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聖典による学び (3)

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聖典による学び 梯實圓和上

聖典による学び_(1)
聖典による学び_(2)
聖典による学び_(3)
聖典による学び_(4)
真仮論の救済論的意義
教行証文類のこころ
親鸞聖人の生命観
ウィキポータル 梯實圓

 先程から「お聖教」とは、私どもの日常的な言葉を超え、概念的思惟を超えた悟りの領域を言葉でもって表現したものであり、それによって人生の帰趣に迷っている人々に、生きることの意味と、方向を明らかにしていく呼び覚ましの言葉であるといいました。その根本はお釈迦さまの御説法です。

 釈尊は、お悟りを開かれてからしばらくの間は、菩提樹の下や、尼連禅河のほとりを散策したり、あるいは瞑想にふけったりしながら、自身が到達した悟りの心境を点検されたといわれています。その時、自分がこうして困難な修行の後にようやく到達した爽やかな悟りの境地を、世俗の欲望の中に埋没しているような人達に説いても、おそらく理解してしてもらえないだろうとおもい、教えを説くのを躊躇されたという有名な話があります。

 仏伝では、その時に梵天(印度の神様)が、釈尊に「お願いだから教えを説いて欲しい」と勧請したので、釈尊はその願いを受け容れて教えを説こうと決心されたといわれています。そして一番最初に教えを説かれた相手が、長い間苦行を共にした五人の修行者達であったといわれています。その場所はベナレスの郊外、サールナートであったから、そこがいわゆる初転法輪の地となったといわれています。それによってコーンダニャをはじめ五人の比丘達が次々と証りを開いていったという有名な話があります。

 悟りを開くということも大変なことですが、その境地に人々を導いていくための教えを説くということは、さらに難しいことであったと思います。その後、随分沢山の経典が説かれてくる訳です、そういった仏陀が説かれたみ教え(経)と、修行者が守らねばならない生活規範(戒律)を、釈尊がおなくなりになったあと、弟子達がまとめたものが『経蔵』と『律蔵』です。さらにそれらの解説書が出来ると、それを『論蔵』と呼び、あわせて経・律・論の三蔵というようになりました。これらが仏教で「お聖教」、あるいは「聖典」といわれるものの一番基礎になっているものです。

 釈尊の説かれた教説は、いわゆる仏説といわれるお経ですが、その経の心を、私達に解り易いように近付け、広く解説して下さったものを「論・釈」といい習わしています。その中でインドに出られた聖者達が説かれたものを「論」と呼び、中国や日本の祖師方がお説きあそばした解釈書を「釈」と呼ぶということはすでに述べたところです。つまり「お聖教」とは、経・論・釈を指すわけです。

 ところで「経」という中にも随分たくさんの種類がありまして、八万四千と呼ばれるほどですが、その中で『無量寿経(『大経』)』二巻と『観無量寿経(『観経』)』一巻と『阿弥陀経(『小経』)』一巻を浄土真宗の法義の拠り所とされています。この三部の経典を浄土三部経と名付けたのは法然聖人でした。浄土に往生して悟りを完成せしめられるという、阿弥陀仏の救いが説かれた三部作の経典ということです。ところが親鸞聖人は三部経の中では特に『大経』が浄土真宗の法義の根本となっている阿弥陀仏の本願と名号のいわれが明確に説かれており、釈尊の本意が開示されているから、真実の経であるといわれました。つまり浄土真宗とは『大経』の宗教であるということを明確にされたのでした。

 そして『観経』と『小経』には表面に説かれている顕説の法義と、隠れたかたちで説かれている隠彰の法義とがあり、顕説は方便の法義が説かれているから方便経である、しかしその隠れた部分に『大経』と同じ真実の法義が説かれているといい、その意味で『観経』も『小経』も浄土真宗の依り所とするといわれています。こうして「それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり」とこういって浄土真宗とは『大無量寿経』の宗教であると確定していかれたのが親鸞聖人の特徴です。ともあれこの『大経』を中心とした浄土三部経、これがいわゆる「経」といわれるもので浄土真宗の依り所とする「お聖教」の根本になる訳です。

