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教行証文類のこころ/第一日目-2

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教行証文類のこころ

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教行証文類のこころ


『教行証文類』というお聖教でございますけど、一体何が書いてあるのか、とこういいますと、一口で言えば浄土真宗とは何か、ということが表わされている、と、こうみていいでしょうね。というのは、この『教行証文類』の一番最初、教文類というのがございますが、教文類の一番最初に「 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教・行・信・証あり」こういうふうに仰せられています。実はこれだけの言葉が、『教行証文類』に顕わされている内容を要約して、体系的に示されたものでございます。
つまり、浄土真宗というものを、往相、還相の回向という、こういう体系をもって顕わされていくわけでございます。この二種回向というのは、これは本願力の回向です。
『教行証文類』は全部で六巻に分かれていますが、それを一巻に要約した書物が『浄土文類聚鈔』というのでございます。
この『浄土文類聚鈔』、もちろん親鸞聖人がお書きになったものですが、その『浄土文類聚鈔』では、「本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり」と、こういうかたちで仰っています。
つまり、二種回向というのは本願力回向の、二種の相なんですね。したがってこれを見ますと、浄土真宗に二種の相がある、というのは『教行証文類』の顕わし方であり、本願力の回向について二種の相あり、というのは『浄土文類聚鈔』の顕わし方ですから、この二つ合わせますと、浄土真宗と本願力回向というのが、同じ事をいっているということが判りますね。
つまり、浄土真宗も往相、還相の二種回向を持っている、本願力回向にも往相、還相の二種回向を持っている、とこういうんですから、浄土真宗と本願力回向というのは同じ事を違った言葉で顕わしたということが判ります。
つまり浄土真宗とは本願力回向という、浄土真宗と本願力回向というは言葉は、一方は宗義で顕わし一方は法義の名前で表わしていますが、この二つは同じ内容を持っておる。同じ事を顕わしておるということですね。そういうことが分かります。
ちょっとここで皆さん不思議に思われるかと思うんですが、浄土真宗というのは我々は今、教団の名前として使っておりますね。浄土真宗を教団の名前として使うのは大分後からなんです。
親鸞聖人や、親鸞聖人の頃の方々が浄土真宗という言葉を使った時には、これは教団の名前ではございません。教法の名前なんです。ですから浄土真宗というのは今申しますように、基本的には教法の名前ですね。教えの名前なんです。それを後に教団の名前として用いるようになりますが、これは後からの話でございます。
もっと言替えましたら、法然聖人が浄土宗と言われたのと親鸞聖人が浄土真宗と言われたのは、根元的には全く同じ内容を持っている。
ですから、それは教団の名前じゃないです、教法の名前、教えの名前なんです。
これは、そうですねぇ、浄土真宗というのを、教団の名前という非常に近い形で使った人はですね。阿佐布の了海(仏光寺四世1239-1320)という方だと思いますね。余り一般には知られておりませんが、阿佐布の了海という方がいるんですね。この人が「他力信心聞書」、「還相回向聞書」というような書物を著わしている訳なんです。鎌倉の末期から南北朝初期にかけて出た人なんです
