたら白豆が出るかもという疑いは誰一人として持つ者はない。

 本願力によって必ず救うと大悲の親様の方に決定(けつじょう)し、疑い晴れて呼び給うおいわれを聞き開いた時に、そこには我が心、信じ振りに用意はなく、ただほれぼれと本願一つを仰ぐばかりである。そこに疑いの入る余地はないと。

 これが無疑の一心であります。この無疑の一心は如来の大悲に目覚め、大悲を頂いた一心であります。金剛心とも菩提心とも、又仏性ともいわれて、よく浄土に生まれる正因となるのです。

(三)一心の利益

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化

 先に天親菩薩は、愚かな凡夫の為に往生の正因と誓われました、本願の至心信楽欲生の三心は、阿弥陀如来の仰せに疑いなく信順する一心であると開顕されましたので、ここにその一心の利益をお述べになったのがこの六句の言葉であります。あらゆる功徳を収められた南無阿弥陀仏の名号は、常に宇宙法界に活動して私達の上に働きかけています。  これは取りもなおさず、罪は如何程深くとも、障りは如何に重くとも、我にまかせよ必ず救うの大悲親様の呼び声の外ありません。

 聞法を通してこの呼び声に目覚めることを「帰入功徳大宝海」と仰せになりました。

 この大悲に目覚めた時、即ち信心定まる時に、迷いの世界にありながら、光明の中に摂取されますので、煩悩持ったまま、お浄土の清らかな菩薩の仲間にはいらせて頂くのです。これを「必獲入大会衆数」とうたわれました。従って、命終れば蓮華蔵世界、即ちみ仏のさとりの世界に生れ行き、真のさとりを開く身にならせて頂くのであります。

 ではお浄土とはどんな世界でしょうか。天親菩薩は浄土論に浄土の相状(すがた)、働き即ち荘厳、功徳を具に説かれて、国土の荘厳十七種、仏の荘厳八種、菩薩の荘厳四種を説かれました。これを三巌二十九種と申されています。

 この荘厳は唯美しき妙なる飾りと言うだけでなく、その荘厳の一つ一つが功徳と言われるように衆生救済の働きをするのであります。

 阿弥陀経には「これより西方十万億仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という、その土(ど)に仏まします、阿弥陀と号す、今現在説法し給う」と説かれています。これは迷いの世界を超えた彼岸のさとりの世界に阿弥陀如来がましまして、衆生救済のために説法し給うという意であります。

 次にこの浄土にありては七宝の池の小波(さざなみ)も、木の葉にそよぐ風の音も、空飛ぶ鳥の囀(さえずり)も清らかな菩薩の、仏を讃嘆し給うみ声も、すべて念仏念法念僧と説かれてあります。これは浄土の荘厳が阿弥陀仏の衆生救済の大音説法の声であり、お念仏のひびき合う姿を示しているのであります。従ってお念仏の生活とはこの浄土の光に導かれ行く生活と言えましょう。

 この三種荘厳の浄土をこの土にうつしたのがお寺であります。高く聳(そび)ゆる壮麗な甍(いらか)、美しく掃き清められた境内、み堂の中の美しい数々の飾りは国土荘厳を現し、須弥壇中央に立ちますみ仏のお姿は仏の荘厳であります。それでは今一つの菩薩の荘厳は何でしょうか。それは直接み仏にお給仕する住職、坊守、寺族の人々であると共に、本願を信じ念仏しつつ浄土に生れ行く念仏者の人々であります。すればお浄土の荘厳が衆生救済の働きをなしつつあるのならば、念仏を喜ぶ私達は衆生教化の尊い仕事に参加させていただくのです。浄土の菩薩の仲間に入るとは、単に言葉だけのことではあってはなりません。

 大谷嬉子(よしこ)様がお裏様として本山におはいりになられた時にその決意を

鳳(おおどり)の雲分くるごと みほとけの みのりひろめん おおけなけれど

と詠われました。  次に清らかな菩薩の仲間に入らして頂いた喜びは未だ見ぬ世界でありますが、必ず浄土に生れて仏のさとりを開かせて頂く喜びでありましょう。浄土の往生を忘れ、仏になる喜びをおいて、私達の上の何処に末通った真実の喜び、幸せがあるでしょうか。

 私の門徒の総代を長くされた、中野藤助さんが終戦後十年余り結核で病の床に伏したまま闘病生活を続けられました。その間いろんな宗教より甘い誘惑の手が延ばされましたが、それらには一度も心を動かされることなく、長い闘病の末、見事に健康を回復して、いよいよ聞法に励み、総代としてお寺の為に一所懸命働いて下さいました。

 昭和五十一年九月二十一日、惜しくも本堂建設途上、七十才で亡くなられました。私はその時腕を失ったような悲しみ傷みをおぼえました。その中野藤助さんが或法座の話合いの場で、真宗に遭わせて頂いて何が嬉しいですか? との問に、 ”私は凡夫が仏様にならして頂くことが一番嬉しいです。”と答えられました。

 それから今一つは

 高校時代明信寺のYBAに来ていた増田雅子さんが昭和四十六年三月高校を卒業して、県外に就職して行く前の最後の例会の時に、

 ”先生私は三年間YBAに来て、高校で学んだ学問の外に、もっともっと広い世界があることを知らされました。それはお念仏によってお浄土に生まれると言うことです”と話しました。

 この二人の言葉が今も私の胸に鮮やかに残っています。  親鸞聖人はこの感激を「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」とうたわれたのであります。  ひとたび浄土に生れ、さとりを開いた暁には、再び迷いの世界に帰り来て、お釈迦様がさとりの世界からこの迷いの世界に現れて、自由自在に苦悩の衆生を救われたように、私達も衆生教化の働きをさせて頂くのです。

 本願を信じ、念仏しつつ浄土に生れ行く相(すがた)を往相(おうそう)と言われ、浄土からこの世に現れて、人々を救う相を還相(げんそう)と言われます。  これを親鸞聖人は

安楽浄土に到る人 五濁悪世に還りては
釈迦牟尼仏の如くにて 利益衆生はきわもなし

と詠われました。又私達が浄土に行く相も浄土から還り来る相も全く阿弥陀如来の本願力の恵みの外ありません。従って親鸞聖人は往相廻向、還相廻向と仰せになり、和讃に

南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり

と讃嘆されるのです。  この事を静かに思う時に、私にはキリスト教と親鸞聖人の教えが頭に浮んでまいります。

 この二つの宗教の同異点を尋ねますと、三つの共通点と三つの相違点があるようです。  先ず共通点を申しますと、

一、キリスト教は神の愛によって天国に生れ、<>
浄土真宗は阿弥陀如来の慈悲によって浄土に生れる。
二、キリスト教は富める者の天国に入る事はラクダに乗って針の穴を通よりも難かしい。
浄土真宗は邪見驕慢の悪衆生、この法、信楽受持する事甚だもって難し、難中の難之に過ぎたるはなし。
三、キリスト教は、我の来れるは病める者の為なり。
浄土真宗は善人なおもって往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや。

 次に相違点は

一、キリスト教は叩けよ開かれん、祈れよ救われん。
浄土真宗は救いの光は既に注がれている、聞けよ大悲に目覚めよ。
二、キリスト教は天国にて神の下僕となり神に仕える。
浄土真宗は阿弥陀如来と同じさとりを開き、仏になる。
三、キリスト教は天国は救いの終局点。
浄土真宗では浄土は衆生救済の出発点。

 このような同異点を挙げることができます。

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
ほとけのみ名に帰してこそ、浄土の聖衆(ひと)のかずに入れ、
蓮華の国にうまれては、真如のさとりひらきてぞ、
浄土の薗にかえりきて、まよえる人を救うなり <正信偈意訳>

のお言葉を拝読する時に、次のようなことが頭に浮んでまいります。即ち、浄土真宗では、如何に悲しい別れをしても、それは永遠の別れでなく、本願を信じお念仏を喜ぶ私達には必ず又逢える世界が約束されているということであります。

 幼くして両親にお別れになった親鸞聖人は、父母の行方を求めて出家され、ひたすら道を求めて行かれましたが、このお念仏の世界に於て、はじめてその切なる願いが円かに叶えられたことでありましょう。

 又その喜びは晩年、関東の愛弟子に送られた手紙の中に、 「浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」と温いお言葉となって表れています。

 この言葉に接する時、私は親鸞聖人とは遠く七百年の隔りはあっても、聖人の温い体温に触れるような懐かしさを感じるのです。

第十二章 曇鸞章

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

本師曇鸞は梁の天子、常に鸞の処に向いて菩薩と礼したてまつる、三蔵流支浄教をさずけしかば、仙経(せんぎょう)を焚焼(ぼんしょう)して楽邦(らくほう)に帰したまいき、天親菩薩の論、註解(ちゅうげ)して報土の因果誓願に顕(あらは)す、往還(おうげん)の廻向は他力による、正定(しょうじょう)の因は唯信心なり、惑染(わくぜん)の凡夫、信心発(ほつ)すれば生死即涅槃なりと証知せしむ、必ず無量光明土に至れば皆普(あまね)く化(け)すといえり

浄土真宗の七高僧の中、第三祖である曇鸞大師は、学徳すぐれた方で、梁の武帝は常に曇鸞大師の居住しておられた北方に向って、朝夕曇鸞菩薩と礼拝されました。印度から中国に来られた高僧で、経典の翻訳家である菩提流支から浄土の教えを説いた観無量寿経<浄土論とも言われている>を授かり、それを読まれて、ああ我あやまれり、と不老長寿の道を説いた仙人の経を焼き捨てて深く浄土の教えにはいられました。天親菩薩の浄土論を註釈されて、凡夫が阿弥陀仏の浄土に生れる因も浄土に生れて開く果も本願の力によると顕わされました。又浄土に生れることも、浄土より衆生を救うためにこの世に還り来ることも本願他力によると説かれたのであります。従って浄土に正しく往生する正因は、ただ信心であります、よって煩悩に染まり、煩悩の中に明け暮れしている凡夫は、一度信心を頂いたならば、やがて浄土に生れて、生死の迷いがそのまま涅槃であるという仏のさとりを開くのです。必ず光り輝く浄土に生れたものは、あらゆる迷いの国の人々を普く救うと仰せになりました。

(一)仙人の経を焼き捨てて浄土の教えに

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

 今から約千五百年前、北中国の雁門に誕生された曇鸞大師は、十五才の時に出家されて四論宗に身を置いてひたすら学問の研鑽につとめられました。大師の学徳は年と共に輝き、梁の武帝粛王は常に曇鸞大師の居られる北の方に向って曇鸞菩薩と礼拝され、魏の天子は神鸞と称して、その徳を仰いで行かれました。この事を親鸞聖人は

本師曇鸞大師をば 梁の天子粛王は
おはせし方につねに向き 鸞菩薩とぞ礼しける
魏の天子はとうとみて 神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば 鸞公巌とぞ名づけたる

 曇鸞大師は或る時四十巻ある大集経の講釈をしようと思い立たれましたが、僅か数巻終えたところで病気にかかられました。その為この仕事をしばらくおいて静養につとめられました。或る日野外に出られた時、空を見上げると、果てしない大空を白雲が悠々と流れています。この天地自然の悠々さに心うたれた曇鸞大師は、人間は如何に立派な事業を成し遂げようとしても、先ず命が大切である。命短ければどんな立派な仕事でも完成することは出来ないと深く心に感じられました。  当寺江南の上海のあたりに陶弘景という仙人が居て、不老長寿の道を説いていました。その頃中国は黄河の流域と揚子江の流域と南北に別れていて相互に行来することは出来ませんでした。これを犯せば極刑に処せられます。曇鸞大師は、道を求める為にあえてこの厳しい禁を破って、陶弘景を訪ねられました。一説によると、忽ち捕らえられて梁の武帝の前に引き出されました。武帝は大師を一目見るなり、その徳に打たれて唯人ならずと深く感銘し、丁重にもてなし、陶弘景の許に送り届けられました。北支那に帰られた後も鸞菩薩と礼拝されたと伝えられています。

 三年間陶弘景の許で仙人の道を学ばれましたが、学徳兼備の英才を謳われた曇鸞大師は悉くこれを学び尽くされました。師匠の陶弘景は「あなたはもはや学ぶべきものは学びつくされました。これ以上私の処に居られても、もう学ぶべきものはありません」といって、別れの形身として不老長寿の道を説いた仙人のお経である、衆しょう儀を授けられました。

 曇鸞大師は厚く礼を述べて故郷に向かわれました。当時都は洛陽に在り、ここまで来られた時に、印度から皇帝の招きで中国に来て、お経の翻訳と伝道に従事しておられた菩提流支に逢われました。

 その時曇鸞大師はやや得意気に、 ”私は仙人陶弘景について、不老長寿の術を学び、そのお経を授かりましたが、仏教ではこれ以上の長寿の道を説いた経典がありますか。” とさし出されますと、菩提流支は手にしながら開こうともせずそのままパッと大地に投げ返して、 ”お前は若くして仏門に入り、四論宗を学び大集経の講釈をしているから少しは仏教が解っていると思ったら全然何も解ってはいないではないか、今更何を血迷ったことを言っているのか。” と鋭く叱り、これを読んで見よと「観無量寿経」、又一説に天親菩薩の「浄土論」とも言われていますがともかく浄土に往生して行く教えを説かれた浄土の経典を渡されました。これを読まれた曇鸞大師は「ああ我あやまりて」と仙経を焼き捨て、更に今まで学んだ四論宗をも捨てて、浄土の教えに転向し深く帰依して行かれたのです。それは曇鸞大師五十一、二才の頃といわれております。

 私はこの曇鸞大師の足跡を思う時に、次の三つの事柄に心が引かれます。

 一つは私達が頂いている他力のみ教えは、こうした先人の命をかけて求め聞き開かれた道であります。故に私達は聞法の座に連なる時は襟を正して真剣に聞かねばなりません。

 二つには曇鸞大師が陶弘景の許で三年の歳月を費やして求められた不老長寿の道は、総ての人々が願い求めている道であります。それを惜しげもなく捨てて、浄土のお念仏の道に転入して行かれたのは何によるのでしょうか。永遠の世界、即ち浄土に往生することを外にして、唯この世だけの不老長寿を求め、それがたとえ叶えられても、私達の死の問題が解決されたことにはなりません。死出の旅路を前にして、この世の逗留期間が少し延びたに過ぎません。その私達の姿は”糞中の穢虫、居を争うて外の清きを知らず、残水の小魚、餌を争うて水の渇することを知らず”との状態に外ならないでしょう。  ここに目覚められた曇鸞大師が、仙人のお経を焼き捨てて浄土の教えに転入させられたのであります。

 三つは、人間は年と共に思考力に柔らかさを失い、かたくなになります。けれども曇鸞大師が五十を過ぎてそれまで学んで来られた聖道門自力の教えである四論宗を捨てて、他力の念仏に転向されたのは、如何に青年のような若々しい求道心を持って、ひたすら真実の道を求めて行かれたかをよく物語っています。

(二)曇鸞大師の勲功☆☆他力を明らかにする

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心

 曇鸞大師の輝かしい勲功は、菩薩の智慧をもって書かれて、深い深い意味を湛えた天親菩薩の浄土論を註釈して往生論註二巻を著わし、その正意即ち本願他力を明らかにされた事であります。この事を親鸞聖人は和讃に