 次の「論」はインドの聖者の説かれた聖教ですが、その中で浄土真宗の「聖教」として親鸞聖人が第一に指定されたのは、龍樹菩薩のお書きになった『十住毘婆沙論』、特にその中の「易行品」です。この龍樹菩薩(ナーガルジュナ)という方は、西暦一五〇年頃から二五〇年頃に南インドに出られた方といわれています。第二の釈尊とも、八宗の祖師とも崇められた方で、いろんな「お聖教」を書かれています、先に申しました『中論』というのはこの方の主著でございます。大乗仏教の基礎理論を確立されたものです。これから後の大乗仏教はすべてこの『中論』を出発点としているといわれています。

 その龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の第九の「易行品」というのが浄土真宗の「お聖教」として親鸞聖人によって選定され大切にされる訳です。それは仏道を難行道と易行道とに大別し、浄土教は、易行道であると規定されていたからです。これによって、浄土教理解の基本的な枠組みが定められたのです。

 その次に出られたのが天親菩薩(バスバンズ)です。世親菩薩とも訳されています。親鸞聖人ははじめは旧訳(玄奘以前の翻訳語)の天親という名称を用いておられましたが、晩年には新訳(玄奘以後の訳語)の世親という名称を用いておられます。天親菩薩は、西暦四百年から四百八十年頃、西北インドに生まれ、中インドで活躍された方です。随分沢山の「お聖教」を書かれ、千部の論師といわれた方です。特に兄の無着菩薩とともに瑜伽行派の教学の大成者でございます。『唯識三十頌』或は『唯識二十論』を始めとする随分沢山の「お聖教」をお書きになった方ですが、特にご自身の信仰を述べられたと見られる『浄土論』が、浄土真宗の所依の『論』となっております。『無量寿経優婆提舎願生偈』というのが正確な名前なのです。

 それから中国や日本に出られた多くの浄土教家の中から親鸞聖人は、中国では曇鸞大師と道綽禅師と善導大師の三人を選び取り、日本では源信僧都と源空聖人を祖師として選ばれました。

 曇鸞大師は中国の北部、西暦四七六年に山西省の雁門に生まれ、石壁の玄中寺を中心に活躍し、五四二年におなくなりになっておられます。大師は『往生論註』といわれる、『浄土論』についての極めて独創的な註釈を書かれました。『論註』二巻と呼んでいます。それから『讃阿弥陀仏偈』一巻という、阿弥陀仏とその浄土を讃嘆する讃仏の詩を書かれています。この曇鸞大師がお書きになった『論註』と『讃阿弥陀仏偈』が、浄土真宗の所依の「釈」として親鸞聖人は大切になさった訳です。殊に『論註』二巻は、龍樹菩薩がいわれた難行道とは自力の道であり、易行道とは阿弥陀仏の本願他力の道であるといい、阿弥陀仏の本願力、すなわち他力による凡夫の救済を説くところに阿弥陀仏の浄土教の特質があると教えられた聖教でした。

 なお親鸞聖人の『讃阿弥陀仏偈和讃』四十八首は、この『讃阿弥陀仏偈』を和訳し、今様の形式で讃歌とされたものです。聖典の現代語訳の典型でしょうね。なお、曇鸞大師には『略論安楽浄土義』という書物があります。しかしこれが果たして曇鸞大師のものかであるのかどうかという議論があります。わたしは曇鸞大師のものと見て良かろうと思っているのですが、しかし「お聖教」としては未だ少し問題がありますので、『論註』と『讃阿弥陀仏偈』だけを挙げることになっています。ただ『略論』は次に述べる『安楽集』に影響を及ぼしています、『安楽集』には『略論』から引用した文章があるからです。

