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教行証文類のこころ/第二日目-3

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教行証文類のこころ

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教行証文類のこころ


覈本釈によって親鸞聖人は、本願力の根元は阿弥陀さまの本願にあるんだ、とこういうふうにご覧になるわけです。その事が解って、「浄土論」及び「論註」に説かれている五念門というのは、実は私の「行」である前に、阿弥陀さまのはたらきだったんだ。
阿弥陀さまから本願力をもって回向された行徳であったんだ。こういう事に気づかれたんですね。

そういう視点から「浄土論」と「論註」を読み直してみた。すると我々が普通読むような「浄土論」や「論註」とは一味違った「論註」が見えてくる。昨日申しましたけれでも、写真を、同じ写真を見ているんだけれども、目の焦点の合わせ方が違うと違った風景がその写真の中から浮かび出てくるという、ああいう構造がありますけれども・・。
これは普通の写真を見ても駄目ですが、そういう細工をされた写真の場合ですと、目の焦点の合わせ方によって立体的なものがその写真の中から浮き上がってくる。こういう事がございますが、まるでそのようなかたちで、「浄土論」や「論註」が重層的なかたちで読み込まれていくわけでございます。

そういうとこから、往相廻向/還相廻向という事も、元々願生行者の回向であったのを、親鸞聖人は阿弥陀仏の回向となさいまして、阿弥陀さまが私に本願力をもって往相を回向し、本願力をもって還相を回向して下さるんだ。こういうふうに味わっていかれたんですね。これが、「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相(478)」と言われた事であり、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相(135)」と言われた釈の意味でございます。こういうふうに親鸞聖人のお聖教というものは、深い読み方が施されているという事ですね。

先程、回向ということを言いましたが、この回向ということを中国で非常に深く展開さしたのが浄影寺の慧遠という方ですね。中国では浄土門関係の慧遠というかたが二人いらっしゃいましてね。一人は廬山の慧遠(334-416)という方です。もう一人は浄影寺の慧遠(523-592)という方ですね。時代は相当隔たっています。廬山の慧遠は四世紀の後半から五世紀にかけて中国でいったら南方の揚子江の流域です。もう一人は浄影寺の慧遠。これは大体六世紀の後半に活躍した人です。この浄影寺の慧遠が「大乗義章」というのを著わしています。
この「大乗義章」の中に回向義という一項目があります。この「大乗義章」というのは仏教の仏教事典みたいなものですね。字引じゃないんです、事柄の事典ですね。つまり回向なら回向という法義について、涅槃なら涅槃というあるいは菩提心なら菩提心という法義について詳しく述べていく、そういうものでございます。善導大師より少し前、道綽禅師より少し先輩の人ですね。

その浄影寺の慧遠が、回向という中に三種の回向ということを言われる。一つは菩提回向、もう一つは衆生回向、そしてもう一つは実際回向ですね。この三種回向というものがあります。もともと回向ということは方向転換する事です。方向を変える事ですね。
どういうことかと言いますと、行業、行というのは行いということですね。その行いをどういう意味を持たせるかという事です。行いに意味を持たせることですね。その意味を持たせることによって行いの意味が転換します。

例えば同じ勉強をしましても、やってることは同じだけれども、目的によって意味は随分変わってきます。英語なら英語を勉強するということでも、お医者さんになる人が英語を勉強する場合にはですね。文献を読み、あるいは英語圏に行って研究をするのに差し支えのないように、医学の為に勉強する事もあるでしょう。あるいは通訳になる為に勉強する人もあるでしょう。英文学を研究するために勉強する人もあるでしょう。あるいは外交官になるために英語を勉強する人もあるでしょう。あらゆる技術を学ぶために勉強する人もあるでしょう。やってるのは同じ勉強ですけれども、そこから意味が、その勉強に意味づけがされます。学問が一つの方向に統一されていきます。

