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「輝く讃歌」の版間の差分

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((三)歴史的事実と宗教的事実)
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:「私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしておられましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら『ええ有難う、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています。』こんな事を言われるのですよ」
 
:「私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしておられましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら『ええ有難う、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています。』こんな事を言われるのですよ」
 
:「それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ。」
 
:「それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ。」
:: 私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。
+
 
:: その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五官に感ずる世界しか解らないのもは、犬畜生の部類であります。五官を超えた、又経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。
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 私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。
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 その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五官に感ずる世界しか解らないのもは、犬畜生の部類であります。五官を超えた、又経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。
  
 
 真実ならざる我執煩悩によってさまよい苦しむ私があればこそ、宗教的真実即ち如来の本願が起こされたのであります。親鸞聖人は和讃に<正像末和讃>
 
 真実ならざる我執煩悩によってさまよい苦しむ私があればこそ、宗教的真実即ち如来の本願が起こされたのであります。親鸞聖人は和讃に<正像末和讃>
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と詠われました。更に思えば、このみ仏の救いを展開せしめたものこそ、外ならぬ我執煩悩の業によりさ迷う私でありました。聖人は歎異抄に
 
と詠われました。更に思えば、このみ仏の救いを展開せしめたものこそ、外ならぬ我執煩悩の業によりさ迷う私でありました。聖人は歎異抄に
  
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば偏(ひとえ)に親鸞一人が為なり、さればそくばくそれほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
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:「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば偏(ひとえ)に親鸞一人が為なり、さればそくばくそれほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
 
と仰いで行かれました。
 
と仰いで行かれました。
  
 
今ここにお正信偈に讃嘆された法蔵菩薩の発願修行は他が為でない、全く私の為でありました、それはこの本願を外にして生と死を超えて生き抜く道がないということであります。すなわち浄土があるかないかと論ずる前に、浄土なくしては生きられない自己に目覚めることです。それは聞法を通して、如来の真実に触れて信知する世界であります。
 
今ここにお正信偈に讃嘆された法蔵菩薩の発願修行は他が為でない、全く私の為でありました、それはこの本願を外にして生と死を超えて生き抜く道がないということであります。すなわち浄土があるかないかと論ずる前に、浄土なくしては生きられない自己に目覚めることです。それは聞法を通して、如来の真実に触れて信知する世界であります。
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===第三章 光の中に===
 
===第三章 光の中に===

2009年9月5日 (土) 22:18時点における版

 賞雅哲然君は、大阪府茨木市の北境、龍王山の麓に面する本願寺の寺院に生まれた。  道心篤い両親の庇護のもとに育てられ、少年の頃から求法の念に燃え、学問を好んで行信教教に入り、十数年間ひたすら宗学の研鑽に努められた。

 縁あって鹿児島の明信寺に入り、寺門の経営と門信徒の教化には献身的に一貫して努力をせられた。君は青年の頃から、いささか視神経が弱く、視界が困難であったにも拘わらず、よくよくそれを克服して、学問と布教に専心身を挺してひるまなかった気力には全く敬服の他はない。

 そして漸く老年に近づいた今、過ぎし日に積みかさねて来た経験と信念を活かして、それを著書として残し、有縁の人びと、特に青少年に、浄土真宗のみ教えを伝えようと願っているのである。

 すなわち、さきには「輝くいのち」という書を出版し、これに続いて、今また「輝く讃歌」の出版を計っておられる。

 「輝く讃歌」とは親鸞聖人の残された”正信偈”のことであって、この偈には真宗の教えの要旨がまとめられており、門信徒は数百年来、これを尊び親しみ、明け暮れ仏前の勤行に諷誦(ふうじゅ)して来たのである。賞雅君は自坊で多年法話を行っているが、それには多く正信偈を依用(えよう)している。したがって正信偈は、君の血であり、肉であり、命であるともいえよう。賞雅君のみならず、真宗の門徒はすべてそうであるのが当然であろう。

 正信偈の解説書は、古来多く出版され、それこそ汗牛充棟(じゅうとう)もただならぬものがある。しかし君は単なる学問の書としてでなく、また講義のための本でなく、門徒がみな唱和しながら味わえるような書が欲しい--と書いているように、それが最も大切なことであり、祖意にかなうものであろう。わたしも多年それを望んでいたが、君が今それにふさわしいものを書いてくれたことは、よろこびに堪えないことである。

 この書は誰でも解るように平易を第一とし、しかも全篇を短くまとめてある。何事も煩雑な時代において、あまり長いものは一般の人にはひもときにくいが、この程度なら何返もくり返して読むことができよう。君がそうした点にねらいをつけたことが、この書の特色といえよう。

 しかしながら君の視神経は年と共にますます不自由となり、近頃は殆んど失明に近いまでになっている。そうした中から一方で寺の業務を行いながら、なお学問と伝道を捨てず、しかもこうした書を完成した努力には驚くべきものがある。

 君にこうした成果を挙げしめたものとして、節子夫人の支持力を見逃してはならない。この書を出版するに当たって、わたしに一読してほしいと渡されたものは、節子夫人の筆録によるものであった。すなわち君が口述したのを夫人がペンを持って追いかけ、それをテープにうつして更にそれを聞きながら文章をチェックして原稿用紙に清書されたのである。

 そうした作業もなかなか容易なことでなく、普通できることではない。

 坊守仕事が相当繁雑な中に、夫君にこれを成功せしめた節子夫人の労苦を改めてたたえずにはおられない。今こうして出来あがった文章を読みながら、一字一字に夫人の努力が浮かびあがっていることが偲ばれる。かくて夫婦合作ともいうべき伝道の書が、世に出たことを喜ばずにはいられない。これこそ浄土真宗を弘められた祖意にかなう、み法の精華として推奨すべきものである。

 夜の窓辺を打つさみだれの音を聞きつつ

  昭和五十六年六月下旬                  山本 仏骨


正信偈を仰ぐ  賞雅 哲然 著

はじめの言葉

 お正信偈、詳しく言えば正信念仏偈と申します。それは親鸞聖人が三十有余年の歳月をかけて、心血を注いで書かれました教行信証の行の巻の最後にかかれている六十行百二十句よりなる讃歌であります。

 この讃歌は親鸞聖人自身の信仰を述べられると共に、みほとけ<阿弥陀如来>の救いと、二千年の永い間に、印度、中国、日本の三ヶ国にわたってこのみ教えを正しく継承された七人の高僧の輝かしい功績をたたえられたものであります。  この教行信証の草稿の出来上がった聖人五十二才、元仁元年<一二二三年>を以て浄土真宗の開かれた時と定められました。従ってこの教行信証は立教開宗の書と言われ、浄土真宗の根本聖典として、御本典とあがめられています。

 永い永い歳月を費やして一語一語の言葉に吟味を加え、何度も訂正されて完成されたのであります。従ってこのお正信偈も幾度か筆を加えて書かれていますので、汲めども尽きぬ深い意味をたたえています。  私の恩師山本仏骨先生がこんな事を言われました。「お釈迦様の一代の八万四千の教えは大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土の三部経に収まり、この三部経は更に教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻に収まる。更にこの六巻は、六十行百二十句のお正信偈に収まる」と、すればお正信偈のおこころをいただくことは仏教全体の心をいただくことになります。

 このお正信偈を、私達宗門徒が朝夕親様のおうやまいに、又いろいろな聞法の座に、おつとめとして用いるようになったのは今から約五百年前、本願寺中興上人とあがめられる蓮如上人の時であります。即ち蓮如上人が五十九歳の文明五年<一四七三年>に正信念仏偈と和讃を合せて刊行して、お弟子の慶聞坊竜玄を大原につかわされて、ここで天台宗の声明<お経の節>を習わせ、正信偈和讃の節を作って、僧侶も門徒も共にお正信偈でお勤めするようにされました。

 思うに、蓮如上人の当時は「本願寺は寒々として参詣の人なし」と記されているように、大変衰微していましたが、よく上人一代の間に再興して、今日の本願寺教団の基礎を築かれました。その要因について、いろいろ数えられますが、その一つは正信偈の普及にあると言っても過言では有りません。

 ともかく蓮如上人以来今日まで、五百年の永い間にわたって、全国津々浦々、浄土真宗の門徒の在る処、お念仏の声のする処に、朝な夕な、お正信偈が唱和され、又聞法の座には必ずお正信偈がつとめられてまいりました。因に御本山では、逮夜<午後のおつとめ>に正信偈ハヤと言う節でおつとめされますが、これはわずか数分間であげ終ります。  この勤行形式は今から約四百五十年前、本願寺第十一代顕如上人の時に、織田の信長を相手に十一年間戦った石山合戦の時につくられたもので、激しい戦争のさなかにも、お正信偈が唱和されていたことを見落としてはなりません。

 当時の苦労を今に伝えるために、この節が残されているのであります。  私の子供の頃母に連れられて御門徒の家によく風呂を貰いに行きました。或る日門徒総代の宇山定吉さんの玄関の障子を開けて中にはいると、主人夫婦を中心に、家族みんなでお正信偈を唱和されていました。私の瞼には今もその時の美しい情景が懐かしく浮んでまいります。  このように、お正信偈は真宗門徒の家庭に定着し、これによって豊かな宗教心を培って来ました。

 私が小学校一年生の夏休みに、二つ上の兄<京都教区徳円寺住職加賀山哲良兄>と一緒に、父からお正信偈を習いました。生まれつき不調法で音痴に近い私には、このお正信偈の節がなかなか覚えられず、くやしくて涙をぽろぽろ流しながら、ようやく習いおぼえました。そうして朝夕のおつとめに又聞法の法座に門徒の人々と一緒に唱和しながら、子供心に強く強く感じたことは、折角おつとめしながら、このままでは意味が少しも解らない。詳しいことは解らなくても、大体の意味を知ってお勤めしたら又有難いのではないかと………

 それより早くも半世紀の星霜が夢と過ぎ去りました。私はここに、法話集「輝くいのち」に続いて、お正信偈の法話を世におくることに致しました。お正信偈の講義、又講話は沢山出されていますが、学問的な解釈で、屋上更に屋(おく)を重ねることをなるべく避けて、門徒の皆様が朝夕お勤めしながら、その大体の意味が解り、お正信偈を通して、ご法義を味わっていただくというところに目標を定めて、私の味わいを述べてみたいと思います。

 法話集「輝くいのち」の出版は光真ご門主の伝灯報告法要の年に当たりました。この「輝く讃歌」は私がお育てを受けた行信教校創立百周年並びに国際障害者年の記念すべき年に当たることは奇(く)しき縁(えにし)と有り難く感ずる次第であります。

 この小著はなるべく専門の言葉を避けて読まれる方々にわかり易くと心がけながら、やはり専門の言葉を無視することはできませんでした。従って難しいとお感じになられる方は宗教、仏教の入門書の意味で書きました「輝くいのち」を読まれた上で本書を読んでいただければ理解しやすいことと思います。

 一九八一(昭和五六年)六月

薩南の地 明信寺にて  空華末弟 賞雅 哲然

第一章 ひたすら待ち給うみほとけ

帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる

限りない智慧と限りない慈悲のみほとけの仰せに、ハイとすなおに信順しおまかせ致します。

(一)聖人の信仰

 このお言葉は、一行二句の短い言葉でありますが、親鸞聖人の信心の喜び、信仰のありったけを言い表わされたお言葉であります。

 親鸞聖人が今の世に生きておられたらと仮定して  親鸞様あなたは幼くして両親にお別れになり、人生の無常を感じつつ出家され、比叡のみ山に登って、血の出るような難行苦行をされました。二九歳の時に比叡のみ山に見きりをつけられて、六角堂の救世観世音菩薩の夢の暗示を受けて、吉水に法然上人を訪ねられました。法然上人の導きによって他力のお念仏の世界におはいりになり、それ以後きびしい人生を、お念仏を支えとして生き抜かれましたが、あなたの信心、信仰の喜びは如何なるものでしょうか、とお尋ねしたら、おそらく聖人はにっこりほほえまれて、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とお答えになると思われます。