 道綽禅師は、五六二年から六四五年にかけて出られる方で、もとは涅槃宗の学者でしたが、曇鸞大師の影響を受けて浄土教に帰依し、その遺跡である玄中寺に住して、『観経』の講釈を幾たびも行い、それをまとめて『安楽集』二巻を著されました。そして、教えは、時代と人の素質にかなったものでなければ実効はないとして、末法の時代に生きる凡夫の救われる道を追求されました。そして仏教を自力聖道門と、他力淨土門に分け、聖道門は今や悟りの道としての実効はない、ただ淨土門だけ悟りに至る開かれた門であるといわれたのでした。

 その道綽禅師の弟子が善導大師です。西暦六一三年から六八一年にかけて出られた方で。隋から唐にかけて活躍され、中国浄土教を大成された方でした。その善導大師が著された聖教は五部九巻が現存しています。ちょうどこのころ、玄奘三蔵がインドへ渡って十七年間大旅行をし、莫大な経論を持って帰ってきて国家事業として大翻訳をやった時代です。その玄奘をめぐって慈恩大師窺基をはじめ天下の秀才が雲霞の如く集まって、大翻訳事業をなさったわけです。

 ところが玄奘も慈恩も阿弥陀仏の浄土教に対して、否定的な態度をり、『観経』に説かれた念仏往生説は、別時意という方便説であって、凡夫が称名をしたくらいで阿弥陀仏の報土に往生することなど決してできないという念仏別時意説を唱えていました。

 それを論破して、そして浄土教の真実性を証明して見せられたのが善導大師の『観経疏』四巻でした。確かに凡夫の罪業を問題にしたならば、往生することは出来ない。しかし阿弥陀仏は、煩悩具足の凡夫を救うために、称名するものを必ず報土に往生させるという本願を建てられているから、本願を信じて念仏するものは、本願力に乗じて、必ず往生することが出来ると主張されたのでした、これを称名正定業説といい、凡夫入報説と呼んでいます。

 親鸞聖人が、「正信偈」で「善導独明仏正意(善導独り仏の正意に明らかなり)」といわれたのはその功績を讃嘆されたものです。この『観経疏』四巻を始め、『法事讃』二巻、『観念法門』一巻、『往生礼讃』一巻、『般舟讃』一巻を著し、教学と儀礼とを大成されたのです。

 善導大師から三百年近く遅れて日本に源信僧都が出られました。西暦九四二年から一〇一七年にかけて出られた方です。比叡山の横川におられましたので横川の僧都とも呼ばれています。ちょうど日本では王朝文化の花が開いたときです。その王朝文化の精神的なリーダーとなったのが源信僧都でした。『往生要集』三巻をお書きになったのは四十三歳のときでした。九八五年です。この『往生要集』がやがて日本人の精神史に非常に深い影響を及ぼす訳ですが、浄土教史の上でも画期的な聖教でした。源信僧都はこのほかにも天台宗関係の沢山の書物を書かれていますが、浄土真宗の依り所とするものとしては、この『往生要集』三巻だけです。

 その源信僧都から百年程遅れまして法然房源空聖人がでられます。一一三三年から一二一二年、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけてです。民族の変貌期です。それはまた価値観の転換期であったとも言えましょう。そうしたなかで法然聖人がでられまして、価値観の転換をなさるわけですが、それが実は浄土宗の独立という形で実現されるわけです。そのことについて今日は詳しいお話をする時間がありませんのでただそれだけをもうしておきます。この法然聖人が独立された浄土宗を親鸞聖人は浄土真宗と名づけられるわけですが、その本体は選択本願であり、その顕現態としての称名念仏でした。先程も申しましたように親鸞聖人はそのことを『高僧和讃』に、

     智慧光のちからより
     本師源空あらはれて
     浄土真宗をひらきつつ
     選択本願のべたまふ

 とおおせられたのでした。

 法然聖人の主著は『選択本願念仏集』という名前ですが、これほど内容を一言で言い表した書物の題名は外にありません。選択とは取捨のことで、一切の自力の諸行を選び捨てて、他力の念仏一行を、万人の往生行として選び取り、お願いだから私の名を称えて、浄土へ生まれてくれよと願われているのが阿弥陀仏であると仰せられたのです。それは従来は、難行ではあるが価値の高い勝れた行であるとみなされていた自力の行を、難行であってしかも念仏に比べたら劣行に過ぎないといい、反対に易行ではあるが劣行であるとみなされていた念仏を、易行であるばかりか、どの行よりも勝れた最勝の行であると位置づけて行かれたのでした。

