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親鸞聖人の生命観

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聖典による学び 梯實圓和上

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教行証文類のこころ
親鸞聖人の生命観
ウィキポータル 梯實圓
   「親鸞聖人の生命観」
梯 實圓和上講演 平成二年七月二十九日 

 親鸞聖人の生命観という題でお話をさせて頂く訳でございます、その親鸞聖人の生命観という事でございますが、それをお窺いするのに親鸞聖人の御和讃を中心にしながら味わってみたいと思うのです、親鸞聖人は沢山の御和讃をお作りになっておられますが、その中に「諸経和讃」という和讃があるのでございます。その「諸経和讃」といいますのはいろんなお経の中から阿弥陀様のお徳を讃嘆された、そういう和讃なのです。『涅槃経』というお経がございますが、その『涅槃経』(*)のお心によって和讃をお造りになっているのです。
その和讃とは「

平等心をうるときを、
 一子地となづけたり、
 一子地は仏性なり、
 安養にいたりてさとるべし (*)

」というご和讃です。随分難しい言葉でございまして、これだけを見ておりますと何の事かよく分からないような和讃なのですが、実はこの言葉の中に親鸞聖人だけではなくて仏教全体を貫いております生命観というものが、ここに秘められていると思うのでございます。それで今日はこのお言葉を拠り所としながら仏様は、そして親鸞聖人はどのように“いのち”という問題を考えていらっしゃったのか、受け取っていらっしゃったのか、こういった事を少しお話をさせて頂きたいと思うのでございます。

 先ず最初にこの言葉の意味をザッとお話し申していかねばならないと思うのです「平等心をうるときを」この中の「平等心」とは怨親平等(おんしんびょうどう)の心というのを略して平等心といっているのです。怨親平等と申しますと余計に分からなくなるかもしれませんが、この「怨」というのは怨憎と申しまして恨みと憎しみです。
「親」というのは親愛と申しまして親しみ、愛する事です。ですから「怨親」という事は愛憎の事です。憎いという事と可愛いという事です。愛する者と憎む者という事です、これを怨親という言葉で現しています。私達が生きているという事は誰かを愛し、誰かを憎みながら生きている訳でございますが、この愛と憎しみを平等に見ていく心という事ですから憎い奴と、可愛い者と分け隔てなく同じように見ていくという事でございます。これが平等心という事です。
 それは一体どうゆう事かという事ですが、もっと言い換えれば好きな人と、嫌いな人を平等にというのですから同じ重さで見ていくという事です。この平等の「平」という事は、例えば天秤計りがあるとしますと、この計りの片方に分銅を乗せまして、もう片方に品物を乗せる、そしてこの天秤が水平になった状態、これが「平」です、「平」というのは水平です。水平になった時にはこの両方の重さが等しい訳です。それで平等という訳です。平等という事は両方の重さを全く等しくするという事です。そうしますと「平等心」といった時には憎い者と可愛い者、好きな者と嫌いな者、その憎い者と可愛い者を同じ重さで見ていくという事です。敵と味方、憎むべき者と可愛い者と同じ重さで見ていく、というのが平等心という事ですが、こうゆう事は一体どうして可能なのかという事になります。そこからお話をしていかなければなりません。
 そういう怨親平等といういうな事がどうして可能なのかという事が問題になると思います。そのためには怨親、憎いとか可愛いというのは一体何なのか、好きとか嫌いというのは一体それは何なのかという事から分析していかなければならないだろうと思います。私はよく言うのでございますが、私達はものを考えていく時に、一番簡単には二分類法というのをやるのです。不均等二分類法という言葉で現す人もありますけれども、これは二つにものをパッと分けていくのです。分けていくのですけれども両方均等にでは無くて、分けますときに両方をキチッと価値的に上下の差別をつけるような形で私達はものを分けていきます。どうゆう風に分けていくか一番簡単なのは二分類法です。二つに分けるのです。何かといえば好きな人と嫌いな人です。憎い奴と愛する者でございます。好きと嫌い、愛と憎しみ、こうゆう風にパッと簡単に分けます。二つに分類します。これが二分類法でしょう。そして当然の事でございますが好きな者と嫌いな者とは決して均等ではございません、二つにパッと分けましたけれども好きな者は大切な者だし、嫌いな奴は早く死んでくれという訳ですから、二つに分けても決して均等にはしない、こういうのを不均等二分類法と呼んでいる訳です。
 もう少し詳しく分けますと三分類法をやる訳です。良い人と、悪い人と、どうでもよい人でございます。こうゆう風に三分類法を致します。そして良い人というのは自分にとって都合の良い人でございます。悪い人といいますのは都合の悪い人でございます。そしてどうでもよい人はどうでもよいのですから、お前が生きていようが死んでいようと私の知った事ではないというのです。そうしますと私達は知らず知らずのうちに自分の都合というもを分類(座標軸)の原点と致しまして、自分にとってプラスになるもの、つまり役に立つものです。その人が存在している事が私にとってプラスになるものは「これは良い人だ」といいます。そしてそういう良い人はもちろん愛すべきものです。そういう良い人、或いは良い事柄を好きだという訳です。そして反対にそれが私にとって邪魔になるもの、その邪魔になるものは悪い奴だ、或いは悪い事だと見ます。そういうものは私にとって都合の悪いものですから、そういうものを排除しようとする、そういう感情を憎しみの感情といいます。嫌いな奴だ、こういう風に言う訳でございます。こういう風に位置付けていく訳です。大きく分けると役に立つか役に立たないかでございまして、その役に立たない中に邪魔になる奴とどうでもよい奴とがある訳でございますから、三分類法をしますと良い人と悪い人とどうでもよい人です。このどうでもよい人はどうでもよいのですから、そのどうでもよい人、或いはものに対する感情は冷淡です。どうでもよいというのは公平ではないのです。冷淡なのです。
 私達は中々そう簡単に公平にものを見るという事は、つまり平等にものを見るという事はまず不可能と考えてよいのではないですか?、必ずこうゆう風な形で役に立つか、役に立たないか、役に立たない中で邪魔になるか、それともどうでもよいか、という風に分類致しまして、それに対して愛という感情を起こし、或いは憎しみという感情を覚える。或いは冷淡という態度をとってそれに対して対処していく。そういう形をとっているのでしょう。これが私達が生きている生活の場というのは、こういう風に分節されている、そういう中を生きている訳でございましょう。だから人が死んだからといって必ずしも泣くとは限らない、死ぬという事は悲しい事とは必ずしも考えられない。自分にとって大事な人が、愛すべき人が死んだという事は悲しい事でございますが、憎たらしい奴が死んだという事は嬉しい事でございます。どうでもよい人の死は、これはどうでもよいのですから私にとっては嬉しくも悲しくもございません。ですから同じ一つの死という現象を見ましても、それを悲しい事と受け取るか、それとも嬉しい事として受け取るか、それとも何の感動もなくただそれをスゥーと素通りしてしまうか、という事でしょう。それが私達の実際の姿ではないですか、人の死を見て何時も泣いている訳ではない、道を歩きながら樒が立っている「ああ誰か死んだのだな」それでお仕舞いです。それ以上の事は何とも思わない。それはそうです一々泣いていたら“いのち”が持ちません。それでこうゆう形で私達は自分の都合というものを中心にして、そしてこの愛と憎しみと冷淡という渦巻きを描き出している。そうしますと憎たらしい奴が居るとか、好きな人が居ると私達は言います。しかし好きな人が居るのでは無くて、その人を好きだという、そういう自分の都合がある訳でしょう。嫌いな奴が居るというよりも、その人を嫌いとだという自分の立場があるのでしょう。あいつは嫌らしい奴だ、あんな奴は早く死んでしまえと言いますけれども、言っている本人が死んだ方が早いくケリがつくかもしれません。これは少し誇張した極端な言い方をしますが、大体そんな形をとっているのではないか。そうしますと私達がものを考えていく時には必ずこうゆう風な価値判断をして、その価値判断に従って行動をしているそういう状態を取っている訳です。