学んだこと、修行したことに意味と方向を与えていく。その事が回向ということなんです。だからあらゆる修行を菩提に。菩提というのは智慧です。智慧の完成に向かってあらゆる修行を集中していく。これを菩提回向とよぶわけですね。だけど菩提というのは覚りの智慧ですが、自分だけ覚りを開けばいいという事じゃなしに、覚りを開いてどうするのかといったら、一切の衆生を覚らせる為の覚りを開くんですから。そうしますと、覚りを開くというそのままが、一切の衆生を教育し一切の衆生を教化していく、そういう方向を持つことになります。これを衆生回向と言うわけです。だから菩提回向がそのまま衆生回向でもあるような、そういうものが仏道修行というものだ。この菩提回向のことを「自利」、衆生回向のことを「利他」ということですね。それに対して実際回向というのは、実際というのは涅槃のことです。煩悩が寂滅した、煩悩がきれいに消えた涅槃の安らかな覚りの境地を、実際と申します。実際ということはニルバーナ(nirvāņa 涅槃)の事ですね。

ですから、あらゆる修行は、煩悩の寂滅というものを目指しております。例えば修行をして超能力が身についた。それでその超能力をもって金儲けをしようというのがおりますと、これはまさに邪道に陥るわけですね。名利の為、勝他の為に修行したのは、たとえ仏道修行していても、それは地獄道に墜ちる、といわれるのはそういうことですね。それは方向が変わってしまう、意味が変わってしまう。

お医者さんもそうでしょ、お医者さんというのは長いですね。大学でも普通の大学よりも医学部は長いですからね。さらに国家試験があって、その上実地でも長く研修医として技術と知識を身につけて、実際の患者を診て治療してくださる。それがお医者さんですね。そのお医者さんがそれだけ長い期間をかけて修行した、その修行というのはやはり患者の病気を治し、そして患者の苦しみに寄り添うていく。そういう力をつける為ですわな。

あの怪我でもね。大きな怪我でもしているのを見たら、私ら手の付けようがないから目を背けますよ。見とられへんですな。
あれお医者さんは、目を背けませんで。どんな恐ろしい怪我しとったかって、外科のお医者さんはそれをしかっと見据えますな。見据えるのは治す自信があるからですね。その場合は病気を、きちっと見据えないかんですわな。そしてちゃんと治療して治してくれる。これはまことにありがたいですね。普通の人間なら目を逸らさにゃならんところでも、それを見据えながら手術をしてくださる。これは非常にありがたい。そうして人々の苦しみや悲しみを救うてくれる。これはお医者さんの医は仁術というのはここから出るんでしょうな。(仁)
ところが場合によっては、中には薬漬けにして金儲けしよというのが、これは医は算術になってしまいまして、やっぱり困るということになりますね。名利の為に、学問と技術を回向しますと、とんでもないことになるわけですね。
しかし、それを病人の為に回向しますと、素晴らしいお仕事になるという事ですね。ですから一つの仕事をどっちの方向へ向けていくか、方向を転換して尊い意味に向かって意義のある仕事を意味づけていく。これを回向とよぶわけです。

昔から、「行は願によって転ず」[1]と言いますね。行は願によって転ず、どういう願いを持つか、ということによって、その行の意味が変わってくる。回向というのはそういう事です。ですから、この場合には覚りに向かって一切の修行を覚りに向かって歩む。しかしその覚りに向かうということが一切の衆生と共に、一切衆生と共にというところで、人々と連帯しながら人々を教育し、人々を正しい方向に共に向かっていくという衆生回向がある。そして、それによって自他ともに煩悩寂滅した涅槃を開いていく。そういう方向性というものが出てきます。これを三種回向とよぶわけです。
今、この中で阿弥陀さまの本願力回向というものは、衆生回向を中心としたものですね。三種回向というものは離れることはありませんけれども、中心は、本願力回向と言う場合の中心は、衆生回向を中心にして統合しておるという、回向であるわけですね。