天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずば
他力広大威徳の 心行いかでかさとらまじ

即ち天親菩薩の説かれた尊い浄土論も、もし曇鸞大師の註釈がなかったならば、私達はその正意を領解することは出来ず、従って他力の信心を頂くことは出来なかったでしょうと。

 それでは曇鸞大師は浄土論のお心をどのように私達にお説き下さったのでしょうか。浄土論には浄土を願生する菩薩が修行して仏のさとりの果を開く為に五念五果の道が説かれています。それは此の土において礼拝、賛嘆、作願、観察、廻向という五念門、即ち五つの行を修行して、浄土に往生し、五念門行の果徳としての近門、大会衆門、宅門、屋門、薗林遊戯地門という五つの果を開くのであります。これはさとりの風光を家にたとえてお説きになったのであります。 即ち近門とはさとりの門に入ることであり、大会衆門とはさとりの人々の仲間に入ること、宅門とはさとりの家の玄関に入ること、屋門とは家の座敷にはいること、薗林遊戯地門とは座敷を出て庭園に遊ぶように楽しみつつ思いのままに衆生救済に向うことであります。菩薩はこのようにきびしい五念門の修行をし、五つの果を得て、仏のさとりの果に向うのでありますが、曇鸞大師はこうした修行をされた菩薩は、実は法蔵菩薩であり、法蔵菩薩はこの修行によって成就した功徳の全体を私達に与えて下さるのであると明かされました。従って浄土に生れ行く因も、浄土で恵まれる果も、又浄土に往生することも、浄土より衆生救済に向う還相の働きもすべて本願力の恵みであると開顕されて他力の救いを鮮明にし、初めて他力救済の原理を明確にされたのであります。すべてが本願他力の恵みによるならば、私の方にはこの本願他力を素直に信受する信心の外ありません。このことを今「報土の因果を誓願に顕し、往還の廻向は他力による、正定の因は唯信心なり」と仰せになりました。これを意訳には

浄土に生れる因も果も 往くも還るも他力ぞと 唯信心をすすめけり

と詠われています。ここで私は従来も、しばしば他力本願に触れてまいりましたが、これをまとめる意味で今一度おさらいしたいと思います。

 今日マスコミでも、また一般社会でも、自分が努力せずして、人のおかげで甘い汁を吸う場合を表現するのに、しばしば他力本願という言葉を使い、また他力本願では駄目だ、自力本願でなければならないという、言葉にならない言葉を平気で使っています。

 このように宗教上の大切な言葉を濫用するところに、日本人の宗教的知性の低さを感ずるのであります。他力本願をこうしたあやまった意味に用いるようになったのは昭和の初め、第一次欧州大戦の反動として世界不況の旋風が起って、日本もその中に巻き込まれて喘いでいる時、朝鮮総督府の長官であった斉藤実氏が総理に迎えられ、不況を克服する為に自力更生という言葉を掲げて運動を展開されました。その時口がすべったか自力更生の対句として他力本願ではいけないと言われました。

 それ以来今日までこの言葉が濫用されているのであります。けれども他力本願という言葉は浄土真宗にあっては大変大切な宗教用語であります。親鸞聖人は”他力というは如来の本願力なり”と仰せになっています。即ち相対的な人の力ではなくして、人間を超えた大いなる仏の力であります。このことを先ず私達ははっきり心に銘記しなければなりません。

 この本願力の働きを聖人は更に”本願力とは尚磁石の如し”と仰せになりました。八百年前科学の未発達の時代にこうした表現をしておられることについて、今日心ある人々は驚きの眼で見ています。

 磁石は鉄を引きつけ、鉄の中に磁気が入り込み、鉄全体を磁石に変えて行きます。従ってその鉄は又他の鉄をよく引きつけます。

 本願力は遠い仏の手元に止っているのではなく、私の上に働いて私の命、力となりきるのであります。そこに私が迷いを破って仏の世界に入る道理があるのです。先に述べたとおりに、闇は闇によっては破れません。氷は氷で溶けません。闇を破るのもはあくまで光であり、氷を溶かすものは熱であります。私達はこの仏の本願力の恵みによって仏の命を我が命とし、仏の力を我が力として、悩み果てしない迷いの世界を力強く越えて、仏のさとりの世界に入らして頂くのであります。これが他力本願の宗教であります。

 先に述べましたように中野藤助さんが六年余りの闘病生活の中にあって、いろんな迷信の誘惑に心を動かすことなく、ひたすら闘病につとめられて、病気を克服され、他力本願に支えられて生き抜かれた姿に頭の下る思いがすると共に、他力本願が今現に私の上に躍動する姿を感ずるのであります。

(三)信心の利益

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化

 第二節で浄土に往生していくことも、浄土のさとりを開くこともすべてが本願他力の働きであるから、救われる私達の方は唯本願他力に素直に信順する信心こそ、まさしく往生の正因であると説かれましたので、ここからはその信心の利益をお述べになるのであります。

 この四句のお意は、煩悩が身に染みついて、煩悩の中にあけくれしている凡夫も、一度信心を頂いたらやがて浄土に生まれて、仏のさとりを開かして頂き、このみ仏の光の国に生れたならばそのまま、あらゆる迷いの世界にある人々を救う働きをさせて頂くことをお諭しになったのであります。

 今日、浄土真宗の中で、時々死んだ先のことは解らない。そんな夢のようなことを言っても、現代の人々は受けつけない。真宗の救いは現在今の救いであって、それより他にないという人があります。これは今までの真宗の説き方が、死後のことに重点が置かれて、現代の救いを軽視して来た一つの反動とも思われます。

 しかし現代だけの救いが真宗の救いであるということも又片寄った考え方と言わねばなりません。親鸞聖人は往生について、はっきりと二つの往生を説いておられます。

 一つは即得往生、二つには難思議往生であります。即得往生とは信心頂く時、み仏の光明に摂取されて、必ずみ仏の世界に生れて行く身に定まり、そこに大きな安心と喜びに恵まれ、苦悩多い人の世を、お陰様と心明るく浄土に向って進み行く姿であります。即ち正定聚の位に入ることです。  難思議往生とは浄土に生れ、無明の闇が晴れ、煩悩を永く断ち、仏のさとりを開くことであります。この事を蓮如上人は、

 浄土真宗は二つの利益がある。一つは正定聚でこれはこの土の利益、二つは滅度<仏のさとり>即ち彼の土の利益であると明確に諭されています。私は浄土のさとりの風光は知るよしもありませんが、浄土に生まれゆく喜びは、現実の中にはっきりと味わうことが出来ます。浄土に生れる喜びがあってこそ、現在の救いがあきらかになるのであります。

 次に浄土に生れ、仏のさとりを開いた時に、迷える世界の人々を救う働きが展開されるのであります。これを今、「諸有衆生皆普化」と仰せになりました。これは先程からたびたび述べました還相廻向の働きであります。

 この還相廻向についても、最近の学者の中に、還相の働きとは信心頂いた者の生活の上にあると説き、これに追従する僧侶も中にはありますがこれも親鸞聖人のお心に反するものと言わなければなりません。信心頂いた喜びから”世の中安穏なれ、仏法広まれ”の願いの中に行動することを常行大悲の利益として教行信証、信の巻の現生十種の益の中に説かれています。従って、これは信後の生活の中に起る働きであります。それに対して還相廻向の働きは教行信証・証の巻に仏のさとりを開いた者は恵まれる働きとして説かれていることによっても明白であります。

 こう申しますとこのような還相の働きで衆生を救済する事は夢物語のようで、そんなことを今の時代に言っても現代人には通用しないと言う人があります。

 これについて私には誰が言われたか、”往相は還相に支えられて”という言葉が頭に浮かんで来ます。私が本願を信じ念仏しつつ浄土に向かう姿は数知れぬ還相の方々に導かれ行く姿ということでしょう。私の本性は仏に背き、念仏に背いた生き方の他ありません。それが浄土への方向に転換されたということは容易なことではないのです。その容易でないことが今現になされている。ここに数知れぬ還相の方々の恵みが味わえることでしょう。

 親鸞聖人は”偶々行信を獲ば遠く宿縁を慶べ”と仰せになり、また蓮如上人が”宿善めでたしというは悪し。当流には宿善有難しと言うべし”と仰せになったのはこの意です。宿縁宿善とは過去世で仏法を聞く因縁に恵まれているということであります。

 昭和四十六年七月一日、鹿児島実業高校教諭東兼二氏、トキさん夫妻が長男哲郎君<十才・小四年>を水難事故で亡くされました。その悲しみから何とか立ち上がろうとして、あちらこちらのお寺の先生を訪ねて歩かれました。たまたま鹿児島西本願寺別院を訪ねられた時、私が一泊二日の研修会に行っておりましたので、別院の受付の職員の方の要請で、一時間程面接しました。聞けば、私の町内に最近移住されてお東の清浄寺の門徒になっておられました。それ以後何回となく訪ねられ、又法義についての文通を重ねて来ましたが、その年十二月一日、命日に東氏夫妻が花束果物等を持って水難事故の浜辺を訪ねられました。私はそれを聞いて両親の心情に深く思い致してなぐさめの手紙の中に次の歌を書き添えて送りました。

悲しみのうつろの中にみ名呼べば 吾子の面影 胸に迫りて
しろしめすほとけいますと知りつつも 悲しき時は 悲しかりけり
運命の海に向つていとし子を 呼べどむなしく 消えて答えず
荒海に花をたむけて吾子の名を 呼べどとぎれて 三度つづかず <賞雅>

明けて正月、お礼の返事の中に、奥さんの次のような歌が記されていました。

金色に輝く夕日 今沈む 吾子住む国を 母はおがまん
海に来て 声を限りに吾子の名を 呼んで空しい たそがれの波
吾子の名を 呼んで捧し花束も 波間に消えて 年の暮れ行く
師の手紙悲しみ沈む元旦に みおやのお慈悲 心晴れ行く <東トキ>

 こうした中に、或る日私を訪ねられて、

 「先生、あの哲郎は今どんな世界に往っているでしょうか。ある先生にうかがったら、子供で罪が浅いから悪い所には往ってはおられませんよと言われるし、もう一人の先生は、子供といっても信心頂けていないからよい所<お浄土>には往っておられませんと言われました。どちらも真宗のお寺の先生です。どちらでしょうか。先生の口からはっきり教えて下さい」と言われるのです。

私は大変大きな問題と思い「仏様の前でよく話し合いましょう」と庫裡<住職住宅>の方から本堂に行き、そこでいろいろ話し合いました。

 子供を亡くした親の悲しみは、子供を亡くした親のみが知る世界であります。そのことを思う時に、この方の子供の行方を尋ねられる母の気持が痛い程に胸に響いて来ます。

 真宗の教えから申しますと、信心が頂けないものは、お浄土に詣れないと言うことも間違いではありませんが私はそれを口にする事は出来ませんでした。というのは、その時親鸞聖人が頭に浮かんだからです。

 教行信証のはじめのお言葉の中に「浄邦縁熟して調達闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機あらわれて釈迦韋提をして安養をえらばしめたまえり、斯即ち権化の仁齊しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲<お釈迦さまの慈悲>正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」と。

この意はお釈迦さまを幾度か殺そうとし、又阿闍世太子をそそのかして、父の王を殺害せしめ、母を七重の牢獄に閉じこめさせた、正に地獄の底から這い出て来たような提婆も、又この提婆の扇動によって五逆の罪<地獄におちる悪業>を犯した阿闍世太子も、愚痴多い愚かな凡夫の韋提希夫人も、さらに耆婆、月光、行雨等王舎城の悲劇をとり囲む人々も、私達にお念仏の教えを聞く機会を造るためにお浄土から現れた還相の人々であるという意味であります。それを思った時に、唯一つの教義だけで裁くことは出来ませんでした。そこで私は、「哲郎君がどんな世界に往っておられるかは私には解りません。それが解るのは仏様しかないでしょう。たとえばどんな世界に往っていてもみ仏の大悲の光明は、必ず哲郎君の上にも注がれていることでしょう。哲郎君の行方を尋ねる前にあなたは哲郎君の死をどう受けとめられるか、それが一番大切なことではないでしょうか。」と申し上げました。

 ただ悲しい悲しいと愚痴の涙の中に明け暮れするか、あなたのお陰で、うかうかして居たお母さんが真実のみ仏のお慈悲に目覚めさせて頂けた、と感謝して行けるか、そこに問題があるのでしょう。何時かお話しした通り、和泉式部が我子小式部を亡くし、その悲しみを縁として、み仏の道を聞き開いていかれました。  そこに詠まれた歌が

夢の世に あだに果敢なき身を知れと 教えて帰る 子は知識なり

というものでした。

 哲郎君の死を無駄にすることなく、しっかり御法義を聞いて下さいと話しました。静かに涙をぬぐいながら「先生、有難うございました」と言われた情景が今も鮮かに私のまぶたに浮びます。

 吉川英二先生が”我以外は皆我が師なり”と言われた言葉を思い合わせ、私がお浄土へ向う往相の中にこそ、還相の方々の無限の働き、導きが感じられます。

 次に折角お浄土に参ったのに、又お浄土から迷いの世界に出て行くのですかという素朴な疑問をした人がありました。

 浄土に往生した人々の還相の働きとは、身は浄土にありながら、十方世界にその姿を顕わし、一念の短い間に同時にその働きを普く顕わして至らざる所はないのであります。これを不動而至と説かれています。たとえば天上に輝く月は天上にありながら、同時にあらゆる所の水に影をうつすようなものであり、これがさとりの世界の風光であります。

第十三章 道綽章

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

道綽、聖道の証し難きことを決して、唯浄土の通入すべきことを明かす、万善の自力勤修を貶し、円満の徳号専称を勧む、三不三信の誨え慇懃にして、像末法滅同じく悲引す、一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといえり。

七高僧の第四番目に出られました道綽禅師は、末の世の今の時は聖道門の自力の教えではさとりを開くことは出来ないとして、唯浄土門の他力の教えによってさとりの世界に入ることが出来ると明らかにされました。そうして万善万行の自力の行を退けて、あらゆる功徳を円かに具えた南無阿弥陀仏の名号を専らに称えることを勧められたのです。又称名する信心について三不信の不淳心・不一心・不相続心と、その反対の三信の淳心・一心・相続心のすがたを丁寧に教えて、他力の信心を勧めて、像法、末法、法滅の時代の人々を等しく導かれました。従って一生悪を造る凡夫も、本願を信じ念仏すれば安養浄土に生まれて、勝れた仏のさとりを開くと教えられました。

(一)道綽禅師の足跡と勲功

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

 七高僧を讃嘆されるのに、龍樹天親曇鸞の三高僧は六行十二句を以て讃嘆されていますが、ここから道綽・善導・源信・源空の四高僧は四行八句を以て讃嘆されています。先輩の学匠はここに注目して七高僧を分けるのに、上三祖と下四祖と呼んでおられます。七高僧各、本願他力を軸として教えを展開しておられますがその勧め振りに相違があります。即ち上三祖の龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師の高僧方は、信心を中心として、信心往生の立場で他力の救いを説いておられます。これに対して下四祖道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空上人は何れも称名念仏を中心にして、念仏往生の立場から他力を勧められました。

 これは上三祖と下四祖の教えに相違があるのではなくて本願他力の勧め振りに相違があるので、上三祖は本願を頂く信心について往生を説かれ、下四祖はその信心が口に表れたお念仏の処で他力を勧められたのです。  このことをよく理解することがお正信偈を正しく頂く為に大切なのであります。

