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「愛 (あい)」の版間の差分

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2007年8月5日 (日) 19:56時点における版

法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 「」難しい言葉である。

 われわれは、愛を絶対・至高のものと考えがちである。キリストは「汝(なんじ)の隣人を愛せ」と言い、孔子の説いた「」もまた愛であり、テレビは「愛は地球を救う」と叫ぶ。しかし、彼らと違って、釈尊は愛は苦だと説き、悟りへの障碍物と教える。

 釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じた。それはまた愛を切りすてることでもあった。愛は深ければ深いほど、切りすてる時の苦悩もより強い。その強い苦悩を知っているからこそ釈尊は愛を苦ととらえたとも考えられる。

 また愛という言葉自体は本来すばらしい言葉ではあるのだが、われわれ凡夫(ぼんぶ)の愛の裏側には、常に区別の思いが隠れている。わが子を愛する心の裏には、わが子とよその子を区別する心があるように、何かを愛するという心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいる。愛国心という言葉が時として危険性をはらむのはこのためでもある。そしてこの区別する心は、すぐに区別したものに対する執着の心を生み出す。この執着を背景に持つ愛は、単なる己の欲望充足のための愛である。

 そもそも仏教でいう愛とは、トリシュナーの訳語で、欲望の充足を求める「渇愛(かつあい)」をいう言葉である。こういう凡夫の愛こそが悟りへの障害でもあり、円覚経(えんがくきょう)という経典にいう「輪廻(りんね)は愛を根本と為す」の愛なのである。輪廻を脱するために、言いかえるなら、解脱(げだつ)のためには障碍となるような愛、釈尊自身こうした凡夫の愛を切りすてることによって、より大きな深い愛へ近づこうとしたのかもしれない。

 たとえば飢えた獣の前に我が身を投げ出したという、本生譚(ほんじょうたん)に語られる愛。けして自己の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しくそそがれる絶対平等、無差別の愛、「仏の慈悲」と名づけられたこの愛こそが、釈尊が求めた愛であったのだろう。

 また善人のみならず悪人にこそ往生の可能性があると説いたわが親鸞の、その背景にある「愛」も、この愛であったように思われてならない。

佐藤義寛 大谷大学助教授・中国文学 大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。