 それは聖人がこの正信偈の前に、これを書くお気持をお述べになって、

「然れば大聖の真言に帰し大祖の解釈(げしゃく)に閲して仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知して、正信念仏偈を作って曰く」 と仰せになっておられます。

 このお言葉のお心は、お釈迦様の真実のお言葉をいただき、七高僧のお指図を仰いだ時に、いよいよ広大無辺の親様(阿弥陀如来)の御恩の深さが知らされました。今私はその喜びを正信念仏の偈頌(うた)に書いて申しあげます、と述べておられます。すればお正信偈全体が信心の喜びの讃歌と言えるでしょう。従って本願寺で正信偈を意訳されました時、信心のうたと名づけられました。

 お正信偈を書くにあたって、とくにその最初に自分の信仰をお述べになって「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と仰せになりました。

(二)すなおにみ仏のお呼び声に

帰命無量寿如来 南無不可思議光

 このお言葉は幼少の頃より聞き馴れた懐かしい言葉であります。この響きに接する時、暖かい命のふる里に帰るような懐かしさを感じます。 帰命と南無とは同じ意味で、印度で南無と言い、中国で帰命と翻訳されました。  親鸞聖人はこの帰命についていろんな角度からその意味を述べておられますが、その一つに「帰命とは即ち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがいてめしにかなうともうす言葉なり」<尊号真像銘文>と述べておられます。即ちみ仏の呼び声に素直に従い、おまかせする事であります。

 次ぎに無量寿如来、不可思議光とは二人の仏様のことではなくて、苦悩の私を救うと立ち上がって下さった懐かしいみ仏の名前、即ち阿弥陀如来のことであります。このみ仏は、お慈悲に限りがないから無量寿如来と申し上げます。又お智慧に限りがないから不可思議光仏と申すのであります。すればこの一行二句の言葉は限りなきお智慧とお慈悲の真実の仏様が、我にまかせよ必ず救うとの呼び声にすなおにハイと信順し、おまかせすることであります。これが他力の信仰の姿であり、親鸞聖人の信心の喜びはこのほかにはありません。

(三)求道聞法を通して

 親鸞聖人の信仰は、この二句に余すところなく述べられていますが、この信仰の境地に到達するまでに二十年間の血のにじむ求道(ぐどう)の生活があったことを私達は見落としてはなりません。

 真剣な求道、修行を通して開かれた信心の世界が、み仏の呼び声に素直に信順する境地でありました。私はこのことを思う時に行信教校時代に、道念厚く信仰の深かった先輩高田慈光法兄<元行信教校教授高田慈昭師尊父>から聞いたお話を思い浮べるのであります。

 この先輩のお寺に見知らぬ人が訪ねて来られました。何かの機縁で道を求める心が起こりキリスト教、真言宗、天理教と転々と熱心に道を求めて遍歴されましたが、どうしても落ち着く事が出来ません。それで親鸞聖人の教えを聞かしてほしいと訪ねて来られたのであります。

 この先輩は信仰厚く真面目な方でした。本堂に迎えて諄々と聖人の教えを話されて、私が救いを求める前に、すでに救われてくれよと呼び給う大悲のみ親のあることを話されました。この時この方は「私にはいよいよ解らなくなりました」と言われるのです。その理由を聞かれますと、「外の教えは私には一応理解出来ます。それは、キリスト教では罪を懺悔してお祈りしなさい。それによって神の愛を受けることが出来ると説かれ、又真言宗の教えでは私達は大日如来と一体で、私の身体は大日如来の分身である。然し煩悩によって汚されているから三密加持の修行<真言宗の修行の方法>によって煩悩を断ち切れば、仏になることが出来ると説かれます。又天理教では、人間は神の子であるが欲によって汚されている。その為病気をしたり、いろんな災難を受ける。だから『欲を捨て、悪しきを払って助けたまえ天理王のみこと』とお祈りすることによって御利益を頂き幸福になれると説かれています。

 これらの教えは一応私には頷けますが、問題はそれが出来るかどうかにあります。しかし真宗の教えは私には全然解りません。」 と言われるのです。どうしてですかと問われたら、それでは余りにも話がうますぎると答えられたそうです。

 私は四十数年前放課後、この先輩と信仰談義に花を咲かせている時に聞いたこの話が今も鮮かに浮んでまいります。み仏の仰せに素直に従うことがどんなに難しいかが、しみじみ思われ、親鸞聖人にこの境地<他力信心>がひらかれるまでに二十年間の自力修行のあったことも今素直にうなずけます。それでは私達は他力の信仰に入るのには聖人のような求道が必要かという問題が残ります。聖人の求道、修行に代わるものが聞法なのです。聞法の積重ねの上に開かれ行くのが他力信仰の世界であります。私は毎月八日の照明会の例会でこの話をした時に、会員の本田藤さんが、「御法義はうかうかと聞いていてはいけませんね」と言われました。その時私は、「そうですよ。命をかけて守り伝えられたみ教えは、真剣に聞いてこそ初めて身につくものです。」と申しました。

 蓮如上人御一代聞書第一九三条に

「至りて固きは石なり、至りて柔らかなる水なり、水よく石をうがつ、心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成(じょう)ぜざらん、と言う古き詞あり、いかに不信なりとも聴聞(ちょうもん)を心に入れまうさばお慈悲にて候間、信をうべきなり、ただ仏法は聴聞にきわまることなりと云々」

と仰せになったのはこのお心であります。

第二章 たれがための本願

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

法蔵菩薩因位の時、在世自在王仏のみもとにましまして、諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり、五劫これを思惟して摂受す、重ねて誓うらくは名声十方に聞えんと 阿弥陀如来が菩薩の位の時に法蔵と名乗り、在世自在王仏のみもとで、その導きによりて、あらゆる仏の浄土の成立つ因(もと)、その国の人々のよしあしをよくご覧になって、生きとし生けるものをまるの他力で救うという無上の勝れた本願、世に超えた稀なる大きな誓いを起こされました。五劫の永い間の思案の末に、四十八の願を起こし、念仏一行をえらびとられました。更に重ねて、必ずさとりの道に至り、貧しき者を救い、我が名を十方世界に聞かしめようと誓われました。

(一)正しき信仰と盲信・迷信

 よく言われる言葉に、”鰯の頭も信心から”、”苦しい時の神だのみ”と言うのがあります。  これはどんなものでも信心すれば有難く思われ又平素不信心の人でも、不幸つまずきに会うと神仏にすがろうとする人間のおろかさ、弱さを皮肉った言葉であります。

 これらはいずれも盲信、迷信と言われるもので、盲信とは、道理に外れたものを信ずることであり、迷信とは間違った道理を信ずることで、これらはただ気休安めに過ぎません。そこにはほんとうの救いはなくて、かえって不幸の落とし穴さえ待っています。

 大分前、新聞の読者の声に、迷信を追放しましょうというこんな投書がありました。それは徳島県であったことですが、或る娘さんの縁談が決まりました。お母さんが娘の為に買物に行き、帰り道駅前で易者にこの縁談を占って貰ったところ、凶と出ました。それをまともに信じた母親は、折角の話を強引に断わりました。娘さんは悲観してそのため入水自殺をしたというのです。これに類した話は世間に随分沢山あります。正しい信仰とはあくまで、正しい因縁因果の道理に立つものです。

 親鸞聖人が今、お正信偈の初めに自分の信仰をお述べになって、我にまかせよ必ず救うと呼び給うみ仏に素直に「ハイ」と従いおまかせしますと仰せになりましたのは、ただ救う救うというかけ声だけでなくして、み仏にそれだけの力と準備が出来上がっている。即ち救われる正しい道理のあることをお釈迦様のお言葉と、七高僧のお指図によって讃嘆されたのが「法蔵菩薩」以下「唯可信斯高僧説」までのお言葉であります。

 その中で、「法蔵菩薩」より「難中之難無過斯」まで二十一行四十二句のお言葉は、お釈迦様のみ教え、即ち大無量寿経によって作られたものですから依経段(えきょうだん)と言います。

 次に「印度西天之論家」より最後の「唯可信斯高僧説」まで三十八行七十六句は、七高僧の御釈によられていますので依釈段(えしゃくだん)と申します。

 今初めに掲げました「法蔵菩薩」以下「重誓名声聞十方」まで四行八句は救いの根本である阿弥陀仏の本願建立を讃嘆されたものであります。この本願によって生きとし生ける者の救いの道が開かれました。

(二)法蔵菩薩の発願修行

 親鸞聖人は、生きとし生けるものの救われ行く正しい道理として、大無量寿経により、法蔵菩薩の発願建立を高らかにうたわれました。  それは苦悩の衆生の救済の原理が法蔵菩薩の発願修行にあることを確認されたからであります。  今この事を理解する為に、お釈迦様が大無量寿経によって示された物語を紹介しましょう。

 今を去ること計り知れない遠い遠いいにしえに、錠光如来というみ仏がお出ましになって数限りない衆生を救済されて、さとりの世界にお還りになりました。それはお釈迦様がこの世にお出ましになって、衆生救済の聖業終りてお浄土にお還りになったごとくであります。この錠光如来に次いで五十一のみ仏が次々にお出ましになり、それぞれの衆生を救われました。五十三番目に出られた方を世自在王仏と申します。この時一人の国王がありました。世自在王仏の説法を聞いて感動し、直ちに王の位を捨てて出家されて、法蔵と名乗られました。そうして世自在王仏の勝れた威徳を讃嘆されて、

光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける
月日のひかりかげかくし 宝の玉のかがやきも
みなことごとく蔽(おお)われて さながら墨のごとくなり
世自在王のおんすがた 世に超えましてたぐいなく
さとりのみこと高らかに あまねく十方(よも)にひびくなり
<讃仏偈意訳>

と仰せになり、一切迷える衆生を救おうという深くして堅い志願を起こされました。世自在王仏はこの法蔵菩薩の志をみそなわして、それは大海の水を汲み干して、妙宝を探し求めるにも似ていることであるが、長い長い時間をかけ、撓(た)ゆむ事なく努力精進するならば、その志願を叶えることが出来るであろうと仰せになり、さらに神通力を以て法蔵菩薩の為に二百一十億の諸仏の浄土を現し見せられました。 法蔵菩薩はその一々の諸仏の浄土の成立のもとや、又諸仏の浄土に遊ぶ人々の善(よ)し悪(あ)しをつぶさに御覧になって、ここに総べての人々をまるの他力で救おうという無上の素晴らしい願い、世にも稀な尊い誓いを起こされて、五劫という永い永い思案の末に、善きを取り悪しきを捨てつつ、四十八の願をえらびとられました。そうしてその一つ一つの願に、もしこのことを成し遂げることが出来なかったならば正覚を取らない、即ち仏にはならないと誓われました。これは衆生救済のために自分のさとりをかけた堅い誓いであります。

法蔵菩薩はこの四十八願を建てられた次に、更に私が建てた超世の願を必ず成就して自ら無上道をさとり、もろもろの貧しき人々を救い、我が名をあらゆる国々に聞かしめようと誓われました。それより法蔵菩薩はこの願いを成し遂げるために兆載永劫(ちょうさいようごう)という永い永い修行を始められ、その修行を見事に完成して自らさとりの仏の座につき阿弥陀仏と名乗られました。ここに私達の救いの道が円(まど)かに成就されたのであります。それは、今を去る十劫のいにしえでありました。このことを親鸞聖人は和讃に

弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥を照らすなり
四十八願成就して 正覚の弥陀となりたまう
たのみをかけし人はみな 往生必ず定まりぬ

と詠われました。私達の為に建てられたこの法蔵菩薩による発願修行の物語りは、昔の人々は仏様<お釈迦様>のお言葉であるから、又親鸞聖人の仰せであるからと、何の疑いも持たず素直に信じて行かれました。

 しかし合理主義、立証主義の科学の洗礼を受けた現代の人々には、そんな事は有り得ないと否定して、とうていこのままでは信ずる事は出来ないでしょう。現代人の宗教離れの原因の一つは実にここにあると言わなければなりません。

 よくお寺参りを勧めると、お浄土があると言っても誰も見て来たものがないからという答が返って来るのもその為であります。ではこの物語りをどう理解すればよろしいのでしょうか、そこを明らかにすることが今日最も大切なことであります。