 さて七高僧第四祖の道綽禅師は、紀元五六二年、今から一四〇〇年前、中国の并州汾水にお生まれになりました。十四才の時に出家されましたが、非常に自己にきびしい方で、また道念非常に厚い方でした。始め涅槃経を拠所とした涅槃宗に学び、ひたすら仏道に精進され、清僧の誉れ高く、多くの人にその徳を仰がれました。或る年、曇鸞大師がお亡くなりになられた玄忠寺に詣でられました。玄忠寺境内に曇鸞大師の芳績を讃えた石碑が建てられています。その碑文を読まれた道綽禅師は、梁の天子粛王から曇鸞菩薩と礼拝を受け、魏の天子より神鸞とあがめられた曇鸞大師すら、四論宗の聖道自力の教えを捨てて、他力の浄土門に転入しておられることに、深い感銘を受け、自らも聖道自力の涅槃宗を捨てて、曇鸞大師のみ跡を慕い、浄土門他力の教えに転入して、日課七万遍のお念仏を称えつつ、浄土往生の道を歩まれたのであります。清僧の誉れ高かった道綽禅師の徳は普く行きわたり、長安の都では、幼い子供達もお念仏を称えたと伝えられています。そうして一生の間に二百回も観無量寿経を講釈されました。安楽集上下二巻はその代表的なものであります。

 お釈迦様が説かれたみ教えは煩瑣とも思われる膨大な教えになっています。この教えを分類整理して価値づける作業を教 相判釈と申します。仏教各宗皆この教相判釈があります。さきに述べました龍樹菩薩の難行道易行道、曇鸞大師の自力他力、何れも教相判釈であります。道綽禅師の勲功は、龍樹菩薩、曇鸞大師の難行易行、自力他力の教相判釈をふまえて、お釈迦様の一代のみ教えを聖道門浄土門と分類整理されたことであります。即ち難行自力の教えを聖道門として、それはこの土でさとりを開く教えであり、易行他力の教えを浄土門としてそれは浄土に往生して仏のさとりを開く道であると示されました。しかも聖道門の教えでは、末世の今の世にはさとりを開くことが出来ないとし、唯浄土門のみがさとりの世界に入る道であると明らかにされたのであります。

 この道綽禅師の教えを正しく理解する為に当時の人々の心を強く支配していた三階教による正法像末末法の思想を知らなければなりません。

 この正像末三時の思想は、仏教の時代観の一つであります。即ち釈尊の在世、及び亡くなられた後五〇〇年を正法の時代と云い、五〇〇年以後一〇〇〇年間を像法の時代、一五〇〇年以後一万年を末法といいます。末法の後を法滅と言われます。

 正法の時代とは、お釈迦様の感化力がそのまま残っている間をいいます。例えば太陽は没してその姿は見えなくとも、余光が輝いて昼と変わらない明るさ、この時代は教えもあり、教えによって修行する人もあり、それによってさとりを開く人もあります。即ちお釈迦様在世時代と少しも変わらない状態の時代といえましょう。

 次に像法とは、像とは似るという意味で、正法に似た時代ということです。太陽がだんだん余光がうすれて行く状態で、お釈迦様の感化力がうすれて行く時代であります。この時代は教えがあり、教えの通り修行する人もありますが、もはやさとりを開く人がありません。

 最後に末法とは余光全く消えて、真の闇になった状態で、お釈迦様の感化力も全くなくなった時代です。この時は教典は残っておりますから、教えはありますが、もはや教えの通り修行する人はなく、勿論さとりを開く人はありません。

 道綽禅師がお生まれになった陳の天嘉三年はお釈迦様が亡くなられて一五一二年に当ると考えられて、当時の中国仏教界は末法の時代に入ったという悲観的な暗い気持ちの中に覆われていました。それを裏書きするように三武一宗の法難が起りました。これは三人の武帝と一人の世宗によって仏教が永い間にわたって、しばしば弾圧されたのです。壮麗な寺院が次々とこわされ、数々の貴重な教典は惜しげもなく焼かれました。これに抵抗する僧侶は生埋めにされる者、その数を知らず、こうした姿を目のあたりにみた当時の人々は、いよいよ末法感を深くしたのであります。道綽禅師は、北周の武帝の弾圧にあわれたのですが、そうした時代に生きられた道綽禅師の思想、教学に深い影響を与えない筈はありません。私達が道綽禅師の教えを学ぶ時に、末法思想を無視することは出来ません。道綽禅師は聖道自力の教えではさとりを開くことは出来ないと説かれたことについて、二つの理由と一つの証しを挙げておられます。

 一つは大聖を去ること遙遠なり、これは釈迦様が亡くなられて一五〇〇の遙かなる年月を経ている、即ち時代は末法に入り、お釈迦様の感化の力がもはや及ばないということであります。

 二つには理深解微なり、これは即ち末法になって、人々は甚深微妙な仏教の道理を理解する能力を失っているという意味であります。先に龍樹菩薩が難行道ではさとることは出来ないと言われた理由は、諸々の行を修し、久しい時間を要し、途中で退堕するという諸、久、堕の三難を説かれたのに対して、今は末法に入り、お釈迦様の感化の力がなくなり、人々の根気が劣っているからだと説かれたのであります。これによって道綽禅師の上に末法思想がいかに強く働いていたかを知ることが出来ます。

 次に一つの証しとは、「大集月蔵経」に説かれた釈尊の言葉によるのであります。即ち「我が末法の時の中の億々の衆生、行を起し、道を修するに、未だ一人もさとり得るのもあらじ」と。

 この二つの理由と一つの証しによって、聖道自力の法では、もはやさとりを得ることは不可能なりと宣言されて、浄土のさとりの世界に通入すべき道であると明らかにされたのであります。

(二)ねんごろなお諭し

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引

 お釈迦様の説かれた一代の教えを聖道門と浄土門に整理して、聖道門は末の世の今の時はさとることは出来ないと定められて、ただ浄土門一つがさとりの世界に入ることが出来ると明らかにされましたので、今それを具体的に行と信とにわたってお諭しになったのがこの四句の言葉であります。特に念仏の信心については曇鸞大師の言葉を引いてねんごろに説かれました。

 さて道綽禅師は、聖道門の修行の道を万善万行と示されて、この自力の行ではさとることが出来ないとおとしめ退けられて、あらゆる功徳が円かに具わった南無阿弥陀仏の名号を専ら称える事を勧められました。それは自力より他力への転向を勧められたのであります。

 ではどうして他力のお念仏で総ての人々が救われるのでしょうか。これについてこんな話があります。

 法然上人の教えをうけた高野の明遍僧都が、こんな疑問を起こされました。 厳しい自力修行の人々も、末の世<末法>にはなかなかさとりを開けないのに、果して私のような者がお念仏一つで救われるのだろうか、という疑問です。疑問は疑問を呼び、ますます広がって行きました。ところがある日こんな夢を見られたのです。それは天王寺に参詣した時のこと、天王寺には多くの乞食が参詣者にしきりに哀れな声で物を乞うています。それを見て可哀想に思いながらも、出家の悲しさ、与える物がありません。

 ところがその時ある人が大八車に大きな釜とお米を運び、境内でお粥を炊いて、やがて乞食に向かって、きょうは私の親の命日である、だからお前達も私の供養を受けておくれと言われました。

 乞食達は先を争ってお椀を出し、久し振りに温いお粥に舌鼓を打っています。それを見て、ああよかったと喜びながら、ふとみ堂の縁の下を見るとそこに一人の乞食がじっとうずくまっています。どうしたのかとよく見ると眼がつぶれ、足が立たないのであります。可哀想に何とかならないかなあ、折角の供養もそのために頂くことが出来ないなとあわれに思っていると、先の人が鍋にお粥を入れて、乞食のそばに来て、お前もどうか供養を受けておくれとお椀に注いでやられました。乞食は、見えない目から涙しながら拝んで頂いています。ほんとうに感心な人だ、どんな人だろうかとよく顔を見ると、その顔は懐しい恩師法然上人のお顔に変わって来ました。そこで夢がさめたのです。不思議な夢を見たものと考えていたこのお弟子は、ああ有難いと思わず合掌してお念仏されました。このこころはここまで修行して来なさい、助けてやるという自力の教えならば、智慧の目が開け、修行の足のある聖者は救われても、智慧の眼がつぶれ、修行の足のたたない凡夫は、到底救われません。その凡夫の為にみ仏が立ち上がって歩みを運び、救いの手をさしのべて下さることによってのみ、初めて救いの道が開かれます。これが他力のお念仏のみ教えと気付かれたのであります。

 すれば南無阿弥陀仏の名号を称える称名は救いを求める祈りの声でもなければ、利益を祈る呪文でもありません。み仏の大きなお慈悲を素直に頂いた感謝の声であります。

 前門主様が”思うに宗祖親鸞聖人のお念仏は如来の大悲を仰ぐ感謝の声であります”とお諭しになりました。大悲を仰ぎ、大悲に答える姿が南無阿弥陀仏の名号を称える称名であります。故に末の世の衆生は諸善自力の修行では救われないと退けて偏にお念仏をすすめられたのであります。

 そのお念仏する信心について、自力の信心と他力の信心のすがたを明らかにして、ねんごろに永く末の世の人々を導かれました。そのことを「三不三信の誨、慇懃にして像末法滅同じく悲引す」と讃嘆されたのであります。

 三不三信とは、もともと曇鸞大師が往生論註にお諭しになったお言葉であります。

 無碍光如来<阿弥陀仏>の光明は、十方世界に普く輝いています。衆生がみ仏を思い称名しながらも無明なお有って未だ志願満たされず迷うているのは何によるかと問いを出して、その答えに、二不知三不信によるのだと述べられました。二不知とは一つにこのみ仏は真如<真実>の世界から現れた真のみ仏<実相身>であることを知らないによる。

 二つには衆生の為に立ち上がられた如来であることを知らないことによる。阿弥陀如来は決して他人仏で向うに眺めているみ仏でなく私の為に立ち上がって下さったお方であります。即ち真実の私の親であるということです。  三不信とは自力の信心のことであって、一つは不淳心、二つには不一心、三つには不相続心であります。即ち自力の信心は凡夫の計いが混り往生について決定の心もなく信心も相続しません。これに対して三信<他力>は一つには淳心、二つには一心、三つには相続心といわれます。

 この他力の信心は、み仏のお慈悲を計いなく素直に頂き、往生は間違いなしと安心し、命終るまでこの信心を相続します。

 このように道綽禅師は、自力の行を退けて、称名念仏を勧めながら、その信心について、自力の信心と他力の信心の相をねんごろに説いて像法、末法、法滅の人々をあやまちのないようにおみちびきになりました。これを意訳には

信と不信をねんごろに 末の世かけて教えます

とうたわれています。

(三)末通ったまことの救い

一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

 先にお念仏する信心について、自力の信心と他力の信心のすがたをねんごろに説きあらわされたので、この二行はその他力のお念仏による末通った真の救いについてお諭しになったのであります。即ち一生の間悪ばかり造る浅ましい愚かな凡夫でも、一度本願を信じ念仏する者は浄土に生れて妙なるみ仏のさとりを聞くことを説き示されたのであります。

 ここで注意しなければならないのは、値弘誓を弘誓に値(もうあ)うと読んでおられます。これは本願を信じ御念仏することでありますが、会うべくして会うたこと、又会う資格があって会うたことではありません。よくこの頃、”親鸞との出会い”とか”法然との出会い”という言葉を使い、この出会いという言葉を親鸞聖人の値うと言われた言葉と同じように理解している人が多いのでありますが、これは大きな誤りであります。

 出会いとは会うべくして会い又会う資格が有る者同士が会うことを言うのです。聖人が値うと言われる時は会うべき筈のない者が会うたことであり、あうべき資格のない者が会った場合に使われるのです。即ち如来の働きによって本願に値うたことであります。

 今までしばしば述べてまいりましたが、私達は真如背反と申しまして真実に背を向け、仏に背いて逃げよう逃げようとしているのです。

 仏法にあえるような資格は微塵もありません。

 それが偶々あうことが出来たのです。あうべからざる者が、み仏の一方的な働きによってあわせて頂いているのであります。ここに親鸞聖人は弘誓に値うと仰せになりました。聴聞ということも私は仏法を聞くような資格は微塵もありません。それを私は今聴聞させて頂いているのです。このことを聖人は、”許されて聞く”と特に註釈をおつけになっておられるのもこの意でしょう。

 さて一生造悪という言葉でありますが、私達は一生悪を造りつつ、悪の中から一歩も抜け切れない凡夫であると言われると、俺は何時どんな悪いことをしたと言うのかと強い抵抗を感ずる人が多いことでしょう。けれども、私達は悪の中に埋没し切っているから、悪を感じなくなっている程悪が深いのです。そんな馬鹿なことがと反対する人もいるでしょう。けれども仏教で説かれる悪とは、倫理や道徳で言われる悪とは違うのです。倫理や道徳では人の道を正しく守ることを善といいこれに反する行為を悪と言っているのに対して、仏教では真実の智慧を持たない無明から起こる自己中心の心、つまり我執より現れる総ての行為を悪と言われるのであります。それは社会や他人をきずつけると共に、私をいよいよ深い迷いの世界に追い込んで行くからです。そこに心を止めて、私達の日常生活を静かに内省してみると、我執より一歩も離れることが出来ないことを知らされるでしょう。

 親鸞聖人はたとえ世間で善と言われるものも雑毒の善、虚仮の行と言われました。即ち我執の毒のまじった善であり、真実のない行と言われたのです。どんなおいしいごちそうでも、一滴の毒が混じっていたならばそれは御馳走にはならないでしょう。私達のすべての行為が我執の上に立ち、我執から一歩も離れられないと言うことについてこんな話を思い出します。

 或るお寺の仏教婦人会の方が入院されました。御住職が見舞いに行かれた時に、案外元気で枕元にはお見舞いの品が沢山置かれていました。

 親しい間柄なので、”奥さん沢山のお見舞い頂きましたね。”と言われたら、”いや先生まだ来るんですよ。”ともらされました。極端な話のようでありますが、私達もこんな場合にやはりこれに類した、見舞いを期待するような心が動かないでしょうか。私はその言葉を通して、その人の心の底を、いや私自身の心の底をのぞき見たような感じがしました。人をお見舞いすることは美しい行為でありますが、然しこれだけのことをしてあげたと言う執着が尾をひいているのです。それを思う時に、我執の凡夫と言われた言葉が何かしみじみと胸にひびきます。

 親鸞聖人が一生造悪の凡夫と仰せになった言葉もこうした世界ではないでしょうか。こんな私が値い難くして値うことによって、やがて浄土に生れて妙果を開かして頂くことを讃嘆されたのであります。今静かに聖人の数々のお言葉を味わう時に、そこに浄土に生れ行く喜びがそのまま人生に反映する明るい温かさとなって伝わって来ます。

娑婆永劫の苦を捨てて 浄土無為を期すること
本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし <浄土和讃>
超世の悲願ききしより 我等は生死の凡夫かは
有漏の穢身は変らねど 心は浄土に住み遊ぶ <帖外和讃>

