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「教行証文類のこころ/第二日目-2」の版間の差分

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利他というのは自を省略している。他を利するんですから、仏(自)が他である衆生を利益する、ということ。
 
利他というのは自を省略している。他を利するんですから、仏(自)が他である衆生を利益する、ということ。
  
(ここは板書で丁寧にご説明下さったのだが、林遊はノートを取らないし、文字でどうやって表現していいのか判らないので少し略。なお和上の多利利他についての論文の一部は[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BB%96%E5%8A%9B 『親鸞聖入の他力観』]を参照)
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(ここは板書で丁寧にご説明下さったのだが、林遊はノートを取らないし、文字でどうやって表現していいのか判らないので少し略。なお和上の他利利他についての論文の一部は[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BB%96%E5%8A%9B 『親鸞聖入の他力観』]を参照)
  
 
そうしますと、仏が衆生を利益することを、衆生の側から言えば、他者が私(自)を利益するということになりますから、他利と、こういうことになります。<br />
 
そうしますと、仏が衆生を利益することを、衆生の側から言えば、他者が私(自)を利益するということになりますから、他利と、こういうことになります。<br />

2018年7月13日 (金) 02:02時点における版

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お話を続けさして頂きます。

本願力回向という言葉、そして往相(おうそう)回向/還相(げんそう)回向という言葉いずれも、これ本願力回向という言葉は天親菩薩の「「浄土論」」の中にもありますし、往相回向・還相回向という言葉は曇鸞大師の「往生論註」の中にある言葉、それを親鸞聖人は引いてこられた訳でございます。
ところが「「浄土論」とか「論註」ですね、本願力回向という言葉を使われる場合にですね。
殊に回向門で仰る場合に・・。回向、これは利他回向の事でございまして、先程言いました自分が獲得した知識、あるいは智慧を以て人々を導いて行く事を回向と言うんです。
ですから、回向ということは教育という事だとみてもらったらいいですね。
ただ神秘的な、何か訳の判らない回向と言うんじゃなくてね、正確に正しい道理を人々に知らせて、人々を正しい方向に育て導いていく。そういうことを回向という言葉で、利他回向という言葉で表わしているわけです。もっとも回向という言葉には後でまた申しますけども、三種類の回向がありまして、菩提回向、そして衆生回向、実際回向という回向に三種類の回向がありますけれども、今言っているのは衆生回向の意味なんです。ここの回向門は衆生回向の意味で、人々に自分の獲得した智慧を与えていくことですね。そして人々を目覚めさせていくこと、それが回向なんです。
この今、回向門は、作願・観察によって獲得した智慧ですね。これは浄土を観(み)る、浄土を正確に観察する。浄土を正確に観察することによって、真実の有り様というのは何であるかということを知る。
そうすると、自分の生き方の間違いが解る、人々の生き方の間違いも解る。そこで自らを正し、人々を正していく。そして人々をまず正しい方向に導いていこうというので、浄土に往生しよう、と人々に伝えていくことを回向と言うわけです。これを往相回向とよんだんですね。これを往相回向と言う。

往相回向と言うのは、これは浄土に往生しながら人々に回向すること、という意味なんです。これは「論註」の意味ですよ。「論註」はね。往相というのは浄土に往生するすがた(相)。だから、浄土に往生しながら人々を教化していく事ですから。だから一緒にお浄土へ生まれさせて頂きましょうと、人々を誘うていくことを往相回向というんです。

その往相の回向によって、大悲心を成就しようと願うことだと言われておりますね。
この「浄土論」及び「論註」の読み方はですね、御開山は独特の訓(よ)み方をしてらっしゃるので、普通の訓み方、漢文の普通の訓み方で読んでいくと、「浄土論」もしくは「論註」の考え方というものはよく判ってきます。[1]

最近ですね、龍谷大学の教授の相馬先生という方が、「論註」の講義を、薄いものですけども、「論註」の講読書を出された。これは中心は曇鸞大師の「論註」というものを、したがって「浄土論」もその中に全文引いてありますから、「浄土論」、及び「論註」を普通の漢文の読み方で訓んだらどう読めるか、ということを書いておられます。非常に参考になりますから機会があったらお読みになったらいいと思います。