 これについて宗門大学の某教授が、或る研修会の席で、法蔵菩薩の物語は神話だと言って問題を起こされた事があります。神話とは古代の人々が素朴な心情、願いから語り伝えられた物語りでありますので、従って法蔵菩薩の物語りを神話と見ることは勿論間違いであります。ではこの法蔵菩薩の物語りを私達はどう受け止めればよいのでしょうか。次の節でこの問題を考えて見たいと思います。

(三)歴史的事実と宗教的事実

 この法蔵菩薩の発願修行の物語りは先ず結論から言いますと、言うもでもなく、歴史的事実ではなくて、歴史を超えた宗教的事実であります。ここで見落としてはならないことは、事実と真実とは違うということです。たとえば、夫婦喧嘩は事実であっても、それは夫婦の真実のあり方ではありません。又事実とは、いろいろな因と縁によって現れた一つの現象でありますが、真実とはそうしたものでなくて、真実に背き、真実に背を向けたものに働いて、元の真実に引き戻そうとする力であります。たとえば子供がもしあやまった道に走ろうとした時、親の真実は或る時にはきびしい愛の鞭となり、或る時は悲しみの涙となり、或る時は切々としたいましめの言葉となって、我が子を真実の道に引き戻そうと働き続けます。これが真実であります。

 今私の生きざまはどうでしょうか。仏教には真如背反と説かれています。それは私達は真実即ち真如に背き、真実そのものであるみ仏に背を向け、逃げよう逃げようとしていることであります。そのことは誰しも明るい家庭を望み、和やかな社会生活を願い、世界の平和を念じていますけれども、私達の現実はややもすれば家庭に波風が立ち、又上べは平和な町平和な村と見えていてもその裏には、常に小さなもの事が繰り返されています。

又人類始まって以来、戦争の悲惨さを、数知れず体験しながら、地上に戦争は絶えず、口に平和を唱えながら、軍備拡張、軍事大国の方向に不気味な動きを見せていることによっても知られます。その原因は、お釈迦様は真実の智慧を持たない無明から起る自己中心の心、即ち我執煩悩によるものと説かれました。この我執煩悩によって争いを繰り返して、苦悩の中にさまようています。この姿を迷いと説かれました。

 そうした私を、争い苦しみ無きまことのさとりの世界<涅槃>へ導き入れようとするのが宗教的真実であります。それは、迷いの凡夫の私を、仏にすることであります。

 この宗教的事実を法性・仏性とも、真如・一如とも説かれて、その働きをお釈迦様は大無量寿経に具体的に法蔵菩薩の発願修行と表されました。  すれば法蔵菩薩の発願修行は宗教的事実、即ち真如の働きの外ありません。

 親鸞聖人がこの真如・一如の働きを讃えて、この一如より形を現して、法蔵菩薩と名乗り給いてと、お述べになり又和讃<浄土和讃>に

無明の大夜をあわれみて 法身の光輪きわもなく
無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現(ようげん)する

と詠われたのはこの意(こころ)であります。この如来の真実は、科学を超えた世界であって、私達の経験的な知識で理解できる者ではありません。それはみ仏の真実の光に照らし出されて、深く自己を内省する心、即ち宗教的内観によって領解出来る世界であります。それは取りもなおさず、如来の真実によって呼びさまされて、心の底からうなずける境地なのです。おかる同行が

・おかるおかると呼びさまされて、ハイの返事も向うから、
・聞いて見なんせ真の道を、無理な教えじゃないわいな、
・真聞くのはお前はいやか、外に望みがあるぞいな

と鮮やかに詠っています。

 経験的な知識を超えた如来の真実にうなずくことの出来るすぐれた能力を持つところに、人間の尊さがあるのです。昔より人間が万物の霊長と言われる理由はここにあります。  私はこれについてかって恩師山本仏骨先生からこんなお話を聞いたことがあります。先生が毎月或るお寺の宗教講座に行っておられました。この講座によくお参りされる婦人が訪ねて見えて、こんな対話をかわされました。

「先生、今の学校の先生は困ったものですな」
「どうされたんですか。」
「私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしておられましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら『ええ有難う、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています。』こんな事を言われるのですよ」
「それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ。」

 私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。  その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五官に感ずる世界しか解らないのもは、犬畜生の部類であります。五官を超えた、又経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。

 真実ならざる我執煩悩によってさまよい苦しむ私があればこそ、宗教的真実即ち如来の本願が起こされたのであります。親鸞聖人は和讃に<正像末和讃>

如来の作願(さがん)をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり

と詠われました。更に思えば、このみ仏の救いを展開せしめたものこそ、外ならぬ我執煩悩の業によりさ迷う私でありました。聖人は歎異抄に

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば偏(ひとえ)に親鸞一人が為なり、さればそくばくそれほどの業を持ちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

と仰いで行かれました。

今ここにお正信偈に讃嘆された法蔵菩薩の発願修行は他が為でない、全く私の為でありました、それはこの本願を外にして生と死を超えて生き抜く道がないということであります。すなわち浄土があるかないかと論ずる前に、浄土なくしては生きられない自己に目覚めることです。それは聞法を通して、如来の真実に触れて信知する世界であります。

第三章 光の中に

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

普(あまね)く無量無辺光、無碍無対光炎王、清浄歓喜智慧光、不断難思無称光、超日月光を放ちて塵刹を照す、一切の群生光照を蒙(こうむ)る

四十八願を成就して仏の座につかれた阿弥陀如来の光明は、何時でもどこでも誰の上にも注がれて<無量光無辺光無碍光>過去現在の罪を消し<無対光炎王光>欲の心、腹立ちの心、愚痴の心をいやして<清浄光歓喜光智慧光>絶えることなく、常に照らし<不断光>浄土に生れて仏になさしめ<難思光無称光>月日に超えて内の煩悩を照らす<超日月光>、この十二の徳を具(そな)え給うのであります。この光を普く放ちて煩悩の塵の渦巻く迷いの世界を照らし給う。生きとし生くる者光の恵みを受けない者はありません。

(一)何時でも何処でも誰の上にも

 衆生浄土に往生せずば我も仏にならじと誓い給いて、その本願を円(まど)かに成就して仏の座につかれた仏<阿弥陀仏>の果徳、即ち光明名号の働きを讃嘆されたのが「普放無量無辺光」より「必至滅土願成就」まで五行十句の言葉であります。

 さすればみ仏は光明名号の二つの働きを以て衆生を救済し給うのであります。「普放無量無辺光」より「一切群生蒙光照」までの三行六句の今の言葉は、先ず光明のお徳を述べられたもので阿弥陀仏の光明のお徳は無量でありますが、今親鸞聖人はお釈迦様の教えによって、十二通りの徳に収めて讃嘆されました。その十二通りの徳の中、中心的なものが、最初にかかげられた無量光無辺光無碍光の三つのお徳であります。

 無量光とはみ仏の光明は時間に限りがなく無辺光とは空間に限りがなく、無碍光とはこの光明を遮(さえぎ)るものはないと言うことでありますので、何時でも何処でも、誰の上にも平等に注ぎ給うのであります。従って私達はみ仏に背いてどんなにあがいても、この光明の中から一歩も外に逃げ出すことは出来ません。

 これについてこんな面白い話が説かれています。

 西遊記で有名な三蔵法師が、中国より印度に仏教を学びに行った時、お伴の一人に孫悟空がいました。これはお猿のお化けで、五百年間山に籠もって修行し、神通力<不思議な力>を身につけました。得意になった孫悟空はお釈迦様に力くらべを申し込んだのです。

「あなたは仏の悟りを開いて、神通力を身につけられましたが、私は五百年の修行によって神通力を得ました。どちらが勝れているか力くらべをしようではありませんか」

お釈迦様はにこにこしながら「ではお前の神通力でこの私の手のひらから飛び立ってごらん。」 孫悟空はそんな事は造作もない事と頭の毛を三本抜き取り、息を吹きかけるとその毛はたちまち金頓雲という雲に変わります。この雲は実に速いのです。今のジェット機どころのさわぎではありません。一気に数千万里も飛び去りました。ここまで来ればどんなにお釈迦様の手のひらが広くとも、もう大丈夫と思い、手をかざしてみると、遥か雲海の彼方に一つの棒が立っています。孫悟空はその棒に目印をつけて、得意になってお釈迦様のところに帰ってきました。

「お釈迦様、私は一気に数千万里彼方に飛び去りました。あなたの手のひらどころではありません。」 するとお釈迦様は

「それには何か証拠があるか。」と仰せられました。

「ハイ遥か雲海彼方に立っている棒に目印を付けて参りました。」

「その棒はこれと違うか。」と人さし指を示されました。そこには確かに孫悟空の付けた目印があります。孫悟空は結局お釈迦様の親指から人さし指の間を飛んだにすぎなかったのです。

 このお話は何を教えているのでしょうか。私達はどんなに足掻(あが)いてももがいてもみ仏の慈悲の光明の中から一歩も外に逃れることは出来ないということであります。私はこの頃ふと思うのです。よくお寺や仏法の悪口を聞くことがありますが、昔はそんな時、すぐ腹が立って、”お寺参りもせず、仏法も解らず、えらそうな事を言うな、もし言いたければ仏法を聞いてから言え”と心の中で反駁(はんばく)しました。 然しこの頃は、そんな言葉を耳にした時に私は”あの人達は何処で仏様やお寺の悪口を言っているのか・・・”それは仏様の手のひらの上で、仏様の慈悲の光に抱かれながら悪口を言っている。どんなに悪口を言っていても、その人の上にも、み仏の慈悲の光が限りなく注がれている。だから何時かはそれに必ず目覚めるであろうと思う時に、そうむきに腹が立たなくなりました。親鸞聖人がみ仏の光明を讃えて、先ず最初に無量光無辺光無碍光と仰せになった言葉に限りない深さと温かさを感じます。

(二)光に育てられ

 光明の働きは十二通りに示されていますが、更にこれを要約しますと、調熟(ちょうじゅく)と摂取の二つにおさまります。即ちみ仏の光明は何時でもどこでも誰の上にも働いて過去、現在の罪を消し、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴の三毒の煩悩を癒し、常に照して絶えることはありません。また衆生を浄土に往生せしめ、仏にならしめ給い、内なる煩悩を照し給うのであります。私達は、この光明の働きによって本願を信じ、念仏する身に育てられるのです。

 私達は先にも述べましたように、仏に背き真(まこと)の教えに背いて逃げよう逃げようとしています。お寺参りと、遊びに出かける時とはどちらが足が軽いでしょうか。お寺にお参りしようと思っていても、少しの用事が出来るとそれにかこつけて次に延ばそうとします。遊びに出かける時は万障繰り合わせて足も軽々と出かけます。又折角お寺にお参りしても、お話が少し硬くなると上の瞼と下の瞼がつい仲良くなり、お話が終れば途端に目がさめて、新しく来た隣のお嫁さんの噂話になると目がいきいきと輝いて来ます。昔からお説教聞きながら居眠りする人はありますが、世間の噂話を聞きながら居眠りする人はありません。

こんな事を思うと私達の自性は、仏様が好き、仏法が好きとは言われません。それは何故でしょうか。皆さん達は汽車旅行された時に展開して行く風景の中で、何が一番目に止り、心魅(ひ)かれるでしょうか。私は僧侶でありますから村落の中に聳(そび)えるお寺の甍(いらか)であります。農業される方はおそらく稲や麦の成長ぶりであり、又山林に携わる人には、樹木の育ちぶりでしょう。このように私達は因縁の深いもの程、心がひかれて行きます。

私達は曠劫流転(こうごうるてん)と長い長い間迷いの世界をさ迷い続けて来ました。従って迷いの方には縁が深いから心魅かれますが、真実の悟りは未だ一度も経験した事がありません。従って縁がないから悟りを開く仏法にはなかなか心が魅かれないのであります。

「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨て難く、
 未(いま)だ生れざる安養の浄土は恋しからず候」 <歎異抄第九条>