 さてこうゆう風に自分の都合を中心にして価値判断し、そして行動していく。こうゆう状態をこれを実は仏教では虚妄分別という言葉で顕わすのです。こうゆうものの分け方を虚妄分別(ビィカルパー)という言葉で顕わします、分別というのは分けて知る。どうゆう風に分けているかといえば自分の都合を中心にして良いだ、悪いだ、どうでもよいという風に分けて、そして認識をし、行動をしている。しかしそれは実は自分の心の影に過ぎない、そんなものは実体としてあるのではないのだという事です。そういうものが実は実体として無いのに実体としてあるかの如く思っているのを虚妄といいます。そういう虚妄分別によって描き出した世界に私達は住んでいる、『華厳経』というお経の中に「三界の虚妄はただ一心の作なり」[1]お前の心の影だよ、良いも、悪いも。済んだも、済まないもお前の心の影だ、自分の心の影に脅えながら、自分の心の影に戯れつきながら、そして自分の心の影に脅かされながら生きている。それが人間の現実だよという、これを虚妄分別と呼んだ訳です。これをこうゆう風に自己中心的な想念、自分中心のものの考え方、それを仏教では無明とか無知という言葉で顕わします。無知というのは何も知らないという事では無いのです。ただ知らないだけではない、知らないのだったらこの机を形作っている木も知らないと思います。私がこの木を叩いても「痛い」と言いません、言っているのかも知れませんが私には聞こえません。とにかくものを余り考えていないだろうと思うのでございます。しかし木は無明であるとは申しません。実は無知というのは誤ったものの考え方をしている事、誤ったものの受け取り方をしている事、つまり虚妄分別を無明とか無知という言葉で顕わしている訳です。仏教というのはこれを突き破ろうというのです。

 お釈迦様という方はこの無明、これを突き破る事によってものの本当の姿、ものの有るが侭の姿を有るが侭に確認していこうとするのでございます。その有るが侭の姿と言うのは、私の好きだ、嫌いだといったような、そんな手垢の付かない、この好きだ嫌いだという心を煩悩という言葉で顕わしております。自分に都合の良いものに対して執着・愛着していく心を貪欲と言い。自分に都合の悪いものに対して排除しよとする憎しみの感情を瞋恚といいます。そしてその根底にあります自分中心のものの考え方を愚癡とか無知・無明と呼ぶのです。これを貪欲・瞋恚・愚癡と申しまして、これを三毒煩悩というような言葉で顕わしております。これを突き破って、そしてものの有るが侭の姿を有るが侭に把握し、有るが侭の姿に溶け込んでいこうという、それが悟りというものなのです。
 これは説明しますと分かるのです。説明しますと皆さんお分かり頂けると思うのですが、ところが分かったからといって、それで今日からスキッとそれでは止めたという訳には中々行かないのが困った事でございます。といいますのは私達はこうゆう自分中心のものの考え方はいけないのだという事を言われたら、直ぐに分かります。それはそうだ自分中心のものの考え方をしたら駄目だ、という事は誰でも分かるのです。分かるけれども成れないと言うのは悲しい事です、これが人間の性なのです。何故かというと私がものを考え行動していく時には自分を中心にして考えずにはおれない、そういう風に出来てしまっているのです。早い話し今私が此処からそちらに居らっしゃる貴方がたにお話をしている、こう申します。この日本語はこれで良いでしょう、「私が今此処から、そちらに居らっしゃる貴方がたにお話をさせて頂いております」というこの日本語はこれで良いでしょう。しかしよく考えたらこれは私と言っているのです。そしてそちらに居らっしゃる方々を貴方がたと私は言ったのです。しかしこれはよく考えてみましたら勝手です、貴方がたなんて一人も居らっしゃらない。みんな一人一人私という方ばかり居らっしゃる。しかもみんなそれぞれ違った歴史を持ち、違った感情を持ち、違った環境に、そして或いは男の人、或いは女の方、或いはお年を召した方、或いはお若い方、一人一人みんな違っている、そういう私という方ばかりいらっしゃる訳です。それを貴方がたという言葉の中へ全部ひっくるめてしまって、そして一人一人の違いというものを全部捨象してしまいまして、そして貴方がたといってしまうのですが本当は実に失礼千万です。そして私を私といっているのです。貴方がたの方から言えば私が貴方です。つまりここでは私が私の前に居らっしゃる方々を貴方がたといいます。そしてここに居らっしゃらない方々を彼等といいます。そうしますと私と貴方がたと彼等、我と汝と彼という風に分節しますが、その原点は何処にあるかといいますと私です。私を中心にして、私自身を私と言い、そして目の前に居らっしゃる方を貴方、或いは貴方がたと言い、此処に居らっしゃらない方々を彼等というのですが、我と汝と彼とを誰が分けたのかと言うと、私が分けたのです。私を中心にして分けたのです。
 そして私が今此処でといいました、此処というのは私の今居る所を此処と言うのです。私の居ない所はあそこなのです。たった今迄居た所も、此方等へ移動すると其処なのです。つまり何時でも私の居る所を此処といいます。つまり此処と言う場所を限定する時の原点は私の居る所を中心にして言ってしまうのです。これは知らず知らずのうちに言ってしまう。そうして私が今此処で、貴方がたにとこう言った時には全部私を中心にした言葉です。こうゆう風に私を中心にした言葉しか使えない、これは実に残念ですけれども私の性格でございます、そして私で無いものは十把一絡げに纏めてしまいます。その私で無いものを十把一絡げに纏めてしまった時には本当は生きている一人一人の現実というものは全部切り捨てられてしまっております。私の心の影に過ぎない。いわば貴方がたは全部私の心の影に過ぎない、貴方がたの存在性を抹殺してしまっているのではないか?。実はものを考える時に殆どそういう考え方をしている。
 ところが道元禅師という方は流石です。道元禅師は自分の事を自己といいますが、他の人の事は他己といいます[2]。こんな言い方をした人は凄い人だなと思います。自己と他己です。私が私というと己なのです。私から言うと他ですが、しかしその人はその人として私といわれる方なのです。それで自己と他己というこうゆう分節の仕方をした、あの人の目の前には我々の見ている自分の心の影に過ぎないような存在と違った何か凄い存在性を持った方々が目の前に見えていたと思うのです。やはり悟りを開いています、道元禅師は。