ただ、親鸞聖人は、全く違った訓みかたをされるんです。これは昨日から申しておりますように、これは普通の人間が出来る事じゃない。御開山だから出来る独特の訓み方をなさいます。それはどういうようにしたらそう訓めるかということは、「論註」理解の親鸞聖人の結論なんですが、またそれは後に時間があったらお話ししますが・・・。

とにかく浄土に往生しながら、人々を救済しようとするのを往相回向と言うんですね。そして浄土に往生しますと、この礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五念門の修行をすることによって、自利と利他。これが自利ですね。止観によって自利が完成する。そして回向門によって、往相回向によって、利他行が完成する。この自利と利他というのを行ずることによって、浄土に往生することが出来るようになるんだ、と言っているんですね。

「論註」にはですね。お浄土というのはね、遊びに行くところじゃないんだぞ、とこう言われてます。随分厳しい言葉で言われていますね。
浄土は受楽無間である。ひま無く楽しみを受ける世界だから浄土へ生まれたいと思う者には浄土へ生まれることが出来ない、とこう曇鸞大師は、はっきり仰っています。ただ菩提心を発す者のみが浄土へ生まれることが出来る、とこう言われていますね。
(若し人、無上菩提心を発さずして、但彼の国土の楽を受くること間無きを聞きて、楽の為の故に生ずることを願ずるは、亦当に往生を得ざるべし。(144))

何故かと言ったら、浄土は自利利他円満の覚りの境地なんだ。その覚りの境地に生まれようとする者は、その覚りの境地にふさわしい自利利他の心、菩提心を発さなけりゃならない。菩提心といったらすごく難しいようだけれど、先程私が言いましたように、浄土を正確に知りますと、真実が何であるかということが解る。
浄土というのは真実功徳相と言われるように、浄土とは真実の世界なんですね。
だから浄土を知ることによって真実とは何かということが判る。それと同時に真実に背いている自分が判る。真実に背いている自分が判るから浅ましい事であるということが判る。その浅ましい事だということを知ったら、真実の方に向かっていこうするそういう心の方向性が生まれる。それを菩提心というんだと言うんですね。これを菩提心という、菩提を願う心ですから、真実を願う心ですから、それを菩提心と言うんだ。
その真実を目指す心、菩提心、それ無けりゃ浄土の世界は開けない。浄土というのは遊びに行くとこと違うんだ、と曇鸞大師は仰る。三泊四日で遊びに行こうちゅうのとはだいぶ違うんだとこういうわけですね(笑)。

そういうことで浄土にふれたものは、真実を知る智慧が生まれる。先ほど言いましたが智慧が生まれたらね、賢こうなるんと違うんですよ。愚かさを知ることですよ。これだけは、はっきり知っておいた方がいいでしょうね。智慧が生まれたら賢うなると言うのは知識の間違いです。智慧が生まれたら懺悔が出てくるんです、慚愧が生まれるんです。その慚愧と懺悔がないところには智慧はありません。ですから知識と智慧は全然違う。
その事を知らないと、仏教ははなから判らなくなってしまうんですね。そこからもろともに浄土を目指そうという心が起きてきまして、さあ一緒にお浄土へ参りましょうね、とこう言うて人々をお浄土へ誘うていくのを往相回向というんだ。
だから回向する主体は、往相回向の主体は行者ですね、浄土を願生する行者です。
そして、その浄土を願生する行者が、浄土に往生いたしますと、礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五念門に応じて、そして、近門、大会衆門、そして宅門、屋門、そして園林(おんりん)遊戯地門(ゆげじもん)という、五功徳門を完成する。あるいは五果門とも言ってもいいですが、五功徳門を完成する。
近門、大会衆門、宅門、屋門、これが自利と利他。その園林遊戯地門のことを還相回向とよんだわけです。
そして八地以上の菩薩になって、八地以上の菩薩になったら無功用地と言いましてね、あれを助けてやろう、これをどうしてやろうと考えなくったってね、自然と苦しみ悩む人々を救うていくはたらきが出てくるわけですね。「阿修羅の琴の鼓する者無しといえども、音曲自然なるがごとし」(153)、というて説かれておりますが、自然と人々を救済するはたらきが出てくる。これを園林遊戯地門と言うんですね。
この園林遊戯地門のことを曇鸞大師は還相と言われたんです。だから還相回向というのも浄土に往生した人が、大悲心を発こして、そして一切衆生を救済していこうという、そういう教化活動を行なっていくことを、還相回向とよんでいるわけですね。こういうことなんです。
で、回向の主体は、どこまでも行者ですね。浄土を願生する行者、そして浄土に往生して、自利利他の行を、完成していった行者のことです。その行者が往相し、還相し、回向していくわけですね。だから往相回向、還相回向というのは行者が主体となっている。
「浄土論」や「論註」で、その還相回向を語るときに、それは本願力の回向によって、そういうふうになるんだ、ということが言われているが、あの本願力というのは、この回向門のことなんです。
この場合の本願力というの本願つまり、プールヴァですね、プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願いという意)。つまり前に、浄土に往生する前に、浄土に往生する前、願生者であったときに発した願いです。
私は今度お浄土へ参ったら、苦しみ悩む全ての人々を救済しよう、そういう願いを持って浄土へ往生する。実は、「論」、「論註」に出てくる願生行者というのはそういう行者なんです。
浄土へ遊びに往くんじゃないんだ。浄土へ何しに往くんだ、それは人々を救済する力を完成する為に浄土へ往くんだ。そしてお浄土へ往ったら、仏さまに会わせて頂いて不虚作住持の功徳[2]によって、八地以上の菩薩となって、自在に思いのままに人々を救済する力を完成して頂いて、そして人々を救済しよう、そういう願いを持って浄土へ往生していく。それを本願とこうよぶ。その本願に応じて、その本願の力によって自然に人々を救済していくことを、本願力の回向と言うんだ、こういうふうに言われているんですね。