 昭和三十九年五月二十二日七十五才を一期に往生された家内の伯父元宮崎教区教務所長、慶正寺前住職小野鴻基法師<現住職小野一修師>のことが私の胸に浮んで来ます。昭和三十八年五月二十二日より、二十六日までの行信教校の安居に出席している時に、家内より連絡があって、伯父さんが福岡の九大病院に入院されたので、帰りに見舞って下さいとのこと。博多駅に途中下車して病院の個室を訪ねました。その時伯父さんは端然と椅子に寄って本を読んでおられました。側のベットに伯母の靖子夫人が休んでおられました。私は伯父さんが入院と聞いて来たが伯母さんであったのかと一寸とまどいましたがやはり伯父さんで、伯母さんは看病疲れで休んでおられるところでした。やがて伯母さんも起きられ、挨拶を交してトイレに行かれました。その時伯父さんが静かに”君だから話すが、わしは口腔癌で余命幾ばくもない。家内には知らせてないから今しばらく君の胸に伏せておいておくれ。今知らすと余計な心配をかけるから。”と淡々と話されました。私は今その情景を思い起こす時に、やはりお念仏に遇うた素晴らしさを思うのです。死を前にしながら、なるべく家族に心配をかけないようにとのやさしい心の配り、さすがお念仏ならではとの思いがしみじみ致します。然しこれは伯父さん一人だけのものでなくて、本願を信じお念仏をする私達に恵まれている道であることを思う時に、浄土真宗に遇うた幸せを思い、「一生悪を造る者も弘誓に値いぬれば、安養に到りて妙果を証す。」とのお言葉が一層懐かしくひびいてまいります。

第十四章 善導章

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

善導独り仏の正意を明らかにす。定散と逆悪とを矜哀して、光明名号因縁を顕わす。本願の大智海に開入すれば、行者正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲る。即ち法性の常楽を証せしむといえり。

善導大師独り正しく観無量寿経を解釈して、お釈迦様の正意を明らかにされました。定善と散善を修める自力修行の善人も、又五逆や十悪の罪を犯した悪人も共にあわれんで、光明と名号のいわれを顕わして、他力をお勧めになりました。本願のいわれを聞き開いて他力に転入した人々は、正しく金剛堅固の信心を頂いて、必ず救われるという一念の喜びによって仏のみ心にかなう時、韋提希夫人と等しき喜忍・悟忍・信忍という真如の徳を恵まれて、やがて浄土に生れ永遠のたのしみのさとりを開くのであるとお説きになりました。

(一)善導大師の足跡と勲功

 善導大師は紀元六一三年に隋の煬帝大業九年に生れて、隋唐の時代に活躍された方であります。それは今から約一三〇〇年前で日本では聖徳太子の活躍された頃であります。この時代は先に天台大師智ぎ、浄影寺慧遠大師・嘉祥寺吉蔵大師等のすぐれた学匠が出られて、法難の為に衰微した仏教復興につとめられました。又、隋の煬帝等の皇帝もこれに尽くされましたので、正に中国仏教の黄金時代と言われてその全盛をきわめました。

 そうした中に誕生された善導大師は、若くして仏門に入り、戒律を中心とする律宗に身を置き道宣律師に学ばれました。大変自己に厳しく、一生、お湯に入る以外は法衣を脱がず、又道を歩かれる時には、目を上げて女人を見ずと伝えられています。長安の城外終南山に居住されましたので終南大師ともいわれ、又長安の光明寺に住されましたので、光明寺の和尚とも称されています。道綽禅師の晩年八十才を過ぎられた頃弟子になり、浄土教を学ばれました。如何なる悪人も、本願名号の働きによって救われるという他力の易行の道を自らも信じ人にも伝えながら、己を持すること誠に厳しく、清僧の誉れ高かったことは私達は見落としてはならない大切なことであります。これは善導大師のみならず七高僧方には等しく言えることであります。それは本願の光に照らされて、浅ましい我が身が見えれば見える程自とたしなみ、つつしみが深くなるのは自然の道理であります。

 ここで私達がよくよく注意しなければならないのは、どんな者でも救われるということは、どんなことをしてもよいということでは決してありません。浄土真宗では昔から、造悪無碍の異安心と言われる一群の信仰の間違った人々がありました。それはどんな悪人でも救うて下さる本願だから、どんな悪いことをしてもよいという受け取り方をした人々です。

 或るおばあさんがお寺に詣りました。家を出る時は古びた下駄をはいて出ましたが、帰って来た時は新しい下駄をはいていました。お嫁さんが、

 ”おばあさん、下駄をまちがったね。”と言うと
 ”私が一番先に本堂を出たら、そばに新しい下駄があったので、はいて帰りました。”
 ”おばあさん、お寺参りする人がそんな事をしたら・・・”
 ”こんな欲の深いばばあをお目当ての本願じゃ。”

と、これは極端な話で事実あったとは思われません。けれども真宗門徒の生活態度を風刺して作られたものであることに留意しなければなりません。

 私達はややもすればこれに類して本願に甘えるような心が動かないでしょうか。蓮如上人は、

我が心に任せずして 我が心を責めよ。
我が心に任せば 必ず必ず誤りあり。

と、お諭しになっておられます。利井鮮妙和上が、 子の罪を 親こそにくめ にくめども 捨てぬは親の情けなりけり と、詠まれましたが、子の罪を心の底から憎み悲しむのは親であります。憎み悲しみつつなお捨て切れないのが親の慈悲で、この親心が本当に解ったら、どうして本願に甘えることができるでしょうか。七高僧始めその他の高僧方が他力のみ教えを説きながら、常に自らに厳しかったことを見忘れてはなりません。私達も本願を仰ぎながら自らの行ないを慎み、たしなんでいくべきでしょう。そこにこそ、本当の念仏者の風格があると言えます。

 昭和四十三年、鹿児島組西寿寺の開基住職佐々木教正法師の二十五回忌と後継住職村永行善法兄の住職披露の法要が行われました。その時、後継住職の挨拶の中に亡きお父さんをしのんで、次のような話をされました。

 ”門徒の或る方が「私は親鸞聖人の教えは解らなかったけれども、あなたのお父さんの言われることだから素直に聞いてきました。」”と。

 私はその言葉を感銘深く聞き、今も頭に鮮かに残っています。又、村永さんはこんなことも私のお寺の勉強会の時に言われました。

 ”私はお寺に生まれ、龍谷大学を出ましたが、僧侶になるのがイヤでイヤでなりませんでした。ところが或る日、亡き父の日記を見て僧侶になる決心がつきました。”と。  私は佐々木教正法師に一度も面識はありませんが、これらの言葉を通してその風格が、なつかしく慕われます。そうして、み教えはどんなに立派であっても、人によってのみ伝わるという言葉が、しみじみ思われるのです。

 善導大師の行跡を忍びながら、少し話が横にそれたようでありますが、大師の勲功はお釈迦様のお説きになった観無量寿経を正しく解釈して、お釈迦様の正意を明らかにされたことであります。前の章に述べましたように当時は、末法時代に入って、人々の心に悲観的な暗い影がさしていました。その中に末法の人々の為にと説かれた観無量寿経は、当時の学匠方にもてはやされて、これらの学匠はこぞって観無量寿経の註釈に手を染められました。先に申しました天台大師や慧遠大師等がそれらの代表的な方々であります。しかし、観無量寿経は他力を説かれたお経でありますがこれらの人々は、自力の教えに立っておられます。従って、自力の色眼鏡をかけて他力のお経を見られたので、その正意を見誤られたことも止むを得ないことであります。それについて今少し述べますと、観無量寿経は表には定善と散善の自力の教えが説かれて、裏に他力のお念仏が説かれているのです。これは偏に、自力の人々を他力に導き入れる為のお釈迦様の巧みな説法であります。

 定善の十三観とは心を一つの境に注いで、お浄土のみ仏の姿を観察して心を清め、さとりに近づこうとする教えです。次に散善とは、こうした浄土及び仏を観察することのできない凡夫の為に、悪をやめ善を修めて仏に近づこうとする教えであります。この散善には凡夫の姿を、九つの種類に分けられています。上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生であります。その中、上品上生から中品下生までが善凡夫であり、下品上生から以下が悪凡夫であります。この下品下生の悪凡夫即ち一生の間一つの善もなく悪ばかり造った人がいよいよ臨終迫った時に、その造った罪におののき苦しむのです。その時良き師が現れて、この人の為に色々の妙法を説いて仏を念ずることを勧められました。けれども苦に逼められて念ずることができません。そこで、

”汝もし念ずる事ができなければまさに無量寿仏の御名を称えよ”

と、称名を勧められました。そこでこの人は勧められるままに、

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

と、十遍、称名する事によって、八十億劫という長い間の罪が消されて、やがてお浄土に救われてゆきました。この一段に来た時に、先の聖道自力の学匠たちは、その解釈に行き詰ってしまったのです。こんな極重の悪人が臨終迫って苦しまぎれに十遍の称名をしただけで真実のお浄土に生まれゆく筈はないと。ここにこのことについて二つの解釈が生まれたのです。一つは天台大師<智ぎ>浄影寺慧遠大師、嘉祥寺の吉蔵大師などは、どうせこんな悪人が十遍ぐらいの称名で参るお浄土だから、たいした浄土ではない。凡夫と聖者が一緒にいる非常に劣った浄土で、娑婆とそう変わらない方便化土であると説かれました。

 今一つは、この考えに対して天親菩薩の兄、無着菩薩の書かれた摂大乗論によって成立している摂論宗の学匠達や、法相宗の開祖慈恩大師等が、別時意趣だと主張されました。別時意趣とはお釈迦様の説法の方法の一つで、これを観経に当てはめて解り易く申しますと、お浄土は阿弥陀仏の本願によって出来上った世界であるから、真実の勝れたお浄土であるが、一生悪を造ったような悪人が十遍位の称名で浄土に往生できる筈はないけれども、この十遍の称名によっていつか遠い将来に浄土に参る因縁が結ばれたのである。それを、人々を導く為に、今すぐに次の生で浄土に生まれるように説かれたのであります。例えば一円の金はすぐには千円にはならないけれど、それを積み重ねることによっていつの日にか千円になることをすぐに千円になるように説かれたものです。

 この二つの学説によって長安の都からは、お念仏の声が絶えたと申されています。こうした時代に善導大師が出られて観無量寿経を正しく解釈されて、お釈迦様の正意を明らかにされたのであります。すなわち下品下生の悪凡夫も、十遍の称名によって必ず直ちに、最も勝れた真実の浄土に往生すると説かれました。その書が有名な四帖の疏といわれている玄義分、序分義、定善義、散善義であります。これによって古今の学匠達の誤りを正されました。従ってこれを古今楷定の妙釈と讃えられています。この書を書くに当って、夢の中に浄土や仏、菩薩の姿を観察されて、観無量寿経の文章を分類される時には、夜な夜な一人の僧が枕元に現れて指示されたと、自ら述べておられます。これは善導大師が、この書を解釈するに当って、仏菩薩の加被力を乞い、ひたすら私心を離れて仏の心を仰ぎつつ書かれたということが伺われます。

 さて、天台大師、慧遠大師などが観経の下品下生の一段に説かれる、「悪凡夫が十遍の称名によって往生する浄土は、凡夫も聖者も同居する世界であって、この娑婆世界とはあまり変わりばえのしない劣った浄土、即ち方便化土である」と説かれたのに対して善導大師は、「この浄土は阿弥陀仏の衆生を救うという本願によって建立された浄土であるから、最も勝れた真実の浄土である」と主張されました。

 また、摂論宗の学者や法相宗の慈恩大師などは、往生するには必ず願と行が具わらなければならないけれども、観経に説かれている下品下生の凡夫はただ願だけで行はない、従って別時意であると主張されたのであります。けれども既に十遍の称名を称えているから行があるではないかという不審に対して、摂論宗の人々は称名はしていてもただ救われたいという願いが口に表われているにすぎないから、行という名に値しない。従って、どんなに称名しても願だけであって行はない。即ち唯願無行であり、その凡夫が往生すると説かれているのは、別時意趣であると断定されました。この摂論家や法相宗の学匠達の別時意趣説に対して二つの理由をもって、善導大師はこれを斥けられました。

 その一つは既に阿弥陀経にもしは一日、もしは二日乃至七日の称名をもって命終る時、心は転倒せずして仏菩薩のお迎えを受けて、浄土に往生すると説かれていると示して汝は菩薩<唯願無行は別時意趣であると説いた無着菩薩>の言葉を信じて、仏の言葉を信じないかと厳しく戒められました。

 又、下々品の凡夫の称名は願だけで行がないという主張に対して、有名な南無阿弥陀仏の六字の解釈をもって、願、行が具わっていることを明らかにされました。即ち、南無阿弥陀仏の南無の言葉には、帰命と発願廻向の謂われがあると示し、阿弥陀仏はその行であると説かれて、六字の名号には願行が円かに具わっていることを明らかにされました。この名号を心に領解したのが信心であり、口に表れたのが称名であります。従ってこの称名には願と行が具わっているので、決して唯願無行ではないと説かれて、称名で真実の浄土に生れることを明らかにされたのであります。思うに天台大師や慧遠大師など、又法相宗の学匠達が観経の解釈を誤られたのは、下品下生の悪凡夫の称える称名を、自力の称名とみられたからです。もしこれを自力とみるならば、こうした解釈になるのも当然であります。今、善導大師が下品下生の悪人が十遍の称名で往生できることを明らかにされたのは、称えた力でなく称えしめた名号願力の力によるもので、他力の称名であると、お釈迦様の真意を見抜かれたからにほかなりません。

 自力聖道門の学匠達が自力の心にとらわれて観経の正意を見失われたのに対して、善導大師一人が、お釈迦様の真意を見抜かれたのであります。このことを今、親鸞聖人は、 「善導独り、仏の正意を明らかにす」 と讃嘆されました。

(二)他力の救いを示す

矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁

 聖道門の自力の学匠が、観経下品下生の悪凡夫の称える称名を、自力の称名とみてお釈迦様の正意を見失ったのに対して、今、善導大師はこの悪凡夫の称える称名は他力の称名であると鋭く見抜かれて、お釈迦様の正意を明らかにされました。よって今、この二行は他力の救いを具体的に示されたものであります。即ち、定善を修める聖者も散善を修める善凡夫も、また五逆や十悪を造る悪凡夫も共にあわれんで、光明名号の謂を明らかにして全ての人々が救われてゆく他力のみ教えを勧められたのであります。

 定善と散善とは先に説明した通り、み仏並びに浄土を観察してさとりに近づこうとする聖者<定善>又、この観察のできない人々が悪を止め善を修めて、仏に近づこうとする善凡夫<散善>であります。それに対して逆悪とは正に、地獄の業である五逆罪や十悪を造る悪凡夫であります。

 五逆とは父を殺し母を殺し、教団の和合を破り、羅漢<さとった人>を殺し仏身<お釈迦様>より血を流す悪業であります。

 十悪とは心に犯す貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩、それから口に犯す両舌<二枚舌>・悪口・妄語<まことのない言葉>・綺語<飾り言葉>の四つの悪、身に犯す殺生<ものの命を取る>・偸盗<ものを盗む>・邪婬<邪まな男女関>の三つの悪業であります。今、自力修行の人々も、悪より悪に入り、暗きより暗きに彷徨う悪人も共にあわれんで、偏に他力の謂われを説いて勧められました。