 み仏の光明は聞法を通してこのような私の上に働いて楽しみ喜んで仏法を聞く身に育て上げて下さるのです。これを宗教的成長と言います。それは具体的なはどういうことでしょうか。一つは、我が身は悪しきいたずら者と自分の姿が見えて来ることであります。人間は昔から言われるように目が前についているから、人の欠点はよく目につきますが自分の欠点はなかなか気付きません。その私が聞法によって育てられて行く時に、自分のいたらなさ、欠点がおのずと見えて来ます。二つにはその欠点に気づいていくところ、温いみ仏の慈悲が懐かしく味わえて来ます。それはそのままみ仏の慈悲の光に触れることであり、慈悲の光によっていよいよ浅ましい我が身を知らされます。

 光明の働きによって自己の浅ましさと大悲に目覚めて行く過程を調熟といい、浅ましさの自覚の中に大悲に抱かれ、大悲に生きる喜びを摂取と説かれました。その摂取の風光を更に次の節で掘り下げて味わって見ましょう。

(三)摂取の風光

 親鸞聖人は、み仏の光明に摂取される風光を和讃に次のように詠われています。

金剛堅固の信心の 定まる時を待ちえてぞ
弥陀の心光摂護(しょうご)して 永く生死をへだてける

 このお意(こころ)は、聞法によってみ仏の大悲に目覚め信心決定(けつじょう)する時に、間髪を入れず弥陀如来のみ仏の光明に摂取されて、もはや自分の力で迷いの世界に沈もうとしても沈む事の出来ない身にならして頂いたと言うことです。

これは大変有り難いご和讃でありますが、私はかってこの和讃を拝読した時に一つの不審を感じました。それは先にも申しました通り、み仏の光明は何時でも何処でも、誰の上にも平等に照らし給うと言うことと、信心決定した時に初めてみ仏の光明に摂取されるということの矛盾であります。これはどのように理解すればよいのでしょうか。

それはたとえて申しますと、子供が母の慈愛の手に抱かれながら、眠っている時に、恐い夢を見てうなされているとします。その時子供は母の腕(かいな)に抱かれている事も知らず、悪夢の中に戦(おのの)いています。凡夫の私の姿はまさにこのような姿で、迷いの世界に在って、自己中心の心より或いは怒りの炎を燃やし或いは欲におぼれ、愚痴をこぼしながら悩み苦しんでいます。この姿を苦悩の衆生と説かれました。苦悩するままが大悲の光明の中なのであります。然し悪夢に戦く子供が母の胸に抱かれていることに気付かないように、煩悩の中に明け暮れしている私は、大悲の中にいることに気づかずにいるのです。この事を九条武子夫人は

抱かれてあるとも知らず おろかにも我反抗す 大いなるみ手に

と詠われました。反抗すとは大悲の中にあることを知らず苦悩にさ迷っている姿を言うのです。この私が聞法を通してみ仏のお育てを受けることによって大悲に目覚めさせて頂くのです。これを金剛堅固の信心とも、或いは信心の智慧とも讃えられました。信心決定する時に、初めて光明の中に在ることに気づき目覚めさせて頂くのであります。この喜びを聖人は和讃に

煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

と詠われました。

第四章 現在より未来

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因と為す、等覚を成り大涅槃を証することは必至滅度の願成就なり 衆生をまるの他力で救うという本願によって成就された南無阿弥陀仏の名号は、万善万行の徳を円(まど)かに具(そな)え、よく衆生を救う働きがある。この名号を信ずる他力の信心一つによって、現生(げんしょう)に於いて未来必ず仏になるという等覚の位、即ち正定聚に住し、やがて命終れば浄土に生れて仏のさとりを聞かせて頂く、これ総じて本願成就の賜である

(一)光明と名号の因縁

 み仏のお徳は、衆生を救うという働きの外ありません。その働きとは光明名号の二つであります。聖人はその光明の働きについて十二通りの徳をあげて讃嘆されましたので続いて名号のお徳を讃えられましたのが、「本願名号」より「必至滅度願成就」の二行四句のお言葉であります。今名号の働きを伺うにあたりまして先ず光明と名号の関係を明らかにすることが大切であります。この光明名号の関係については、教行信証の行の巻に、七高僧の中第五番目の高僧、善導大師の教えにもとづいて、光号因縁という妙釈を施しておられます。

「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因闕(か)けなん。
光明の悲母ましまさずば所生の縁乖(そむ)きなん・・」

と仰せになっています。即ち名号を父とたとえて因となし、光明を母に譬えて縁となされました。名号の父の因と光明の母の縁と因縁和合して浄土に往生すると述べられました。すれば名号の因、光明の縁の働きによって、私達がお浄土に往生することが出来るのであるます。

因みに仏教では因縁という言葉がよく使われますが、因とは直接原因であり、縁とは間接原因と言えるでしょう。米を作る場合に籾種が因であり土、水、日光、肥料等が縁であります。今光明を縁とされましたが、光明の働きは先にも述べましたように調熟(ちょうじゅく)であって、仏法嫌いな私をだんだんと楽しんで仏法を聞く身に育てあげて下さることであり、名号とは正しく仏になる業因<種>を私に与えて、仏になるべき欠け目なき立派な資格をめぐんで下さるのであります。

その名号の働きをここに「本願名号正定業」と讃嘆されました。即ち苦悩の衆生をまるの他力で救うという仏のねがいによって成就された南無阿弥陀仏の名号は、正しく衆生を浄土に生れしめるすばらしい働きがあるということであります。私達が仏になるには願と行とが具わらなければなりません。これが正しい因果の道理に立つ仏教の定めであります。

 よって願もなく行も出来ない私を、仏にならしめるには、み仏が私に代わって願と行とを仏の手元に成就して、南無阿弥陀仏と名乗られたのであります。従って南無阿弥陀仏には、願と行とが具わり、万善万行の功徳が収められていますので名号を正定業と讃嘆されるのであります。

この名号のいわれを聞き開き信ずることによって、名号の功徳の全体が私の功徳となり、ここに仏になるべき完全なる資格と価値が恵まれて、やがてこの世の縁がつき、命終りて浄土に生れる時、み仏のさとりを開くのであります。このことを「等覚を成り大涅槃を証す」と述べられました。

 ここでなお見落としてならないことは、名号のいわれを聞き開き信ずる信心は私の方で起して行かなければならないのかという問題です。少し専門的になりますが、蓮如上人は南無阿弥陀仏の名号を機法一体と讃嘆されました。機とは衆生のことであり、法とは名号のことであります。この意はやさしく申しますと、南無阿弥陀仏のいわれを信ずる信心まで南無阿弥陀仏の名号の働きによることを顕わしているのであります。即ち私が賢くて信ずる信心ではなくて、衆生必ず救うという願いによって出来上がった名号の働きの外ありません。おかる同行がこのことを

おかるおかると呼びさまされて ハイの返事も向うから

と鮮かにうたっています。又山の端に登った満月を見て、ああ良い月だと見上げるままが月の光の働きの外ありません。月の光で月を見る、仏の働きで仏を知るの風情で、名号を信ずる信心を他力廻向の信心といわれるのはこれによるのであります。

(二)念仏者のあかし

 我が浄土真宗は、昔より同朋教団と言われ、これにふさわしい教団確立を目指して、宗門の二大基幹運動として門信徒会運動と共に、同朋運動が強く展開されていることは、周知の通りであります。同朋運動の基礎は、親鸞聖人が、親鸞は弟子一人も持たず、おん同朋おん同行とかしずいて行かれた精神によるのであります。

では同朋教団と言われる所以は何によるのでしょうか、それは今日多くの人が考えているような同じ教えを信ずる仲間だからというのではありません。もしようであるならば、他の宗教も皆同朋教団といわなければならないでしょう。天理教の人達もキリスト教の人達も皆同朋教団といえるはずです。然し他の宗教ではほんとうの意味の同朋教団とはいえわれません。浄土真宗に於てのみ、これがいわれるのであります。このことは見落してはなりません。

 ではどうして浄土真宗に限って同朋教団といわれるのでしょうか。それは信仰する対象が一つであるというのではなくて、信心そのものが如来から恵まれた他力の信心によるからです。天上の月も田の面(も)の水にも小川のせせらぎにも、汲み上げた盥(たらい)の水にも影を写します。写す器はそれぞれ違っていても、写った月の影は皆同じであるように、人はそれぞれ能力の差もあり性格賢愚の違いはあっても、聞法を通して胸に宿った信心の月には変わりはありません。

み仏より同じ信心を給り、同じ信心に生かされて行くから、念仏を喜ぶ人々を親鸞聖人はおん同朋おん同行とかしずいて行かれました。ここに身分や地位を超えて、温かく手を握り合うところに同朋教団といわれる所以があるのです。

蓮如上人は或る時お弟子の法敬房順誓の手を取りながら、法敬よ私とお前は兄弟だなあと仰せになりました。この言葉に順誓は驚き、「それは余りにも勿体ないお言葉であります。本願寺第八世の善知識親鸞聖人の生れかわりと仰がれる貴方と私のような者と兄弟とは余りにもおそれ多い言葉であります。」と申し上げた時、上人は「そうではない、お前の頂いた信心も蓮如が喜ぶ信心も同じではないか、そなたが参るお浄土も蓮如が参るお浄土も同じよ。同じ親を持ち、同じ信心の喜びに生かされ、同じお浄土へ参るならば先に生れた者が兄、後に生れた者が弟よ、私とそなたは兄弟よ。」<蓮如上人御一代記聞書取意の文>と仰せになった言葉が懐かしく味わわれます。

 私は学生自分に御正忌に本願寺に参詣しました。本堂でのおつとめが終り、総会所<お説教のある場所>の方に急いでいる時に、私の前を二人の女の人が話しながら行かれました。その言葉を聞くともなしに聞いていると、「私達お念仏を喜ぶ者は幸せですね、こうして初めてお逢いしても初めてのような気はせず、姉妹の様に打ちとけて話し合えますからね。」との言葉が耳に入りその二人の婦人の間に漂うほのぼのとした温かさに強く心をひかれました。

 親鸞聖人のみ教えに生きる私達真宗門徒は、温い同朋感の絆の上に手を取り合いながら、美しく豊かに生き抜いてまいりました。この姿こそ同朋教団のあるべき姿であり、宗門のめざす同朋運動とは正にこの姿の実現への運動に外なりません。更に思うに、法華経に常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のお話がとかれています。常不軽菩薩はすべての人々を軽んぜず敬い、礼拝して行かれました。

「汝に仏性有り、汝正に作仏(さぶつ)すべし、この故に我汝を礼す」

貴方には尊い仏性があります。その仏性が何時か花開いて仏になられるでしょう。この故に私は貴方を礼拝するのですと言い続けながら、悪童、乞食、遊び女等に至るまで礼拝してゆかれました。 私は今このことを思うのです。聞法を通して信心の智慧が恵まれ、信心の智慧の眼には生きとし生けるものすべてみ仏の愛子(いとしご)であり、その愛子にみ仏の慈悲の光は限りなく注がれています。ここに

「同一念仏して別の道なきが故に それ遠く通ずるに四海の中皆兄弟(けいてい)となす」 <曇鸞大師>

という同朋の世界が開かれて来ます。この同朋意識によって身分、学歴、因習等による差別の心が打ち砕かれていく、否打砕いて行かねばなりません。

 思えば徳川幕府の封建政治のものにきびしい身分制度が設けられて、三百年の永い間続けられました。明治維新になってこの身分制度が廃止され、人間平等が謳われましたが、永い間の因習は今尚残り三百万に及ぶ同朋が、厳しい差別の苦しみの中にあります。私達は今こそこのことに深く思いを致して悲しみを感じつつ親鸞聖人のおん同朋おん同行の精神に立ち返って、念仏者としての証を立てねばなりません。従って同朋運動とは念仏者は同朋であるとの自覚を深め実践すると共に、又生きとし生ける者すべての同朋であると自覚せしめる運動であります。明治天皇は

四海(よも)の海 皆はらからと思う世に
なぞ波風の 立ちさわぐらん

とお詠みになりました。物は豊かになり生活は便利になりましたが人々は個人の利益追求にのみ走り、極端なマイホーム主義に陥って、社会の連帯感を見失い、孤独地獄への道をたどりつつあります。今こそ同朋運動の実践と成果が強く期待される時であります。