さて、その本願力の回向に二種の相があって、一つには往相、二つには還相だと言われる。往相というのは往生浄土の相状、これを省略した言葉とみていいでしょうね。
往・相ですね。浄土へ往生するありさま。相状というのはありさまという意味です。そうしますと浄土へ往生するありさまということは、私達の人生を浄土へ向かったものとして。
我々の人生を浄土へ向かったものとして転換していく。その仏様のはたらき、どういうかたちで私の上に、どういうありさまで私の上に顕われてくるか。それは教・行・信・証というかたちで現われてくるんだというので、「往相の回向について真実の教行信証あり」(135) と、こういうふうに(親鸞聖人が)言われるわけですね。教行信証というのはこの往相のありさまでございます。

「教」というのは。もっと詳しいことは後ほど申しますけど、教というのは、おしえですけども、教えというのは昔から教諭(ぎょうゆ)の義といわれます。言葉の意味としては教諭、教え諭すという事ですね。師匠が弟子に学問や技術とかいうものを教えて、そしてその学問や技術を身に付けさせる。そういう事を教えるというんですが、この教えの中に二種類ありまして、「教説」と「教法」とがあります。教説というのは言葉です。教えの言葉です。
教法というのは、その言葉によって表現される法義内容のことです。だから「教」といっても教法の事を意味しているのか教説のことを意味しているのか、前後の文脈によって読み分けねばなりません。

(それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり)

今ここでいわれる真実の教というのは、実は教説のことです。教法のほうは、教・行・信・証が教法なんです。つまり教説の方はこれは能詮(のうせん)といいますね。よく法義を詮顕する言葉、能詮の言教(ごんきょう)。こんな言葉で昔は能詮の言教といいます。要するに言葉ですね。
その言葉が、教法を顕わしている、これを所詮(しょせん)の法義と言います。詮というのはあらわすという事ですから、よくあらわす言葉(能詮)、表わされる法義(所詮)。これを能詮の言教、所詮の法義と言います。
そこで今、「教」と言っているのは、能詮の言教ですね。ですからこれは教えの言葉です。行・信・証が所詮の法義です。この教にあらわされている内容を、行・信・証と親鸞聖人はここで表わしていくんですが、これが所詮の法義ですね。

例えば、行の事を教という言葉であらわされる場合があります。行文類の中に、一乗海釈というのがありまして、「教について念仏諸善比挍対論するに(199)」とこういってね。
念仏と諸善を比較して対論して、そして四十八の対論を行なっていく。最後に本願一乗の法は絶対不二の教であると結論づけていかれます。この場合の教は教法です。それは行の事です。法のことを「教」という言葉で表してありますね。ですから教といっても「念仏諸善比挍対論するに」と、こういっているときは念仏のことを教と仰っているとこういうことです。
念仏がなんで教なんだというと、念仏は教法なんです、法なんですね。我々がそれによって生きていく生き方をあらわしたものなんですね、行です。
信というのはそれを受け容れる、疑いなく受け容れる機のあり方をあらわしていますから機受と言います。「機について対論するに」と信疑対というふうに十二対がず~っと出されていきますね。そして、「金剛の信心は絶対不二の機」である、信心は絶対不二の機だという言葉で表わされていますね。念仏が絶対不二の教であるように、信心は絶対不二の機であるというてはりますが、あの時の教と機という場合の教は教法の事であって教説の事じゃないわけですね。ですから文脈によって言葉を読み分けなければ仕方がないですね。

さ、そうしまして、教という言葉そのものは教え諭すという事です。その、教え諭す言葉と教え諭す法とがありますが、いまは言葉の方であって、大無量寿経これなり、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」、と言われております。

ただその教なんですけど、その法を表わす教というものをね、説けるのは一体誰かということになりますね。これは教の分斉といいましてね、この教という言葉は誰の上で使えるか、ということが問題になります。
これは天台大師が「法華玄義」という書物をお書きになりますが、その天台大師の「法華玄義」の中に、教というは聖人、しもにかむらしめる言葉なり、ということを仰っていますね。
聖者(しょうじゃ)が下にかむらしめるというんですから、聖者というのは覚りを開いた方です。覚りの境地に到達された方が、未だ覚っていない迷うている者にかむらしめる言葉、それを教と言うんだといわれてますね。だから教というのは聖者でなければ説けない、というのが教なんです。仏教でいう教は、誰が言っても教といえるんじゃない。聖者でなければ説けないという枠にはまっているということです。聖者というのは、覚りの智慧を開いた方です。