これは親鸞聖人のお弟子に、真仏上人という方がいらっしゃる。この真仏上人が高田の真仏上人なのか、それとも平太郎真仏なのか、平太郎が親鸞聖人がなくなった後、平太郎入道が真仏と名乗りますので、この平太郎真仏なのか高田真仏なのかこれちょっと問題があるんですが、その弟子に荒木の玄海という人がおります。荒木というのは武蔵の国でございます。その荒木の玄海の弟子に阿佐布の了海というのがおります。その弟子に甘縄の誓海というのが出ます。鎌倉の方ですね。その弟子に、同じく甘縄におりました了円、明光上人という人が出ます。その明光了円の弟子が仏光寺了源でございます。仏光寺派をお建てになった、了源上人ですね。
ですから仏光寺派の了源上人からいいますと、その学系にあたる人、後の仏光寺系にあたる人なんです。その阿佐布の了海という人の、「他力信心聞書」の最後の所にですね、この宗派は、我々の派は、一向宗といい、また浄土真宗というんだ、というようなことをいうております。そういう言葉がございます。余り一般にはこの書物は知られておりません。これは仏光寺系に伝承されてくる書物なんですが、そういうのがあります。
けど実際に教団名として浄土真宗というのを公に使った方は蓮如上人でございましょうな。文明五年の九月、我々は一向宗と違うんだ、浄土真宗なんだということをいいます。
さらに延徳年間、あの長享の一揆が終わって一向宗と呼ぶな、浄土真宗と呼べというような言い方がされております。そういうことで教団名として浄土真宗が定着しますのは、あまり定着もしないけど、まあ一応蓮如上人の頃からでしょうな。
これがず~っと尾を引きまして江戸時代になりまして、宗名論争が、激しい宗名論争が余宗との間で繰り広げられまして、幕府困ってしまいましてな。もうそれ止めてくれというわけで、何日でしたかね。五万日だったかな棚上げにして。そのうち幕府潰れてしまった。(笑)。そんな事があるんですけども、とにかくそんな事件があるんです。
実は今では教団名として使っておりますけども、御開山がお使いになったときは教団名ではございません。教法の名前なんです。
親鸞聖人は浄土真宗というのはこれは、浄土真宗を開いた方は、法然聖人だと言い続けておられますね。皆さん、お正信偈拝読させて頂きましたら、一番最後が法然聖人の徳を讃える源空讃になりますね。あのとこにね、本師源空は、仏教にあきらかなり、善悪の凡夫人を憐愍し、真宗の教証を片州に興し、選択本願悪世に弘めしむ、と仰ってますでしょ。
あれ同じ事を和讃、法然聖人の和讃見ますとね、

智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ

と、こう仰ってます。つまり日本の国で浄土真宗を開いた方は法然聖人だというんですね。源空聖人、法然聖人というのは房号ですからね。正確に言うと源空、法然房源空というのがこの方のフルネームでございます。
この法然聖人が浄土真宗を開いた最初の方だ。つまり、浄土真宗という教義体系ですね。浄土真宗という教義体系を持つ宗教を日本で初めて開いた方は法然聖人である。
『教行証文類』でも一番最後の所に、「真宗興隆の大祖源空法師」、とこういうふうに仰っています。
浄土真宗を日本の国で興隆して下さった方は源空である、とこう仰っていますから、法然聖人が浄土真宗を開いた方だというふうに仰っているわけですね。
事実ですね、法然聖人のお弟子に中では浄土真宗という名前を使った方は他にいたはすです。文献的に確かめることが出来るのは親鸞聖人が一番早うございますけれども。
しかし、真宗という言葉を使った方は沢山います。成覚房幸西、あるいは隆寛律師、あるいは西山浄土宗の派祖証空上人、このあたりは真宗という言葉は盛んに使っていらっしゃいます。法然聖人の浄土宗のことを真宗と呼んでいるんです。
法然聖人の言われた浄土宗とは真宗である。真実の仏法であるということです。そういう意味で真宗、真宗ということはよく使っていらっしゃるんです。