 そういう事を考えて見ますと「平等心をうる」という事は大変な事なのだという事がお分かり頂けるかと思うのでございます。これが怨親平等の心というのです。実はこの怨親平等の心を開くという事は一体どうゆう事かといいますと、今申しました自分を中心にしてものを考え、そして判断し行動するという、それを一度突き破ってしまった、つまり私が私でなくなってしまった。そういう所がある。その瞬間に私が天地と一枚になるような所が、若し出てきたならば、天地が自らを自覚するような形で自らを見、人を見ていくような、そんな世界が出てきたとしたならば、その時に一木一草に至るまで、この天地の万物が掛け替えの無い尊厳さを以て輝いていくような世界が開けて来る、そういう領域を「一子地」と呼ぶのでございます。これがいわゆる仏様のお悟りの境地という事でございましょう。恐らく私を中心にしてものを考えていくという、その原点が全部突き破られてしまった、そして自分を中心にしてではなく天地が自らを自覚するというような、世界が世界を自覚するような形で自己を見、世界を見る。万物を見る。そういう心、それを中国の方で僧肇(384-414) という方がいらっしゃる。鳩摩羅什三蔵のお弟子で三十幾つで亡くなったといわれる天才でございますが、中国の仏教の歴史はこの僧肇から始まったといわれる位に大変な天才仏教者でございましたが、この僧肇が「天地と我と同根、万物と我と一体」という言葉で以て仏様の境地を顕わしております。いわば万物と我とが一体となって一つに溶け合っていくような、そんな世界があるのだ、それは私が私で無くなった時に天地は我ならざる無しといわれるような領域が開けてくるのだという事をおっしゃっております。確かに仏様のお悟りの境地というのはそういうものだったのでしょう、そういう世界がスウーと開けたのでしょう、でしょうというのは私は未だ言葉で言っているだけでして、それが分かっていたらこんな所に居ません。そういう領域がある訳です。これが怨親平等の心です。そこでは人と自分とが全く一つに溶け合っていく。こんな所があるのです。

 お経の中にはこうゆう世界を説話で説いております。シビ王ジャータカといわれるものがございます。このジャータカというのはお釈迦様の前生譚というのでジャータカというのです。シビ王という大変情け深い王様が居らっしゃった、この王様が山を歩いておられましたら一羽のハトが向こうから飛んできたというのです。飛んできたハトが「救けてくれ」と言いながら王様の懐に飛び込んだと言うのです。見るとハトは傷ついている。それでシビ王は「ああ可哀相に、痛かろう、今治療してやる」とハトを自分の懐に入れて治療してやろうと思っていますと、そこへ一羽のタカがやってきたというのです。そのタカがシビ王に向かって「今此処にハトが飛んできただろう」と言ったというのです。そうすると王様は「確かにやってきた、今此処にいる」そうするとタカは「そのハトだ、そのハトは私が先に見付けたのだ、そして今一撃を加えた、もう遠くへは逃げられないと思って追い掛けてきた、そのハトを私に返してくれ」と言うのです。所有権は私に有るという訳です。王様は「ハトが可哀相だ、この辺りを捜したら死んだ動物の死骸があるだろうから、それを食べなさい」と言ったら。
 そうするとタカは「私は生きた肉、生きた血でないと、私は生きられない、殊に私は何日も食事をしていないのだ、このままだと何時死ぬか、“いのち”絶え絶えになっている。たまたま目の前にハトが現われてきたから飛び掛かったのだけれども、普通だったら逃がしはしないが、飢えていて力がなかったからつい逃がしはした、しかし一撃は加えているから、そんなに遠くには逃げられないと思って追い掛けてきた。今このハトを食べないと私は死ぬのだ、だからそのハトを返してくれ」と言うのです。王様は「そうは言ってもこのハトがお前にみすみす殺される事が分かりながらお前にやる訳にはいかない」というと、タカは「貴方は良い格好をするな、ハトを救けて良い事をしていると思っているかもしれないが、そのハトを救ける事は私を殺す事になる。ハトを救けて私を殺しても良いのか?、それが良い事なのか?」といわれると。それは理屈です。
 ここではハトもタカもみんな話をします。ジャータカではハトでもタカでも猪でも人間と一緒に話をします。私達も子供の時分には話をしたのですが、大人になったら話が通じなくなった、あれは賢くなったのですかアホになったのですか、大人になるという事は、私は鳥とでも、草とでも、木とでも、石コロとでも話が出来る世界というのが本当の世界ではないかなと思うのですが。
 王様とタカが話をしていますと、そうしたら王様は「それはそうだ、お前の言う通りだ、よし分かった、しかしハトをお前に与える訳にもいかない、といってお前を見殺しにする訳にもいかない、それではこのハトの肉と同じだけの私の肉をやるから、それで良いかハトを堪忍してやってくれるか」というとタカは「それは結構だ私はお腹さえ一杯になれば良いのだから、それは結構です。では貴方の肉を下さい」と言ったらシビ王は「分かった」と言って自分の肉を取ろうとするのです。そうしたらタカが「チョット待ってくれ人間という奴はズルイからどんな風に誤魔化すか分からない、ハトと同じだけの肉でなければ私は生きられないのだから」といって天秤ばかりを持ってきて、その片方にハトを載せまして「さあこのハトの肉と同じだけの肉を取ってくれ」といったのです。その通りだと王様はいって自分のお尻の所から足にかけての肉をとりまして、どのように見てもハトよりもズウーと重いと思われる肉を載せた、そしたらハトの方がスウーと上がって肉の方が下がると思った、しかしハトの方が重かったのです。王様の肉がピィーンと上がってしまったのです。そうしたらタカが「それ見ろ、人間はこうゆう事をするから人間は信用出来ない」と言ったのです。それで今度は片足を全部切って載せた、幾ら何でもハトと人間の片足では比較になりません、ところがハトの方がやはり重くて王様の肉の方が軽いのです。その時にタカが「どうしてくれるのだ」と言った時に王様は「分かった」といって自分をこの秤に載せたのです。そうしたらハトとピタッと釣り合いが取れたというのです。そして王様は自分の身体全体をタカに与えた事によってタカとハトとを共に救った、そして自らの“いのち”を断った、そのシビ王が後にお釈迦様になったのだ、というのがこの説話・ジャーヤタカでございます。