(三)命のふる里へ

 私は最近ふと思うのです。人間に生まれた喜びは? 浄土真宗に遇った幸せは? とそれを思う時に数年前、私の法友大八木広澄氏<現鹿児島別院副輪番>より聞いた某婦人のお話が頭に浮びます。

この婦人は女の子をもうけて間もなく主人に死別されました。その後再婚の話は幾度かありましたが、それを断り、子供の成長を唯一の楽しみとして生き抜いて来られました。小学校、中学校、高等学校も優秀な成績で終り、京都大学を受験し合格しました。在学中は学生運動が非常に激しい頃で、幾度か参加するように友人からさ誘われましたが、軽はずみなことをしてもしものことがあれば、田舎で自分の無事卒業をひたすら待っているお母さんにどんな悲しい思いをさせるかと思うと、参加する気になれず、それを断り続け、無事四年の課程を終えて、母校の有明高校に国語の教師として就職されました。

それから一年半程過ぎた頃、どうも身体の調子がおかしいと鹿児島の大学病院で診察を受けましたが、原因が判明せず、九大病院で精密検査を受けたところ、脳腫瘍と診断されて入院されました。病状は悪化の一路を辿り、死期の近いことを自覚されたのでしょう。ある日

「お母さん、私恥ずかしいことがあるの、言ってもいいかしら?」
「何も恥ずかしいことないよ、何でも言ってごらん。」
「お母さん、私死ぬのがこわいの、死んだらどうなるのでしょう。」

この悲痛な叫びを聞かれた時に、この婦人は一言も答えることが出来ませんでした。主人と死別後、家の経済のこと、子供の教育等に心を奪われて、お寺にお参りすることが出来なかったのです。

 この娘さんは、悲痛な言葉を残し、やがて亡くなってゆかれました。火葬にふし、遺骨を白木の箱に納めて、胸に抱きしめながら、一人寂しく故郷に帰って来られました。

 この事がご縁となって、お寺の仏教婦人会にはいり、毎月の例会には欠かさず出席し、熱心に聴聞を続けられました。或る日ご住職に

「先生、私は自分の愚かさを娘にわびながら、朝夕お礼しています。」

と話されました。おそらくこの婦人がお礼をされる時に、娘さんの白木の位牌がいたいたしく眼に迫って来たことでしょう。その時娘さんの最後の言葉がなまなましく胸に甦って”どうかこの馬鹿なお母さんを許してね、あなたの食べること、着ること、学校の教育には一所懸命尽してあげたけれども、一番大切な命の問題、生死の問題については、何一つ教えてあげることが出来なくて・・・”と言う後悔の念が胸に迫って来たことでしょう。

 私はこれを思うのです。生死の問題、帰るべき命のふる里について、明瞭な解答が与えられる。そこに人間に生まれた本当の喜び、浄土真宗に遇ったこよなき幸せがあるのです。

 そんなことを思いつつお正信偈を拝読する時に、

「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」

との言葉が力強く胸に迫って来ます。  等覚とは凡夫より仏の位に到るまでに五十二段の階段があり、五十一段が等覚の位であります。即ち十信十住十行十廻向十地で五十段、次が等覚で五十一段、五十二段目が妙覚で仏のさとりの位であります。五十一段の等覚に登りつめれば次は妙覚の仏のさとりを聞くことに決定するのです。

 親鸞聖人は名号の働きによって信心決定するところに、次の生(しょう)には必ずお浄土に生れて間違いなく仏のさとりを聞く身に決定しますから、信心決定した人を等覚の位に入ると述べられました。

 そのことを「成等覚証大涅槃」と讃えられました。これは迷いと苦悩の世界にあって煩悩の中に明け暮れしながらも、帰るべき命のふる里を知らされたことであります。

往(ゆ)こか嬉しやあの山越えて 都まさりの親里へ

 帰るべき命のふる里を知らされた喜び、親に待たれつつある我が身の幸せは、そのままお陰様よと心豊かに生きる道であります。親鸞聖人はこの風光を

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど こころは浄土にあそぶなり
真実信心うるひとは すなはち定聚(じょうじゅ)のかずにいる
不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

と詠われました。

 されば浄土真宗の救いこそ現在から未来への末通(すえとお)った真の救いといえるでしょう。その救いは全く本願他力による救いであることを「必至滅度願成就」とうたわれたのであります。


第五章 み仏の世に生れ給う本意

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来世に興出し給う所以(ゆえん)は、唯弥陀の本願海を説かんとなり、五濁悪時の群生海、まさに如来如実の言(みこと)を信ずべし

釈迦如来をはじめ、すべての如来がこの世にお出ましになった理由は、唯阿弥陀仏の海のような広い本願のお慈悲を説くためでありました。末法の五つの濁りの悪世にあえぐ人々よ、今こそ釈迦如来をはじめ諸仏のまことのお言葉を信じなさい。

(一)阿弥陀如来と釈迦如来

 先に阿弥陀如来の本願、それによって成就された光明名号の働きを讃嘆されましたので、今のこの二行二句は阿弥陀如来の広大なお徳を迷いの人々に伝える為に世に出られました釈迦如来の功績を讃えられたのであります。

 今から十年程前になりますが、私のお寺の歎異抄の会の時に、当時の世話役でこの会の会員であった八重倉盛蔵さんがこんな質問をされました。 「お釈迦様と阿弥陀様とどう違うのでしょうか。又浄土真宗も仏教でしょう。それなのに、何故真宗のお寺では阿弥陀様だけを祭ってお釈迦様を祭らないのでしょうか?」<真宗では祭るとは言わず安置すると言います>

 この質問は素朴な質問ですが、真宗の基本的な問題だと思います。よく真宗の教えは相当聴聞された人でも、解ったようで解らないと言われます。仏教又は真宗はすっきりした理論の上に立っていますので、そう難しい、又ややこしい教えではないのですが、それが難かしいと思われるのはこうした基本的な問題を、説く方ではすでに解ったこととしてその解明をせずに先の方を説かれているからそんな感じを与えるのではないでしょうか。 今この基本的な問題に対し、明確な答えを出されているのが「如来世に興出し給う所以は唯弥陀の本願海を説かんが為なり」の二句のお言葉であります。阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、真宗の学問の上ではいろんな面から説かれていますが、解り易く一言で申しますと阿弥陀如来は救主、即ち救いの主であり、釈迦如来は教主・教えの主であります。

具体的に申しますと、阿弥陀如来の本願のおいわれを、私達に伝えん為にみ仏の国からこの世にお出ましになった方がお釈迦様であります。

 次に真宗も仏教でありながら、仏教の開祖であるお釈迦様を何故安置しないのか、という疑問は今申しました事をよく理解されると自ずと解消されますが、私達の信仰の対象つまり私を救うて下さるみ仏は阿弥陀如来一仏であります。従って信仰の対象として安置するのは阿弥陀如来で、他の仏菩薩を並べて安置しないところに、浄土真宗の特微があります。

 自力の教えでは自分の力だけでは仏のさとりを開く事はなかなか困難であります。よって諸仏菩薩の力を借りる為に諸仏菩薩を安置して、その加被力(かびりき)を要請するのです。

 浄土真宗は阿弥陀如来の本願のひとり働きで救って頂くのですから、阿弥陀如来一仏を安置して、他の諸仏や菩薩を安置しません。

 けれどもこれはお釈迦様を軽視することではなくて、阿弥陀如来一仏を信じてお敬いするままが、かえってお釈迦如来の本意に適い、お釈迦様を敬うことになるのであります。

(二)お釈迦様の本意はいずこ=

 親鸞聖人はお釈迦様がこの世にお出ましになった本意は、阿弥陀仏の本願一つをお説きになる為であったと仰せになりましたが、実はお釈迦様の教えは八万四千と言われるように、いろいろ沢山の教え即ち小乗の教え、大乗の教え、自力の教え、他力の教えといろんな面にわたって説かれています。これはお釈迦様の対機説法と申しまして、お釈迦様は法を説こうとする相手の性格、能力よ良く見極めて、その人に応じていろいろ教えを説かれたのであります。けれども目的は、迷いを転じて悟りを開く、即ち仏になるところにあることは言うまでもありません。その教えは八万四千、お経の数にして一万二千巻の一切経と言われています。

 そうした中にあって阿弥陀如来の本願のいわれを上下二巻にわたってつぶさに説かれた無量寿経<大経>こをお釈迦様の本意であったと親鸞聖人は鋭く見抜かれました。

 私はこのことについて、少年の頃、先輩<滋賀教区稲岡義山氏>の法話で聞いた歌を思い出します。 祭りには 皆とは言えど 気は娘  この歌には、娘を嫁がせた親の気持ちがよく表れております。村祭りが近づいたので、どうか皆様是非お揃いでおいで下さいと案内状は書きますが、親の気持は誰よりも我が娘に帰って来てほしい、娘さえ帰って来れば‥‥‥という気持でしょう。  お釈迦様は今申しましたように、沢山な教えを説かれましたが、その本意は阿弥陀如来の本願一つを説く為でありました。そのことはお釈迦様自身の言葉から、又道理の上からはっきり知ることが出来ます。

 王舎城外の耆闍掘山(ぎしゃくっせん)の空は清く晴れ渡り、明るい陽光は燦々(さんさん)と降り注いでおりました。  ここには今やお釈迦様の説法を前にして、既に修行成り、神通力を身につけられた聖者(しょうじゃ)方、その他数知れぬ勝れたお弟子達が集まっていますが、誰一人寂(せき)として声はなく、その会座(えざ)は静寂と緊張に満ち満ちていました。ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、十大弟子の中で多聞第一と謳われました阿難尊者が、ふと顔を上げて仰ぎ見ました時に、お釈迦様のお姿は常と事変わって巍巍(ぎぎ)として光り輝き、にこやかなお顔は喜びと満足に満ち溢れていました。阿難尊者は静かに面を上げて、そのお姿を仰ぎ見ながら、 「世尊よ<お釈迦様>私は今までこのような気高く尊いお姿は未だ一度も見たことがございません。今日の世尊は五つの瑞相(ずいそう)に輝いて、かねてお聞きした西方浄土の阿弥陀如来のお姿を拝するようであります。」と申し上げた時にお

釈迦様は 「善き哉善き哉、阿難よ慧眼<智慧の眼>を以てよく問うた。」と阿難の問いを讃えられて、 「私は世に現れて、もろもろの教えを広く説いて来たが、それは阿弥陀仏の本願を広く知らしめて真実の利益を恵む為であった。今こそその時が来たからである。」

と仰せになって説かれたのが無量寿経であります。この光景を親鸞聖人は和讃に

尊者阿難座より立ち 世尊の威光を瞻仰(せんごう)し
生希有心(しょうけうしん)とおどろかし 未曾見(みぞうけん)とぞあやしみし
如来の光瑞希有にして 阿難はなはだこころよく
如是之義(にょぜしぎ)ととへりしに 出世の本意あらはせり

とうたわれています。

 これによってお釈迦様の本意は、弥陀の本願を説くことにあることが明らかに知られます。次に道理の上からこれをうかがいますと、「諸仏の大悲は苦者に於てす」<観経疏>という言葉があります。

 即ちみ仏の大悲は常に最低の者に働きかけるのであります。さすれば先に申しましたように、お釈迦様は相手の能力を見極めて法を説かれました。善根功徳を積める者には廃悪修善(はいあくしゅぜん)の法を、心を一境に集中して浄土並びに仏を観想出来る者には観察(かんざつ)の法を、このように自力修行に耐え得る者には自力の法を、これらの自力の道を修めることの出来ない煩悩を一杯持った凡夫の為には、弥陀の他力のみ教えを、説かれたのであります。

 されば仏の大悲は誰の為に働くか、自力修行に耐え得ない凡夫の為にこそ、偏に働き給うのであります。さすればお釈迦様のこの世にお出ましになった本意は、最低の凡夫が救われて行く弥陀の本願を説くにあることが容易にうなずけるでしょう。このことを今「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と述べられたのであります。