何も真宗と言うことは親鸞聖人の専売特許じゃない。ただし、浄土真宗というこの四字熟語はですね。歴史的には文献的にはこの親鸞聖人のものが一番早い。
五十二歳としますと、五十二歳の頃にはもうその構想はまとまっていたはずですから、その構想の元で書いていかれるわけですから。そうしますと文献的には一番早い。
けれども、真宗という言葉はず~っと前から使ってある。
今言いました隆寛律師、隆寛律師というのは親鸞聖人より二十五歳年上なんです。二十五年上ということになりますと、先輩なんてものじゃないですよ、こりゃあもう先生でしょうね。
比叡山きっての学僧であってね。親鸞聖人はそのグループにいらしたんでしょうね。
あの法然聖人のお弟子というのは色んなグループがあるんです。その色んなグループがございましてね。その一つのグループに叡山出身の秀才ですね。叡山のエリート学僧が何らかのかたちで挫折いたしまして、その挫折感を通して法然聖人の弟子になる。
そして法然聖人の門下でですね、一つのエリート集団を作っていく訳なんですよ。こういう集団があるんですね。それが今言いました、隆寛律師、あるいは成覚房幸西あるいは親鸞聖人というような方なんです。先程申しました安居院の聖覚法院などもそうですね。
その特徴はね。大体奥さん持っているということですね。そりゃちょっと話が横へ飛びますけれども。
そういうことでそのようなグループがある。そりゃあねぇ、どんな天才だって一人では何も出来ません。やはりグループ思考なんですね。一つのグループがあってそのグループの中でだ~っと研鑽をする訳なんです。その中からずば抜けたのがズバッと出てくるわけなんですね。あんなん一人だけで考えて出来るちゅうなんではないんですよ。
そこで浄土真宗という言葉ですけどね。これは西山派の人たちはよく使っていたようでありまして、証空上人の弟子の円空(立信)というかたがいらっしゃいます。この(立信)という方は深草流というものを大成する方なんです。この深草流を開いた円空(立信)という方のお寺は真宗院(誓願寺)といいます。深草の真宗院というんですね。
この弟子に顕意上人というか方が出まして、この顕意上人が深草流というものを大成していくんですね。この顕意の書かれた書物、たとえば「揩定記」というのございますが、ここには浄土真宗という言葉でもって法然聖人の教えを著わしております。
あるいは、おそらくこの顕意の書物だと思うんですが、山叢林、「竹林鈔」と一般に呼ばれている書物がございます。
「テープ切れ」
これは法然聖人の直弟子ではないんです。法然聖人の一番弟子であった信空上人、う~ん一番弟子と言っていいでしょうね。この信空上人というのは法然聖人がまだ二十五歳ぐいの間に、弟弟子として叡空、黒谷別所の叡空の弟子になってきた人なんです。この人が兄弟子であった法然聖人に非常に私淑いたしまして、そして法然聖人が山を下る時も一緒に下った。そして法然聖人の弟子としてず~っと、最晩年まで法然聖人が亡くなるまでお仕えをした方。それが信空上人。この信空上人の弟子にですね、信瑞という人がいる。この人は信空上人の弟子でもあり隆寛律師の弟子でもあるわけです。
この信瑞がですね、「明義進行集」という書物を書いている。この「明義進行集」三巻あるんですがね。上巻がないんです。いま中巻と下巻しか残っていないんです。上巻が出てきたら、これ法然聖人や色んな事が出て来ますんで、これが出てきますと法然聖人の身辺が非常に明らかになる筈なんですがね。どっかにないかなぁと思うんですけども。
まだ何が出てくるかも分かりませんからねぇ。これが出てくると素晴らしいんですがね。あっそらいらんこっちゃ(笑)
とにかく、この信瑞上人の書かれた「明義進行集」、ここにはやはり法然聖人の教えを特徴付けまして、法然聖人の教え浄土真宗は、無観称名。観念をしない、ただ称名一つで助かるとこれを教えてくださった、無観の称名であると。これが浄土真宗の特徴であるとこういうふうに書いています。つまり浄土真宗とは法然聖人の浄土宗の事なんですね。