ですから、直接阿弥陀さまの本願力ではありません。修行者の本願力。
実は二十二願がそうなんですね。あの二十二願というのはね、あれは三通りに読むことが出来る文章なんです。三通りに読むと言うとおかしいけれども・・・。

普通は、サンスクリットの、今の大経のサンスクリット本もそうだし、あるいは如来会、無量寿如来会の翻訳もそうなんですが、そこから読みますと、二十二願というものは、浄土へ往生した者は、究極的には一生補処の位に入れしめてやろう、こう誓ってあるんですね。ただし、浄土へ生まれてくる前に、私は浄土へ往ったら一切の衆生を救済する為に、十方の世界に身を変幻して、十方の諸仏を供養し、そして十方の衆生を救済していこう。そういう願いを持っている者、そういう本願を持っている者は、その願いの通りにそれをさしてやろう。だからそれは一生補処の位に入れしめるというところからは除くと書いてあるんですね。
「除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切」[3]。あそこから後は全部除外例です。そう読むのが普通の読み方なんです。ところが曇鸞大師は、もう一つ違った読み方をするんですね。それは一番最後の、「超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳」[4]、というあの言葉ですね。あの言葉の前までが除外例だと、除其本願というところから、浄土に往生した者は一生補処に至らしめるといったけれども、その一生補処の位に至らしめるのにどうするかというと、普通の菩薩のように、初地、二地、三地、四地、五地、六地、と、常倫の初地の行に超出して、そして現前に普賢の徳、つまり一生補処の徳を出現させてやろうと、こう誓ってあるんで、あの除という言葉は真ん中の所を除いて一番最後の部分と、一番最初の部分とは引っ付くんだと、こういう形で曇鸞大師は解釈されているんですね。
「論註」はそういう解釈をしている。親鸞聖人はその「論註」の釈を受けながら一番最後のところを、(曇鸞大師の)「常倫諸地之行に超出し」、というのと、「常倫に超出して諸地之行現前し」、と読むのと親鸞聖人は違った訓み方をされる。
それによって全体が、一生補処の位に入ることも、それから他方世界に行って(衆生を)摂化することも全部還相のすがた(相)。浄土において一生補処の位に入り、そして諸地の行を超出して、そして現前に普賢の徳を修習するということ。あれは全部ひっくるめて還相回向の願とこう見ていくんですね。
二十二願を還相回向の願というのは御開山の特徴でして、あの願は三種類の読み方が出来るわけです。その三種類の読み方は、願文当分と、それから曇鸞大師の読み方と、それから親鸞聖人の読み方と三種類の読み方があるんですね。→三種類の読み方
そういう読み方がされていますんで、すごくこれ複雑なんです。ですから還相回向というのは、実は曇鸞大師が言われる還相回向と親鸞聖人が言われる還相回向とは大分違う。