 しかし私はこの言葉の中に色々な事が言われていると思うのです。一つはハトの“いのち”もそしてタカの“いのち”も、そして王様の“いのち”も全く平等であるという、“いのち”の重さは全く平等であるという事がここで言われております。肉の重さではない。肉の重さと“いのち”の重さは違うという事でしょう。一羽のハトの“いのち”も王様の“いのち”も全く同じ重さを持っているのだという事をここでいおうとしている。もう一つは人を救うという事は片手間では出来はしないという事でしょう。本当に一人の人を救い切ろうとしたら“いのち”をかけなければ救えないのだ。一人一人に一つの“いのち”をかける以外に救いようがないのだという事をここで顕わそうとされているのでしょう。あの有名な法蔵菩薩が阿弥陀仏にお成りになる時に兆載永劫の間ご修行されたとお経に書かれております。一人のために一つの“いのち”を投げ出すならば、それこそ無量永劫、生まれ変わり死に変わり、生まれ変わり死に変わり限りなく“いのち”を捨て無ければ一切の衆生を救う事は出来なかったという、あのお言葉の中に救いという事の意味、“いのち”の重さという事の意味を此処で語ろうとしている。一羽のハトの“いのち”も王様の“いのち”も全く一つだという所に仏教の一つの生命観というのがあるのではないでしょうか?。