この法然聖人の直弟子の中のあるグループ、おそらくこれは文献では確かめられませんが先程申しました成覚房幸西という方ね。残っているのは「玄義分鈔」という書物一冊だけしか残っていない、一巻だけしか残っていない。あと全部散逸してしまった。しかし随分沢山書いている人なんです。この人の中には(浄土真宗という言葉が)おそらくあっただろうと思います。そういう事が考えられる人です。
まっ、とにかく法然聖人の教えを浄土真宗と名付けるというのは直弟子、孫弟子あたりになりますとこれはもうポピュラーになります。
もう孫弟子あたりは一般的に浄土真宗という言葉を使っている訳なんですね。だから親鸞聖人の専売特許じゃないと。けれども、親鸞聖人ほど、深い意味をこめて浄土真宗を使った人は他にありません。つまり浄土真宗というものをこれから言います、往相・還相の二種の回向、そして教行信証という、こういう体系を持ってですね、浄土真宗というものを顕わそうとした人は、他にはありません。だからどうしてもこれから言いますけれども、浄土真宗の御開山はやはり御開山になってもらわないと、親鸞聖人になってもらわないと困るというところもあるんです。困るちゅうと悪いんだけど。
ということは法然聖人は浄土宗という言葉で表わす。浄土宗という言葉でもって阿弥陀さまの本願の救いを表わしていく。いわゆる選択本願念仏。浄土宗という言葉でもって選択本願念仏を表わしていく。つまり選択本願念仏、これを浄土宗と名付けるというのが法然聖人の教えなんです。
浄土宗というのは往生浄土宗ということでしてね。浄土へ往生することを目指し、浄土に往生する事を中心としているみ教え。これを浄土宗、往生浄土宗、略して浄土宗と呼ぶわけです。その浄土へ往生する道。それが選択本願念仏であるということでね。浄土宗の内容は、選択本願念仏だと、こう言われたんですね。
だから浄土宗というのは、選択本願念仏というのが法然聖人の教えだったわけです。
ですから法然聖人の中には浄土真宗という言葉は一カ所もありません。もしあったらその書物は偽作です。偽作ですちゅうたら何ですがね。あることはあるんですが偽作の書物ですね。
法然聖人の書物といわれる中にはずいぶん偽作が多いんです。ですからこれは文献をきちっと、そのいわゆる原典批判をしないと、危ないですね。法然聖人という方はほとんど書かない人なんです。先程申しましたように、御開山はすごく筆まめな方でございましてね。よく沢山お書き下さる方でございますが。法然聖人というのは筆無精でございましてね、お書きにならない。法然聖人の主著は「選択本願念仏集」なんですが、あの「選択本願念仏集」もご自分で書いたものじゃない。弟子に書かしている。ご自分は仰って口述筆記ですね.。三人の助手を使いまして、そして口述筆記をして、顕わしたのが「選択本願念仏集」なんです。
その一番最初の、「選択本願念仏集、南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先(本)」、これだけの文章が法然聖人の直筆なんです。あとは弟子達の字なんですね。これが原本といいますか、現在残っている廬山寺本もそうなんです。これはもう原本です。添削をいたしまして所々添削をし、切っておりますから原本ですね、草稿本といわれるものです。それでも法然聖人の直筆じゃない。
法然聖人の直筆のものというのは非常に少ない。お手紙の中に僅かに残っているだけなんですね。最近まではわかりませんでしたけれども、昭和三〇年代の初めに奈良の興善寺という浄土宗のお寺があって、そこの阿弥陀さまの修理をいたしますと胎内文書が出てきまして、正行房という方がそこのお寺を建てた人だったんですね。