で、そこまで分かってもらえますと、まず回向の中に、回向門の中に往相回向と還相回向とを分けた。これが曇鸞大師の分け方でございまして、浄土へ往生しながら人々を救済するのを往相回向と言い、浄土に往生してから人々を救済する利他回向することを還相相回向と言うと、こういうふうに言われ、いづれも回向の主体は願生行者であったんですね。
ところが御開山はこれをひっくり返してしまう。そして回向の主体は阿弥陀さまだ。往相を回向し、還相を回向するんだ。
私が浄土へ往生するすがた(相)を如来は回向してくださる。浄土に往生したものが、その覚りの内容を菩薩道として顕現することを還相回向というんだが、菩薩道として顕現していくはたらきも如来が、あらしめて下さるんだ、如来の本願力、先ほど言った二十二願力があらしめてくれるすがた(相)なんだと、こういうふうにご覧になるんですね

そこで本願力というのは直接的には二十二願力、阿弥陀仏の二十二願力によって還相と言う。往相は、十七、十八、十一。この十八願と十七願と十一願とによって往相を回向して下さる。
それから、二十二願によって還相を回向して下さる。これは全部、阿弥陀仏の本願力によって回向されるものである。こういうふうにご覧になるんですね。
だから回向の主体が阿弥陀さまになる。阿弥陀如来さまが回向の主体になって、私達はその回向していただくものになる。回向される者になる。
こういうな形で回向の主体が転換されております。何故そういう転換を、曇鸞大師の「論註」を通しながら、「論註」と違った解釈を、何故されたんかと言いますと、実は曇鸞大師が「論註」の一番最後にですね、とんでもない釈がされているんですね。

それはですね。浄土へ往生する、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五念門行は私達が修行するように見えるけれども、実はこれは阿弥陀如来の本願力を増上縁としてあらしめられる事であって、実は私の力で完成する事じゃないんだと、曇鸞大師は論註の一番最後の釈に言われるんです。これは覈本釈(かくほんしゃく)(覈其本釈)という非常に特徴のある解釈がされる。その覈本釈の中に一カ所だけ、他利/利他という釈が出てくるんですね。これが訳のわからん釈なんです。訳のわからん釈だと言うのは、何のこっちゃよく判らないんですね。
その訳のわからん釈、だから誰もわからなかった。それを親鸞聖人がこれはとんでもない大事な事を言われているんだという事を、親鸞聖人は気付かれるんですね。これを「他利利他の深義」という言葉で御開山は表わされる。それで本願力回向、阿弥陀さまの本願力回向というものを、曇鸞大師の論註の中から読み取っていくということが、行なわれるようになるんですね。その一つのきっかけになるのが他利利他の釈、「他利利他の深義」と言われる釈なんですね。これね、こういう言葉なんです。

「他利と利他と談ずるに左右(さう)有り。若し仏よりして言はば、宜しく利他と言ふべし。衆生よりして言はば、宜しく他利と言ふべし。今(まさ)に仏力を談ぜむとす。故に利他を以て之を言ふ」(155)

と言われておるんですね。何のこっちゃこれは、ということでね。判らない、よく分からないですね。よく解らないというよりは何を言おうとしているのか、この人はという、そういう釈なんです。

それで親鸞聖人と同じ頃に出ました、浄土宗の大学者でね。良忠上人(1199-1287)が「論註記」(往生論註記)という注釈書を書かれている。論註の注釈書としてはもっとも古いものでね。そして正確にと言いますか、文章の解釈は非常に見事にされている。ところがね、他利利他の深義に関する限りは、何かよく解らないままで終わっているなぁという感じがするんですね、解釈が。
というのはね、他利と利他というのはほんとは同じ事なんですよ。他利といっても利他といっても同じことを言うてたんです。ですから、例えば「浄土論」を翻訳したといわれる菩提留支三蔵訳のいろんな経論を見ましても、あるいは曇無讖三蔵の訳されたものを見ましても、他利と利他とはちっとも変えてないんです。