 私達は仏様を尊い方として拝む、仏様とは拝まれる方、私達はその仏様を拝むものと考えていますけれども本当は違うのでしょうね。仏様というのは仏様の“いのち”と私の“いのち”が全く等しいのだよと言って下さるのが仏様なのです。そして仏様は万人を尊いものとして拝んで下さった方なのでしょう。その事を知らされるから私達はあの方を拝まずにおれないのでしょう。私が仏様を拝まずにはおれないというのは、仏様が私を自らと同じ重さでもって私を御覧下さり。そして私を拝んで下さるから私は仏様を拝まずにはおれないという事なのではないでしょうか?。
 この「平等心」という言葉は実はこうゆう世界なのです。憎い可愛い、好きだ嫌いだ、ハトだタカだ人間だ、そんな事を一切越えて、そして一人一人、いや一羽のハトも、一匹の虫も自分と同じ重さで見ていく、そういう心境、そういう境地が開かれた時これを平等心というのだ、その領域を一子地というのだ、というのです。一子地というのはこれは『涅槃経』(*)の当分でございますと、こうゆう領域が心に微かに開けたら初地の悟りの境地、それを一子地というと言われているのですが、全ての生きとし生ける全てのものを掛け替えのない大切な一人子のように見ていく事の出来る心境、これを一子と呼ぶのだ、そういう一子、万人を一人子の如く見ていく事が出来るような境地を一子地というのだといわれております。しかし親鸞聖人は此処で一子地といわれたのは、そういう境地がはっきりと体得された仏様の悟りの境地の事を一子地といわれていると見て良い訳ですが、一子というのは一人子という事です。一人子というのは掛け替えのない大切な子という事でございます。一人一人を、一木一草に至るまで全てを掛け替えのない大切な我が子と見ていく、そういう境地を一子地というのだと言われています。
 これが怨親平等と言われる平等心の境地なのだといわれるのでございます。ここで私は掛け替えのない、独り子というのは本当に親にとっては、我が“いのち”を継いでくれるのは此の子一人となったら本当に自分の“いのち”よりも大切なものとして、その子供を見ていきます。そういう掛け替えのない大切な存在として見ていく、そういう領域を一子地と呼ぶ、実はこの掛け替えのない大切さというものが“いのち”というものの特徴なのではないか、私は此処で「親鸞聖人の生命観」という題でお話しているのでございますけれども、“いのち”という言葉で一体何を顕わそうとしているのかというと、これは大変大きな問題でございます。
 最近は生命科学といわれる、殊に生物学がどんどん進んで参りまして一九五〇年代からいわゆる分子生物学といわれるようなものが大変発達して参りました。ワトソンとかクリックというような方々によって生命現象の基本的な物質である遺伝子の分子構造、二重螺旋構造を持った遺伝子の構造がハッキリとして参りまして、それからドンドン分子生物学、つまり生命現象というものを分子のレベルで把握する事が出来るような、そんな時代がやってきまして、一九七〇年代位からいわゆる遺伝子操作というような事が出来るようになりました。昨日か一昨日の新聞等(平成二年七月二十九日)を見ましても遺伝子レベルでの遺伝病の治療をする事が認められた、ただし生殖細胞には手を付けない、これをやりますと子々孫々までも影響が出ますから、それには手を付けないのだけれども、DNAを操作する事によって今迄は治らないといわれた遺伝病を治していこうという事が新聞に出ておりました。今はそんな時代がやってきている訳でございます。
 そういう遺伝子操作によって随分色々な事が出来るようになりました。そんな事がどんどん進んで参りまして何処まで生命現象に対する研究が進んでいくのか空恐ろしいような状況が出ている訳でございます。しかしそれは生命現象をズウーと分析致しまして、そしてその生命現象を成立させている。その要素をズウーと分析する。そういう要素の分析を通して、そして今申しましたような遺伝子の基本的な構造である、二重螺旋構造を持ったDNAの解明というようなものが行われる、しかしそれをやりますと植物のDNAも人間のDNAも動物のDNAも基本的には同じ構造を持っているという事が分かりました、それでいろんな事ができるようになりまして、例えばインシュリンなどというものを大腸菌に造らせる。人間の膵臓でしか出来なかったインシュリンを大腸菌に造らせるという事も出来るようになりましてバイオテクノロジー等というものが今は随分盛んになっている訳です。こうゆう形で生命現象というものを客観的に分析的に、その生命現象を把握していくという分子生物学、この頃は生命科学という言葉で現わす人もございます。三菱化成に生命科学研究所というのがございまして、横浜の少し郊外の方にございまして、前にも一度よせて頂いた事があるのですが、そこでは生命科学研究所、ライフサイエンスという言葉で現わされておりますけれども、そういう生命現象というものを客観的に分析的に捉えていこうという、そういう生命の把握のしかたというものもある訳でございます。
 そしてこの頃はその生命現象を取り扱う人達の世界は、殊に脳の解明に世界の頭脳が集まっているそうでございます。脳が何処まで脳を知るのか。知るものと知られるものと大分難しい事になってきます。脳が脳を知ろうとしている訳なのですから、その知る脳と知られる脳とのギャップが一体何処で埋められるのか、えらい難しい問題が出てきそうですが、今は生命現象というものをそういう風に客観的に、そして分析的に何処までも、その構造を追及していくという、そういう動きが出ているのでございます。これはこれで大変素晴らしい事だと思います。だけどそれによって“いのち”というものが生命の全てが明らかになるかというと、これは少し無理でございましょう、“いのち”を人は何かと考えている状態自身が“いのち”の働きの一つなのですから、といっている状態、そこに“いのち”というものの根源的な状況というものを見ていきますと“いのち”というものは、実は客観的に分析的に見ていきましたら生命現象を成立させている行動は明らかになっていくでしょう、どんどん明らかになっていくでしょうけれども“いのち”そのものは明らかにはならないと思います。

 “いのち”というものは実はそういう知るもの、知られるものというだけではなく、知られるものを知っている働きそのものが“いのち”なのですから、その知られるものと知るものとが一つであるような状況が命の状況なのですから、知られるものとして抽象化した時には“いのち”そのものは見えてこない。“いのち”の一つの影に過ぎないのではないか、そこで解明されたのは“いのち”の一つの影に過ぎないのではないのか{■■テープ反転■■}ていく時に客観的にそして分析的に把握されていく形の、そこで把握されているものも生命現象の一つに違いはない。その“いのち”を先程少し申しましたが、自分に役に立つか立たないかというような、そんな状況で考えていくレベルもございます。役に立つもの、それを大切なものとし、役に立たないもの、それを詰まらないものとして見ていくという、そういう役に立つか立たないかというような、そういう風なレベルで生命現象を見ている。役に立つ人、役に立たない人、役に立つ動物、役に立たない動物。益虫・害虫という風な言葉で現わしていますが、あれは随分勝手な言い方でございます。
 あの場合も確かに生命現象を見ているけれども私は“いのち”の本質的なものには触れていないと思うのです。そうしますと“いのち”を見ていても“いのち”そのものに触れていない場合とが有るのではないかというので、ひとつ“いのち”を「生命」という字で書いても良いのですけれども、そうでは無くて客観的に把握出来ない、そしてまた分析的に把握する事も出来ない、分析的に把握しようとしたら、そこから擦り抜けてしまう、そこから抜けてしまう、そういう“いのち”そのもの、また役に立つか立たないかという風なそういう自分中心的なものの考え方で把握しようとしたら途端に“いのち”は影を潜めてしまうような、そういう本当の“いのち”というものを、そういうものを顕わすために生命という漢字を“いのち”と平仮名に替えてみようかなと思っています。そこで今ここで“いのち”といいますのは一子地という、あの平等心といわれるような、そういう心でもって捉えられた、そういう智慧でもって捉えられた、その智慧の前に開かれたと言った方が良いでしょう。そういう智慧の前に平等心・怨親平等の心というのはそういう智慧の前に開かれた“いのち”を私“いのち”とこうゆう言葉で捉えてみようと思うのでございます。そこでは今申しました一匹の虫も一本の草も、そして王様の“いのち”も、そこでは全く同じ重さで、而も同じ重さといいましても、詰まらないものとしての重さではなくて無限の尊厳さを以て、その“いのち”が捉えられていくような、そういう“いのち”の世界というものを顕わすために少し言葉を変えまして“いのち”と仮名で一度顕わしてみます。