 ここで、悪人を憐れむということはよく頷けますが、自力修行の聖者や善凡夫を憐れむとはどういうことでしょうか。それは、これらの人々は己が善根に心がくらみ、み仏の大悲を見失っているからであります。親鸞聖人は、定善や散善を修めている人々を、疑心の善人といわれて、これらの人々は、方便化土に往生すると仰せになりました。折角、善をしながら大悲を見失い方便化土に生まれるとは、哀れむべき悲しいことであります。それにつけても、浅ましい凡夫である私達がみ仏の大悲に目覚め、本願を信じ念仏しながら真実の浄土への道を歩むことは、まことにこの上ない喜びと言わねばなりません。ちなみに方便化土とは浄土の中の一部でありますが、ここでは五百年間、仏を見ることも出来ず、又仏の説法を聞くこともできません。それは七つの宝を散りばめた牢獄に、金銀の鎖でつながれたようなもので、仏智を疑った罪の報いによるものであると説かれています。

 次に、光明名号の謂われについては、先に第三章、第四章で詳しく述べましたが、本願他力の救いとは、光明名号の働きのほかありません。光明の働きは調熟<お育て>と摂取の二つであります。調熟とは仏に背き真実に背いて、逃げよう逃げようとしている私の上に働いて、楽しみ喜んで仏法を聞く身に育てられることであります。即ち聞法の姿のままが、大悲の光明に触れ大悲の光明に育てられているのであります。  本年<昭和五十六年>一月十二日歎異抄の集いの夜の事でした。お話し終った時に、会員の阿多鈴子さんが、

 ”先生お寺詣りって、本当に不思議ですね、実は今晩、こんなに寒いし、雨混りの天候でその上少々風邪気味なので休もうかと思いました。けれども最近、伊集院町の叔父が、かりそめの病ではかなく死んだことを思い出し、こんなことではいけないと心に言い聞かせてお詣りしました。そうして今帰る時は、本当にお詣りしてよかった。炬燵に入ってテレビを見ていたよりもと、しみじみ感じます” 私は、この言葉を聞いた時、

 ”そうですね。それはこうして御縁に会っているままが、仏様の大悲に触れ育てられているのですからね”と話したことでした。

 次に、名号の働きとは智恵の眼がつぶれて、修行の足が立たない私に代わって、仏になるべき願も行もあらゆる功徳を南無阿弥陀仏の名号に、円かに具えて、その功徳のありたけを本願の呼ぶ声として私に届けて下さるのであります。親鸞聖人はこれを”本願招喚の勅命を聞く”と仰せになりました。この如来の呼び声に目覚め如来の大悲にお任せする時、ここに私は摂取の光明に抱かれて、必ず浄土に生まれて仏のさとりを聞く身にならせていただくのであります。

 すれば私達が、本願の義を聞くことも信ずることも、浄土に生まれゆくことも全て、本願他力の働きのほかありません。ここに善導大師は、己が善根に心を奪われ、又悪より悪にさまよう悪人、即ち大悲を見失っている人々を憐れんで、光明名号の働きによる他力の救いを明らかにされたのであります。この事を意訳には、 「自力の凡夫あわれみて、光とみ名の因縁説く」 と、讃えれれています。

(三)他力の利益=現在より未来にわたりて

開入本願大智海 行者正受金剛心
慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍
即証法性之常楽

 光明名号による他力の救いを明らかにされましたので、この本願他力による現在から未来にわたる利益を讃嘆されたのが、この五句の言葉であります。

 「開入本願大智海 行者正受金剛心」とは、南無阿弥陀仏の名号の義を聞き開いて自力を捨てて本願他力に転入した人々は、金剛石のような堅固な信心を恵まれると説かれたのであります。自力を捨てて他力に入る姿を親鸞聖人は、 ”雑行を捨てて本願に帰す” と、お述べになりました。このお心は凡夫の自力の計いの不完全さに目覚めて、完全なみ仏のお計いにお任せするということであります。ここに、自力を捨てて他力に転入する理由があるのです。人間は完全なるもの、即ち真善美の世界を求めながら、いやそれを求めれば求める程、自分の不完全さに気付いてゆくでしょう。人間は所詮、どこまでいっても不完全なるものであることを免れません。それゆえにこそ親鸞聖人は、自力を捨てて他力の本願の世界に転入されたのであります。それによって恵まれる金剛の信心について、こんなお話が伝えられております。  本願寺のある年の安居に、原口針水和上が本講師をつとめられました。その講義の中に、自力の信心と他力の信心を比較されて、

「自力の信心の脆きこと、歯の如し。他力の信心固きこと、舌の如し」 と言われました。お弟子達がこれを聞いて、例えを取り違えたのであろうと講義の後で和上を訪ねられ、

 ”今日の講義、まことにありがたい、よく解るお話でしたが、例えを一つ取り違えられたと思います。”と、今の言葉を引いて、

 ”あれは自力の信心の脆きこと、舌の如し。他力の信心の固きこと、歯の如しではないでしょうか。”と申し上げたら、

 ”いやあれは、あのままでいいのだ。よく考えてごらん。歯は固そうであるけれど根が肉に張っているだけだから、やがて折れもすれば抜けるであろう。舌は柔らかそうであるが体の一部であるから、決して抜けもしなければ落ちもしない。自力の信心は固そうに見えるが凡夫の自力の計いよりなっているので、崩れもし壊れていく。それに比べて他力の信心は、弱そうには見えてもみ仏の、衆生を必ず救う、という金剛の親様のまことが凡夫の上に届いたのであるから、決して崩れもしなければ壊れもしない。”と、諭されました。私は学生の頃、父のお説教で聞いたこの話しが、鮮やかに頭に残っています。

 崩れない、壊れない金剛の信心とは、凡夫の計いで思い固めるのではなくて、いつ思い浮かべても往生は一定、御たすけは間違いなしと本願を仰ぎ、又浅ましい自分の姿が見えるにつけても、こんなことではと心配するのではなくて、こんな奴をお救いの御本願といよいよ大悲を仰いでゆくのであります。これを金剛堅固の信心と仰せになりました。

慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍
即証法性之常楽

 この三句は、往生は間違いなしと喜ぶままがみ仏の喜びであり、み仏のみ心にかなうのであります。従って韋提希夫人が、お釈迦様のお計い即ち加被力によって空中に住立したもう阿弥陀如来のお姿を拝見して、八地以上の菩薩がさとる無生法忍という真如のさとりを得て喜忍、悟忍、信忍の徳を頂いたように、今真如にかのうた南無阿弥陀仏の名号を聞く時に、韋提希夫人と同じく喜忍、悟忍、信忍の徳を頂くのであります。喜忍とは往生一定の喜びであり、悟忍とは悟りを開くに定まることであり、信忍とは本願を信ずることであります。このような徳を今恵まれますので、命終わった時に永久に変わらぬ真の楽しみをさとらせて頂くのであるとお説きになりました。

 これを言葉を換えて申しますと、名号の義を聞き開いて信心の徳として三忍を頂くとは、煩悩を持ちながらほのかに真の世界を感知させていただくということではないでしょうか。  昭和五十二年九月、私の寺の本堂落成を記念して若婦人の真宗教室を開きました。まる四年経過した今日、ようやくこれらの人達が私の話を吸いついて聞くようになられたなあと感じられた時に、会長の久保きよかさんが、

”真宗教室でお勉強させて頂いたお陰で、車にかけていたお守りが気安めであるということを解らせて頂きました。それで私は、お守り札をはずしました。”

 私はこれを聞いて、正しいみ教えが身についてくる時に、おのずと人生の真の道理が見えてくるのを感じたことです。今、親鸞聖人が信心に目覚めた人に韋提希夫人と等しく三忍を得ると讃えられたのは、ただ言葉の上だけのことではなくていただいたみ教えが私達の日常の生活の上にいきいきと働くことを知らされたのです。

第十五章 源信章

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

源信広く一代の教を聞きて、偏に安養に帰して一切を勧む、専雑の執心浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり、極重の悪人は唯仏を称すべし、我亦彼の摂取の中にあれども、煩悩眼を障へて見ずと雖も、大悲倦うきことなく常に我を照したもうといえり

源信和尚はお釈迦様の一代に説かれた教えに精通して、自らも偏に弥陀の浄土を願生して一切の人々に勧められました。専ら念仏を称える信心と、雑行雑修の信心の深い浅いを判定されて、お念仏の人々は真実のお浄土へ、雑行雑修の人々は方便の化土に生れると定められました。また煩悩を一杯持った罪深い人々もただ一筋に称名念仏を唱えなさい。おろかな私のようなものも、お念仏によって摂取の光の中に抱かれている。今は煩悩に眼障えられて、み仏の摂取の光明を見ることはできないが、み仏の大悲は常に倦むことなく私を照したもうとお諭しになりました。

(一)源信和尚の芳跡

源信広開一代教 偏帰安養勧一切

 源信和尚は今から約一千年前、平安朝の中期に出られて、日本浄土教の始祖と仰がれました。七高僧の第六番目の方であります。

 源信和尚は朱雀天皇の天慶五年西暦九四二年大和の当麻村<奈良県北葛城郡当麻村>に誕生されました。幼き時より神童の誉高く、七才の時父を失い、十三才の時に比叡山中興上人と仰がれた慈恵大師即ち良源上人について出家されました。十五才の時、早くもその英才が認められて、村上天皇の前で称讃浄土教<または法華八講>の御前講義をされました。左右両側には大政大臣、左大臣、右大臣等の高位顕官の殿上人や南都北嶺の由々しき学匠達の居並ぶ中で約四時間にわたり怖めず臆せず、あらゆる教典をふまえて講義されました。

 講義が終っても寂として声もなく、今日の結果は如何であろうかと、後で固唾をのんで聞いておられた師匠良源上人も、その見事さに思わずはらはらと落涙されたと伝えられています。天皇も御感のあまり、おほめの言葉と絹一疋を賜りました。源信和尚は一時も早くこの喜びを故郷の母に知らせようと、使いの者に手紙をしたため、恩賜の絹を持たせて、大和の国に走らせました。けれども母は様子を聞いて、その絹に触れようともせず、手紙を持たせてそのまま比叡に帰らせました。「あなたをお山に登らせたのは、偉い坊さんともてはやされるためではありません。ひたすら真実の道を求めて、それを私に教えて欲しかったのに他ありません。それなのにあなたは男女雑居する宮中に出入りして、名聞僧となり果てたことはなんと悲しいことでしょうか。」と、切々と訴え、”後の世を渡す橋とぞ思いしに、世渡る僧になるぞかなしき”と書かれてありました。源信和尚は母の手紙によって、一時なりとも名利に心が動いたことを深く恥じられて、名利という字を部屋にはりつけてひたすら自己を戒めながら、勉学に努められました。

 良源上人によって復興されたと思われた比叡も、再び名利を争う巷と化し、僧とは名ばかりで、名利に狂奔している東塔西塔を逃れて、横川谷にこもり、ひたすら真実の道を求めて勉学修行されました。その頃から、源信和尚の眼は、聖道門自力の教えから浄土に生まれてさとりを開く浄土教に向けられたのであります。四十一才の時にお母さんに送られた「勧進往生偈」を見ても、よくそのことが窺われます。四十二才の時に、どんな浅ましい悪人凡夫でも、お念仏によって必ず浄土に生れ行く確信をお持ちになり、このことを一時も早く母に知らせようと、初めて山を下り、故郷に向かわれました。お母さんは既に病床にありましたが、源信和尚より、往生浄土の道は、お念仏にあることを知らされて、”思えば十三の時にあなたを膝元から離し、二十九年間そのさみしさに耐え忍んで来たのは、このことひとつを聞かせて頂くためでありました。”と、はらはら落涙して源信和尚の手を握りつつ、お念仏の中に安らかに往生を遂げられました。源信和尚は母の一周忌を迎えられた、四十三才の時に、亡き母を偲んでお書きになったのが有名な「往生要集」であります。

 当時、中国は先に申しました、三武一宗の法難が続いて、貴重な経典や書物が焼失されていましたので、仏教復興を願う皇帝の使者として周文徳が日本に仏教を学ぶために、来ておりました。この周文徳によって「往生要集」は書写されて中国に持ち帰られ、時の天子に献上されました。一説によると、これをごらんになった天子は、「この素晴らしい書物を書く人は、ただ人ではない、まさに生きた仏である。印度にお釈迦様が出られて、み教えを説きたもう如く、今東方日本に源信如来というみ仏がお出ましになって妙法を説いて、迷える人々を救いたもうか。」と朝夕日本に向かって、源信如来と礼拝されたと伝えられています。思えば仏教が日本に伝わって以来、幾多の名僧高僧が出られましたが、遙か異国の天子から礼拝を受けられたのは源信和尚ただ一人であります。このことを思うにつけて「往生要集」が如何に素晴らしいかということがよく窺われます。源信和尚は後一条天皇の寛仁元年六月、七十五才で往生されました。その著述は恵心僧都<源信の別名>全集に収められているだけでも八十一部百二十巻あります。これによって源信和尚が仏教について、いかに広く深い知識をもっておられたかが、よく解ります。けれどもその中心は先に申しました「往生要集」上中下三巻で、この書には地獄、餓鬼、畜生等の迷いの世界を離れ、真実の浄土に生れることを、力を尽くし、言葉を尽くして説かれてあります。

 特に地獄の描写はすさまじく、真実に迫り、読む人をして地獄の罪人の悲愁の声が切々と胸に迫るのを感じさせます。その往生浄土の道は、幾多あろうとも、私のような愚かな者は、ただ念仏による他はないと述べられ、自らも浄土を願生しながら、多くの人にこれをお勧めになりました。この源信和尚の功績によって、日本に於いて浄土教が確立されたのであります。よって先に申しましたように、源信和尚を日本の浄土教の祖と仰いでいるのであります。そのことを今「源信広く一代の教を開き、偏に安養に帰し、一切に勧む」と讃えられたのであります。

(二)源信和尚の勲功

専雑執心判浅深 報化二土正弁立

 さきの第十三章道綽で詳しく述べましたが、道綽禅師はお釈迦様の説かれた教えを、聖道門、浄土門と分類整理されました。これは龍樹菩薩の難行道、易行道の教え、曇鸞大師の自力、他力をふまえて説かれたもので、即ち難行道自力の教えを聖道門と定め、これはこの世でさとりを開き、仏になる教えであります。それに対して、易行道他力の教えを浄土門と定められました。これは阿弥陀仏の浄土に往生して仏になる教えであります。道綽禅師は聖道門をのがれて、偏に浄土門に入ることを勧められましたが、今源信和尚は、その浄土に往生する道について、専修正行<念仏>の他力の道と雑行雑修の自力の道のあることを説いて、その優劣を明らかにして、専修念仏の道を勧められたのであります。ここに源信和尚の素晴らしい勲功があります。専修正行と難行については、色々難しい道理が説かれていますが、いまその心をふまえて解りやすく申しますと、専修正行とは専ら阿弥陀如来の功徳を説いたお経、即ち

浄土の三部経をよみ <読誦>
阿弥陀如来を心に思い浮べ <観察>
阿弥陀如来を礼拝し、阿弥陀如来のみ名を称え <称名>
阿弥陀如来を讃嘆供養することであります。

この五つの正行の中、第四の称名が中心で他の四つはこれに収まりますので、つまり専修正行とはお念仏を称えることであります。

 雑行雑修とは聖道門の諸々の自力の行をもって阿弥陀仏の浄土を願生することです。この行は一行に限らず、いろいろの 行を修めていますので雑行雑修といいます。

 また、たとえお念仏ひとつを称えていても、自力の心が雑るならば、やはり雑行雑修といわねばなりません。さらにもう少し詳しく申しますと、先の五つの正行に対して、阿弥陀如来以外のお経を読み、仏を心に思い浮べ、礼拝し、仏名を称し、讃嘆供養することを五つの雑行といわれます。したがってどんなお経を読み、どんな仏を礼拝してもよいのではありません。この点私達はよくよく注意しなければなりません。