昨日ちょっと言いましたが、聖者と凡夫は違う。きちっと分けます。凡夫というのは畏怖心のさらぬ者、びくびくしながら暮らしている者を凡夫と名付けるんですが、これは正しい道理が判っていない者。正しい道理が身に付いてない者、完全に身に付いていない者、頭でわかっていても身に付いていない者。だからいろんな面でびくびくしながら癇(かん)立てながら生きている[2]、これが凡夫ちゅうんですな。まぁ凡夫は説明せんでもだいたい判るんです(笑)。
聖者の方はわからん。これは覚りの智慧を開いた御方、そして一切のとらわれを離れている。それが聖者。一般の仏教で申しますと初地以上の菩薩、これが聖者。完全な聖者は仏様です。しかし完全ではないけれども覚りの智慧の目を開いていらっしゃる方々は沢山いらっしゃる、これは聖者といわれます。この聖者になりますと法が説ける。聖人、しもにかむらしめる言葉なりです。
これはお釈迦さまなんかやっぱりそうなんでしょうね。お釈迦さまよく仰ってますがね。私が法を説くのは丁度手のひらの中・・・・

(テープ切れ。多分、「掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし」の例だと思う。まるで手のひらの上の果物を見るように、ハッキリと明らかに法を説くという事かな? 真巻356を参照)

それはねぇ、覚った人が説く言葉というのは全然響きが違うんですな。そやから「論註」の中にも「羅漢を一聴に証し」という言葉がありますが、もう一言聴いただけで阿羅漢の覚りをぱっと開くようなね。それはよっぽどすぐれた人ですけどね、お釈迦さまの説法を聴いただけで覚りを開くような、そういう人もいたんですね。
そういやそうですな。お釈迦さまが最初説法をなさった時、五人の比丘達の中でコンダンニャ(解了の義 大経では了本際)という方がいますが、アンニャ・コンダンニャ、阿若多憍陳那。あの方はお釈迦さまの説法を聞いて、解ったということで最初覚りを開きますよ。そこでコンダンニャが解ってくれた、コンダンニャが解ってくれたというのでお釈迦さま大変喜ばれたという事があります。
そこから、アンニャ・コンダンニャ[3]という言葉が始まったといわれていますが、あの人なんか、一ぺんお釈迦さまの説法聞いただけでぱっと解ったという。

あなた方もなんでしょうなぁ。私が覚りを開いていたらぱ~っと解るんでしょうが、申し訳ありません(笑)。こらまあしゃあないですね、受売りやから。受売りとほんまもんは違いまっせ。言葉の響きが違う、だからぱっと心の一番深いとこへ入っていくんですな。そういうものがあるんですよ。聖者というのはそういう真理を目の当りに体得した人ですね。ですから真実を非常に的確に説く事が出来る、こういう人が聖者といわれる。この聖者が説く言葉を、これを「教」というんだ。