(三)濁りの世を救う真(まこと)のことば

 一休和尚の歌に

生れっ子が 次第次第に知恵づいて 聖に遠くなるぞはかなき

 私が学生の頃読んだ本の中にこんな歌が書かれていました。今も脳裡に残っていて時々思い浮かびます。幼児の間は天真らん漫でその無邪気さは仏に近いような感じを受けますが、だんだん知恵がつくにつれて、それから遠ざかって行くことは否定出来ません。つまり悪知恵と言うのでしょうか。そのことを傷んで読まれたのがこの歌であります。

 すれば世の中が拓け、人知が進むということは必ずしも人間の向上や幸せにはつながっていないようです。  故湯川秀樹博士は、科学の発達は人間の生活を便利にしても必ずしも幸福にしないと言っておられます。  この言葉に私達はよく耳を傾けなければなりません。

 このことを思う時、今年六月頃だったでしょうか、私のお寺のYBAを卒業して他県に就職していた小久保文夫君が、十数年振りに帰って来て私を訪ねてくれました。今千葉市の消防署に勤め、救急車に乗っているそうです。

 小久保君の話によると実に腹立たしいことが多いそうです。それは夜中に呼び出されて出動してみると、救急車を呼ぶ必要のないような軽い患者や、又家で手当をすれば充分である小さな傷でも呼ばれる、救急病院に運び込むと医者や看護婦から、何故これ位な患者を連れて来たかと小言を言われます。 又昼間でもタクシーを呼べば金がかかるが救急車だと無料なうえに病院に行ってもすぐ診察して貰える、こうした状態で救急車を悪用する人が年と共に増えています。然もそういう人は地元の人でなく東京都から移住して来た通称インテリと言われる層の人々に多いのです、と。

 私はこの話を聞きながら、知識が進歩することがそのまま真の人間向上にはつながらないことを感じ、一休和尚の今の歌を思い浮かべました。そうして人間はやはり有難い勿体ない、お陰様という宗教的教養を身につけないと本当ではないね話し合うことでした。

 これに因(ちな)んで、NHKのラジオを聞いていると<昭和五十五年十二月七日>、校内暴力についての座談会の席で女性評論家が、電車の中で見られたこんな光景を話しておれれました。或るインテリと思われる婦人の連れていた幼い子供が電車に揺れて、思わず傍の人の足を踏みました。その時に婦人が、ごめんなさいと子供に代わってあやまられるかと思ったらそうではなくて、子供に向かって「電車が揺れて踏んだんだから、あなたが悪いのではないのよ、電車が悪いんだから謝る必要ないのよ」と言われたそうです。

 私はこの話を聞いて唖然とし、現代のインテリよ何処へ行く? という感を深くしました。

 お釈迦様は、末の世になればなる程時代や思想が濁り<劫濁、見濁>煩悩が盛ん<煩悩濁>で、人々がいよいよ悪くなり<衆生濁>生活が濁って来る<命濁>と説かれて五濁悪世と仰せになった言葉がしみじみ胸に響きます。

 親鸞聖人も激しい時代の転換期に立って、煩悩渦巻くこの世界をひしひしと感じながら、そこに蠢(うご)めく人々を五濁悪世の群生界と仰せになって、このような暗黒の世を照らす救いの光、それがお釈迦様によって説かれた弥陀の本願であると仰がれました。

 ここに「五濁悪時の群生海、如来如実のみことを信ずべし」と無上命令の言葉をもって力強く勧められたのであります。

第六章 信心の利益 〔その一〕

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

能(よ)く一念喜愛(きあい)の心を発(おこ)すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり、凡聖逆謗(ぎゃくぼう)斉(ひと)しく廻入(えにゅう)すれば、 衆水(しゅうすい)海に入りて一味なるが如し

能くみ仏の仰せに疑い晴(ほとけ)れて喜ぶ一念の信心が起こった時に、煩悩を持ちながら、それが妨げにならず、やがて悟りを開いて仏になる身にならしめられるのであります。凡夫も、勝れた聖者(しょうじゃ)も、五逆や十悪を犯した罪人も自力を翻(ひるがえ)して本願他力に帰入すれば、諸々の川の水が海に入りて一つの塩味に変わるように、同じ一味の信心を恵まれてたがてお浄土に生まれて平等のさとりを開くのであります。

(一)煩悩を持ちながら

 お釈迦様がこの世にでられた本意は、弥陀の本願を説くことにあると讃えられて偏(ひとえ)に信心を勧められました。従って「能発一念喜愛心」より「是人名分陀利華」までの八行十六句は、その信心の五つの利益を讃嘆されたのであります。

 この他力の信心の利益について次の四つのことに留意しなければなりません。 一、祈らずして信心定まるところ、自ずと利益が恵まれる。
二、信心と利益は同時である。
三、その利益は精神的福利で、金が儲かる、病気が治る等の物質的福利ではない。
四、精神的福利によって心に豊かさを持ち、努力するところに物質的福利を得る。

 今「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」とは、信心発(おこ)るところに、煩悩を持ちながら、それが妨げにならず、仏のさとりを開く利益を讃えられたのであります。
 煩悩を持ちながら涅槃<さとり>を得るとは当時の人々の耳を驚かした言葉でありました。それは煩悩こそ迷いと苦悩の根元であって厳しい修行によって煩悩を断じつくしてこそ、そこにさとりを開く、これが因果の道理による仏教の鉄則であります。

 私が学生の時利井興隆(かがいこうりゅう)先生から、中国の詩人で又政治家であった白楽天について、こんな話を聞きました。白楽天が隣の県の知事に任命されて赴任する途中、県境まで来た時に大きな松の木の枝に一人の坊さん<鳥巣(ちょうそう)禅師>が座禅を組んで修行していました。風が吹くと枝が揺れ、落ちそうで危くて仕方がないので白楽天は思わず”おい坊さん気をつけないと落ちるよ”と声をかけました。すると上から”落ちるとは汝の事なり”と言う声が返って来ました。そこで”生意気な、人が折角注意してやっているのに”と思い問答をしかけました。

”仏教とは何か? 一口に言って見よ””諸々の悪をなす事莫(なか)れ、諸々の善を行え””何、それが仏教か!! そんな事なら三才の童子も知るところ””三才の童子これを知ると雖(いえど)も、八十の老翁尚これを行い難し”

 これより白楽天はこの鳥巣禅師について仏の道を学んで行かれました。それ以後白楽天の詩は宗教的深さを増したと言われています。

 この禅師の答は昔から言われている七仏通戒の心を述べられたものであります。これは過去の七仏が何れもこの教えに従って人々を教化された言葉であります。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」[諸(もろもろ)の悪をなす事莫れ、衆(もろもろ)の善を奉行し自らその心を浄くせよ、これ諸仏の教えなり]

この意は申すまでもなく、悪を止め、善を修めながら自らの心を浄くして行く、これがあらゆる仏に一貫した教えであるというのであります。そうした中にあって、煩悩持ちつつ悟りを開くということは当時の人々にとっては想像もつかないことであったでしょう。したがって自力修行の聖道門の人々はこの念仏の教えは仏教に非ず、外道なりというきびしい攻撃をしました。思うに法然上人や親鸞聖人が流罪にあわれた法難の原因もここに根ざしているのであります。それ故にこそ親鸞聖人は煩悩を持ちながらさとりをひらくことを信心の利益の第一にあげられて強調されたものとうかがわれます。

 ではどうして煩悩を持ちながらさとりを開くことが出来るのでしょうか。岩石はどんなにしても必ず水に沈みますが、ひとたび船に乗せたならば、沈む自性のまま浮かびます。煩悩を欠け目なく具えて、地獄より外に行き場のない私ではありますが、み仏の大願業力という大きな弘誓の船に乗せられると、生死の迷いの海を超えて真実の浄土に生れ、仏のさとりを聞かして頂くのであります。

生死の苦海ほとりなし ひさしく沈める我らをば
弥陀弘誓の船のみぞ のせてかならずわたしける

(二)平等の救い

 信心の第二の利益は平等の救いであります。それを詠われたのが「凡聖逆謗斉(ひと)しく廻入すれば、衆水海(しゅうすい)に入りて一味なるが如し」のお言葉であります。

 このお言葉には二つの意味があります。一つは自力の心を翻して他力にはいれば、皆平等一味の信心に生かされます。 二つには凡夫聖者又あらゆる罪の人々も一たびお浄土に生まれるならば、一味平等の仏のさとりを開かして頂きます。その二つの光景を巧みな譬喩を以て説かれたのが「衆水海に入りて一味なるが如し」というお言葉であります。

 親鸞聖人は、果てしなく広いみ仏の大悲を表す時に、常に”本願海”とか”弥陀智願の海水”とか、”光明の広海”とか”海”の言葉を以て表現されています。これは聖人が三十五歳の時、念仏停止(ちょうじ)の法難によって流罪になり、五年間波荒き、果てしない日本海を朝夕眺めてお過ごしになったその印象が深く脳裡に刻まれたことによるのでしょう。

 海には二つの働きがあります。一つは大小様々の河の水を平等に受け入れる働きと、二つには受け入れた河の水を一味の塩味にかえる働きであります。み仏の本願は凡夫も聖者も善人も悪人も何等の差別なく受け入れて、しかも心は同じ一味の信心にかえて行きます。

 従って同じ信心に生かされるが故に因平等であり、因平等なるが故に果又平等で、同じ仏のさとりを開くのであります。因平等とはすべての人々の信心が同じということであります。これについて、もう十四、五年前になるでしょうか、私の門徒に山之内タカという素直に御法義を喜ぶ有り難いおばあさんがありました。どんな法座にも欠かさず本堂の真中の一番前に座って講師のお話をうなずきうなずき聞いておられるお姿は、えも言われぬ柔和な美しい姿で、今も尚私の眼に懐かしく浮かんで来ます。このおばあさんが何時の間にか参詣しなくなりました。親類の家に法事に行きました時、このおばあさんが参っていたので私は問いかけました。

 ”おばあさん、この頃お寺に姿が見えないがどうしたの。”

 ”御院家さん、このばばも今年明けて八十六になりました。八十四、五の頃までは御正忌や彼岸会等お寺の法座には朝早くからお参り出来ましたがこの頃は子供や孫が朝早く家を出ると心配だと申しますので、それを押し切って参ることが出来ません。それで家からお寺の方に向かって親様を拝んでいます。”

 私はこの言葉を聞いた時にふと蓮如上人の”仏法は若き時にたしなめ”とのお諭しをしみじみかみしめました。年を取れば歩行も叶わず、耳も遠くなり根気も続かなくなる、若き時にたしなめとのお言葉です。私は言葉を続けて”おばあちゃん、若い時から永い間お寺に参ったが、お寺に参ってどんなことが解ったの。”と問いました。”ハイ御院家さん永い間お寺に参ったお陰でこの婆々は、どこまで行っても頭の上がらぬ愚かな奴じゃと言うことがほんまに解りました。”

 この言葉を聞いた時、昭和十一年、春まだ浅き二月二十六日、寒風身にしみ白雪暁天に舞う帝都に、血気にはやる青年将校に指揮された近衛師団によって首相官邸及び重臣の邸宅が襲われ、血潮に彩られた二・二六事件の時の陸軍大将で教育総監でありました。かって陸軍士官学校の校長を歴任された真崎さんは、かねてよりこれらの青年将校に信望が厚かったのです。そこで今度の事件の後に、真崎さんが青年将校をあやつったという疑いをかけられて、陸軍大将は予備役となり、教育総監の地位を追われたのみならず、未決囚として巣鴨の刑務所につながれました。

 佐賀の浄土真宗の信仰の厚い家庭に育たれた真崎さんは、獄中の悶々たる情を癒す為に、親鸞聖人のお言葉をお弟子の唯円房が編集された歎異抄を巻き返し繰り返し読んで、信仰をますます深めて行かれました。裁判の進むうちにやがて無実が証明され、巣鴨を出て故郷の佐賀に帰る途中、大阪に降りて、利井先生を訪ねられました。利井先生が、”真崎さんよかったですね、今日の喜びを記念して書を交換しましょう。私も書きますから貴方も書いて下さい。”と言われた時に真崎さんは筆を取り墨痕鮮やかに「難抜(ぬきがたし)南無六字の城」と書かれて愚真書と記されました。これは頼山陽先生の石山合戦をうたった詩の一節であります。