他利というのは他の利を計ることですね。他者の利を計る事なんですから利他のことなんです。利他というのは他を利するということでね、他のものを利益していく。ですからようするに、利他と言っても他利と言っても自分が人々を救済していくことなんです。
だから、他の利を計るから他利と言うし、他を利益するから利他というだけのことで。
他利と言っても利他と言っても同じ事を意味しているんです。
だから文章見ますとね、利他というは、とこう註釈してきまして最後に、故に他利というと結んである文章なんぼでもあるわけです。
利他と他利は同義語として使っている訳ですね。ところがここでは、他利と利他と談ずるに左右(さう)有り、左右(さゆう)がある、仏よりしていうたら利他と言うんだ。衆生からいえば他利と言うんだ。今は仏力を談ぜんとするから、利他と言うんだ、とこういうふうに言われていますね。

これ、どういうことかと言いますとね、先ほど言いましたように、この五念門行というのは、私が、礼拝、讃歎、作願、観察の修行をして、自利利他完成して浄土に往生するように書いてあるけれども、覈(まこと)に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなりと、こういうふうに曇鸞大師は仰るんですね。私がやっているようだけれども実は阿弥陀さまの、阿弥陀如来さまのお働きによってあらしめられる事なんだ、とこう言うてね。
そこへ他利利他の釈があってね、もしね、阿弥陀さまの本願力によって、阿弥陀さまの本願のはたらきによって、五念門を完成して五功徳門を完成して、往生し成仏していくこと、阿弥陀さまの本願力によってなされることでなかったとしたならば、阿弥陀さまが四十八願を建てた意味がない。阿弥陀さまが四十八願をお建てになった意味がない。[5]
私が自分の力でやっていけるんだったら、阿弥陀さん必要ない。阿弥陀さまが必要でないことを阿弥陀さまがお誓いになるわけがない。したがって浄土に往生することも、浄土に往生したものは速やかに覚りを開くことも、すべて阿弥陀如来の本願力によってあらしめられる事であるとしなければならない。こういう事を結論付けてね。[6]

そして、その事を立証するために、十八願と十一願と二十二願と三願を引用することによって、浄土に往生することは十八願の力によって、浄土に往生して正定聚に入ることは十一願によって、そして正定聚に入ったものは速やかに一生補処の位に入るのは二十二願の力によって完成することである。だから浄土に往生することも、往生したものは速やかに成仏することも、それは阿弥陀如来の本願力に依るのだと証明してみせる。これを三願的証(さんがん-てきしょう)(156)というんですね。こういうことを曇鸞大師はやっていらっしゃるんですね。

これは今言いましたように曇鸞大師は二十二願を還相回向の願と見ているんじゃないんです。そうじゃなくて浄土に往生した者は、速やかに覚りを完成するという事の証拠、として引いてある。超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳、といわれた、あそこの文章を中心にこの二十二願を引いているんですね。これが曇鸞大師の特長なんです。
その真ん中にこの言葉が入る。「他利と利他と談ずるに左右有り」、これは一体何を言うているんだろかな。仏から言ったら利他と言う。衆生から言ったら他利という。これは何を言ってんだろかとこういうことなんです。
今は仏力[7]、仏のはたらきを現わすから利他と言うんだ、とこう言われたんですね。そこでこりゃあまあ、解らん言葉でございます。

ところが御開山はこれは素晴らしい、「他利利他の深義」を開闡した。これによって解ったぁ。実は御開山がね、『論』、『論註』の秘密が解ったのはこの釈から解ったんです。ところがどうなってるんですかというたら、親鸞聖人、なんにも説明してない。天才というのは付き合いしにくい。もうとにかく解るんだな、ぱーんと解るんだけどね、説明しないですね。
くだくだしい説明をするのはただの秀才がやることなんです。でまあ、御開山ていうのは、おっそろしい人でっせぇ。しかしね、後の者は何とかわからにゃならんもんだから皆んな苦心惨憺しているんですが・・・。

とにかくね、「他利」も「利他」も阿弥陀さまの救いを現わしているのには違いない。つまり阿弥陀さまの救いを阿弥陀さまの救済を、私の方から言うたら「他利」と言うんだ。その救済のはたらきを仏様の方から言ったら「利他」と言うんだ。衆生よりして言えば「他利」と言うべし、仏よりして言わば「利他」と言うべし。何を言うんですかちゅうたら救済ですね。
阿弥陀さまの救済を・・、ですから事柄は一つです。私が阿弥陀さまにお救いいただくという事柄は一つなんです。その私が阿弥陀さまのお救いに預かるということを、私の方から言うたら「他利」という。如来さまの方から言うたら「利他」という。ところがこの『浄土論』の中には、「他利」という言葉は一カ所もない、全部「利他」という言葉で統一されている。
同じ菩提留支が翻訳した他の経論には、他利といったり利他といった言葉が何度も出てくるけれども、ここでは利他という言葉だけしか出てこない。他利という言葉は一カ所も出てこない。ということはこれは全部、阿弥陀さまの救済のはたらきを、阿弥陀さまの側から言っているんだ、と、いうことなんですね。