そうすると凡夫は教を説く資格がないんだなぁこれは。お説教ちゅうけどどやろ。あっ、これ心配せんでも、御開山は『教行証文類』見ますと、三種類「教」の主体を、教を説ける人を、挙げておられます。一つはお釈迦さまです。これは教文類の教がそうですね。
「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と、お釈迦さまがお説きになった「大無量寿経」を教と仰っているんですから、お釈迦さまの教ですね。
もう一つは阿弥陀さまの教がありますね。あの六字釈(170)のなかにね、帰命の帰と命の釈があります。あれは全体は南無阿弥陀仏の釈です。六字釈全体が阿弥陀さまの本願招喚の勅命。その本願招喚の勅命という言葉を出していくのに、命の字の訓がありますね。
「命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と八つ出してあります。あの中に教なりとありますが、あれは阿弥陀さまの教ですね。で、これを押さえて「本願招喚の勅命なり」というのを出してくるんですから、あの教は阿弥陀様の教です。
もう一つはね。自信教人信の教ですわ、自ら信じ人をして信ぜしむる。あれ普通は人をして信ぜしむると訓むんですけど、親鸞聖人は、人を教えて信ぜしむると、教の字を教えると訓んでらっしゃるんです。あれ普通は漢文では、教は教えると訓まないで、人をして信ぜしむと訓むんですがね(教ー使役)、自信教人信というのはね。けど、御開山はハッキリと、人を教えて信ぜしむると仰ってますから。ということはこれは念仏者ですね。自ら本願を信ずる人は教を説くことが出来るんでしょうな。

そうすると教の主体は、釈迦、弥陀、念仏者の三者になります。ただし、念仏者は阿弥陀さまの仰せを、お釈迦さまのみ教えを正確に頂いて、そして頂いたとおりを正確にお伝えをするときに教というのであって、私の計らいを雑えたらそれは教ではありません。ただの邪教になる。私の計らいを雑えずに釈迦・弥陀二尊、さらにいえば祖師のお言葉を正確にお伝えする時に教と言えるんですね。

さて、もう時間がきましたが、このお聖教という場合もね、やはり聖者の言葉としなければならんでしょうね。じゃ聖教って何なんだというと、これは随分難しい問題があるんですね。浄土真宗では基本的には御開山ですね。御開山が聖教と認めて下さったものを聖教とするということが基本でしょうね。御開山はどうなんかと言いますと、御開山はやはり無漏智を開いている。そりゃあ無漏の智慧を持っていらっしゃる。これは普通じゃないですね、昨日申しましたけど並の人ではございません。
私は愚かな者で何も判りませんと仰いますけどね。「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」(832)と言われますがね。総じてもつて存知せざるなりとずばっと言い切れる人ってのは、解ってるとこがあるから言えますねんで。だいたい判ってるか分かってないか解かってないんや(笑)。それで判らんくせに解ったような顔しているか、分かったか分からんかどっちかや。ワカランと言い切ってしまう人ってのはねぇ、喨々として開いた一隻眼があるんですよ。御開山ていうのは凄い眼を開いてらっしゃいますね。

だから御開山が見抜いていかれたお聖教を辿っていきますと、やはり凄い世界が開けてきますからね。そして、御開山が選定された七人の高僧方。しかし七人の高僧方といいますが真宗のお聖教というのは何でもかんでもいいちゅうもんじゃない。御開山が定められたものだけですわ。例えば源信僧都といっても、「往生要集」だけですよ。「一乗要訣」であるとか、そういったのは真宗のお聖教とはしません。やっぱり御開山がちゃんと定めて下さったものが我々が辿る一番の目途ですね。
真宗の聖教の選定というのは相当に難しい問題がありましてね。

一応、今日はここで終わりまして行・信・証、そして教の内容について、もう少しお話せんならんことがありますので、お昼から又もう少し教の内容、行の内容等についてもお話させて頂きたいと思います。どうも失礼いたしました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)

脚注


  1. 行は願によって転ず。『往生要集』に「業は願によりて転ず。ゆゑに随願往生といふ」p.1031 という語があるので、林遊の聞き間違いかもしれない。ただ業には行為という意味もあるので行でもOKか。
  2. 癇立てる。多分東日本では意味が判らないだろうが「癇にさわる」や「癪にさわる」などの意味。二つ合わせると癇癪(かんしゃく)になる(笑
  3. 釈尊がお覚りになってから、鹿野苑に赴いて初めて5人の修行者に法を説いた。この時に、コンダンニャは5人の中で仏の教えを一番最初によく理解したので、釈尊が、阿若(アニャー、意味:よく了解した!)と言われて称賛され、この名がついた。