 南無阿弥陀仏という名号には阿弥陀仏の徳のすべてが篭もっていて、如来そのものであるような勝れた徳があるから、どれほど愚悪なものであろうとも、いただいて称えれば、即座に如来の徳が身に宿され、如来の領域である真実報土に往生せしめられるのだといわれたのです。これによって従来は、仏の救いからも見放されていた庶民大衆に救いの道を開いて行かれたのでした。

 このような法然聖人の教えは、善人であり、賢者であり、勝れた修行者でなければ仏の心にかなわないから、浄土に往生することもかなわないと考えていた当時の仏教学者の常識を破るものでした。それゆえ、学者ほど激しく聖人の浄土教学を非難しました。だから法然聖人は余程自分の心を知ってくれる高弟でなければ『選択本願念佛集』の伝授はされなかったのでした。

 それを親鸞聖人は、まだ入門して僅か四年程しか経たない三十三歳の時に法然聖人から伝授を受けるのです。これは大変なことです。法然聖人という方は余程人を見る眼があった方なのでしょうね。天才のみが天才を知るのでしょうね。それでまだ入門して間の無い若い親鸞聖人に『選択集』を伝授されるわけですが、そればかりか法然聖人の肖像画を写すことを許しておられるます。肖像画というのは禅宗などでは頂相(チンゾウ)といいまして、それを頂くということは、いわば法の後継者として認められたことなのです。正に破格のことです。親鸞聖人が法然聖人を生涯慕い続けるのは、ひとつは自分を知ってくれたのは、この方一人だということもあったとおもいます。

 『教行証文類』は、法然聖人が『選択集』を伝授して下さった、その恩顧に応えて、その師匠のご恩に報いる為に、その教えの真実性を証明されたものであるという一面を持っていました。『教行証文類』の後序に『選択集』の伝授を受け、真影の図画を許されたことを感動をこめて語り、

 年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の微なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。

 と非常に感動を込めた文章で綴ってあります。

 親鸞聖人の『教行証文類』は、『選択集』の真意である浄土真宗を浄土三部経をはじめ、龍樹菩薩以来の高僧方の聖教を拠り所にしながら開顕していかれた聖教だったのです。そこには念仏往生の教えの真実のすがたを顕すのに、教・行・信・証という形で展開し、しかもそれが如来の本願力回向の法であるして体系化し完成されたわけです。これが親鸞聖人の二回向四法という教義体系でした。

 私達はこの親鸞聖人の教えによって浄土真宗という阿弥陀仏の救いにあわせていただくわけです。いいかえれば、親鸞聖人が、三経・七祖の経・論・釈によって大成された浄土真宗の教義体系を仰いでいくわけですから、真宗の聖教というのは、浄土三部経と七祖の聖教であるとともに、それらが真宗の聖教であると確定してくださった親鸞聖人の御著作、『顕浄土真実教行証文類』を始めとする多くの御著作を「お聖教」として仰いでいく訳です。私にとりましては親鸞聖人ご自身が、日本民族の生んだ偉大な仏陀であると、私は思っています。

 親鸞聖人のお書きになったものを拝見していますと、私達にはとても窺い知れないような深淵な世界をシカッと見届けていらっしゃる。そういうことを感じさせます。「悲嘆述懐和讃」に、

   浄土真宗に帰すれども
   真実の心はありがたし
   虚仮不実のわが身にて
   清浄の心もさらになし

 と仰せられています。これは八十六歳頃のお言葉ですが、ああゆう言葉でもって自らを語っていく親鸞聖人、死ぬるまで手の付けようの無い愚かな者だと言い続けて行かれ方でした。