その正行房に宛てて法然聖人から手紙が来てる。その手紙が出てきたわけですね。それはどうしてこれが残ったかと言いますと、寄付してくれた人の名前をず~っと連名で書いているわけです。その寄付してくれた人の名前を書く紙が、その当時、紙はなかなかないですからね、手紙の裏紙使うているわけです。
法然聖人から頂いた手紙、それから証空上人から頂いた手紙のその裏紙を使って、裏に名前を書いているんですね。そしてその名前を書いたのを(阿弥陀如来像の)胎内に納めているわけです。たまたまその手紙が法然聖人の手紙を使うていたわけですね。法然聖人の手紙やから胎内に入れたんと違うんです(笑)。寄付した人の名前を書くために胎内に入れた、それが法然聖人の手紙の裏を使っていたんですね。
それで法然聖人の筆跡がはっきり判るようになったんです。それとこれとですね、今まで法然聖人のお手紙だ、といわれていたけれども証明できなかったのが、嵯峨の清凉寺ですね釈迦堂。あそこへ伝わっていた熊谷次郎直実宛ての手紙なんです。これは法然聖人の御真筆だと言われていたんだが、これを証明するものがなかった。ところがこれと合わせると筆跡がぴたっと一致するんですね。これで直筆だということが証明された。これで法然聖人の直筆の手紙が二通はっきりと確認された。
すると法然聖人の文章のスタイルが判りますね。文章の書き方その時の文章のスタイルが判ってきます。その文章のスタイルに合わせて、法然聖人のお手紙類を全部読み返してみますとね、あ、これは法然聖人が元のは直筆で書いておられたはずだ、これはお弟子に書かされたもんだ、あるいはこれはただの代筆だというようなことが判るようになってくるわけですね。そんな事はどうでもいいことなんだけども・・・。
そういうわけでこのごろは法然聖人の直筆の手紙というものも出てきているし、そしていくつか直筆であった筈の手紙も残っております。弟子に書かされた手紙もありますけどもね。相当それは多いです。ですから法然聖人の名前であるといったって必ずしも法然聖人が自分で書かれたものではない。
しかし、そういうようなものがありますから法然聖人の文献をきちっと調べますと、本物と偽物というのも出てきます。信疑未詳というのも多いですけど、あきらかな偽物というのも出てくる。浄土真宗という言葉が出てくるようなものは明らかな偽物です。
ですから、浄土宗という言葉しか法然聖人は使っていらっしゃらない、これは言い切れます。
ところが親鸞聖人は浄土真宗は法然聖人が開かれたんだと、法然聖人が浄土真宗を開いたんだと仰っていますから、そうしますとこりゃあ嘘じゃないでしょうね、直弟子なんですから、直弟子の親鸞聖人がそう仰っているんだから嘘じゃない。
けど、法然聖人が浄土真宗という言葉を使ったわけがない。じゃ一体どうなるかというと法然聖人の言われた浄土宗の真実義はこれなんだ、ということで浄土真宗という言葉を使ったということですね。つまり浄土真宗は法然聖人の浄土宗の真実のおいわれを明かすという、こういうことでございます。真という字を付け加えて真実義を顕わす。ですから浄土真宗と浄土宗は本質的に同じものでございます。
あのね、今ね、浄土宗というと鎮西浄土宗を考えるんですね、知恩院さんであるとか、あるいは芝の増上寺であるとかいうのをご本山とした鎮西浄土宗を、浄土宗と考えておられますがそんなことを考えたら西山派のお方から叱られますよ。西山浄土宗はあれは鎮西派とは全く別の思想体系を持っている教えですからね。鎮西派は浄土宗、浄土宗と言いますがあれは鎮西浄土宗または浄土宗鎮西派、西山浄土宗あるいは浄土宗西山派とですね。それと浄土真宗これが今残っています。
西山浄土宗から出た時宗も現在残っていますけどね。時宗というのも元々は時衆、これは話が何しますけど、時衆というのはこういう字を書くんです。(板書:時衆)これが後に十五世紀くらい、あの応仁の乱が起こる十五世紀くらい、あの頃に初めて時宗という名前が生まれてきますけれども、元々は時衆です、宗派の名前じゃございません。彼らは、その時宗といわれる。あぁあの時宗というのは、六時衆から出たんでしょうね。時宗の話をしていると日が暮れるさかいやめとこ(笑)。