 ”真崎さん、この愚真とはどういうことですか”と問われたときに、

 ”それはおろかな真崎ということであります。世間の人は陸軍大将とか教育総監とか言えば一きわ偉い人間とか思うかも知れませんが、この真崎は仏様の前には、誠に愚かな頭の上がらぬ奴でございます。”と答えられました。

 八十六才の、字も書けなければ読む事も出来ない先のおばあさんと、真崎大将と比べてみれば、人間の社会で大きな隔たりがあっても、信心の世界では全く同じだということをしみじみかんじました。信心平等なるが故に浄土で開くさとりも同じなのであります。このことを「凡聖逆謗斉しく廻入すれば、衆水海に入りて一味なるが如し」と讃えられました。

(三)恵まれた信心

 今この四句の言葉を見つめた時に、僅か四句の中に一という字が二ヶ所も使われてあります。即ち「能発一念の一」、「海一味の一」であります。一念の一は「無二」という意味のほかに速やか、速いということも表しています。

 親鸞聖人は教行信証の信の巻きに、一念を解釈して、「一念はこれ信楽(しんぎょう)開発(かいほつ)の時剋(じこく)の極促を顕わす」と仰せになりました。これは法をいただく「最初」ということのほかに時間の非常に短い、一思いの間ということでもあります。

一味とは申すまでもなく一つの味に住するということで平等を表しています。速いということと平等ということは何を意味しているのでしょうか。それは共に本願他力のめぐみということを表しているのであります。自分の力で作って行くならばどんな些細な物でも時間がかかります。又自分自分で作るならば、どんなに似ていても違いがあります。然し出来上がったものを頂戴するならば、何の手間ひまもかかりません。又出来上がったものを頂くのには、誰が頂こうと皆同じです。

 従って一念一味ということは他力の恵みを表しているのです。思えば煩悩を持ちつつ、やがて平等一味の仏のさとりを開くということは全く本願他力の賜であるということが明らかに知らされます。

 思うに仏教は時代が経つにつれて、小乗仏教より大乗仏教へと、広さと深さを増して発展して来ました。その目指すところは、どのようにして速やかな救いと平等のさとりを達成するかにありました。それを思う時に、親鸞聖人が信心利益を

能発一念喜愛心 <すみやかなる救い>
如衆水入海一味 <平等の救い>

とうたわれましたことは、大乗仏教の到達すべき最高の極致を示したものと言えます。それは取りもなおさず、浄土真宗こそ大乗仏教の頂点に立っていることを表しているのであります。

第七章 信心の利益 〔その二〕

摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛顛憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来如実言
仏言広大勝解者 是人名分陀利華

摂取の心光、常に照護したもう、已(すで)に能(よ)く無明の闇を破すといえども、貪愛顛憎(とんないしんぞう)の雲霧(うんむ)、常に真実信心の天に覆えり、たとえば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下明かにして闇無きが如し、信を獲れば見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば即ち横(おう)に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す。一切善悪凡夫人、如来の広誓願を聞信(もんしん)すれば、仏は広大勝解(こうだいしょうげ)の者と言えり、是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名ずく

み仏の光明は常に信心喜ぶ人々を摂取し、照し護り給うのであります。従ってその人々は己に本願を疑う心の闇は晴れてはいますが、過ぎし世の業の絆の内にある身ですから、貪り、愛着、怒り、憎しみの煩悩の雲や霧は絶間なく信心の上に覆いかぶさってきます。けれども、それによって往生いかがという不安はありません。例えば日光を雲や霧が覆って、その光をかくしても、雲や霧の下は明るくて闇の無いのと同じであります。信心を獲れば心にみ仏の慈悲を思い浮べて、喜びの心が湧いてまいります。そこには、本願他力の働きによって迷いの世界に沈む絆は断ち切られるのであります。 総ての善人悪人の凡夫も、み仏の救いの誓いを信ずれば、お釈迦様始め、あらゆるみ仏から、広大の法の勝れた理解者であり、華にたとえて白蓮華のような美しい気高い人と賞(ほ)められるのであります。

(一)光明のなかに

 信心の利益の第三番目は、光明に摂取される利益であります。このことを親鸞聖人は和讃に、

煩悩に眼(まなこ)さえられて 摂取の光明見ざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

と詠われています。

 この意(こころ)は、煩悩に眼がさえられているから、み仏を見ることは出来ませんが、み仏は常に私を摂取したもうというのであります。

 私は学生時分にこの和讃を拝読するたびに、一つの矛盾を感じました。煩悩によって仏を見ることができない。それはよく頷けますが、それならみ仏が摂取し給うていることをどうして知ることができるでしょうか。

 これについていろいろ思い悩んで来ました。ようやく疑問を解く糸口が開けましたので、恩師山本仏骨先生とこんな対話を交したことがあります。

 ”先生、この和讃の矛盾についてこう考えますがいかがでしょうか。凡夫の眼に摂取の光明は見ることはできませんが、どうして摂取されていることが知れるかについて、九条武子夫人の歌に、

 これはこれ御加被力(おんかびりき)とや申すらん おのずからなる心のなごみ

というのがありますが、お念仏を喜ぶ生活には、煩悩を持ちながらも、おのずと心のなごみが出てまいります。それは光明の中に摂取されているからでしょう。”

 ”そうした味わいも否定はしないが、私はもう少し深いところで味わっている。”
 ”それはどういうところでしょうか。”
 ”往生論註<曇鸞大師著>という書物の中に、『非常の言は常人の耳に入らず』という言葉があるが、私が本願を疑いなく信じているここに摂取の光明に抱かれてあることが味わえる。摂取の光明と言えば何か唯外側から私を包んでいるように聞こえるが、そうではなくて、私の心中に入り込んで、内から私の疑いの闇をはらして下さる、ここに光明の摂取の働きが知らされる。”

 三十年程前に聞いたこの言葉が、今私の脳裡に甦って来ます。誠に疑い深いこの私が、今如来の本願に頷き、お念仏をする我が身の上に、摂取の光明の働きが暖かく感じられてまいります。このことを「摂取心光常照護 已能雖破無明闇」と仰せになりました。

 けれども私が今仏になったと言うのではありません。命終るまで煩悩を一杯持った私でありますから、縁に触れては怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの煩悩が次々起ってまいります。然しそれによって往生についての不安はなく、こんなあさましいやつをお救いの本願と仰いでゆくのです。そうした風光を「すでによく無明の闇を破すといえども貪愛顛憎の雲霧常に真実信心の天に覆えり。たとえば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下明かにして闇無きが如し」と仰せになったのであります。

(二)迷いの道は断ち切られて

 信心の利益の第四番目は、信心いただき、往生は一定(いちじょう)と安心するところに、み仏の願力の働きによって、迷いの道は断ち切られて、はや自分の力で地獄に堕ちようとしても堕ちることの出来ない身に定まった利益であります。

「信を獲れば見て敬い、大いに慶喜すれば」とは、聞法を通して私を救うと働きかけて下さる大悲の呼び声に目覚めたときに、心にみ仏の慈悲を思い浮かべ、敬う心と共に、救われた安心の喜びが恵まれるということであります。ここに迷いの絆は願力不思議の働きによって断ち切られました。この事を先にも挙げましたが、聖人は和讃に

金剛堅固の信心の さだまるときを待ちえてぞ
弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける

と詠われました。そこに帰るべき命のふる里を知らされて、心豊かに生きる生活が恵まれるのであります。

 心豊かに生きるとは、心にゆとりを持って生きることであります。私は最近こんなことをしみじみ思うのです。後何年の命か知るよしもありませんが、たった一度限りの人生を、奇しくも人としての尊い命を恵まれて生きるのですから、残された命を大切にして力一杯心豊かに生き抜きたいと。

 心豊かにとは相手の身になり、或る時には広い心で許し合い、或る時にはやさしい気持ちでいたわり合いながら、美しく生き抜くことでしょう。

 私のお寺の照明(しょうみょう)会の会員の竹下鶴子さんが、こんなことを言われました。

 「先生、私は今まで教職にある主人について県内各地を回っておりましたが、定年になり日置に帰って来ました。日置に帰って来て、本当によかったと思うのです。それはお寺に御縁が結ばれ、聞法する身にならして頂いたからです。そうして私自身の過去を振り返り、現在を見た時に、変わらして頂いたなあとしみじみ思います。それは、人の苦しみ不幸には私の胸が痛み、人の幸せには素直によかったなあと喜ばれる身にさせて頂いたことです。」と。

 この言葉を聞いた時に、思わず素晴らしいなと感じました。私達凡夫は、ややもすれば人の苦しみ不幸を見た時に、口には気の毒になあと言いながら、心の底には何かほっとした気持ちが動かないでしょうか。又、人の幸せ、喜びには口ではよかったですねえと言いながら、心では何か割り切れないねたましい気持ちが動かないでしょうか。お釈迦様は大無量寿経に「心口各違言念無実(しんくかくいごねんむじつ)」と説かれて、心と口とは違い、又言うこと思うことに真実がないと仰せになりました。こうした姿が宿業に生きる悲しき凡夫の生きざまであります。

 そうした中にあっても、人の悲しみに胸が痛み、人の喜びを素直に喜べる、それはみ仏の大悲に触れ、大悲に育てられて自ずと恵まれる心のゆとりであります。

(三)み仏にほめたたえられて

 第五番目の信心の利益はみ仏にほめたたえられる利益であります。

 親鸞聖人はみ仏の教えを通して磨かれた鋭い内省の眼で人間を見つめられた時に、「一切群生海無始よりこのかた、今日今時に至るまで穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」<教行信証・信の巻>即ち生きとし生けるもの、量り知れない遠い古(いにしえ)から今日今の時に至るまで真実の智慧をもたない、無明による我執の煩悩に汚されて、清浄の心もなく、又うそ、いつわりによって真実の心なしと仰せになりました。この姿を更に具体的に「一念多念文意」に

「凡夫というは無明煩悩我らが身にみちみちて欲も多く、いかりはらだち、そねみねたみの心多くひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、消えず絶えず」

とお示しになっておられます。

 この凡夫の姿の上に、親鸞聖人は自己を発見されたのであります。それは聖人の言葉によって窺われます。

「悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証(さと)りに近づくことをたのしまざることを、恥ずべし傷むべし」

と仰せになりました。この意味は親鸞はみ仏の救いのみ手にあり、浄土に生まれる身でありながら、心は愛欲と名利にさまようて、救われた喜びも浄土に近づくことを楽しむ心も起らないとの嘆きの言葉であり、また悲嘆述懐和讃にも

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒(ぞうどく)なるがゆへに 虚仮の行とぞなづけたる

と述べておられます。このように罪深き悲しき凡夫ではありますが、ひとたび如来の本願を信じ念仏喜ぶ身になれば釈迦如来はじめあらゆる仏がほめたたえられるのであります。このことを 一切善悪凡夫人 如来弘誓の願を聞信すれば 仏は広大勝解の者と言えり この人を分陀利華と名づく と讃嘆されたのであります。

 広大勝解の者とは、広大の法をよく理解した勝れた人の意で、それはこの世にありながらこの世を超えた永遠の世界から呼び給うみ仏の呼び声に目覚め頷く人を賞め讃えられた言葉であります。又分陀利華とは印度の言葉で、中国の言葉に訳して白蓮華(びゃくれんげ)と言います。白蓮華は泥の中より咲き出て泥に染まりません。本願に頷く信心の華は煩悩の中に咲き出て煩悩に染まりません。この風光を善導大師は、