 少し話が前後しましたが、そういう平等心の領域、怨親平等の心というのはどんな性格を持っているかといいますと、それは今申しましたように万物を掛け替えのない大切な存在として見ていくような、そういう智慧の性格を持っております。しかしこの智慧は万物と我と一体と言われるような智慧、全てのものと一つに溶け合ったそういう万物と我と一体、天地と我と同根といわれるような智慧でございますが、そこではその智慧は一人一人を掛け替えのない大切なものと見ていくような智慧ですので、これを私は大悲の智慧という言葉で顕わしたらどうだろうかと思っております。実は大悲の智慧という言葉は金子大栄先生が何処かでお使いになっておられた言葉でございますけれども、それをチョット使わせて頂きまして単なる智慧、智慧といいましても単に冷たい智慧ではなくて、万物と一つに溶け合って、そして“いのち”と“いのち”が通い合っているような、豊かな“いのち”の通いがあるような、そういう智慧でございます。
 この慈悲の心というのは相手と一枚に溶け合って相手の悲しみを共にし。痛みを共にするような、そういう根源的な一体感というものが、それが大悲という言葉の意味です。インドでは慈悲の悲というのはカルナーという言葉です。カルナーというのは呻き声という言葉から出たのだそうです。私はサンスクリットは詳しくはございませんが、そういう風に書かれてございます。辛い状況のなかで呻き声を出す、その呻く程の辛さを通して、人の呻く辛さが、人の悲しみが分かる、人の痛みが分かる、そういう人の痛みを共感していくような心、共に痛み、共に悲しむ心、それを大悲といいます。そういう相手と一枚になって、相手と一枚になって相手の悲しみ、辛さ、痛みを、それを共に痛むような心、これが大悲でございます。そういう大悲を通して初めてものの本当の姿が、ものの本当の命の姿が、これは分析的ではなくて、総合的に而も万物一体というような、そういう状況の中で捉えられていく、これを大悲の智慧という言葉で顕わしてみようと思っております。余り言葉を勝手に造ってはいけないのでございますけれども、この大悲の智慧によって見いだされている“いのち”の領域を、これを一子地という言葉で顕わした、そこに出てくるのが掛け替えの無い大切さというものだと思います。
 掛け替えが無いと申しましたが、掛け替えの無い、つまり代替不可能、これが“いのち”の大きな特徴、もっとも大きな特徴の一つだと思います。“いのち”というのは先程も申しましたが決して客観的に捉える事の出来ないものだ、捉えようとする事自身が“いのち”の働きのであるような、それが“いのち”ですから“いのち”というものは客観的に捉える事の出来ないものだ、知るものと知られるものと二つに分けて、知るものが知るというような、そういうのではなくて、知るものと知られるものの働きそのものが“いのち”なのですから、そうしますと知られるものとして客観的に把握されたのは、その“いのち”の抽象化でしかないと思うのです。その意味で決して客観化する事が出来ないという事が“いのち”の特徴である。
 それからもう一つは、従って“いのち”は客観的に捉えられないとなりますと、直感するしかない、“いのち”は直感するしかないという意味で、それはまた分析的ではなくて、全体を直感するのですから総合的です、分析的ではなくて総合的にしか捉える事は出来ない。それが“いのち”の特徴だ、そういう事がある訳です。殊にその中で大きな特徴は代替不可能、変わりがきかないというのが“いのち”の特徴でございます。
 私の替わりに二~三日生きてくれるかという訳にはいかない訳です。私は私以外に生きようが無いでしょう私の“いのち”は。これが“いのち”の特徴なのです。替わりがきかないという事です。お医者さんが研究をなさる時にいろんな実験動物を使って色々な検査をしたり、研究をなさいます。ラットを実験に使いまして死んだとしますと、それを解剖しまして何処がどのようになっているかという事を調べて、そしてまた次のラットを使ってどんどん研究されていく訳です、いろんな実験動物を使う訳です。その時の実験動物というのは幾らでも掛け替えがあるのです。掛け替えのある存在です。ところが死んだ一匹のラットは絶対に二度と再び現れてきません。実験動物としては幾らでも掛け替えのあるものでございますが、しかし一匹一匹の動物はもはや二度と再びこの世に出てくる事の無い、そういう“いのち”を生きているものなのでしょう。“いのち”というのはそういう替わりがきかないという所に特徴があります。それに対して替わりがきく代替可能なもの、これは道具でございましょう。道具は替わりがきくのです。先程私は役に立つか立たないかというので判断すると申しましたが、役に立つか立たないかというのは、あれは実は道具です。役に立つものこれは道具なのです。ある目的を達成するために使うための手段です。“いのち”は手段ではない、“いのち”は道具ではない、とすると人を役に立つか立たないかで判断しているというのは、決して“いのち”を見てはしない。確かに生物としての人間を見てはいるでしょう、しかし役に立つか立たないかで見た時は、それは道具を見ているのです。道具は物ですから、これは幾らでも掛け替えはきく訳です。こうゆう同じ生命現象を見ても替わりがきくものとして見た時には、そこでは道具という物なってしまっていて、決して“いのち”では無いという、そんな事が出てくるのではないでしょうか。
 そうしますと道具というのは何かいいますと、役に立つ時は大切にしますが役に立たなくなったら捨てます。役に立たないものが大切な空間を占拠しているという事は邪魔になりますから、だからこれは捨てます。捨てる時は何かといえばゴミです。だから道具は必然的にゴミになる訳でしょう。つまり利用価値で、役に立つか立たないかで判断され、役に立つか立たないかで判断された物は道具であって、そしてそれは役に立たなくなった時にはゴミとして処理されていくものだという事です。これは有機ゴミでしょう。そういう形を取る訳でございます。これで良いのだろうか?。そういう形で例えば人間というものを、私達の一人一人が若しそんな形で捉えられたとしたら嫌です。嫌だという事はそれはその考え方の何処かに欠陥があるという事です。こうゆう考え方自体に欠陥がある、私がそれこそゴミになって終わっていくのだという事を考えた時に不愉快な感じがするという事は、実はそういう考え方自身が“いのち”の本当の姿に相応していない、契っていない、だから不愉快なのだと思うのです。ですから何処かに欠陥がある。その欠陥が何処かというと私が今申しました役に立つか立たないかという事で判断をしていくという、その考え方自身が“いのち”に背いた、“いのち”の本当の姿に背いた考え方であるからだと思うのでございます。
 しかし我々は殆どのものをそれで見ているのではないでしょうか。あの人は大切な人だといった時に、何故かといえば、役に立つからだ、社会のために役に立つからだ、家のために役に立つからだ。或いは私にとって役に立つからだ、というような形で。だから大事なのだと言った時には、それは道具です、そんなものは“いのち”としての尊厳さを見てはしないという事でしょう。前に総理大臣であった中曽根康弘さんにお会いした事があるのです。別に首相官邸に呼ばれた訳ではないのでございまして東京駅でチラッと出会っただけの事でございまして向こうは知らないのでございます。東京駅の八重州口から新幹線に乗ろうと思って駅に入って行きましたら。そうしたら駅の人が「チョット待ってくれ」と止められまして、「何ですか」と言ったら、「時間は取らせませんからチヨット待って下さい」というのです。見ましたら十人くらい止められて「何だろう、何だろう」といっている内に、向こうから一団の人がタ・タ・タと早足でやってきた、その先頭の所に中曽根さんが居ました。向こうは知りませんが此方等はよく知っています。テレビで何時も見ていますから。アア総理大臣が来ているのか、それで止められたのだな思ったのです。見ましたら二人程閣僚を連れまして歩いている。駅員の人が先導している。よく見ますと五人程のボデイガードがグルリを固めているのです。見るからに屈強な方が洋服の前を半分開きまして周囲に注意を払いながらタ・タ・タと一団の人が早足で歩いている。あの方達は早く歩きます、あれはシンドイですよ。それは雑踏の中だから狙われ易いですから早足でいくのでしょうが総理大臣なんてなるものではないな、シンドイだろうなと思いました。マアもっともなってくれとも言いはしませんが。
 成る程現職の総理大臣、それは行政府の長官でございます。日本で一人しか居ない、だから一番大切な人だという訳でボデイガードが固めている訳です。何時でもピストルを取り出して応射するぞという姿勢を示しながらタ・タと歩いている訳です。アア成る程なと思いながら見ていました、しかしあれは中曽根康弘を守っているのか、それとも内閣総理大臣を守っているのかと思ったら、これはマア明らかです。内閣総理大臣を守っているのでして中曽根康弘がたまたま内閣総理大臣であるから守られているだけの事なので、従って彼は内閣総理大臣を止めたらボデイガードは付かなくなるという事でしょう。成る程大切な人だから五人もボデイガードが付いていると思いましたが、あの大切さは掛け替えのない大切さではないです。内閣総理大臣は大切だといっても掛け替えは幾らでもある、有り過ぎて困っているのです。永田町界隈に行きますと総理大臣のなり手は腐るほど有る。そうしますと大切だといっても掛け替えがあるではないか。しかし内閣総理大臣の掛け替えはあるけれども中曽根康弘という方自身の“いのち”の掛け替えは無いです。チョット二~三日私の替わりに生きてくれという訳にもいかないし、私の替わりに死んでくれという訳にもいかない、私の死は私が死ぬ以外に死にようは無いし。私の生は私以外に生きるしか生きようは無いのですから。しかしそうなりますとあのボデイガードの人達も同じではないか、あの警官の一人一人が役割としてはボデイガードとして、時にはまるで弾除けのような形でいらっしゃるけれども、しかし決して盾になるために生まれてきた方は居ないのですから、人の盾になるために生まれてきた人間は居ない、一人一人がその“いのち”掛け替えの無い存在として生きている筈なのです。社会的な役割としては守る者と守られる者とがあるけれども、しかし“いのち”はその社会的な役割とは違った所でキラメイテいるのが“いのち”なのだという事を待たされている暇に任せて考えていたのです。