元々宗派の名前じゃなかったんです、後にこれを宗派の名前にしました、時宗というのはね。十五世紀くらいです。真宗で言ったら蓮如上人が出られたあたりです、それまでは時衆です。時衆というのは元々宗派の名前でも何でもない、また教法の名前でもない。じゃこの時衆の教法の名前は何かというと浄土真宗なんです。彼らは浄土真宗と名乗っているんです。時宗の第三祖がですね、智得という方ですが、この智得の書かれた書物には、明らかに浄土真宗という名前で自分たちの立場を表現しています。だからわしらが時宗だというと、いやうちは浄土真宗ですときっと言いよりますよ向こうは、そういうことなんです。
だから浄土真宗という言葉は、そういうふうな言葉として使われておった。いずれも法然聖人の言われた、浄土宗の真実のおいわれを伝統しておる。そういう意味を表そうとしているんですね。
さ、そうしますと浄土真宗とは法然聖人が顕わされた浄土宗の真実義をいうんだ。こういう事が判ります。実は『教行証文類』は、それを展開していくわけなんです。『教行証文類』というのはね、これが法然聖人が言おうとされた浄土宗の本当の姿なんだ、ということを『教行証文類』として親鸞聖人は展開していくんです。
先ほど最初に言いましたように法然聖人の教えはですね、おそろしい弾圧を受け続けるわけですね。そしてその弾圧の中で圧殺されようとしている法然聖人の教えの正当性をはっきりと立証して、どんな弾圧にも耐えられるような思想構造として、思想的な構築物として確立していく、それが弟子に与えられた遺弟の責任だ、そういう思いで『教行証文類』は書かれているわけです。ですから『教行証文類』というのはただ平和な時代にね、書斎に籠もって書いたというようなもんじゃなくてね。弾圧の嵐の吹きすさぶ中で、その弾圧に耐えながらお念仏の道を守っている人達、そういう人達の心を支えながら、同時に法然聖人の教えこそ真実の仏法である、これこそ真の仏弟子の歩む道であるという事を顕彰していこうという、そういう想いを秘めながらお書きになっている書物なんですよね。
さて、じゃ親鸞聖人に浄土真宗、貴方の仰る浄土真宗って一体何でございますかと言えば、まず第一に法然聖人の仰った浄土宗の真実義を顕わすんだ、これがまず第一。
実際ね、法然聖人が言おうとされていた事を、一番的確にその神髄を的確に表している方は親鸞聖人だと言っていいですよ、これは。私はこれは身びいきで言ってるんじゃない、ちょっとくらいは身びいきもあるけどね。そのぉ、身びいきじゃなしにね、あのう客観的に見てもね、やはり親鸞聖人が法然聖人の教えの心髄を明確に顕わしている方だということは、判ります。
それはね、殊に法然聖人の晩年のお聖教、手紙であるとか御法語であるとかいうものを精密に調べていきますと、やはり法然聖人の心髄を伝承する、最晩年の法然聖人聖人の教えを伝承しているのは親鸞聖人だと、これはもう言い切っていいですわ。親鸞聖人が筆録編集されたと考えられるあの『西方指南鈔』、あるいは醍醐寺に伝わっておった醍醐本の「法然聖人伝記」。そういったものを参考にしながら法然聖人の晩年の思想動向というものを見ていきますと、親鸞聖人とそっくりなんですね。