「衆生貪瞋(とんじん)煩悩中によく清浄願往生心を生ず」と仰せになりました。お釈迦様は「観経」に念仏する人を「人中の分陀利華」と説かれ、この意を承けて善導大師は「人中の好人・人中の妙好人・人中の上上人・人中の希有人・人中の最勝人」すなわち好(よ)き人・妙なるゆかしい人・この上ない人・まれなる人・最も勝れた人と讃えられたのです。  親鸞聖人は煩悩いっぱい持ったこの身のまま、み仏から賞め讃えられることに無上の感動と感激をおぼえられました。お念仏を喜び、大悲を仰ぎつつ生き抜かれた聖人の胸には、常にこんな思いが流れていたのではないでしょうか。九十九人の目の見えない人に賞められて何が嬉しかろう。九十九人の目の見えない人にそしられて、何がさみしかろう。真実の智慧の眼を開かれた仏様に賞められてこそ人間としての本当の生き甲斐、喜びがあると。

 思うに聖人のこの感激感動は、そのまま今日念仏を喜ぶ私達の感激感動でもあります。煩悩を持った恥ずかしい私ではありますが、その深い内省の上にたって、み仏に賞められている自覚と喜びの中に、いよいよ自らをたしなみつつより美しい、豊かな生活をする。ここにお念仏者の生き方があると申せましょう。誰が詠まれたか次のような歌があります。

おほけなけれど報恩に 心傾けこの村に
み法の蓮咲き匂う 浄土の影を宿さなん

第八章 聞法の姿勢

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

弥陀仏の本願念仏は邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること甚だ以て難し、難の中の難これに過ぎたるはなし 阿弥陀如来の本願による他力念仏のみ教えは、因果の道理を否定する邪見の人々や、うぬぼれの心の強い驕慢の衆生には、信じ受け入れることはなかなかむずかしいのであって、難中の難、これほどむずかしいものはありません。

(一)邪見

 信心の利益をあげてひたすら信心をおすすめになりましたが、お釈迦様の教えに基づいて書かれた依経段(えきょうだん)の結びとして、本願の念仏を頂く心構え、即ち本願に対する姿勢についてお諭しになったのがこの四句のお言葉であります。 本願の救いの前には邪見の心、驕慢の心をはなれて、謙虚にみ教えを仰いで行きなさいとのお諭しであります。邪見とは、世間では血も涙もない非情な人を邪見な人と言いますが、本来仏教に於いてはそうではなくて、正しい因果の道理を否定する考えを邪見と申します。この邪見について二つのことが説かれています。

 一つは断見といって人が死ねばそれでしまいという考えであります。即ち心といっても魂といっても、それは肉体があるうちのことで、肉体が滅びたならば、心も魂も共になくなってしまうという考えであります。その状態はローソクの火が消えたように、又水の泡が消えたようにというのであります。この考え方によりますと、どうせ人間死んだらしまいだから、生きている間に面白おかしく暮らすのが一番賢い方法である。倫理や道徳もそんなことは問題でないという、ただ一瞬一瞬の享楽を追い求める快楽主義におちいって行きます。

お釈迦様が印度に出られた頃、こんな考え方が当時の社会を風靡(ふうび)しておりました。これは当時のバラモン教の極端な苦行主義の反動として起こったものと思われます。けれども単に二千五百年の昔の話でなくて、現代の人々の心を強く支配しているのではないでしょうか。即ち凶悪な犯罪や自殺の増加はこの考えによるものといわねばなりません。

 二つには常見であります。これは断見に対する真反対の考えで、人間死ねば又人間に生まれる、犬や猫が死んだら又犬や猫に生まれ変わってくるという考え方です。それと共に今一つはたとえ肉体は滅んでも霊魂は生きている、という考え方です。この考えも、やはり現代人の心を強く支配しています。よく耳にすることでありますが、どうも不幸や躓(つまずき)が続く、それで占い師に見て貰ったら何代前の祖先の霊がたたっているからと聞かされ、今までお寺に参ったことのない人がお寺に参って供養をあげることがしばしばあります。

 この二つの考えは相反した考えのようでありますが、現代人の心に同時にひそんでいるのではないでしょうか。或る時には人間死ねばしまいだという考えに傾き、或る時には霊魂の存在を信じその支配におびえる。それは共にその奥にひそんでいる死の不安から起るものであります。ドイツのハイデッカーは、不安の哲学を説いて、現代人はどうして落ち着くことが出来ないのであろうか、それは意識するとしないとにかかわらず、死の不安におびやかされているからだと鋭く指摘しています。

 一般に仏教はこの常見<霊魂の存在を認める>の考え方であると誤解している人が大変多いのです。けれどもお釈迦様は、人間死ねばしまいだという考え方も間違いと否定し、又肉体は滅びても霊魂は生きているという考え方も間違いと否定されたのであります。そこに三世にわたる因縁因果の法を説かれたのが仏教であります。ちなみにこの事をもう少し説明しますと、私がここにあり、いろいろの果報を受けていくのは、過去世の業の結果であり、未来の果報は現在なしつつある業によると説かれるのであります。

お釈迦様が、過去世でつくった業<行為>を知りたいならば現在受けている果報を見よ、未来の果報を知りたいならば、現在なしつつある業を反省せよ、と説かれたのはこれによるのであります。即ち今一度申しますと、人が死ねばしまいになるのではなく、又霊魂だけが残るのでもありません。みづからのなした善悪の業によって私が次の世界に生まれ変って行くのです。仏教はこの三世因果の道理をふまえて説かれていますので、断見にしろ常見にしろ、因果の道理を否定する人々には、この法を信じ受け入れられないのは当然であります。

(二)驕慢(きょうまん)驕慢

 驕慢とは一口に言えば自分は立派だと言う自惚れ、たかあがりの心であります。これについては二つ説かれています。一つは増上慢、二つは卑下慢であります。

増上慢とは自分はえらい、何でも解っているという、たかあがりの気持ちです。よく貴方もお寺にお参りしませんかと勧めると、坊さんの話しぐらい解っているからと言う人があります。これが増上慢でありますがこの人達は仏法を聞く考え方が根本的に間違っています。仏法を聞くとは坊さんの話を聞くのではなく、坊さんを通して仏様の教えを聞くことなのです。このことについて昔の方々がお寺のお説教をお取りつぎと言われたのは誠にゆかしい、当を得た言葉であります。

次に卑下慢とは、自分は愚かであり、浅ましいと口には言いながら、浅ましい、愚かと気付いただけ気付かない人々よりましだという気持ちです。浄土真宗のみ教えを聞く人々の中に、こうした誤(あやま)ちに陥る人々が案外多いように思われます。

 私たちはこの点よくよく注意しなければなりません。いずれにしてもたかあがりの心では正しく仏様のみ教えを頂く事は出来ません。

 今から三十年程前私の町の中学に、若い独身の先生がおられました。非常に頭の鋭い方でしたが、私にこんなことを言われました。”私には親鸞の教えは解りません、悪人めあての救いとか、凡夫そのままで救われて行くというようなそんな倫理を無視した教えは到底受け入れられません”と。

 その時私は”貴方は親鸞聖人の教えが解らないと言われますが、貴方は貴方自身が本当に解っていますか。早い話が、同僚の先生があなたより一足先に栄転されたと仮定します。その時貴方は口ではよかったですねと言っても心の内はどうでしょうか。何か妬ましいおぞましい心が動かないでしょうか。そうしたあなた自身の本当の姿が見えない以上、親鸞聖人によって開顕された絶対他力の救いは到底解らないでしょう。”と答えたことがありますが、他力本願の救いとは、邪見の心を離れ、驕慢(きょうまん)の心を捨てて、我が身は悪(あ)しきいたずら者よと、謙虚に法を仰いで行くときに誰の胸にも領解されるのであります。このことについては次の節で今少し詳しく味わってみたいと思います。

(三)心得易い信心

 真宗の布教をする人々の中に、又門徒の中にも、浄土真宗の信心は難しい、難信であると説かれる方があります。この言葉には一面の道理はありますが、これだけの言葉では舌足らずで非常に誤解を生じ易いので不親切な言葉と言わなければなりません。

 浄土真宗はあくまで聖道門自力の難行道に対して、浄土門他力の易行道であるという踏えをしっかりしておかねばなりません。浄土真宗を難信の法と言われる根拠を、「信楽受持することは甚だ以て難し、難中の難これに過ぎたるはなし」の言葉によって主張されますが、その前の言葉を見落としてはならないのです。

邪見驕慢の悪衆生、この人々には、他力の信心を得ることが難しいというのであります。言葉をかえて言えば、邪見と驕慢の心を離れて、謙虚に本願のおいわれを聞くならば、誰の胸にもやさしくはいり込んで下さるのであります。それは阿弥陀如来は法蔵菩薩の修行の時に、保ち易い、称え易い南無阿弥陀仏の名号を案じ出(いだ)し給うたからであります。

 蓮如上人は「あら心得易の安心(あんじん)や、あら往き易の浄土や」と仰せになっておられます。

 そこで問題は、如何に邪見の心を離れるか驕慢の心を捨て去るかにあるのです。我執、自惚れの強い私たち凡夫にとっては、このことが実に難しいと言わねばなりません。ここに難信の理由があるのです。しかしこうした私にも、必ず救うとのみ仏の大悲が働き注がれています。よって私たちは謙虚におみのりを聞いていく聞法の積み重ねの上に、何時しか邪見の心、驕慢の心がお慈悲の中にとかされてゆくのであります。

 もう二十年も前になるでしょうか、毎年の五月二十二日より二十六日までの行信教校の安吾(あんご)<研修会>に参加した時です。午前五時起床午後十時消灯、その間食事の時間を除いて、講義、論議、講演が行われます。夜の講演はおもに学生や先輩がされます。三日目のことかと思いますが、私も大分疲れをおぼえました。晩の講演の案内に来た学生さんに”今晩の講演は誰ですか”と聞きました。”今夜は学生と先輩です”そこで私は学生さんの話ならば、疲れているから休もうかと思いました。が、折角南の果て鹿児島から来ているのだから、と自分に言い聞かせて本堂にまいりました。

その当時、京都大学の文学部長であられた井上智勇博士が、一般の人々に混って数珠をつまぐりながら静かに聞いておられました。私はその時ハッとして頭を打ちのめされた感じがしました。学生さんより少しばかりよけいに勉強したことをつい鼻にかけ、学生さんの話だからたいしたことはなかろうと驕慢の心になっていたのです。井上智勇博士は、あれだけ広く深い学問を身につけながら、高校卒業して僅か三年程、仏教の勉強をした学生さんの話を謙虚に聞いておられる。私は自分のたかあがりの気持ちを恥じました。お話が終わって控え室で井上先生と話をしている時、私はふと”先生ほどの方がよくあの学生さんのお話を聞かれますね”と言いました。すると先生は、
”君何を言っているのだ。僕は学生の話を聞いているのではない。学生さんの口を通して語られる仏の教えを聞いているのだ。”
私はこの時、この先生こそ本当の学者であり、又信仰の人だと新たな尊敬の念が湧いてまいりました。

 私達は少々学んだ学問、身につけた教養、又長く話を聞いて覚えた理屈を鼻にかけて批判的に法話を聞いていないでしょうか。あの坊さん若いけど少々良いことを言うな、あの人はこの頃上手に喋るようになったな、こんな気持ちでお話を聞いていても、それではお話しが身につきません。又それは真の聞法ではありません。己を空しくして静かにみ教えを仰いで行くのです。自分の方に一つのものを持って、批判的に聞いていても、それではみ教えが身につかないことをよくよく知らねばなりません。我が身は悪しきいたずら者と遜って教えを聞かせて頂きましょう。

 そのことを今親鸞聖人は、裏の方から「邪見驕慢の悪衆生は信楽受持する事は甚だもって難し、難中の難これに過ぎたるはなし」と厳しくおさとしになったのであります。

 このおさとしは邪見と驕慢を戒めると共に、もう一つの意味があると先哲は申しておられます。それはこの他力のみ教えこそ最も勝れた最高の法であることを顕わしているのです。その時の「難」の意は、難しいという意味ではなくて「難(かた)い」即ち「有ること難い」という意味で、その辺どこにでもあるという法ではなくして、誠に稀有な、有ること難い、尊い教えであるという意味であります。親鸞聖人は「遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして已(すでに)に聞くことを得たり」と嘆じられました。

 このように尊い教えであるから心を引き締め、身を正して真剣に聞きなさいというおさとしであります。