 私はそう思うのです、私達はそういう社会的に後から付けた役割とか、そんなもので本物が見えなくなっているのではないか、人間が勝手に付けた付加価値によって本来の“いのち”のキラメキが見えなくなっているのではないか、という事をその時にシミジミと思ったのでございます。そうしますと人間の“いのち”の尊厳さというのは役に立つか立たないかでは無いという事でしょう。役に立つのは結構です、役に立たなくて宜しいとは申しません。役に立つ時には立ったら宜しい、しかしそれは第二義的なものです。“いのち”にとっては“いのち”は何の役にも立たなくたって存在しているというだけで無限の意味を持っている、それが“いのち”というものの本来の姿ではないのか、オギャーと産まれて何もせずに、そのまま死んでいった赤ん坊の、そのつかの間の“いのち”に向かっても、素晴らしかったぞ、お前のその“いのち”のキラメキは素晴らしかったぞと言えるような世界があっても良いのではないですか、或いは老人性痴呆症になって、それこそ人格も破壊されたかの如く見えるような、そんな状況のお年よりに対しても、しかしそれでも貴方が生きている事は素晴らしい事ですよと言えるような、そんな心の視野を開いておかないといけないのではないでしょうか?。ただ役に立つから大切なのだ、役に立たなくなったらゴミなのだと見られては、どうもならないと思うのです。
そういう中で私は思うのですが全てを役に立つか立たないか、利用価値だけで判断していく癖が付きますと、人を道具に見るだけではない自分自身も道具に見てしまっている、自分自身もそういう利用価値でしか自分の“いのち”を判断する事が出来なくなってしまっている。そこで“いのち”が見えなくなってしまっている。自分の“いのち”に触れた事の無い人が多すぎるのではないか、本当に生きているという“いのち”のキラメキに触れた事の無い人が多いのではないかと思うのです。だから年がいって病気をして、そしてみんなの迷惑になるという風に考えられるような状況になった時、そんな時に「もう早くお迎えが来てくれれば良いのですが、生きているという事はみんなの邪魔にばかりなる事で何の役にも立ちませんし、といって死ぬ訳にもいきませんし、御院さんどないしたものでしょう」といわれたらかないません。返事のしようがない。「そうですな」とも言えませんし。辛い所です。