今まで私たちは親鸞聖人が初めて言われたと、これは親鸞聖人が読み替えられたんだと言われていた文章も実は法然聖人が仰ってた、ということは醍醐本の法然聖人伝記なんか見ますとはっきり判ります。例えば悪人正機なんかもそうですね。善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とあれをね。善人なほ往生す、いわんや悪人をや(善人尚以往生、況悪人乎)ということを言葉で表わしたのは法然聖人。醍醐本の法然聖人伝記にちゃんと出ておりまして。だから覚如上人がですね、あの悪人正機というのは、黒谷源空聖人、そして大谷親鸞聖人そして、大網の如信上人を通して私は聞いた、とあの『口伝鈔』に書いていくのはね嘘じゃないんです、ほんまなんです。法然聖人はちゃんと言ってるんですね。だから悪人正機を親鸞聖人の専売特許のように言うけれども、やっぱり法然聖人がちゃんと言ってらっしゃるんですね、そういうとこがあるんですね。
とにかく浄土宗鎮西派っていいますけどね、あの鎮西浄土宗と言いますが、浄土宗というのは、ほんまは六派あったんです。関東に三派、京都に三派あった、その六派の中の一つなんですね。白旗流という一派、これだけが今残っているんです。これは一番最右翼、右翼ちゅうか左翼ちゅうんうかどこでいうんか知らんけど、真宗から一番離れているとこなんです。浄土真宗の立場から言ったら一番離れたところにある派が、白旗流でんねん。
浄土宗でもね、藤田流であるとかねそういうのんなると浄土真宗とそっくりなんですよ。あるいは浄花院流なんかんなりますと真宗に非常に近いですね。だから今残っている浄土宗ってのは、浄土宗の中で一番非真宗的なところにあるのが残ったんです。
現生正定聚説をいう浄土宗もあったんですよ。今の浄土宗と真反対ですな。今の浄土宗つまり白旗流では絶対言わない、現生正定聚説というのは絶対言わない。
だけど藤田流なんかでは言うてた、鎌倉時代の末期、あるいは南北朝時代には藤田流は厳然としてありましたからね、そこらではちゃんと言うていた。ですから浄土宗の中でも一番右翼ちゅうんか左翼ちゅうんか知りませんが、とにかく真宗から一番離れたところにいる一派だけが残ったんですな。
実は法然聖人の教えというものは実は大変な誤解を受けていたんですね。その誤解に善意の誤解もあれば、悪意の誤解もある。悪意の誤解というのは興福寺奏状とかあるいは延暦寺奏状とか、そういう形で法然聖人を徹底的に論難していく悪意の誤解もある。けどね、弟子の中には善意の誤解がある、判ったつもり(笑)。あのねえ困るんだなぁ、法然聖人の教えってのは分かりやすいですよ。分かりやすいというのは正確に伝わるとは限らない。こりゃあ困った事でしてな。非常に解りやすい、けれども非常に誤解しやすい、そういうとこがあるんですね。やはりこれはきちっとした論理体系を持って、思想構造をちゃんと確立しておかなければ、非常に危ないというところがありますね。御開山の『教行証文類』は、それを補完したわけですね。
さて、その浄土真宗、具体的にいったらどういう教えなんですか、といったら、それは大無量寿経の宗教だと。浄土真宗とは大経の宗教である、大無量寿経の宗教であるというのが親鸞聖人のこの『教行証文類』で顕わす表わし方なんです。
実をいうと法然聖人もそう言われている。法然聖人は浄土宗の拠り所は浄土三部経だと言った。浄土三部経だと言ったけれども三部経の中で中心は何処ですかともし聞いたならば、大経だと答えられるんです。それは法然聖人の逆修説法、漢文のお聖教として残っているのは「逆修説法」、親鸞聖人が編集されたものでは「法然聖人御説法の事」(西方指南鈔所収)というので残ってます。
「逆修説法」というのとね、「師秀説草」というのとね、それから因縁説草(無縁集?)というのとね、それから「法然聖人御説法事」というのとね四種類残ってるんです。それ全部に共通しているのは浄土三部経の中で一番中心になるのは、根本になるのは大無量寿経だと言われているんです。これはもう共通しております。
親鸞聖人の『西方指南鈔』の本と末とに収録された、「法然聖人御説法の事」というのはおそらく親鸞聖人が取捨してなさる。取捨というのは大事でないところは省略して、そして大事なとこだけを残していく。違う言葉をいれたわけじゃないんですよ。大事なとこだけを取捨して編集しなおしたものこれが『西方指南鈔』所収の法然聖人御説法の事です。