 さて他力の念仏の信心と、雑業雑修の信心との相違を明らかにされて、他力の念仏の信心は阿弥陀如来より恵まれた信心であるから深く、雑行雑修の信心は凡夫の自力の計いより起す信心であるから浅いとお諭しになって、他力の信心の人々は真実の浄土に生れ、雑行雑修の自力信心の人々は方便化土に生れると判定されて、信心の因と果報について優劣を明らかにされたのであります。

 このことを「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」とお説きになりました。因みに執心とは信心の異名であります。専修念仏の他力の教えと雑行雑修の自力の教えについての相違点を更に詳しく申しますと、雑行雑修の自力の教えでは、自分の力をあて頼りとし、その上に仏の力を求めて自分の力、プラス仏力によって救われていこうとするのであります。これは仏教の自力の教えばかりではなく、あらゆる宗教にも言われます。自分が信心しお祈りすることによって、神の恵み、或いは力を頂いて救われようとするのです。これに対して、他力の救いは、私は救われるような価値又は力は全然持たない、言い換えれば私は0<ゼロ>であると自覚し、全く仏の願力の一人働きによって救われて行くのであります。従って他の宗教には必ず祈願祈祷祈りがありますが浄土真宗では祈りが全く否定されて、祈りなき宗教と言われるのはこのためであります。

 ここに浄土真宗の他力の教えと、他の教えとの根本的な相違があることを知らねばなりません。

 親鸞聖人のゼロの自覚に立つ告白の言葉に耳を傾けますと

一切の群生海、無始よりこの方乃至今日今時に至るまで 穢悪汚善にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし

悲しき哉愚禿鸞、愛欲の曠海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入る事を喜ばず、真証の証に近づく事を快ざる:ことを 恥づべし傷むべし

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定住み家ぞかし
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし 心は蛇蠍のごとくなり
修善も雑毒なる故に 虚仮の行とぞなづけたる

 以上の言葉は倫理道徳の反省より起こるところの浅いものではなくて、み仏の光に照されて、徹底的に知らされた深い内観よりほとばしり出た言葉であります。けれども深い内観は大悲によって知らされた境地でありますので、自己を悲しんでいたむ心のままに大悲を仰ぎ大悲に支えられた喜びのあることを見忘れてはなりません。

(三)念仏の利益

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

 第二節で雑行雑修と専修念仏の優劣を示して専修念仏を勧められました。よってこのお言葉はその利益を説かれたのであります。極重悪人とは今までしばしば述べてまいりましたが、自己中心の我執煩悩の中に明け暮れして、悪より悪に入り、暗きより暗きにさまようている私の姿の他ありません。

 そうした私も、本願を信じ念仏するところに摂取の光明の中に照護されるのであります。煩悩によって眼障えられて、仏の姿を見ることは出来なくても、常に私を倦むことなく護り照らしたもう事をうたわれたのであります。

 この言葉は往生要集に書かれたもので、源信和尚の生き方の方向を決定し、生き方を支えられた持言であります。それは源信和尚が寛仁元年西暦一〇一七年七十五才の六月に亡くなられましたが、その年の五月に書かれました「観心略要集」の中にも書かれていますので、そのことがよく知られます。親鸞聖人もこのお言葉に深く感動されて、このお正信偈と教行信証の信の巻に引用されました。また御和讃にこの言葉の意をうたって

煩悩にまなこさえられて 摂取の光明見ざれども
大悲ものうきことなくて 常にわが身をてらすなり

と仰せになりました。この言葉には何等の注釈は要りません。宗教生活の喜びを素直にお述べになったものであります。凡夫の肉眼では、み仏を見ることはできませんが、み仏は常に私を照し護りたもうものであります。

 よく、「私を救うみ仏があるならば見せてみよ、それなら文句なしに仏を信ずるが」と、言われる人があります。いやこれは人の問題ではなくて、私自身学生時分に、そんなことを思ったことがあります。私はこれについて、恩師利井興隆先生と関田正雄さんのお話を思い浮かべるのです。関田さんは、両親は天理教と真言宗で、真宗に全然関係のない家庭に育った方ですが、友達のすすめで利井興隆先生のお話を何度か聞いているうちに、一つの不審を持たれました。その時の会話です。

 ”先生、地獄、極楽、仏様がほんとうにあるのですか。”
 ”おおあるわい。”

] ”そんなら見せて下さい。” ] ”馬鹿もの、目を洗って出直して来い。”  この先生の言葉に家へ帰って考えに考え抜かれました。そうしてやっとこの言葉の謎が解けました。関田さんは先生を訪ねられて

 ”先生、よく解りました。”
 ”そうか、それでよいのじゃ。”

 私は学生時分に聴いたこの話が、今も時々頭に浮かびます。ちょっと聞くと禅問答のようで、ちんぷんかんぷん解りませんが、よく味わって見ると、汲めども尽きぬ深い味わいがあります。地獄、極楽が見え、仏の姿が見えたなら、信ずるというけれど、果して仏や浄土を見る眼を私が持っているかどうかという問題であります。赤い眼鏡をかけて見れば世界はすべて赤く見えます。青い眼鏡をかけて見ればすべてが青く見えます。私達のまなこは、我執煩悩によって曇っている迷いの眼でしかありません。迷いの眼を以て見る世界は、すべてが迷いなのであります。もし迷いの眼に見える神、仏であるならば、それは迷いの神、仏でしかありません。地方に行くとよく阿弥陀如来を見せると説くいかがわしい宗教がありますが、そんな宗教は全く迷信という他ありません。関田さんが、あるなら見せて下さいと言われた時に、先生が言葉鋭く、”馬鹿者、目を洗って出直して来い”と言われたのは、お前は仏を見る立派な眼をもっているのか、思い上がるなと厳しく叱られたのであります。私達は仏を見ることは出来なくても聞法を通し、大悲を感ずる素晴らしい心の働きを持っています。故に万物の霊長と言われるのであります。

 然しみ仏の大悲を感ずることはなかなか容易なことではありません。曇鸞大師は”非常の言葉は常人の耳に入らず”と仰せになりました。その非常の言葉が私の心に頷けるのは、永い間にわたってのみ仏のお育ての他ありません。そのことを親鸞聖人は「遇たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せになり、お軽同行が、”おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから”とうたわれたのはこの心からであります。み仏の大悲に育てられ、大悲に目覚めるたった一つの道が、聞法であります。私の眼には見られないけれども、私を暖かく見護りたもう大悲に目覚める時、そこに苦悩の人生を心豊かに生き抜く道が開かれることでしょう。

 私は昭和五十四年九月、指宿組乗船寺藤岡義昭先生のお寺に彼岸の布教に参りました。

 藤岡先生は私の尊敬する先輩で、鹿児島に入寺以来、いろいろ指導頂いて来ました。先生は数年前、築地本願寺の輪番をしておられましたので、こんなことを尋ねました。

 ”築地本願寺では、浄土真宗に関係のある国会議員の方々が、月に一度、揃って参詣されると聞きましたが、今もそれは続いているのでしょうか。”

 ”うん続いているよ。”と詳しく話されました。

 ”国会が開かれている間、自民党、社会党、民社党、新自由クラブ、無所属n浄土真宗に関係のある衆参両院の議員の方々が、月に一回日曜日の七時に集り、お正信偈でおつとめされて、前門様のお話を二十分聞かれ、八時に会食されて散会されるのですが、そうした方々の中で、前衆議院議長の保利茂さんの聞法の姿勢、その後姿には、私達も頭が下がりました。”と云われました。

 私はこれを聞いた時に、なるほどと一つの疑問が解けました。それは保利さんが内閣官房長官の頃、NHKの国会討論会に数回出られました。野党の人が歯に衣着せず、ずばりずばりと鋭く詰問されます。聞いていても、冷っとすることが度々ありましたが、保利さんは少しも腹を立てることなく、酸いも甘いも噛みわけたものわかりの良いおやじさんが、噛んで含めるようないい方で答弁しておられました。

 私は、なんと心の広い、温い人であろうかと聞いていましたが、ここにその謎が解けました。

 この保利さんが国会議員団の団長として中国訪問を前に、癌で倒れ、慈恵医大病院に入院されました。文芸春秋五十四年十月号に、この様子が詳しく書かれてありましたが、保利さんは、見舞いに来た人達に、お正信偈を開いて、私の最も心ひかれる言葉は「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の言葉であると話しておられました。私はこれを読んだ時に保利さんの政治生活を支えたものは、お念仏の救いであり、人間はやはり宗教の支えを持つことが真実の生き方であるということをしみじみ感じました。

第十六章 源空章

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

本師源空は仏教を明らかにして善悪の凡夫人を憐愍せしむ。真宗の教証、片州を興す。選択本願、悪世に弘む。生死輪転の家に還ることは決するに疑情を以て所止となす。速かに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入となすと言えり。

本宗の祖師源空上人はお釈迦様が一代の間に説かれた仏教に明らかで、善悪の全ての凡夫をあわれんで真宗の教行証の教えを日本に興し給い、選択本願の救いを末法の悪世に弘め給う。生死の迷いの世界を生まれては死に、死んでは生まれてさ迷うのは罪の軽い重いによるのではなくて、本願を疑うことによると教え給い、速かに煩悩を離れた寂静無為のさとりの世界に入ることは、必ず信心によるのであるとお説きになりました。

(一)源空上人の足跡

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人

 源空上人は法然房源空と称し、七高僧の第七番目の高僧と仰がれ給い、法然上人とも呼ばれています。今を去る八百五十年前、長承二年<一二三三>四月七日美作国久米郡稲岡の庄<今の岡山県久米郡稲岡南村>に生まれました。お父さんは漆間時国と言い、押領使としてその地方を治めておられました。仏教の信仰厚く領民をやさしく慈しまれましたので、人々は慈父のように慕っていました。ところが明石の源内定明がそれをねたみ、夜襲をかけました。当時十三才であった法然上人は、勢至丸と呼ばれていました。たまたま叔父のうちに行っていたのでありますがこの変事を聞いて、取るものも取りあえず駆けつけてみると、源内は既に引き上げて、お父さんは瀕死の重体でありました。勢至丸は父の手を握りながら、

 ”お父さん御安心下さい。私はどんな困苦に耐えても憎い敵を打ち果し、お父さんの恨みを晴らします。” と言った時に、父、時国は苦しい息の中から喘ぎ喘ぎ、

 ”恨みに報いるに恨みをもってしては恨みの消ゆる時がない。お前はこの断ちがたい恨みを断ち切って、敵も味方も平等に救われる仏の道を求めてくれ。” と、懇懇とさとされて息が絶えました。勢至丸は父の意志を継いで叔父の観覚の許にひきとられました。十五才の時、観覚の勧めで比叡山にのぼり源光上人をたずねられました。この時叔父観覚の、源光上人に送られた手紙の中には「文珠一体を送る」と書かれてありました。普賢菩薩がお釈迦様の慈悲を表すのに対して、文珠菩薩はお釈迦様の智慧を表します。いかに、叔父観覚上人が勢至丸の英才を認めておられたかがよくうなずけます。このことを和讃に

源空三五のよわいにて 無常の理さとりつつ
厭離の素懐をあらわして 菩提のみちにぞいらしめし

とうたわれています。更に皇円阿闍梨について出家し、十八才で黒谷の叡空上人の弟子となって、法然房源空と名乗られました。これは師源光上人と叡空上人の名を一字ずつ頂かれたものであります。

 二十四才の時に黒谷を出て嵯峨の清涼寺をたずね、更に南都<奈良>に遊学されました。十数年後再び黒谷に帰り、報恩蔵に籠もって一万二千余巻の一切経を五回も読み返されたと伝えられます。しかし法然上人の胸には、救いの光はさしては来ませんでした。ひたすら悶々たる求道のうちに、善導大師の観無量寿経を解釈された四帖の疏の散善義の中に”一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、時節の久近を問わず念々にして捨てずば、是を正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に”の言葉が焼き付くように、上人の目に入ってきました。

この言葉の意味をもっぱらふた心なくお念仏して、その姿形にとらわれず、又時節の長い短いを問わずしてお念仏を相続するならば、これによって正しく浄土に生まれることができる。なぜならば、このお念仏は衆生を必ず救うという阿弥陀仏の本願によるからである。この言葉によって必ず救われるという確信が生まれました。ここに長い間上人の胸を閉ざしていた闇雲が晴れたのであります。時に承安五年の春、上人四十三才でありました。浄土宗ではこの年を以て、立教開宗と定められています。

 その後法然上人は吉水に居住して、善人悪人全ての人々が平等に救われていく本願他力の念仏を説かれました。当時、貴族政治から武家政治に、古代から中世への大きな時代の変動期と源平二氏の戦いの動乱の中に喘いでいた人々は、乾天に慈雨を得たように貴賎老若を問わず法然上人のもとに集まりました。上は後白河法皇、尼将軍とうたわれた源頼朝の奥方政子夫人、九条関白兼実公等、高位顕官の人々や、又かっては源平の戦いに互いに刃を交えた平家の御曹司、平重盛の孫勢観坊源智、一の谷の合戦で花の若武者十六才の平敦盛の首を切った源氏の荒武者熊谷次郎直実、一般の町民百姓、遊女と卑しまれた白拍子等、あらゆる人々がこの世の恩讐を超えて手を取りながら念仏を称えてみ教えを仰いでゆかれました。その姿は誠に壮観で美しいものでありました。

こうした法然上人の名声は日増しに高まると共にその反動は強く、五十四才の時、聖道門の学匠達と大原の三千院で法論を交えられました。これが有名な大原問答であります。その後各宗より法然上人の念仏教団に対する圧力はいよいよ強く元久元年、上人七十二才の時比叡山より念仏教団糾弾の延暦寺奏状が朝廷に出されました。この時法然上人以下お弟子百八十九人の署名による七ヶ条の請文を、天台の座主真性上人の元に送られて一応事なきをえました。親鸞聖人は綽空の名を以てここに名を連ねておられます。

 翌年の元久二年<七十三才の時>奈良の興福寺より興福寺奏状が朝廷に送られました。延暦寺奏状は念仏者の行いについての糾弾でありますが、興福寺奏状は、他力念仏の教義についての糾弾であります。

 これが導火線となって上人七十五才承元元年、念仏禁止の命が下り、法然上人以下高弟の人々が死罪、或いは流罪に処せられたのであります。上人は土佐の国に流罪と決まりましたが九条兼実公の特別の計いで、その荘園がある讃岐に留まられました。その年十二月に、流罪は許されましたが都に入ることはできず、摂津の国勝尾寺<大阪府箕面市>に四年余り居住されました。許されて建暦元年十一月に都に入り、東山の吉水の庵室に帰られましたが、翌二年<一二一二>一月二十五日八十才で往生の素懐を遂げられました。

 こうした法難によって一時は念仏の灯は消え去ったかのように思われましたが、その灯は消えること無くお弟子や信徒の間に継承されて行きました。これは偏に法然上人が智恵第一の法然房と言われるように、あらゆる仏教に精通してその心から苦悩の凡夫を慈しまれたことによるのであります。このことを「本師源空は仏教に明らかにして善悪の凡夫人を憐愍せしむ」と讃えられました。