だから五念門行を完成して自利利他して、そして速やかに阿耨多羅三藐三菩提、覚りを完成すると言われているが、あの利他ということは阿弥陀さまのはたらきを阿弥陀さまの側から言ったことなんだ。そうすると私の側から言うと他利なんだが、如来さまの側から言ったら利他というんだから、自利利他というのは阿弥陀さまのはたらきによって私の自利、私が浄土に往生するということが成立するんだ、こういうことを表わしているんだ。こういうふうに見られたとしなければならないでしょうね。これを他力と言うんだといわれているんです。一番最後に他力釈が出てくるんですが。

どういうことなのかと言いますとね、おそらくね、この他利と言ったのは、ある言葉が省略されていると見られたんでしょうな。

「板書」

他利(自)(他が自を利する)
(自)利他(自が他を利する)

利というのは動詞ですから、動詞の前にある言葉は主語(他)にしなければならない。この後(利)に目的語が省略されていると、こう見たんですね。他が自を利する「他利自」と、こうみたわけですね。この自が省略されている。
利他というのは他を利するとうことですから、ここでは自(主語)が省略されている「自利他」ということになるわけですね。
そうしますと他が自を利する。この場合に利益するというのは阿弥陀さまですから、この救済全体は阿弥陀さまを現わしているんですから、他が自を利するという他は阿弥陀さまになります。

仏が衆生を利益する。仏が主語(他)で、衆生が目的語(自)で、利益するが(利)仏の働きで動詞になりますね。そこで他が自を利するのを「他利」と言っているんだ。自という語を省略している。

利他というのは自を省略している。他を利するんですから、仏(自)が他である衆生を利益する、ということ。

(ここは板書で丁寧にご説明下さったのだが、林遊はノートを取らないし、文字でどうやって表現していいのか判らないので少し略。なお和上の他利利他についての論文の一部は『親鸞聖入の他力観』を参照)

そうしますと、仏が衆生を利益することを、衆生の側から言えば、他者が私(自)を利益するということになりますから、他利と、こういうことになります。
同じ事を仏の方から言えば、仏は自です。私(自)が衆生(他)を利益(利)する。この場合は仏が自になります。だから仏から言ったことになります。

そうしますとね、他利に対して、この利他の事を他力(仏力)とこう言うんです。「今、仏力を談ぜんとす。」仏の働きを現わそうとする。正確に言うと仏の働きを仏の側から表現する。それが利他という言葉だ、とこういことになりますね。これを他力(仏力)と言うんだ。そうすると他力と謂うことは利他力の略と、こうなりますね。ちょっとややこしい。これは御開山の非常に特異な釈を言うんです。

この利他の事を、他力と言うんですね。さ、<他力の他というのは一体何なんだ。他力の他というのは「他の力」じゃないんだな>。利他の力なんですねこれは。他力とは利他力の事になります。利他力ということになりますとね。仏様の方から仏様の働きを顕わしている言葉なんです。私の側から言った言葉じゃない。
他力というのを、私の側から言ったらどうなるんか、と言うと、御開山は、他力というのを私の側から言ったら「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり。」(御消息783)。
私の方から言えば、私の計らいをまじえないということを他力と言うんだ、と言われていますね。だから、他力ということは私の計らいをまじえない、ということ。
(衆生よりして言わば他利=私の計らいを雑えない=無作の義B-<)
だから、他力には義なきを義とす、必ず、他力には義なきを義とす、という言葉で表現されているんです。歎異抄には「念仏には無義をもって義とす」(837)、という言葉が出ていますが、ありゃあ、もうひとつ正確じゃないだろうな。正確に言うと、他力の念仏には、と言うべきでしょうね。「他力の念仏には無義をもつて義とす」、とこういう事を言いたかったんですね。

