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生かされる世界 一枚法語

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 手足なき 身にしあれど 生かさるる いまの命の 尊かりき  この詩は、岐阜高山の中村久子女史が詠まれたものです。手も足も病気のために失われた不自由な身を通して命の尊さを受けとめ、私の命のなかには、それを支えて生かしめてくださる世界があることを感じておられるのです。  私たちが子供の頃には「一つの米には三体の仏さまがおられる」とよく親から言い聞かされたものです。  岐阜の田舎のご出身で宇野正一さんという方がいらっしゃいました。長年小学校の先生をされ、お辞めになった後は地元の短大の先生をされておりました。  先生が四歳の時は母は二十七歳で亡くなりました。父が養子だったため、先生を連れて実家で過ごすことになります。実家では祖父母によって育てられました。  お祖父さんはとても念仏を喜ばれた方で、先生がいつも聞かされたのは「お母さんに会いたかったらお仏壇にお参りしなさい」、何でもかんでも「仏がござる」でした。そしてお米についても「仏さんがおられるのだから拝んで頂きなさい」と繰り返しお話しされました。  先生は小学三年の時、学校へご飯粒を持って行き、本当に仏さまがおられるのか顕微鏡で覗いてみました。金色に輝く仏さまが見えるかとワクワクして覗き込むと白いゴミのようなものしか見えません。その様子を見ていた担任の先生は笑いながら「君のところのお祖父さんは何も勉強をしていないから、そんな古い迷信を信じているんだ。仏さんはおらんよ。米粒のなかにあるのは炭水化物、脂肪とタンパク質だけで、他には何もないよ」と言ったそうです。  学校先生よりもお祖父さんを信じていた宇野先生は家に帰ってその事をお祖父さんに話すと、今度はお祖父さんが「バカたれめ」と大声で怒鳴りました。  現代の人々は、顕微鏡で覗いて見えなければ、ないと思うかもしれないし、科学で説明出来ないことは否定していきます。しかし、顕微鏡では見えないものが我々の遠い祖先には見えていて、そのことを私たちに教え伝えてくださったのだと思います。  宇野先生の詩を紹介します。      たべものさま    たべものさまに 佛がござる    おがんでたべなされ    大むぎめし しいなもち    まずいまずいと もんくたらたら    そのたびに しかられた    帰命無量寿如来    おじいさん いま頃やっと    おがめました    たべものさまには 仏さまがござりました    おじいさん  仏さまとは私の命にはたらいていてくださる、目には見えない力です。私の命を支えるために、沢山の物の命がはたらき続けておられる世界があったことに気付いたのです。これが仏さまでしたと。  生かされてある命に気付くとき、生かしめておられる総てのものに手を合わせて拝まずにいられなくなるのです。それが生きる喜びであり、感謝そのものです。  合掌