 又親鸞聖人は源空上人のお徳を深く感佩して和讃に

善導源信すすむとも 本師源空ひろめずば
片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし
曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずば このたびむなしくすぎざまし

と、その高恩を仰いでおられます。

(二)源空上人の勲功

真宗教証興片州 選択本願弘悪世

この二句のお意は、親鸞聖人が和讃に、

智慧光のちからより 本師源空あらわれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべ給う

と述べられていますように、法然上人が日本に真宗を開いて真実のみ教えを興し給い、第十八願の選択本願の念仏を弘め給うことを讃嘆されたのであります。

 今まで聖道門の片隅にあってその存在意義を僅かに認められていたのが、浄土往生の念仏のみ教えでありました。即ち聖道門のきびしい修行に行き詰まった人々が、お念仏してまずお浄土に生まれようと願ったのであります。それは浄土はこの娑婆世界と違って誘惑や妨げが少なくて、仏道修行がし易いから先ず浄土を願生しました。これに対して法然上人は、聖道門より念仏を独立させて浄土宗と名乗ってこのお念仏によって全てのものが救われていくことを明らかにされました。

 七高僧は何れも念仏による浄土の往生を勧められたのでありますが、何故お念仏で浄土に往生することが出来るかということについて、この高僧方の深い心を鋭く見抜いて、それはお念仏は阿弥陀如来様が衆生を救う為に選び抜かれた選択本願のお念仏であり、この念仏には最も勝れた徳と最も易い徳が具わっているからであると開顕されたのであります。ここに念仏往生について確固不動の基礎が明らかにされました。これが法然上人の素晴らしい功績と言われるものであります。

 法然上人は極悪最下の機の為に極善最上の法を説くと仰せになりました。つまり”仏の大悲は苦者に於てす”とありますように最も苦悩するものが仏の救済の対象であります。従って最も愚かな罪の深い私達の為にみ仏は最も勝れたみ教えを以て私を救おうとされました。この救いの法こそ選択本願のお念仏であると、法然上人は明らかにされたのであります。それは上人六十九才の時に、九条関白兼実公の請いによって書かれた「選択本願念仏集」の中に、具さに説かれてあります。この書は選択本願の念仏の理を明らかにすると共に、浄土独立の宣言書とも言うべき書であり、今迄の聖道門の学匠達の考え方を全く逆転されました。

 即ち先に申しますように念仏して浄土に往生する道は、聖道門の自力修行に行き詰った人々の為にあり、聖道門の自力修行を完成する為の方便の道として存在価値が認められたのでありますが、法然上人は一切の人々が速やかに迷いの世界を離れようとするならば、二種の勝法の中、しばらく聖道門をさしおきて、選んで浄土門に入りなさい、と力強くお述べになって、聖道門ではもはや迷いの世界を離れることは出来ないと宣言されました。これは当時の仏教界の常識を根本的に破られたのであります。親鸞聖人はこのお意を承けて御和讃に、

聖道権化の方便に 衆生ひとしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

とうたわれました。これは聖道門は往生浄土のお念仏に入るため、仮に設けられたものであり、衆生はいたずらにこの方便の教えに止まっているから迷いの世界に流転して行くのであると言う意であります。法然上人はこの心を確信を以て選択集にお書きになり、本願他力の念仏を高らかにお勧めになりました。しかしこの書が世に公開されるならば、仏教界に大きな波乱を巻き起こすであろうと予知されて、兼実公に、「この書は決して公開して下さいますな。お読みになったら焼き捨てるか壁の中に塗り込んで下さい。」と申されて、三百有余人のお弟子にもこの書を書き写すことを許されたのはわずか五、六人にすぎませんでした。

果たして上人の亡き後この書が公開されるや栂尾の明恵上人は直ちに摧邪輪を作って、法然並びに念仏の教えは仏教に非ず、外道であると、厳しく糾弾の矢を放たれました。又比叡山の僧徒は選択集の版木を山に持ち帰り、大衆の面前で焼き捨て法然上人の墓をあばいて、その遺体を辱めようとしました。幸いそのことが事前にわかって、上人の遺体はお弟子の手によって他に移され辱めを逃れたのでありますが、墓は乱暴に破壊されました。親鸞聖人は畢生の力をこめて教行信証を書かれたのは、選択集に対する厳しい誤解を解く為でもありました。このような他宗派よりの厳しい弾圧の中にも、法然上人は毅然として浄土宗の独立を守り選択の本願の念仏を末の世の私達の為にひろめられたのであります。

(三)疑と信心

還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

 法然上人のお弟子の中で上人の没後、親鸞聖人を除いて外に五人の高弟によって教えが五つに分かれました。それを法然門下の五派分裂と言っています。その代表的なものが今日残っている浄土宗鎮西派<本山京都知恩院>を開いた聖光房弁長、浄土宗西山派<本山京都西山光明寺>を開いた善慧房証空等のお弟子達であります。親鸞聖人が信心一つで往生すると説かれた信心往生に対して、これ等の人々は背師自立<師の教えに背いて自分勝手な考えを主張する>と非難攻撃しました。法然上人は、往生の業は念仏を以て本となす、と説かれて、ひたすら念仏を勧められました。それに対して信心で往生を説かれた親鸞聖人は師の法然上人の教えに背いて自分勝手なことを言い出したと非難されたのです。その誤解を説こうとして法然上人の言葉を引いてお示しになったのがこの四句の言葉であります。

 このお言葉の意は、初めの大意の所で申しましたように、迷いの世界を生まれては死に、死んでは又生まれつつ永久にさ迷うて行くのは罪の深い浅いによるのではなくて、本願を疑うか疑わないかにかかっている。この迷いの世界を離れて煩悩の炎が消えて、清浄真実の寂静無為の都に速やかに入ることは信心の一つにかかっている、とお諭しになって偏に他力の信心をお勧めになったのであります。この言葉は選択集の信疑決判に説かれた法然上人のお言葉で、従って信心正因は法然上人の教えに背いたものではないことをお示しになったのであります。

 そこで法然上人は念仏往生を高く掲げて人々を導かれました。それに対して親鸞聖人は、何故、信心往生を説かれたのでしょうか。思うに法然上人の説かれたお念仏は自力念仏でなくして他力の念仏であることを決して見落としてはなりません。何故称名念仏によってこんな浅ましい十悪の法然、愚痴の法然と言われたものが救われていくか、それが長い間の法然上人の胸を苦しめた疑問でありました。この言葉によって上人の胸を閉ざしていた暗雲がカラリと晴れ渡っていったのであります。即ちこの称名念仏が、本願他力によって顕れた念仏であって、自分の力で称えて功徳を積んでいこうとする自力念仏でないということを明らかに知られたのであります。

 これによって法然上人がお念仏一つで救われると説かれたお念仏は、自力念仏でなくて他力の念仏であることが明らかであります。

 しかし、浄土宗鎮西派、西山派を開いた聖光房弁長、善慧房証空という人達は、聖道門自力の教えから、法然上人の学徳にひかれてお弟子になられたのですが、親鸞聖人とはその趣が違うのであります。親鸞聖人は何度となく申しますように、全く自力ではどうにもならない、自力の教えの限界を極めて一切の自力を捨てて全く己れを空しくして、ゼロの立場に還って素直に法然上人の教えを受け入れられました。

 これに対して他の弟子達は、自力聖道門の心を残しながら法然上人の徳にひかれて弟子になられたのですから、他力の教えをそのまま素直に受け入れることが出来ずして自分勝手な解釈をしたため、半自力半他力の教えになりました。これを蓮如上人は、”本宗の心捨てやらずして”と仰せになっています。これについてこんな話が伝えられています。聖光房弁長は北九州の方で学匠の誉高かったのでありますが、法然上人と問答を交わし”もし私が負けたら弟子になりましょう。貴方が負けたら弟子になりなさい。”と言い、論争に負けたが故に法然上人の弟子になられた方です。と、このように三百有余人のお弟子はありましたが、多くのお弟子は自力の執心にとらわれて、麗しく他力の教えを受け取ることが出来ず、却って法然上人の他力の教えをくらましました。法然上人の念仏往生は称えた功徳で救われていく教えではなくて、すでに救うと呼び給う本願を仰ぎ大悲に任せた姿であると、法然上人の心を明らかにされたのであります。

 従って法然上人の念仏往生は、信心を内に孕んだお念仏によって往生すると勧められたのであります。親鸞聖人はこのお念仏の真意を見誤った他の人々に対して、念仏に孕んでいる信心を表に立てて信心往生と説かれたのであります。

 たとえば提灯明るしと勧められたのが法然上人の念仏往生であり、提灯の中のローソク明るしと勧められたのが親鸞聖人の信心往生であります。このように頂いてみれば、法然上人の念仏往生の勧め振りと、親鸞聖人の信心往生の勧め振りは、言葉はしばらく左右はありますが心は全く一つであって、自力念仏による往生を勧めた聖光房弁長、善慧房証空の弟子達の方こそかえって背師自立であり、親鸞聖人は決して背師自立でないことがうなずけるでしょう。

 ここに親鸞聖人は恩師法然上人のお徳を高く高く讃えながら、本願を疑う心を離れて素直に大悲を仰ぐ信心によって、速やかに寂静無為の都に還りなさい、と法然上人がひたすらお勧めになったことを明らかにして源空章を閉じられたのであります。

◇重ねて信心往生について

 次に信心往生とは言葉を換えて申しますと、信心正因ということであります。親鸞聖人の教えの最も大きな特徴は信心が正因で称名は報恩であるということです。称名報恩についてはしばらく置いて、信心正因について考えて見たいと思います。まず明らかに心得ておかねばならないのは、信心正因は信心一つで往生の因が定まるということでありますが、それは信心が往生の条件即ち救いの条件ではない、ということであります。

 これを取り違えると、知らず知らずのうちに自力の信心に陥って、如来の大悲を見失うことになり、生死の迷いの世界に流転していくことになります。

 昔から、親鸞聖人のみ教えを聞きながら信心を得ようとして得られず、多くの熱心な求道者が苦しんできたのは、信心正因というおいわれを信心が救いの条件であると取り違えたことによるのであります。ではこの二つはどう違うのでしょうか。

もし、信心を往生の条件と考える時に、当然聞きぶり信じぶりが問題になり、信心の味わいの深い浅いが問題になってきます。こんな聞きぶりこんな信じぶりで果たして良いのであろうか。あの人はあんなに深く喜んでおられるが、私はどうしてもあんなに喜べない。あの人と比べたらまだまだ信心が薄い、信仰が足りない。こんなことで良いのであろうか、といつまでたっても、これで救われるという確かな安心ができません。 それは他力の無条件の救いを聞きながら、自分の信心を役立てようとする、そんな計いに陥っているからです。自分の信心を役立てようとする計い、親鸞聖人は定散自力の信心、本願疑惑の人々として強く戒められました。 またその姿は、本願を仰ぐ眼をいつの間にか自分に向けていますので、本願を見失っている姿とも言えましょう。信心正因とは信心が救いの条件でなくて、こんな浅ましい私を必ず間違いなく救うと呼び給う大悲を仰ぐ姿であり、いつ思い浮かべてもこんな浅ましい奴をお救いの本願と仰いでゆくのであって、もはや自分の信じぶり聞きぶりに用事がなくなって、御本願一つを仰いでゆくのであります。

これはとりもなおさず聞いて信じてまいるお浄土ではなくして、参らせて頂くお慈悲を聞いて安心させていただくのであります。まいらせていただくおいわれを聞いてみれば、いつ思い出しても、こんな浅ましい奴をお救いの御本願であると、両手離して、御本願一つを仰いでゆく姿であります。そこには、こんなに喜ばれたからこんなに有難い心になれたという、そんな所に腰をかけて安心しようとする計いは全くなくなり、ただほれぼれと御本願一つを仰ぐばかりであります。大丈夫の親様の御本願一つによって救われることよと安心させていただく、これを信心正因と申されたのであります。歎異抄に、

”弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生おば遂ぐるなりと信じて念仏もうさんと思いたつ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめ給うなり” と仰せになったのはこの意であります。自分の心すなわち信じぶり聞きぶりに用事がなくなった姿、このことを思う時に私は、何回目かの本願寺総会所の布教の時に、よく参詣されるお同行から聞いたお話を思い浮かべるのであります。これは私が直接、K和上から聞いた話ではありませんのでもし間違いであるならば、お許しいただきたいと思います。

 K和上が京都から大阪のあるお寺に御講話に行かれようとして電車に乗られました。その電車が向日町に着いた時、知り合いの同行が乗って来て先生の前に腰かけられました。多分お二人の間に法談の花が咲いた時のことでしょう。この同行が、

 ”和上、和上には信心がありますか。”

と、ぶしつけに問われたそうです。その時和上は、

 ”さあ、あるやらないやら。”

と答えられました。同行が、

 ”和上さんでもまだそんなことですか。”

と、問い返して来た時に、

 ”あるやらないやら解りませんが、この浅ましい私が、大悲の親様の御手に抱かれていることは、おかげさまで味わうことができます。”

と、お答えになったそうです。さきにも申しました通り、私が同行から伝え聞いた話でありますので、お二人の間の言葉のやりとりには、多少の相違があるかもしれませんが、私はこの会話を通してK和上の温和な人柄がなつかしくしのばれると共に、お慈悲の聞きぶり信じぶりに用事がなくなって、御本願一つをすっきり仰いでゆかれる他力信心の風光が鮮かに伺われます。よくお同行の中に、

 ”私は信心をいただいている。”

と、強く主張する人がありますがそんな言葉を聞いた時私は、

 ”それは本当でしょうか。間違いありませんか。自分の心で思いかためた信心ではないのですか。”

と、もう一遍、念を押してみたい気持ちが致します。

 信心正因とは聞法を通して大悲に目覚めた時、すなわち摂取の光明に照護され、お浄土への道へと方向転換させていただくことを言うのであります。その点、返す返すも間違いのないよう、よくよく聞かせていただきましょう。

第十七章 信心をすすめて結ぶ

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

弘経の大士、宗師等、無辺の極濁悪を拯済したもう。道俗時衆共に同心に唯斯の高僧の説を信ずべしと。 大無量寿経並びに観無量寿経、阿弥陀経のお意を世々にわたって広めたもう七人の高僧方は、煩悩渦巻く濁りに濁った悪世の無量無辺の人々を憐み救いたもう。僧侶在家を問わずいずれの時代の人々も共に心を同じくして、唯この高僧の教えを信じなさい。

(一)七高僧の功

弘経大士宗師等

 お正信偈の後段の依釈段では初めに七高僧の芳蹟を総じて讃嘆されて、「印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓機に応ずる事を明す」と仰せになり次に、七高僧一人一人の勲功、即ち教えを讃えられましたのでこれを結ぶにあたりて七高僧共通の功績を讃えて弘経の大士宗師等と仰せになります。これは七高僧おのおのおでましになった国や時代は違ってもお釈迦様が説かれた大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のお意をそれぞれの立場から明らかにされて阿弥陀如来の本願を説いて人々をお救いになったことを讃えられたのであります。