他力という言葉が必ずつくんです、これが「義なきを義とす」という言葉を言う時の、私の計らいをまじえないことを、それを義なきを義とすというんですね。それが他力の本義であるというので、「義なきを義とす」と言うんですが、これは実は他力という言葉は私の方から言った言葉じゃ無いんです。仏様の方から仰った言葉なんです。汝を救うという言葉なんです。我よく汝を護らんという言葉なんです。そこで私は私じゃないんです、汝なんです。
私はね、私ではなく、仏様から汝を救うと言われた汝なんです。私じゃ無いんです。あの、何ですね、あそこ(二河白道の招喚)で、我と言われるのは仏様なんですね。[8]

御開山がね、不思議な言葉遣いをなさるんです。それは信心、あるいは念仏を仰るときにね。利他の大行。あるいは利他の信心。利他真実の信心。利他の一心。それから利他円満の妙位。
行・信・証、全部、利他の大行、利他の信心、利他円満の妙位無上涅槃の極果なり。と、いうように行・信・証、全部利他と言われていますね。あれは如来より与えられたという意味なんです。如来さまから与えられた大行、如来さまから与えられた大信、如来さまから与えられた真実の証果、覚り、という事なんですね。それを利他という言葉で表わす。
ですからこれは何故利他という言葉に親鸞聖人は着眼されたかということなんですが、実は昨日からちょっと申しておりますが、隆寛律師という方が初めてこの利他という言葉に着眼するんです。隆寛律師は、善導大師の三心釈の中でですね、利他という事を非常に問題にしなさる。ご存じのように他力という言葉は、浄土門には曇鸞大師によって導入されたんです。そして、曇鸞大師はよくお使いになり、その次の道綽禅師もお使いになるんですがそこでぷつっと切れます。

善導大師は他力という言葉を一カ所も使いません。自力・他力という言葉は、善導大師のあの五部九巻の広博なお聖教の中に一カ所も出てこない。これは面白いですねぇ。
何故、あの人は他力という言葉を使わなかったのか。これはやはり、他力という言葉が変貌したんでしょう。曇鸞大師が言おうとしていた他力が、違った意味に解釈されてしまった。だからこの言葉でもっては、浄土教の信心を顕わすことは出来ないと思ったんでしょうね。だから善導大師は一カ所も使いません。ただその代わりにですね、あの至誠心の中に利他真実・自利真実という言葉が使われているんです。これはまあ、善導大師の当分では自利真実というのは、いわゆる自利、利他真実というのは念仏の行者が利他すること、自利と利他するという意味だったんです。善導大師の当分では。

ところが今申しました隆寛律師が、(具三心義?)あの善導大師が言われた利他の真実というのは、他力の真実という事なんだ。自利の真実というのは、自力の真実ということなんだ、というふうに仰るんですね。
これを親鸞聖人は承けるわけなんです。そして善導大師の至上心釈を、自利真実と利他真実に分けるんです。利他真実というのは他力の真実、自利真実とは自力の真実というように真実信を二つに分けてしまうんですね[9]。この分け方は今言いましたように隆寛から承けるんですが、隆寛は何処から出したかというと『論註』からです。実は法然門下で『論註』を初めて導入するのは隆寛律師なんです。この系統を親鸞聖人は承けていくわけですね。
この中で利他という言葉で他力を表わしているとすれば、善導大師は自力・他力という言葉を一切使ってないけれども、その代わり自利・利他という言葉で自力・他力を表わしているんだ、とこう考えたわけですね。そこで親鸞聖人は、他力という言葉を、利他という言葉で表わすようになる。利他真実、自利真実という言葉と対応させましてね。

それで他力というのは「利他力」の事なんですね。すると他というのは仏様の事じゃないんですよ。 他というのは私達の事なんです。 仏様からご覧になった私達の事なんですね。仏様は他なる私達を自らの事として救済してくださる。ご自身の責任において私達を救うて下さる仏様の働きを、仏様の方から現わしたのを他力と言うんだ。だからこれは衆生の側から言う言葉じゃない。衆生の側から言うときは計らいをまじえないで、有り難く頂戴する。仰せをはからいなく頂戴する。そのほかに他力というものはない。

これ反対に使いますと判らなくなってしまう。御開山が仰っている他力というのはここから出てくる。実は本願力回向のことをを他力と言われる、この本願力回向というのは利他力なんです。如来の利他力を表す。ですから仏様の側から仰っている言葉だというのは、非常に重要なことなんですので、私達ご法義を味わうときに、人間から言っちゃいけないという言葉、というものがいくらかあるんですよ。