   是非しらず邪正も
  わかぬこのみなり
   小慈小悲もなけれども
   名利に人師をこのむなり

 ともいわれます。何が是であり、何が非であるか全く知りもしないくせに、師匠と言われて良い気になっている。情けない奴だと自分自身を語る人でした。しかしまた、

 自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

 といわれたような、自然法爾のご法語などを拝見していますと、とてつも無い深い世界を、そして広々とした世界を見届けていらっしゃるという事が分かります。こういう親鸞聖人のお書きになったものを全て「お聖教」と我々は頂いている訳です。そして私達が生と死を超えていく道を見定める光と仰いでいく、これが「お聖教」というものです。

 更に親鸞聖人が「ここには素晴らしい真実が説いてありますよ」と私達に紹介して下さった幾つかの書があります。それは三部経以外の経典や、七高僧ではないけれども、聖人が『教行証文類』に引用されている経・論・釈は、少なくともその引用文は真宗の聖教とみなすべきでしょう。さらに法然門下の先輩であった隆寛律師の書かれた『一念多念分別事』や『自力他力事』、律師のものと推定される『後世物語聞書』、あるいは聖覚法印の『唯信鈔』といった書物がそれです。もっとも寛律師の著作といっても全部ではありません。聖人のお眼鏡にかなったものだけです。

 そして更に親鸞聖人の教えを伝えていかれる覚如上人、親鸞聖人から申しますと曾孫にあたる方です。この覚如上人のお書きになられた『口伝鈔』・『改邪鈔』・『執持鈔』、或は親鸞聖人の伝記として書かれた『御伝鈔』、こういった覚如上人の著作、それから覚如上人の長男で存覚上人という方がいらっしゃる、この人の書かれた『浄土真要鈔』だとか『持名鈔』それに『六要鈔』といった書物はやはり「聖教」に準ずるものとして頂いていきます。更に蓮如上人が書かれた『御文章』、こういったものはやはり「お聖教」に準ずるものとして依用していく訳です。それから蓮如上人が、これは真宗の「お聖教」として見て宜しいと、お墨付きなさった『歎異抄』、これもその意味で真宗の「聖教」に準ずると見ていきます。おそらく親鸞聖人の直弟であった唯円房の著作であろうと思いますが、誰が書いたにしても蓮如上人が「当流大事の聖教なり」といわれていますから聖教とみなすべきです。

 それから『安心決定鈔』がございます。これについて蓮如上人が、

 『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。

 とか、「当流の義は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰せられ候ふ」といわれたので、浄土真宗の聖教と見るべきであるというのが本願寺派の学匠達の説です。それに対して「金を掘り出すようなものというのは、金でない部分もあるということだからお聖教とみなすことはできない」というのが大谷派の学匠達の多数意見です。『安心決定鈔』の筆者は解りませんが、西山派の書物でしょう。しかし蓮如上人が用いられたような用い方をすれば真宗の聖教に準ずるということが出来ると思います。なおこの書の初めに「浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり」と書かれていますが、浄土真宗という宗名は、西山系の人もよく用いていますから、この言葉があるからといって直ぐに親鸞聖人系の書物であるとは言えないわけです。

 真宗で「お聖教」と云われるものはどうゆうものを指しているかということを簡単ですが述べました。「お聖教」といわれた以上、生死を超える道を明らかにされたものとして私達は全幅の信頼をおき、「お聖教」に自らの生死をゆだねて行くわけですから、それこそ「いのち」よりも尊いわけです。それだけ大事なものなのですから、「お聖教」の文言があやふやであってはいけません。その意味で聖教としては正確な原典を用い、異本との校異を厳密に行っておかなければなりません。そういう意味で、聖典学が非常に大切になってくるわけです。そしてまた「お聖教」の文言を正確に理解していくための学力も身につけていく必要があります。恣意的な読み方ほど聖教を冒涜する行為はないといえましょう。

 ではその「お聖教」をどのように拝読し、領解すべきかということに触れなければなりませんが、少し休憩します。

  休憩

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