何故そのようなことをいうかと言いますと、これ法然聖人御説法の事というんですが、その聖人はこの字(聖)を書いてある。法然聖人を上人とは絶対書かない、これが親鸞聖人の特長なんです。こう(上人)書くのは浄土宗の伝統なんです。けれども浄土真宗及びその系統の人はね、法然聖人のことを、絶対この字(上人)を書かない、ひじりびとと書きます。
この聖人というのはね、普通のひじりびとじゃなくてね。和讃に、源空ひじりとしめしつつ、といわれたあの聖なんですね。ですからこれはね、如来さまの化現した方、阿弥陀さまの化身、あるいは勢至菩薩の化身として崇めていらっしゃる。そういう意味の聖です。この聖には色んな意味の聖があるんですけども、親鸞聖人が法然聖人を聖人(ひじりびと)と書かれたときの聖は、阿弥陀さまの権化のお方、勢至菩薩の化身としてのお方、こういう意味をこめて聖人と言われている。これは浄土真宗ではこれ(聖)以外使わない。ですからね、法然聖人の伝記は二十種類くらいありますがね、この字(聖)を使って源空聖人あるいは法然聖人と書いてあったら、これは真宗系のものだと分かります。それくらい厳格なんです。江戸時代になりまして浄土宗と一緒になりまして上人と書きます。
それで親鸞聖人のことをこっちの聖人と書きます。親鸞聖人はね真宗では揺れているんです。覚如上人なんかは親鸞聖人のことを聖人と書いたり上人と書いたりします。御伝鈔なんかを見ましても親鸞聖人をこっち(上人)書いたりこっち(聖人)書いたりして揺れているんですよ。こっち(聖人)書くときは親鸞聖人を阿弥陀如来の化身として思いを込めて書いているんですね。
真宗では後に親鸞聖人はこれ(聖人)に限定してしまいます。だけど法然聖人は揺れないです、法然聖人を聖人と書くのはず~っと室町期までこれ(聖人)以外は書かない。後になりまして江戸時代になりまして法然上人とこちらを書くようになりますけどね。私は法然聖人はこっち(聖人)書いてますねん、ちょっとへそ曲がりやけどね。昔の祖師方の、御開山やら蓮如上人やら覚如上人やら、そして存覚上人のお書きになった書き方で書こうということで私は源空聖人、法然聖人と書くときにはこっち(聖人)書くことに決めてまんねん。ちょっと目障りかも知れませんが、ちょっと堪忍してください。

その法然聖人は三部経の中では、大経を持って根本とする。何故ならば本願が説かれているからだ。本願が全ての根本である。したがって大無量寿経をもって根本経とする。それ以外の観経・阿弥陀経、またそれ以外の阿弥陀仏が説かれている経は全部枝末である、枝末の経である。大経が根本経と法然聖人は断定されているんですね。
で、それを受けているんです、親鸞聖人はね、真宗は大無量寿経の宗教だと確立していくんですね。これが『教行証文類』です。だから浄土真宗の拠り所としての経典は浄土三部経であるというのは間違いではありません。間違いじゃないけれども必ずしも正確じゃない。正確に言いますと浄土真宗の拠り所とするのは大無量寿経です。観経と阿弥陀経を拠り所とするのは、その観経と阿弥陀経の中に大経が説かれているときです。
それを隠彰、隠れた形で真実が説かれている、表の形では方便の法が説かれている。観経と阿弥陀経には表には方便の教が説かれている。しかし真実が真実としてその全相を表わしてあるのは大無量寿経である、と、この『教行証文類』は表していくわけです。
それで、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と、こう宣言していかれます。これからまあ出てくるんですがね。

ちょっと長くなりましたな。ここで一寸休憩しましょうか。それでは十分ほど休憩します。なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・(和上退出)