人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。仏様から仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉はいくらでもあります。どんな愚かな者でも助けるぞ、という言葉は仏様の言葉ですよ。どんな愚かな者でも助けて下さるんですなぁ、と私の方が言うたら、お前が言うな!。ということで、お前が言うな、お前は有り難く頂くだけなんだ、お前から言うな。

これから悪人正機などという、おそろしく過激な言葉が出て参りますが、あの悪人正機などという過激な言葉なんかもね、あれだって、言い場所を間違ったら偽物になるだろうな。だから難しいんです言葉は。誰が言うてもええちゅうもんと違いますで。

例えばほめ言葉でもそうでしょ。お釈迦さまが、阿弥陀さまが誉めてくださる、「この人を分陀利華と名づく」[10]と誉めてくださる。お釈迦さまは「私の親友」[11]であるとまで仰って下さる。あるいは「真の仏弟子」[12]として呼んでくださる。みなあれ仏様の方から仰る言葉ですよ。
わしの方からね、私は阿弥陀さまと、仏様と親友でござんすな、と言ったらお前から言うな!(笑)。誉め言葉というのは聞いて喜ぶ言葉であって、こっちから言うたら嘘になります。

例えばあなた方のお家に、よぉ出来るお子さんいらっしゃいますわなぁ。あんたんとこのお子さんねぇ、今度京大通りなはったん。そぉまあよお出来なはるで、お父さんもお母さんもよぉ出来なはるからなぁ。そらまぁ出来なはるのあたりまえやけど、そら楽しみですなぁちゅうて、もし言うてもろうたらでっせ。いえいえ、まぁどうなることですか、ちゅうて喜んどったらええねん(笑)。
あれ、自分の方から言うたらいけまへんで。うちの子、よぉでけましてな。今度あんた京都大学通りましてな。いや親もなぁ、そこそこ出来まっさかいな、ほら子供出来けるの当たり前ですわ。アホかぁちゅうなもんで(爆)

あのね、誉め言葉ちゅうのは自分で言うたらいけまへん。あれは人が言うてくれて聞いて喜べばいいんで、いえいえ、言いながら喜んでたらええねん(笑)。まあそういうことです。
ですから言葉というものはね、誰から言うか。聞いて喜ぶ言葉と、言うて喜ばせる言葉とありますがね。ちょっと話が横へ飛んだ・・・。

他力ということが、利他力という言葉、如来さまから言う言葉だということが、こういう、「仏よりして言はば、宜しく利他と言ふべし」。これは仏さまから言ったんだ。私から言ったら他利と言うんだ、他が利する。したがって私は計らいなく受け容れる、計らいをまじえない。だから他力(本願)に対する態度というのは計らいをまじえない、一切の自力の計らいを捨てる。これが他力に対する態度であってね。
他力ですからなぁ、何してもよろしいねん、んなアホな。もう大体、はなから間違うてる、そういう事ですね。そのへんのところを正確に聞き拓いてもらわないと、危ないという事ですね。

えらい話が長うなりました。ちょっとここで十分ほど休憩さして頂きます。
なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)

脚注


  1. 本願寺派の原典版七祖聖教や註釈版七祖聖教は、御開山の訓点ではなく各祖師方の訓点で読まれている。なぜこのように読むかについては註釈版聖典七祖篇を読むを参照。
  2. 不虚作住持功徳(ふこさ-じゅうじ-くどく)。『浄土論』の偈文「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海(仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」をいう。『浄土論註』では、この成就を「不虚作住持とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。」p.131と成就しているとされている。
  3. 「その本願の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し……」
  4. 常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
  5. 不虚作住持功徳に「願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。」p.131とある。
  6. 覈本釈を終わって「まさにこの意を知るべし。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。いま的(あき)らかに三願を取りて、もつて義の意を証せん。」とある。
  7. 今まさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。
  8. 『愚禿鈔』#82 では「「汝」の言は行者なり」とあり「「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり」とある。
  9. 利他真実は他力を意味するので「信巻」で引き、自利真実は自力の法門を説く「化巻」で引かれておられる。
  10. 『観経』流通分p.117 に「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」とある。
  11. 『無量寿経』往覲偈p.47 に「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。」とある。
  12. 「散善義」p457 の唯信仏語に「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。」とある。