 自分で自分を見捨ててどうするのかと思うのです。人に捨てられるのは仕方が無いけれど、自分で自分を見捨ててどうするのか、自分の“いのち”を役に立たなくなったから存在意味が無くなった、存在価値がなくなったというのは、そんなものの考え方はいい加減に止めたらどうかと思うのです。いま申しますように役に立つか立たないかで判断するのではなくて、私が生きているという事そのものが掛け替えのない大切さでもって私の“いのち”というものが此処にあっているのだという事が、それがハッキリと確認されるような“いのち”の領域をどうしても開かねばいけないと思います。その事が一体どうして出来るのかといったら、先程申しましたが、私達はどうしても自分中心のものの考え方で判断していくという癖がついてしまっていますが、それを一度突き破って、そうでは無いのだ、貴方がたの一人一人が掛け替えのない尊厳さを持ち、掛け替えのない大切さを持って、そして仏様の一人子といわれる程の、そういう大切さを以て生きている存在なのだよという事を知らして下さるような、そういう私に存在の意味を呼び覚まして下さるような言葉に触れる事でしょう。この言葉に触れた時に、世界中の人からお前みたいな奴は死んでしまえと言われても、大きなお世話だと言えるような所があるのでしょう。私の存在は如来様によって認められているのだ「一子の如く」と如来様によって私は、私の存在は認められているのだ、そういう中で自分の生きている事の意味を如来様のお言葉の中で確認させて頂くという事、そういう事が私は大切な事ではないかなと思うのです。

 そこに「

平等心をうるときを、
 一子地となづけたり、
 一子地は仏性なり、
 安養にいたりてさとるべし

」ここに「一子地は仏性なり」とこう言われました、この仏性という事は仏様の本性という事です。今日は仏性のお話をしている時間がございませんが、この一子地という境地に於て、全てのものは仏の子として見えてくる。全てのものが仏の子として見えてくる、そういう世界を一子地というのでしょう。「一子地は仏性なり」といわれた時、これが仏様の本性なのだよという事でございます。その「一子地は仏性なり」というのは、その事が明らかになるのがお浄土に生まれさせて頂くという事なのだよという事です。そうするとお浄土に生まれさせて頂くという事はどうゆう事かというと、万物が仏の子としてキラメクような“いのち”を持っている事、それが確認される世界が、それがお浄土なのだという事でしょう。私は残念ながら生きている限り自分の都合で憎いだ、可愛いだ、惜しいだ、欲しいだという、そんな煩悩に振り回されながらしか生きられないけれども、これは実は夢のようなものだ、この私の考え方というのは実は夢のようなものであって、単なる夢ではない悪夢であって本当のものの見方ではないのだ、全ての人が私にとって都合の良い人も、都合の悪い人も実は本来仏様の御子として無限の尊厳さを持って、無限の尊さを持って存在している、そういう人なのだという事が見えてくる。そういう世界が露になっていくのが安養、お浄土に生まれさせて頂くという意味なのだという事なのでしょう。

 私はその意味で死ぬるまで利用価値でものを判断し、そして行動していくような、そこから中々離れられない、しかし離れられないけれども、こうゆう教えを聞かせて頂きますと少しは「ああこれは早まっているのだな、間違った考え方なのだな」という事が少しは分かってくる。あいつは憎たらしい奴だ、早く死んでしまえと思うくらい腹が立つけれども、そんな時にそれはしかし私の勝手なのだ、という事だけは考えておいたら良いのではないでしょうか?。それは私の勝手だ、私にとってお前は大嫌いだけれども、しかし貴方が存在している事は素晴らしい事なのだから、お大事になさいませと。密かに心の中で思う事が有っても良いのではないか、私はどうしても貴方を死ぬまで憎み続けるかもしれないが、しかしこれは浅ましい事なのだ、憎み続けるけれども貴方が生きている事は素晴らしい事なのだからお大事にして下さいませ。しかしこれは口で言ったら駄目です。言ったら嫌味になります。これが凡夫なのです。だからこれは心の中で密かに思うのです。心の中で密かに思うと何処かでフッと吹き切れる所が出てくる。憎い奴だと思った、その憎さはどんどん倍加していきます、憎しみは増幅しますけれども、しかし私にとっては憎い奴だけれども貴方が存在している事は素晴らしい意味を持っているのだと言いますと、何処かでその憎しみはスゥと吹き切れてしまう、そんな事がありまして、そうですね全部は無くなりはしませんが三分位は無くなります。それで腹が立つ「あのがき、こん畜生、腹が立つ、死んでもこの恨みは忘れない」という事を思いますから余計に腹が立つ、だけど死んでも忘れないぞという事だけは言わなくなります。「安養にいたりてさとるべし」という事になりますと、アア今度は怨親平等の境地に到達させて頂くのだなと思いますと「死んだら忘れるぞ」と、私は恐らく生きている間は恨み続けるかも知れないが、死んでまでは持っていかないぞ、死んだらこうゆう感情は無くなる。この憎いとか、ムラムラするような思いは、今度はスキッーと無くなっていくのだなと思いますと、何か途端に心の中にスウーと穴が開く、清々しい風がスウーと心の中に通ってくる。そんな世界があります。
たまにはお浄土を思う事です。お浄土を思うという事はそういう事なのでしょう。怨親平等の境地がやがて私の上に、前に開けてくるのだ、その時はもう誰も憎んだり、呪ったりする事の無い、そんな世界が出てくるのだなと思ったら死んだら忘れるぞと、こう思ったら何処かでスウーとなるのと違いますか?。少し肩の荷が降りるという所があります。

 今日は仏性のお話をする時間がなかったのですが、実はこの「大悲の智慧」というものによって見える世界が「一切衆生悉有仏性」という世界でしょう。みんな仏様の子なのだ、という世界でございます。みんな仏様の子なのだなという所がありますと、その仏様の子をお互いにいじめ合ったり、傷つけ合ったりしている事の浅ましさ、そういう事もシミジミと申し訳なく味あわれてくる、そういう世界が開かれて参ると思うのです。
 話があちらこちらしましたが親鸞聖人は“いのち”というものをどうゆう風な領域で味わっていらっしゃっただろうかなという事を、このご和讃を通してお話させて頂いた訳でございます。失礼致しました。

  「親鸞聖人の生命観」 梯 實圓和上講演 平成二年七月二十九日



  1. 三界虚妄、但是心作(三界は虚妄にしてただこれ一心の作なり。)晋訳『大方広仏華厳経巻第二十五』にある文。
  2. 『正法眼藏』に、「佛道ヲナラフトイフハ。自己ヲナラフナリ。自己ヲナラフトイフハ。自己ヲワスルルナリ。自己ヲワスルルトイフハ。萬法ニ證セラルルナリ。萬法ニ證セラルルトイフハ。自己ノ身心オヨヒ《他己》ノ身心ヲシテ脱落セシムルナリ。」、とある。