 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経の取り扱いについては古来より、三経一致門と三経差別門の二つがあります。三経一致門とは大無量寿経は法の真実を説き、観無量寿経は機の真実を説き、阿弥陀経は機法合説と言われています。これを例えて申しますと、大無量寿経の法の真実とは重病を癒やす薬に当り、観無量寿経の機の真実とは正に重病人の姿を説き表されたものであります。阿弥陀経の機法合説とは、重病人が薬を飲んだ姿を説かれたのであります。大無量寿経に説かれた南無阿弥陀仏の名号は、観無量寿経に説き示された下品下生の極重の悪人に働くことを表し、阿弥陀経はこの名号によって極重の悪人が必ず救われることを説いて、しかもそれはお釈迦様一人の説法でなくして十方恒沙の諸仏がこれをまちがいないと等しく証明し讃嘆したもうたことを明らかにされたのであります。

 三経差別門とは、大無量寿経は初めからお終いまで他力の教えでぬりつぶされ、観無量寿経は表には第十九願の自力諸善<定善散善>の道を説き、裏には他力の念仏を説かれています。阿弥陀経は観経に準じてその説きぶりを見るときに表には、第二十願による自力念仏を説き、裏にはやはり他力の念仏を説かれているのであります。説きぶりにはこのようにしばらく左右がありますが、お釈迦様の真意は正に、弥陀の本願の他力の教えによって苦悩の衆生を救うことにあったのはいうまでもありません。お釈迦様がこのような説き方をされたのは、自力修行の人々を他力念仏に導き入れる為の巧みな説法の手段でありました。従って七高僧の本意も、お釈迦様の心を明らかにして弥陀の本願を説くにありました。この七高僧のお徳を讃えて、「弘経大士宗師等」と仰せになったのであります。

 このように七人の高僧は出生された時代や国も違いまたその教えの説きぶりもそれぞれ異なった特徴がありますが、弥陀の本願を一器写瓶と言って、一つの器の水を次の器に増さず減らさず移していくごとく、正しく継承されたのであります。このことを親鸞聖人は「七祖各々この一宗を興行す。愚禿すすむるところさらに私なし」と仰せになりました。この心は七高僧が各々この浄土真宗の教えを広め伝えられて、親鸞が別に新しいことを説くのではありませんということであります。

 この言葉によって伺われますように親鸞聖人が本願に遇いお念仏に救われた喜びを深く思われた時に、折角お釈迦様によって説かれたみ教えも、もし七高僧によって正しく継承されなかったならば私はこの法に遇うことは出来なかったと、その高恩を深く深く感佩されて教行信証総序のお言葉に「西藩月氏の聖典、東夏日域の師釈に遇い難くして今遇う事を得たり、聞き難くしてすでに聞く事を得たり」と、述懐されています。このお言葉は印度中国日本の三ヶ国にわたって七高僧方の書き残された尊い聖典に遇い難くして遇った喜びをお述べになったのであります。

(二)七高僧のあわれみ

拯済無辺極濁悪

 七高僧は今申しましたように大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のお意を開いて選択本願の他力のお念仏を継承されて、偏に数限りない極重の悪人、即ち自己中心の我執煩悩の中に明け暮れし迷いの生死の世界にさ迷うている私達を慈しみお救いになりました。この七高僧の恵みによって幾多くの人々が迷いの世界を離れて、寂静無為の清らかなみ仏の世界に生まれていかれたことでしょうか。そのことを静かに思いながら七高僧の憐れみ慈しみを受ける悲しき凡夫とは人のことではなくて、私自身のことであったとしみじみ思われます。そう申しますと或いはいや現代多くの人々は、私がなぜそんな憐れみ救いを受けねばならないものであろうか。一体私はどんな哀れな生き方をしていると言うのか。私は人間として恥ずかしくない立派な人の道を歩いているではないかと反発されるかもわかりません。私はこれについて次のようなことが頭に浮かびます。

 一切のみ仏は私達の姿を御覧になった時に思わず目を閉じ耳を塞ぐ、と説かれた事であります。私達が立派なこと正しいことと思っていること或いは行動している姿を御覧になりお聞きになったら、危なくて危なくて見てはおられず聞いてはおられなくて、思わず目を閉じ耳を塞がれると言うのであります。人間世界でも時としてこんなことがよくあります。

 かって私の恩師利井興弘先生から聞いたお話でありますが、昭和十五年日支事変のさ中でありました。先生が結婚の仲人をされました。その花嫁さんは両親が早く亡くなられ一番上のお姉さん夫婦から親がわりに育てられた娘さんです。義兄さんは支那事変が始まって間もなく召集を受けて、支那大陸に転戦しておられました。この縁談も留守中に先生の勧めによるものでした。戦地の義兄さんも喜んで賛成されましたので、留守中ではありましたが式が挙げられました。仏式による式典も終り披露宴に移りました。酒が回されて次第に座もはなやかになり両家の親類の間に杯の取りかわしも始まりました。その時ホテルの支配人に

 ”先生、ちょっと”と別室へ呼ばれました。
 ”どうしたのだね。何かあったのか。”
 ”先生大変な事ができました。”
 ”何が起こったのかね。”
 ”戦地に行っておられる花嫁さんの義兄さんが今戦死されたという公報が入りました。どうしたらよいでしょうか。”
 ”ああそうか。しかし今これを発表すると式が壊れるから済むまで伏せておきなさい。”

とおさえておいて何知らぬ顔をして元の席へ帰られました。会場では新郎の側の親類の方がお姉さんの所に挨拶に行かれて、

 ”奥さん御主人は今、中支に転戦しておられるそうですがおげんきでしょうか。”
 ”はい数日前手紙が来て『今度の妹の結婚式色々と心配だろうがよろしく頼む。自分は元気だから安心するように』と書いてありました。”
 ”奥さん大きな声で言えませんがある筋の情報によりますと、家庭を持ち二年以上戦地にいる兵隊さんは今度部隊の交替があって、日本に帰還されるようですがお宅の御主人は何年程になられますか。”
 ”日支事変の直後でしたからもう二年半近くになります。”  ”そうですか。それでは今度の部隊の交替でひょっとしたら帰還されるかも・・・。”
 ”そうだったらうれしいのですが。”

奥さんは何も知らずうれしそうにニコニコしながら対応しておられます。その姿を見られた先生はまともにその奥さんを見ることが出来ずその声も聞くことが出来ずして、思わず耳を塞いでその場をはずして廊下にでられました。ああしたにこやかな明るい幸せも、後わずかの間で、我家に帰ってみると悲しい戦死の公報が届いている。一切のみ仏たちが私達の姿を見られた時に、思わず目を閉じ耳を塞がれると説いていますが、私達の姿は正にこの奥さんのような姿ではありますまいか。

 私はこの話を思い浮かべる時に行信教校に入学した当初、恩師利井興隆先生からこんなお話を聞きました。先生がいつも行っておられる理髪屋に行き散髪終わって世間話しの中に、

 ”おやじ、お前いくつになったか。”
 ”先生早いものですな、もう五十八ですよ。あと二年も経つと六十ですが。”
 ”そうかもうそんな歳になったか。おもえもいつまでもうかうかしておらず時にはお寺に詣って御法義を聞かんといかんぞ。”
 ”先生それはようわかっています。けれどもこせがれが多くて今日の食べることに追われてなかなかお寺詣りする暇がありません。まあまあそのうちにお詣りします・・・。先生こうしましょう。私が病気したら家内を先生の所に走らせますから先生来て下さい。そこで先生から有難いお話をチョコッと聞いてお浄土に参りますから。”
 ”アホ! そんなうまくいくものか。”

と言って帰られ、それから二日後にこのおやじ、心臓マヒでポコッと死にました。今私はこの事を思うのです。この対話をみ仏たちが聞かれたら、思わず目を閉じ耳を塞がれることでしょう。賢そうな立派そうなことを言っていても私達の生活の姿はこれとどれ程の違いがあるでしょうか。今無辺の悲しき罪の人々を恵み救い給うと、七高僧のお徳を讃嘆されましたが、それは救わねばならない自己の姿を見つめつつ「拯済無辺極濁悪」と七高僧のお徳を讃えられたのであります。

(三)親鸞聖人のすすめ

道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

 親鸞聖人はこの正信偈を結ぶに当り、七高僧の大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の意を説かれて阿弥陀如来の本願を正しく世々に継承しながら濁りの世にさ迷うている苦悩の人々を救われた功績を讃えられました。それを承けて僧侶も在家の人々も何時の時代にあっても共に心を同じくして、ただ一筋に七高僧の教えを信ずべしと、強く無上命令の言葉を以ておすすめになったのがこの二句であります。

 ここで終りに臨んで今一度お正信偈の大綱を伺ってみますと、最初に申しましたようにまず親鸞聖人自身の信仰をお述べになって、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と仰せになりました。即ち我に任せよ必ず救うと呼び給うみ仏の仰せに素直にハイと信順してお任せ致しますとお述べになり、大無量寿経のお釈迦様の教えと七高僧の御釈によって、そのことが間違いないことを讃嘆されました。

 従って依経段には「応信如来如実言」、釈迦如来の真の言葉を信ずべしと強くお勧めになり、依釈段にも「唯可信斯高僧説」とお説きになりました。「唯可信斯高僧説」の言葉には直接には七高僧の徳を讃嘆された依釈段の結びの言葉になりますが、信心を偏にお勧めになった親鸞聖人のお心からいただきますと、お正信偈全体の結びの言葉になるとうかがわれます。

 さて依経段にも依釈段にも信ずべしと力強く無上命令の言葉を以てお勧めになったお心を伺う時に私は、次の二つのことが深く思われます。一つは言うまでもないことでありますが親鸞聖人の信心の智慧の眼には、お釈迦様並びに七高僧と同じように人の世のありのままの姿がよく見えておられたということです。それは花が咲くのが人生ならば、花の散るのも人生ということです。即ち生きつつあることが人生であれば死につつあることも人生であります。

私達にはこの二面が本当に見えているのでしょうか。生きつつあことは誰しも見つめ、如何に生きるかということについては額に汗しながら働いていますが、生の一面のみに心が奪われて死の一面が見えていないということがはっきり言えると思います。そう申しますと、そんなことはない、死ぬこと位は誰でも解っていると言われるかも知れませんが、それではあなたは死に対応する道を真剣に考えたことがあるでしょうか。また死の対応の道を身に付けられたでしょうか。これだけ科学が進歩しているのに、また科学万能を誇っていながら、いかがわしい迷信に振り回されている現代人の姿を見るたびに、迷信の根元である死の不安が解消されていかないことが強く感ぜられます。

 私は先日私の門徒の出来場村落の正信偈会の時に総代の増田蔵一さんが言われた話が頭に浮かびます。  ”先生、私の父は仕事には大変やかましく小学校時代でも学校から帰ってくると休む暇も与えず畑や田んぼの仕事にかりたてられました。学校の勉強があるからと言っても勉強は学校でするものだと厳しく言って、許してはくれませんでした。そんな父ではありましたが、月二回の日曜学校にはどんなに仕事が忙しくても快く出してくれました。学校からの帰りが少し遅れると大変やかましく叱りましたが、日曜学校から帰った時は遅くなっても何とも言いませんでした。だから日曜学校では遊べるからと三十分かかる山道を休まず通いましたが今思うとこうしてお寺の総代をしてお寺のお世話が出来るのも日曜学校に快く出してくれた父のおかげです。” と言われた時に、昔の人はたとえ高い教育は受けておられなくとも人生のまことの姿、即ち生と死がよく見えていたのだなあと思うことでした。

 蓮如上人が

”それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とす、といえり” とのお諭しが胸に響きます。生きつつあるが死につつあるこの厳粛な事実をしっかりふまえて力強く生き抜く道。それはみ仏の本願に遇うことでありこれなくして死を超えて生きる道があるでしょうか。増田さんのお父さんはこのことがよく見えていたと思います。み仏の本願に遇うことこそ凡夫のたった一つの救いの道であることを見抜かれた聖人が、この本願を身にかけてお勧め下さったお釈迦様七高僧の教えに対して、「如来如実のみことを信ずべし。また唯この高僧の説を信ずべし」と力強くお勧めになったのであります。今一つは聖人自身が阿弥陀如来の本願に遇うことによって人間にうまれた真の喜び真の幸せをひしひしと身に感じられたからであるとうかがわれます。

 昭和五十四年九月鹿児島別院並びに出張所の仏教婦人会の幹部研修会が行われて、私は一時から五時まで講話を依頼されました。四時で講話が終わり、後一時間は話合いにしました。予定通り五時に終わり会場から事務所の方へ行く途中、後から

 ”御院家さんお元気そうで結構ですね。今日は良いお話有難うございました。” という懐かしい声がかけられました。山崎さよさんと言って二十数年前日置におられた当時、明信寺仏教婦人会の幹事として熱心に御世話下さった方です。娘さんが鹿児島市紫原に家を作られたのでそこに一緒に住んでおられます。

 ”ああ、あなたですか。今日はよく参加されましたね。”
 ”御院家さんが見えることが一ヶ月前に知らされていましたので楽しみに待っていました。”
 ”ああそうですか。あなたも元気で結構ですね。ななた今日はどうして帰るのですか”
 ”お友達とバスで帰ります。”
 ”それではもう少し待ちませんか。五時半に私を迎えに車が来ますから紫原を回って日置に帰りましょう。”

と言って同乗しました。その車の中で、

 ”御院家さん、私はこの頃長生きして本当にありがたいとしみじみ思います。早く死んでおればこの御法義に遇うことも出来ませんでした。また若い頃はお寺にお詣りしましたがそんなに深く味わうこともなく聞き流していました。この年まで長生きしたお陰でこんなに深く御法義が味わえます。”

と話されました。私はこの言葉に深く胸を打たれました。それ以来私は思うのです。どんなに長生きしてももし御法義を頂かなかったならば、長生きがどれ程の価値があるのでしょうか。年と共に体力衰え身体の自由もきかなくなり希望も消えて、後に残るものは老いのさみしさと迫りくる死の不安だけです。これが七十年八十年働いて最後に与えられるその報酬ならば、人生まことにむなしいものではないでしょうか。 山崎さんが長生きしたお陰でこんなに御法義がありがたく味わえると言われた言葉には、老いのさみしさも死の不安も消えて、永遠にみ仏に抱かれて生きる喜びと希望があふれています。ここにこそ生れ難い人間世界に生を受けた本当の意味があるのであります。親鸞聖人も長い真剣な求道聞法と、いろいろな人生経験を通して、こうした深い信仰体験を味わわれた時に、み仏の本願に遇ってこそ人間世界に生を受けた本当の価値がある、との確信から力強く無上命令を以て「如来如実のみことを信ずべし唯この高僧の説を信ずべし」と仰せになったのであります。

 私はこのお言葉を思う時に、長い間学んだ行信教校の講堂の正面仏壇の真上に掲げられた三条実美卿の筆になる”学仏大悲心”の横額と、木辺孝慈猊下の書かれた”唯信仏語・唯順祖教”の左右両側の縦額の文字が鮮やかにまぶたに浮かんでまいります。私達僧侶の真宗学研鑽の目標並びに門信徒の方々の聞法は、仏の大悲心を学び仰ぐほかありません。その姿勢はただ、仏語を信じ、ただ七高僧並びに宗祖親鸞聖人の教えに随順することであります。私は今ここにこの正信偈の稿を書きながら、行信教校の美しい伝統の中に良き師良き法友に恵まれて育てられた幸せを、しみじみ感ずるしだいです。